退所者と語る あたりまえに暮らすために
ハンセン病の今を問う Part.4

講演者
川島 保さん
森 敏治さん
中村大蔵さん


〓はじめに〓

中村大蔵 ご紹介いただきました、園田苑の中村です。沢山の方がこれ程集まっていただいて、しかも、地元の老人会が大挙して参加してくださったことに、お礼を申し上げたいと思います。ありがとうございます。

 なんで、園田苑でこんなことするねんやという辺りを、若干お話を申し上げたいと思います。

 園田苑が出来たのが、1988年、昭和63年だったですね。1988年(昭和63年)といったら、大変大きなニュースがございました。その1つが、1988年の5月に、愛生園と光明園に「人間回復の橋」が架かった。これ、1988年の5月なんですね。9月が、お隣の国韓国で、オリンピックが開かれました。パルパルオリンピックといわれるものです。そして、10月に園田苑がオープンしたと。東アジアの3大ニュースでございますので(笑)、是非憶えておいていただきたいですね。「人間回復の橋」、パルパルオリンピック、そして、園田苑の開設ということで。是非、記憶に留めておいていただきたいと思います。

 「人間回復の橋」をもじって、「老人復権の特別養護老人ホーム園田苑」ということで頑張ってきたわけです。

 1987年の正月2日に、私は生まれてはじめて、ハンセン病療養所へ上陸いたしました。それまで私は、徳島出身ですから「ハンセン病」というよりも、「らい病」という方が、私にグサッとくるわけです。その方がグサッと。「らい病」という言葉にまつわる差別がございますから、「ハンセン病」というふうに言い換えておりますけれども、私としては、「らい」という方がグサッとくる訳です。

 徳島は、88ケ所お遍路さんの町でございます。そのお遍路の身に託して、ハンセン病の人たちが88ケ所を周ったという話を、幼い時に親から話されて育ってまいりました。

 そして、大人になってこの老人ホームを準備する過程で、大変心身ともに疲れまして。疲れ果てた時に、何故か人間というのは、思うんですね。そういう極限の状態になった時に、思うんです。これは私の経験なんですが。

 そして、しかも正月の2日に、ハンセン病の療養所に行くなんてですね、無謀と言えば無謀です。どこにあるかも知らない。地図を見て、「え、こない近かったんかな」と思いました。そして、「104」で長島愛生園の電話番号を聞きまして、行きました。

 長島愛生園の職員が「何しに来るンや」と言いました。正月の2日ですからね。「身内がいるのか」「いない」「誰か知り合いがいるのか」「いない」「なんで来るンや」と。「3ケ日明けてから来い」みたいなもんですね。一旦は引き下がったんですけれども、このチャンスを逃したならば、もう2度とチャンスが無かろうと思いまして、改めて又電話を掛けました。これ、元旦に電話したんですね。で、明日行きたいいうんですね。

 結局、正月2日に生まれて初めて、ハンセン病療養所に行きました。大変なインパクトがございました。ちょうど、お正月休みですから、子どもがいないですね。子どもっていうのは、職員の子ども。なんでハンセン病療養所に子どもがいないかということも、お2人にお話していただいたらいいんですけれども。正月は病院当局もお休みですから、職員の子どもも行ってる保育園などは休み。子どもの声が一つだに耳に入らない社会というものを、身をもって体験しました。ほんとうに異様な社会だなあということを、思ったですね。

 その年1987年に、7回も長島愛生園に私は、足を運びました。それから、毎年の如く。




会場の様子


 皆さん方にお配りしてあります、地図つきでハンセン病療養所の「全国ハンセン病療養所と入所者数」。皆さんお得です,今日は、最新の数字をここに載せております。最新の4月16日。

 今朝私は、電話を掛け倒しましてね、調べました。そしたら、「文書で照会せえ」なんて国立療養所がありました。「何言うとンねん」「主権在民やないか」とまでは言いませんでしたが。「それ秘密か」てなもんで。それで数字を全部調べあげました。

 多摩全生園が481が359なんですが、今朝お一人が亡くなられましたから、358。ま、そこまで短時間に数字を調べあげました。公務員って大変ですね。月曜日に電話せえなんてね。「分かるやないか」「月曜日に電話せえ」なんて、そんな返事するか?ってなもんで。

 これが最新の在園者数です。4年前は4090名。今日現在3043名。下に平均年齢約75歳と書いてございます。今日現在で3043名ですよ。多摩全生園のお一人が亡くなりましたから、3042名なんですが。そして、平均年齢が75と出ております。もう、新規発症がございませんので、平均年齢は単純に3歳ぐらいを足していただければ、78か79ぐらい。これが、現在のハンセン病療養所の平均年齢ではないかな、というふうに思います。

 今日お二方に、お話をしていただくんですが、奄美和光園という所にこの間一緒に行きました。

 この奄美和光園については、「園田苑だより」のNO642にございますので、それも見ながらお話を聞いていただけたらと思います。

 そして、韓国の定着村という、「定まる」に「着く村」と書きますが、韓国のハンセン病の、かつてのハンセン病だった人たちが、村を造って住んでいます。そこへも、昨年、私たち訪問いたしました。定着村、という言葉が出てまいりましたら、この「園田苑だより」番外編1、2を見ていただければ、結構です。

 ハンセン病というのは、古代の聖書時代から、全世界にあった病気でございます。何ら特異な病気ではないんです。それが非常に忌み嫌われてきた歴史というのは、治る薬が発見されなかった、それに大変時間がかかったということです。

 韓国のハンセン病療養所、あるいは台湾のハンセン病療養所へも伺いながら、アジアに共通する問題、そういうものを自分なりに勉強してまいったわけであります。

 プロフイールがB5でございます。森敏治さん、川島保さん、そして、中村大蔵と書いてございます。これも参考にしながら、お二人の方から自己紹介を兼ねて、お話を始めていただきたいと思います。

 それでは、川島さんの方から自己紹介を兼ねまして、そして、お二人とも退所者でございます。よく社会復帰者という言葉を遣われます。しかしこれは、考えたらおかしいね、社会復帰者という言葉は。社会復帰というのは、余り一般には使われない。ハンセン病療養所も社会ですよね。それが社会復帰者といわれるのは、どうも解せないというところがありますが、お二人とも退所者でございます。

 そのハンセン病療養所にお入りになった経過、退所なさった前後のお話も、お話していただきたいと。

 まずは自己紹介をやや物語風的に、よろしくお願いします。


〓忘れえぬ日〓

川島 保 今紹介いただきました川島でございます。今年、1月25日で満73歳になりました。73歳を生きてきて、療養所に入ったのが満11歳の6年生の時なんです。

 私、早あがりでしたからね。11歳で、6年生で、長島愛生園の方に入ったんですけど。その時は元気だったんです。

 昭和19年(1944年)の10月28日ね。この10月28日が忘れられないし、その次は、生まれた日が忘れられんと。私にとっては。裁判で、らい予防法は間違いであったと、裁判所が言ってくれた。それが忘れられん日付として私の心にずっと、ほんとに重い日にちとして残っております。

 6年生の時に入ってー実は、私には、姉が、一番近い姉が、昭和15年に昔の高等尋常小学校を出て、大阪の高槻という所へ、その上の姉と2人で、就職して。5月にハンセン病を発病し、阪大の先生に診てもらって、長島愛生園に昭和15年に入っとったんです。そういうことを全然知らなくって。

 私が発病したのは、本当は自分でも発病というのが分からんですわ。最初はね。

 今から―療養所入って何年も経って思い出してみたら、あーあ、あの時がわしの病気が出た時かなあ、と思うのは。実は子どもやから、子ども同士取っ組み合って暴れるでしょう。そしたら物凄く痛いところがあるんですよね。擦れただけで物凄く痛い。なんで痛いのか思っとったけども。友達はそんなこと、全然分からんけど、涙が出るほど痛かったんですね。それが私の発病した時やね。それを知らんかった。斑紋が出て、その縁が、神経がひこうするっていうんですけど。ちょっと盛り上がって、神経が過敏で。暴れとってちょっとすれると、物凄い痛いということがあって、それから丸1年、それが1年程経って、手足に障害が表われ、6年生の10月の28日が、私の入園日なんです。

 それから、姉が発病して療養所に入っていたことを知るのは、昭和19年10月1日に母親が亡くなって。実は母親も長いこと、いろんな病気をやって、亡くなるわけです。その時に、今から振り返ってみれば、姉も、本当は母親も家でずっと寝てたんやから、帰してもらって、死に目に会わしてもらえんかったかなぁ、という思いはあります。だからそれ程、母親が病気であってもなかなか、死ななきゃぁ帰してくれんというふうな、非常に酷い隔離であったわけよね。


〓裁判に勝って、なお赦すことができない〓

 私、この裁判の紹介の中で、原告として裁判を闘ったわけですが、本当に、何故、自分が原告になったのかということも、これからちょっと言いたいと思うんですけどね。

 日本の国で、療養所で生きてきて、今裁判に勝って嬉しいですよ、勿論ね。その時はほんとに嬉しかったけども、その後になお残る、なんと言おうか、自分の心に納めにくいものがあるんですね。それは、病気になったということはね、何か我々を犯罪者のように扱ったんですね。私は、それは今でも赦すことの出来ない気持ちがこみ上げて来ます。

 それだけに、私の気持ちの中にあって、本当に元気であって、園のエースで、25年、26年には高校生ぐらいですかね、ちょうど。その時には、愛生園のエースとして2年間一生懸命、花形やったわけです。しかしそれも、食糧事情も悪いし、晩はさつま芋が1個で、じゃが芋が5個ぐらいとか、そんな代用食やったですよ。それで私、きれいな色のトーモロコシパンというのが、割と大きなんが出よったんですね。それがどうしても、腹が減ってるのになかなかよう食べられんかったんよね。

 そんなことで、栄養が不十分なとこへきて、16,7やから負けん気も強いし。それで一生懸命やって、大人たちにちやほやされて、エースで、えー球投げよるいうて、お医者さんともよくやりましたが。

 しかしその時すでに、(昭和)23年には、日本でプロミンの治療が大体軌道に乗りかけた頃で、(昭和)25年からは新薬のプロミンが皆に行き渡ってるんよね。しかし、お前よういい球投げるな、とは言ったけども、そんなことはせずに、もう新しい薬がお前たちには出ているよ、という話にはなかなかなってこなかった。

 それで私、野球を一生懸命2年間やって、(昭和)19年に入って、(昭和)25年の秋に、10月に1度だけの帰省をさしてもらって帰ってきたら、ずっとこんなふうに神経痛がしだしてね。昭和26年には、顔が腫れて見えんようになって。しかし、なんの手立てもなかったね。事実なかったんでしょう、こういうふうに「急性ぞうお」とかいうんですけどもね、そういうふうになったら、手を施す方法もなかったかもしれん。なんの治療もしてもらえんかったね。お医者さんがようけおる中で、ずっと悪くなっていくんですね。ほんとに、私は空しかった。今まで自分で、好きな野球とはいいながら、一応愛生園のエースやから、皆のためにというふうな気持ちがあったのに、病気が悪うなってしもうたら、もう、そこに居るかとも言わんようなところがあってね。

 私がその時に観た「血と砂」という外国映画があって、闘牛士が出てきて、花形がワァーと、闘牛に勝って、聴衆に手を振っていたら、後ろからバァーと牛に突かれて、近くの病院へ行ってね。そしたら、次の新しい人が出てきて、ワイワイ言ってるのが聴こえるというふうな。ちょうど私が、悪かってちょっと良くなった時分に、私観たことがあるんです。

 それが、まあ人というのは、ちょっと調子に乗りすぎたかなぁということもあって、というふうな事、教訓があるのに、それでも私、なんとなく裁判があるというたら、自分が思うとったことには、やっぱりこれはやらなイカンというふうな気持ちでまた入っていく。人間の気持ちというのは、なかなか性分というものは、変わらないもんかなぁと思っておったりするんですが。


〓1度目の退所〓

 ま、そんな形で。私ばかり話してもイカンけども。最初に出た時、1970年ですわ。ちょうど大阪の千里で、万博があった時に出たいと思って出てきたんです。

 その時に思ったのは、この障がいがあるということを、皆に隠すことは出来ないけれど、しかし外の人たちは、障がいがあっても、胸を張ってとは言わんけど、そんなにグツグツせずに、ちゃんと自分の生活しているじゃないですか。それやのに自分は、社会の中で、隠れるようにしてというか、自分の言いたいこともよう言わずに、というふうな社会復帰やった。最初ね。

 その時に、園長先生に聞いたんですよ。「園長先生、私この前、社会復帰基準をクリアーしたんや」と、「小さい時から療養所へ入って、一度社会へ出て生活してみたい」というて園長に言うて。そしたら園長、「そらええこっちゃ」と言うて。「先生この障害、どう言うたらいいですか」と言うたら、それは「多発性神経炎」や言えいうたわけや。そんな病気のことは知らんけど、ワシのような障がいが残るんかなぁと思っておったわけ。面接では、そんなことは言わんと済んだけどね。だから園長先生も、まだ昭和45年いうたら、「お前たち治ったから出て行け」とは、よう言わんかったし、私も実は、障がいがハンセン、らいでなったんじゃということを皆によう言わんかったし、治ったということをなかなかよう言わんような気持ちじゃった。

 それでもまあ、嘘で過ごし、嘘で嘘を固めて、1つ嘘を言うたら、その嘘を隠すために、2つも3つも嘘をつかないかんというふうな、なんか社会復帰したといえども、社会の隅でコソコソ生きてきたかなぁという思いもあって。

 4年半ぐらいの時に、公衆浴場で、上り湯の熱湯が流し場から漏れているのに分からずに、足の裏一面に火傷をして、ああ、これはもうアカンなぁ、私が長い間かかって辿ってきた社会復帰もこれで終わりかなぁと思って。それでとてもじゃない、お医者さんに行くなんて事もよう言わずに、行くこともようせずに、結局園に帰っていって。それから又、実際やっていったんですけど。


〓2度目の退所〓

 それで今度、裁判があったから出てきたん。今度私、裁判の原告になってね、判決を得て。今度の裁判が私にとって非常に有難かったことは、第1回目のときは、ハンセンというのは、余り社会の人が知らないでしょう?ところが、裁判をやることによって、裁判所の中で、判決の経過の中でハンセン病というのはどんなものであったか。日本の隔離政策が、間違いであったということがはっきりした。

 だから、裁判が終わって、弁護士さんが「社会復帰する者には、なんとかの支援金を出そうというような、形も出てきている。何人か出て行く者はおらんか」と言うたんですよ。ところが、なかなか元気に「よし、行こう」という人がいなくてね。その年に、私と千葉さんという、比較的後遺症多い者2人が手を挙げて。

 実は私が、そういうふうに決断できたのは、昭和45年、1970年に四条畷の方へ出て行って、働いたことがあったから。50年、60年というブランクを、私の場合は踏み台にして、考えられたから。こうしてやれば、今度は働かんでいいんだから、なんとか生活できるんじゃないかと。よし、私も社会復帰しようと、いうふうに手を挙げてきました。

 それで、その時はね、なんでもないことが―保険の通知の仕方とかそんなこと、テレビやなんかで聞いておいても、いざ、手続きをするとなるとなかなか手間取って、出来なかったんやね。その時、1週間か10日ぐらい、詳しい人に付き添ってもらったら、支援をしてもらったら、うまくいったんじゃないかと、今はそう思います。

 退所してね、島におっては経験できないようなこと、皆さんとのいろんな出会いとか、そういうことがあって、出てきたことは大変良かったかなと思っております。


〓隔絶の34年〓

中村 ありがとうございます。まだまだお話は続きそうですが、お二人交互にお話いただきますので。今、川島さんは、川島保という名前でずっと通されてきたんですか?

川島 園に入ったら偽名とか、園名とかいうて使ったんじゃが。私は、小学6年で、田舎育ちやから、ほんとにおぼこかったんじゃろね。一緒におった姉も、そういうこと言えとは、アドバイス無かったしね。だから私は、自然に自分の本名、川島保で通した………。

中村 だけど、本名で園でお過ごしになっている方のほうが、少ないんですよね。

川島 私らも、ちょっと統計取ったら、むしろ少ないというか、ほん少ないぐらいです。

中村 それでお姉さんも発病なさった………

川島 姉は、昭和15年に高槻に働きにきて、すぐに発病して、こんどの裁判のことで、姉さんたちもお金をもらえるんやぞって言うたら、知ってるって言いよったんやけど。

中村 よく私らの子どもの頃は、ハンセン病はらいと言われました。らいは「遺伝」だとか、「その筋」とか、そういうことを耳にしたことがあるんですが、お姉さんが発病されて、川島さんが発病された時に、周りはそのことをどのように捉えていましたか?

川島 うちは小さな村でしょう?伝染病というふうなことはなかったんやね。お前来たらアカンとか、そういうこと聞いたことないし、比較的そういうことでは、科学的に捉えているとは思わないけど、村八分になったような気持ちは全然なかったですね。

 それで私、愛生園行ったときは、手も足も悪かったんですよ。それでも野球できるぐらいやったから、自分が不自由になったという気持ちは全然なかったし。まさか、家を出るときに、一生家に帰れんような病気になっとるようなことさえ、知らんかった。だから岡山に行くときは、別に田舎から都会へ出たことないし、一回、岡山の都会へ出て、ちょっと見てくるのもいいかな、という軽い気持ちやったです。

中村 はい、その軽い気持ちが、都合34年間ですか、島で生活をされるということになったんですが。誤解のなきようお伝えしておきますが、ハンセン病は、遺伝病でも全くございません。所謂、伝染性の疾患です。私からすれば、水虫のほうがうっとうしいなぐらいに思ってるんです。ハンセン病より水虫のほうが、うっとうしいぐらい。私は、笑いを取るために言うんですが。

 川島さんは、新良田高校というわが国のハンセン病療養所で、唯一の高等学校。しかも、定時制としてしか認められなかった高等学校の入学生で、そこでエースだったですね、野球の。変化球が大得意という。

川島 いやいや、そうじゃないですよ。少年舎におったときから、エースで………。(笑)

中村 すんません。少年舎にいるときから、エースでございました。失礼しました。

 それで、犯罪者のように送られてきたということを、また、後段で、具体的にどういうことだったのかということを、お話していただきたいと思います。

川島 高校は、(昭和)30年に入学して62年に閉校になったわけですが、その間に254名の人が卒業していったわけです。

 その中には、社会復帰の人が、沢山おったんですよね。病気がまだ治らん内に、どこまでが病気か分からんような人もおって、保育所から来て病気じゃないとかいう人も、随分おったみたいです。

中村 はい、ありがとうございます。それでは、森敏治さんにマイクを向けたいと思いますが、森敏治さんは、お生れは川島さんよりも後なんですが、ハンセン病療養所に入所なさったのも、後でしたか?そうですね。森敏治さんに自己紹介をしていただいて、長島愛生園に入られたときに、長島愛生園にどれだけの方がおられたのか、人数ですね。それももしご記憶でしたら、紹介していただきたいです。


〓中学3年の秋、愛生園へ〓

森 敏治 僕は、森敏治といいます。昭和17年7月9日に生まれて、生まれたところは、京都で生まれております。兄弟は七人おります。その七人の内、唯一人、僕だけがハンセン病という形で、他の兄弟は、一切この病気には縁がありません。

 僕は双子なんですよ。双子でかつ15年間一緒に生活していた中で、同じ布団で寝とって、全然そういう気がないということで、僕の感じではほんとうにこの病気は遺伝じゃあない、伝染病というけど、どうなんだろう、というような感じもあの当時は感じていました。でも現在、同じ双子であって、同じように療養所へ入ってきた人がおるから、やっぱりこれ伝染なんかなあ、という感じをもって。俺の感じではそういう伝染であって、ほんとに稀に移る。医学的に言うたら、どうなんでしょう。食生活にあるんじゃあないかということです。

 僕たちが生まれた当時は、戦時中で、ものがなかった。そんな時代に生まれて、とにかく親に聴くと、お母さんのオッパイを2人で吸うんだけど、弟が全部俺のを摂っていったと。こういう話を私は聞きました。弟の野郎、俺を出しおいてという感じで、今では赦しているんですけど。(笑)

 そんな感じで、兄弟が、ほんとに僕のことを心配してくれるんですよね。だけど、これでよかったんちゃうかと、僕は言うんですよ。俺一人でよかったんじゃないかと。ほか、全部がそんな病気になっていたら、それこそ大変ですもんね。それでよかったんじゃないかということで……。親もそういうことを言うたら、「お前、そんなん言うて赦したくれるんか?」言うから、親が自分達が俺を病気にしょう思って生んだんちゃうやろが、言うて。そんなことで、親と話をさらっと、そんな感じで流しているという感じですね。

 私の病気が発見される過程で、プロフィールに中学2年と書いてるけど、ごめんなさい、俺の間違い。3年の秋ですわ。

 秋に中学校の保健所行って調べてくれたんですけど、なかなかこの病気であるかというのが分からないわけです。菌が発見されないということで、学校から県の、滋賀県の長浜日赤病院で検査してもらったら、菌が出たと。でもその時は、まだその病気というのは、どんな病気であるということが分からない。日赤病院は、京都の大学病院へ行ってくれというわけです。紹介状を書くから行けということで、京都に一緒に行ったわけです。

 京都大学病院の「特研」いうて、特別に大学病院の一番奥の方に、小さい小屋みたいな感じであるわけです。そこに行って、検査して初めて、この病気が分かったわけです。本当のことを知ったのは、京都の大学病院で、僕は病気を知ったわけです。その時はかなり進行しておったわけです。顔は腫れあがる、手は小さい時―中学に入るか入らんときに火傷して、結局指をなくし、そんな感じで、京都の大学病院ではお金がかかる。それで、あの当時、7人も兄弟がおるから、親も大変。病院に入院しとったんでは、金がかかる。そんな感じで、長島愛生園行かへんかということで、その年(昭和)32年の暮れの、12月の15日。この12月の15日は、一生忘れん日と思ってます。


〓俺は絶対に出ていく〓

 そんな感じで療養所へ入り、一番最初に療養所へ入って感じたのは、療養所に入った時に、「回春寮」という、これは新しく入園する人が、一番最初に入るとこです。そこで感じたことは、療養所に入った時に、夜だったんで、暗いせいもあったんだけど、とにかく暗い感じ。それと今はこんな感じだけど、こんな人たちもおった、「わぁ、怖い」という感じで、自分自身思っておる。で、こんなところに、永いことおったら大変という感じは、あの当時感じました。

 それでこれは、絶対僕は、長くても出る。そういう気持ちで決めたわけです。決めた以上は、しっかり治療して、あの当時、プロミンが出ていましたから、お医者さんの間でも、プロミンをどれだけの量を注射すればいいのか、試験的なところがあったんじゃないかと思うんですよ。

 だから入園してすぐ、入室。入室というのは、療養所に入院して、かつこの中に病棟があって、その中へ入院することを入室と、昔は言うてました。入って、いろいろそこで話を聞くわけです。「お前ここへ来たら一生出られへん」とか、こういう話をするわけです。何言うとんや、という感じで僕は一蹴するわけです。

 とにかく3年か4年半は、プロミンの副作用で悩まされました。熱瘤とかいろいろ出まして、1週間ぐらい平熱でおったかと思うと、今度はまたワアーと出るわけですね。そして38度の熱が出る。それが1週間ほど続く。そんな繰り返しで、4,5年は苦しんだ憶えがあります。

 入った当時は、さっき川島さんも言ったように、定時制高校、邑久高校新良田教室、これが正式な名前ですが、入った3年前には、もう出来とったわけです。

 僕も中学3年を中途で来てるから、通学3年を1年やり直してるわけです。その中でも、勉強しとったんだけど、病気の後遺症で熱が出て。そんなんで、まともな勉強をしとらんかったけど、高校が出来たいうんで、高校受けようということで。これはまあ、中学校の先生も、「お前勉強してへんので、受けても受からんからやめとけ」と言われたんですけど、俺の気持ちが赦されんいうて、自分から受けたんですけど。幸か不幸か受かっちゃって、4年間行ったと。

 高校生活はなんでやったかというと、僕の場合は、病気を治しにいったという感じになっているんです。勉強もずっと皆から離れていきよりましたわ。でも俺、かまへんと思うてたんですよ。病気さえ治ったら、かまへん、外へでられたらええ。いいわという感じで、それだけ。ほんとに、治療だけでやってきました。

中村 森さん、中学校3年の時に、長島愛生園入られたんですね。青春の多感な時ですね、非常に多感な。先ほどおっしゃいました、入ってビックリしたと。発病された人を見てね、自分も発病したんだけど、発病してすぐに、園の中でビックリしたと。北条民雄という人がおられまして、『命の初夜』という小説を書かれていますが、同じような下りがありますね。北条民雄さんが、多摩全生園に入られたときに、一瞬度肝を抜くぐらいに、ビックリしたと。実はそれが、森さんの発病の状況でも、自分がそうなっていくといいますか、そのあたりの感じ方はどうでしたか?

 でも、僕は、苑長が言われたような多感さは、なかったですよ。平平凡凡としとって。親には、絶対逆らわない、言われるとおりに動いてきたという感じです。

 案外解放されとったんと違いますか。親から離れとったということで、自分で出来るということが芽生えてきたと思います。

中村 自立心が……。

 あ、はいはいはい。


〓想像を絶する社会〓

中村 森さんは非常に愉快な方でして、「俺は京大卒だ」っていうんですね。(笑)京都大学の病院だから、俺は京大卒だって、それを堂々とおっしゃるという、なかなか非常にユーモアをお持ちの方なんですが……。森さんが入られたとき、長島愛生園は、何名おられましたか?

 僕は……、憶えてないんです。

中村 憶えてませんか……、川島さんが入られたときは……。

川島 入ったときは、1805人いよったがね。

中村 1800を越えて、そして、昭和19年、20年、21年と沢山の人が亡くなられたでしょう。

川島 大体、(昭和)17,18,19,20年、この4年間で900人ぐらい亡くなっとんです。一番多く亡くなったのは、20年で、332人も亡くなったいうて。1日に3人亡くなったのが、何日もあったていうからね。1年で随分亡くなったんやね。1000人近く亡くなって、しかも逃走した件数が500件ぐらいあったんです。

 逃走した人は、ずーと、いわゆる社会でおれずに、また帰ってきておるから、その数字だけでは記録が合わんかもしれんけど、とにかく1日に4人も死んでいきよったんやね。

 それはもう、食べ物がなかったんですね。小さい島でしょう?道端に生えとる草までなかったですよ。口に入るものは全部、子どもでしたけど、遊ぶとか、そんなものは全然なく、食べるものは無いかとか。近くに鶏舎があったんです。そこの油カスの方は、そこに飼料としてあったのを、盗んできて食べたりしたわね。

 私ら子どもの時は、燃料も無いから、山の薪を採りに行くのは、小さいもんの仕事やったわけ。私は山の育ちやから、そういうことは余り苦にならんわけです。ちゃっっちゃと行って、薪を整えて、後は友達とひっくり返って、できるだけ体力を消耗せんように。

 前を帆船が通っていきよったわね。20年、23年。そしたら、機雷でパーンと船が爆破しよったよね。そんなのを眺めて、冬やったら前も後ろも渡り鳥がいっぱい来よったもんですけど。今は全然来んみたい。

中村 逃走という言葉が出てきましたが、園から逃げていくわけですよね。逃げていってまた捕まって、戻されるというのが圧倒的なわけでしょう?

川島 そうそう。しかし、逃走いうてね、社会へ帰りたいという気持ちがあって逃走いうのと、療養所が余りにも苦しいところやね、食べ物がないんじゃから、本当に元気な者は畑を耕して、芋を作るということもできるわね。ところが、そういうこともできんような人は、それこそ死んでいくより道がなかったと書いてあるがね。愛生園の50周年、我々入園者のまとめた本に、「隔絶の里程」というのがあるんですけど、この中にそういうふうにあるから、愛生園行って、買ってきて読んでもらったらいいかぁと。

 私、最初言ったように、人間として扱ってくれてなかった、それが今でも本当に残念です。

中村 昭和17,18,19,20,21年と沢山の方が亡くなられたと思うんですが、20年なんか、1年365日ですが、365日で340人の方が亡くなるっていうような、想像を絶する社会なんです。しかし、今度の裁判でそのようなことについて、国はどのように言ってましたか。どことも苦しかったというようなことで、逃げたような気がするんですけどね。

川島 裁判で、そこはどういうふうに言ってたかは、今はよう憶えてないんですけどね。本当にああいうところまで、精査して裁判やってもらったらよかったけど、そういうことは余り裁判の中には出てこなかったような気がする。

中村 私が、在園者の、裁判をなさった方からお話を伺ったんですけど、国はその時は、日本全国どことも大変だったんだ、みたいなことを言ったというんですね。しかし、ある小さな島で、340人以上の方が亡くなるなんて、どない考えたって、それは特異なことなんだということを、その方はおっしゃっていました。

 それでは、森さん、森さんが入所なさったのは、川島さんより大分後ですが、食料事情はいかがでしたか?

 川島さんなんかと話をすると、大分良くなっとったですよ。

中村 それでもどうですか、腹いっぱい食べられましたか?

 ありません。

中村 ありません。どうされたんですか?

 だから、どういうのかなぁ……。確か、少年舎にいるとき―始め僕は少年舎にいたんです。そう言われると思い出せいうと、途中で宙ぶらりんになっとるんですよね。だけど川島さんの話を聞くよりは、かなり良くなってる。

中村 かなり良くなっていたけれど、育ち盛りの体にとっては空腹感しか残っていなかったと。

 ありました、ありました。

中村 そういうことですね。


〓自治会結成と特別監房〓

中村 それから、監禁室というのがありましたよね。さっき、薪の話がでましたけども、寒いから山で薪を採ったということでも、監禁室に放り込まれた時代があったんじゃないですか?

川島 ま、そういうことにはなっとんですが。枯れ木はよろしいですよ。生えてる木を伐採するとか、そういうことは、監房に入れられる対象になっとたんですけどね。なかなか、本当は―女の人からも、私の好いとった女の人が、包丁を送ってもらったら、それもアカンとかいうて、取り上げられるようなことにはなっとたらしいですけどね。だから、のこぎりなんていうのは、本当は患者は持てんことになっとたけど、しかし、松を切ったら監房行くというふなことになっとるということは、聞いたことがあります。

中村 国立療養所というのは、れっきとした病院なんですが、その敷地の中に監房、監禁室というのがありました。今回の裁判の途中で、現場検証ということで、埋もれかかっていた監房が復元されております。そういうところに入れられますと、更に罰則があって、入れられるだけでも大変なのに、食事まで制限されたのとちがいますか?

川島 そうよね。療養所では、もうご飯もないですよね。1日茶碗に1杯のご飯と、梅干とか、沢庵とかがなんぼ。それから水が貰えんで、コップ1杯とかいうことで……。結局雨が降る日は、雨水を手を出して、こう、すすったというふうなことを書いてありますけど。愛生園の監房の中でも、何人か亡くなったっていうふうに出ております。

 愛生園で昭和11年に、もうちょっと待遇を善くしてくれという……。その当時、愛生園は、1173人かおったんですよ。ところが、定員は900人足らずの定員やったから、非常に食糧事情悪くなって、皆で待遇改善の要求に立ち上ったんです。その時は、入園者一致団結してやった。これはまあ、私は、昭和11年にはおらんから知らんけどね。資料とか読んだら、そうなっとんですね。それで岡山の特高、特別警察が来て、1週間ぐらいかかってやっと治まったんですけどね。

 何故騒動が大きくなっていたのか。入園者が会議を開いている、大きな礼拝堂の会議室の天井で、職員が、患者の会議の模様を盗聴しとったわけですよね。そういうことが分かって。天井で鉛筆みたいなものが、ポロンと落ちて。お、誰か、おるでということで。職員が2人おったで、それでそれを捕まえて、それで監房に入っとる者を引き渡せと、これと交換しようということで、やったりしてね。やっと、そこで入園者自治会というものを、認められたということで。

 そういうことがあって、次の所長会議で、これではいかんと、もうちょっと厳しい監房を造らないかんということで、草津の標高1200メートルほどぐらいあるというような、マイナス20度、18度ぐらいになるようなところなんですよ。そこへ、「特別病棟」という名を借りた監房が、特別監房ができて。そこで(昭和)13年にできて、(昭和)22年に国会に知れることになって、それで国会の査察を受けて、これは患者をいじめてるということで、そこで廃止になるわけです。

 そこで92人が、9年間に入れられて、獄中で22人が亡くなったんですよね。それで、亡くなって行って見たら、床に死体が凍てついてなかなか取れないような。そんなふうなこともあって、今裁判が終わってから、これは日本の「負の遺産」だということで、もう一回再建しようやないか、という運動が始まっているというふうなことも聞いております。

中村 今お話されました、重監房、重い監房ですね。それから、特別病棟という名で設置されたのが、栗生楽泉園ですね。白根山とかが、美しく見えるところなんですが。冬には、2m、3mの雪が積もるというとこです。そこに、放り込んだ上で、更に減食処分、食事を減ずる。そういうことを科せていたんです。栗生楽泉園というのは、風光明媚なところでございます。ここは、温泉がコンコンと湧き出ております。しかも混浴としてございますので、ぜひ皆さん訪問されたら、私も何回も行きまして、最初はお風呂に入るのには勇気が要りましたが、今はもう平気でございます。勿論、おばあちゃんばっかりでございますが、(笑)

 「長島事件」というのが一つでましたね。在園者を監視の対象、管理の対象……。そして「長島事件」を経て、自治会というものが不十分ながらも、認められてきた。森さんがおられたときの、自治会の活動ってどんなものだったんでしょうか?

 僕は、あんまり園の動向というのは、あんまり……。どっちかと言うと無視して生きてきたような感じですけど。あんまり関心もっていなかったね。俺は出ることばかり考えてきたから。(笑)

中村 おられた時に、ふるさとの、家庭との手続のやりとりとか、親御さんが訪問来られたり、よくございました?

 親は一度も来たことがないんですけど、高校におった関係で、夏休みになったら1週間から2週間帰ります。その中で、親との交流はありました。

中村 どうですか、そのふるさとの人たちとの交流は。

 雰囲気的にど田舎だから、本当に近くの人たちには、挨拶はしとったけど。相手がいい感情を持たない人もおれば、「あ、ごきげんさん」言うて、話はしてくれた人もおるけども……あまり、僕はそのへん関心を持っていなかったという感じですね。

中村 わが道を行くという……。

 え、あ、そんな感じありましたよ。





左から中村大蔵さん、川島保さん、森敏治さん


〓やっと医療らしい形態に〓

中村 若干、話はまた元へ戻りますが、自治会なんですが、自治会というのは、川島さん、全ての国立療養所にあったんでしょうか?

川島 それは全国にあったと思いますよ。愛生園の、ちょうどね、私が高校へ行く時に―(昭和)30年に自治会が新しくなって、完全に自治会になったのかなぁ。それまでは、先ほど言いました、昭和13年の闘いで自治会を勝ち取ったけれども、ちょっといったら戦争になるでしょう?4年,5年くらいで。あんまり対立していたらいかんということで、自治会をなくして。それで終戦になって、すぐ後にできて、自治会が。それから、私らが行く時に、もう少し進んだというか、自治会らしい自治会にしようということで、昭和30年にできとったんです。

中村 現在はどうなんでしょうね、自治会の現状は。

川島 現状は、私も高校卒業してから、自治会の部長をやって、そらから執行委員を2年やったんかね?(昭和)34年に卒業して、37年、8年と2年間執行委員やったのかな。その次の選挙で、私落ちて。

 先ほど言いましたように、(昭和)38年に同窓会があったときに、ああやぱっり私は、自治会の役員には向かないのかなと思って。社会へ帰りたいというふうな同窓生のいろいろな様子を聞いて、そういう気持ちが高まって。

 ちょうどそういう時に、初めて医者らしいお医者さんが来てくれたんですね。整形医です。それまでのお医者さんというか、外科医というのは、手が化膿したら切り落とす、足が化膿したら切り落とす。そういうふうな、医療といえんような医療であったわけです。

 それで、整形医の、31歳ぐらいの男のお医者さんが2人来て、そりゃあもう、精力的に手術やってくれたり、毎晩9時、遅い時には、10時くらいまで手術室に灯りが点いとるような。ああ、ほんまに医療が療養所にも来たなあというふうな感じで。私は、その時は、社会へ帰りたいという気持ちが強かったので

 手の、手というのはね、握るとか、そういう力がないと手じゃないですよ。ちょっと曲げてごらんと、普通みんな手の曲がっとるのを伸ばすような整形が、多かったんですよ。私の場合は、曲げてもらった。そしたら、物を引っ掛けるとかそういうことで、何か役に立つんじゃないかなぁと。それからずっと、昭和38年から、42,3年までずっとやりおったわ。そしたら、ちょうど、「上を向いて歩こう」という、あの人(坂本九)が亡くなって、正月の音楽になって、それを聴きながら、なんか自分のことは「よぅし」と、先ほど言うたように、俺は社会に出るんやというて、後で引っ込めんようにするために、それでうまくいくかなぁという不安もあったりして、自分でも忘れられないような大晦日を迎えたことを憶えています。


〓医者が土足で〓

中村 川島さんが入られた時から、先ほど漸く、昭和30年代ですかね、医療らしい形態が整ったというか、医療らしい、病院らしくなったという。入園なさったときは、お医者さん何人おられましたか?

川島 お医者さんはね、はっきりした数字はなかなか憶えてないですけどね。とにかく、お医者さんが、私が卒業した時分はおらんかったんですよ。

中村 それでよく聞く話ですけど、医者が白衣を着て、土足のまま部屋へ入ってきたと。

川島 それはね、本当は一番最初に話したかったぐらいのことですよ。

 ほんとうに、我々を人間と認めていなかった。というのはね、実は私、昭和19年に入ったでしょう?それで、21年の5月の終わりから6月になる頃の、天気の良い日だったですよ。それで、私の同室の、私より3つぐらい上の子が、森君が先ほど言ったように熱瘤が出て、これは特に悪い熱じゃないんですが、それでも40度近くの熱が出るんですよね。それで、お医者さんに頼んだら、そしたらお医者さん、歩いて、割と遠いんですよね。お医者さんと看護婦さんが来てくれて。前まで来て、廊下のところで上がろうとしないんですよ。我々は、病人の枕元へ、お医者さん来てくれるということで、座って待っていたんよ。そしたら、廊下まで来ても上がろうとしないから、そしたら私より上の者が、「ああそうか」とか言うて、新聞紙を持ってきて、廊下から枕元まで敷いて。そしたら上がってきて、長靴のまま、土足で上がってきて、注射を打ってくれたんですけどね。

 ほんとに私は、その時に、「お前たちは人間じゃないぞ」と言われているような、それが本当に今でも、ずっと忘れずに私の心の奥にあって。

 私その後、言いましたように、外から来てくれたチームと野球の試合をやるでしょう?最後には大体握手して別れるわね。ところが、握手した経験がないんですよ。だから、療養所では、握手しないということに決められとったんだなぁというふうに……。ほんとに、それはずっと永いこと、私の心の傷になってね。

 昭和45年、1970年に大阪へ一回出た時にも、やっぱりそういうふうな思いがあって、なかなか自分というものを、開放できなかったんじゃないかと思います。

中村 森さんの場合はどうでしたか?医療の状況は、川島さんの時に比べて多少は良くなっていましたか?

 その話、僕1回も聞いたことがないし、されたこともないし。そんなんで、その当時の川島さん言うてる年代を、そんな時代的に年月が変わってないようなんだけど、ころっと変わってるような感じ、今受けとんですけど。

中村 川島さんは、何回も手術台の上へ上ったと、森さんはその辺りは……。

 整形手術、この当時2人の先生が、若い整形の先生が来よりまして、一人は手の方を、手の指の方の先生。もう一人は、足の整形専門にやった先生。両方ともするんだけど、どっちかというと、足の先生は、足が悪い人が足を専門にしている人に、手術してもらうと、手の人は手専門にやってくれる人。この二人の若い先生、同じくらいやったんやね。

川島 手とか足とに分かれてない、分かれてはないけど、こっちの先生にかかって、今度はあっちの先生に、という訳にはなかなかいかんでしょう。           そういう整形医なんです。だから二人の先生は、競うことはないと思うけど、ほんまに、一生懸命熱心にやってもらった。

 僕もやってるわけですわ。手の状態が悪いもんだから。手を伸ばすんだけど、指を伸ばすんだけど、血管が足らんから腐っちゃって、化膿して手を落とさないかんということで。結局、こっちの手の残った指が、一本だけなんとか、少し斜めに残ったわけです。これだけは、なんとかどけておいてくれと。なんでかいうたら、魚釣りに行ったら、エサ掴まれへんいうて(笑)それでまたこれ止めとくいうて、これで止めました。

中村 分かりました。ふるさとの話を私が、ちょっとしたんですが、私が長島愛生園に通う中で、何が悲しいかといっても、親の死に目に会えなかったほど、悲しいことはなかったと、こういう方がおられましたが、親が死んだという電報を受けても、そうすんなりと帰してくれなかったでしょう?

川島 そう、帰してくれなかったんやね。昭和28年くらいからは、帰してもらっとったとは思うけどね。

中村 今、在園生活のあれこれをお話しましたが、これでちょっと休憩をとりまして、森さんがヘビースモーカーですから、スモーキングタイムが必要でございますから、休憩をとりたいと思います。今度は、療養所から出てどうなったのか、というお話を中心にしていただきたいと思います。


〓書けない履歴書〓

中村 退所なさってどのようなご苦労があったのか、どのような新しい発見があったのか、どのようなことをお考えになっているのか、ということを中心にお話いただきたいと思います。

 ちょうど園田苑が出来まして5年目、今から13年前ですが、長島愛生園から23名の方をお呼びしまして、ここで、この場所で大宴会を開いたことがあります。その時に、もうこのような、所謂療養所以外の人たちと食事をするなんて、40数年ぶりだと言われたこと、私の記憶に残ってるんですね。そしてこの間、花見にはちょっと早かったんですが、花見に行きますと、その13年前に園田苑にお越しになって、一緒にパーティをされた方から、「いやーあの時は」ってな話を。それほど大層なことを私たちはしてないんですけど、貧乏老人ホームでございますから、それでも今なお語り継がれてるわけですね。それでは、今度は森さんからお話を願いたいのですが。

 私たちは、10月に韓国の定着村という所にも見学に行きました。療養所ではなくって、地域の中の一角でお住まいになって、お仕事をしながら生活をなさってる。鶏を飼ったり、豚を飼ったり、そういうお仕事をされながらやってるんですが。その韓国の定着村の見学に行ったことも交えていただきながら……。森さん、森さんはかなり早い時期に出られたんですよね。

 はい、昭和43年

中村 お幾つで?

 26歳

中村 そして、すぐお仕事に就かれたんですか?

 そうですね。弟が大阪におって。この弟を口説くいうて、この病気のことをしっかり覚えてもらわないかんということで。

 僕はこの病気はそう簡単に移る病気ではないし、俺は治って帰ってきたと、そう言うて、弟に納得してもらって。弟のところで一週間ほど住まわしてもらったわけですけど。

 そこで、就職の時に困ったことは、履歴書が書けない。この11年という療養所生活のね……。この履歴書を書くのに大変です。履歴書を書いてくるんだけど、履歴書にも嘘を書かないかんという感じ、これにはものすごく困りました。

 だから、普通の企業では受けいれてくれないと。その時代は、まだ障がい者を受け入れてくれるというような制度もないから、なお更行けないという感じで。

 だから新聞広告で、新聞の店員さんを募集しとったのを見て、それで新聞屋へ飛び込んだわけです。新聞屋さんというのは、制度が古くって履歴書も要らないという感じでしたんで、助かったなという感じもあります。朝早いのがいやだなと思ったけど、仕事には変わりはないわという感じで飛び込んで。

 その生活自体も、出てきて一週間目ぐらいから仕事に入っとるわけです。療養所のサイクル―朝ごはん食って、昼ごはん食って、夜まで何してるかというと、ブラブラブラブラしとるというような生活から一転、社会へ出てきて新聞屋さん、朝3時頃に起きて、折込入れて、もろもろの仕事をやって、自分の配達に出て行くと……。そして、朝終わって8時頃から12時頃まで寝ると。これは休憩時間だけど、寝なくっては、次の日にこたえるから寝ると。そして起きて、12時頃からまた夕刊まで、集金とか折込の準備とかいろいろあって、3時頃になったら今度また夕刊に出ると。それでそれが終わると今度は、明日の朝の次の日の折込をせないかんわけです。その当時は、今みたいに、10枚とか20枚という入れる機械がなくって、自分の手で1枚の折込を入れていく作業があるわけです。この作業も、この業界入って10年くらいまでは、こんな手作業をやっとったわけです。それについては言いようがない、説明のしようがないないんだけど、大変なことでした。

中村 その手で、入れてたんですよね。うまいこと入りましたか。

 まあ、最初は、こんなんですわね。慣れてきたら、もっと早くなりますけど、その当時は、こっちの手がまだ悪いだけで、こっちの手でよっこらしょと揚げて、こっちの手でやってましたから。

中村 車の免許をお取りになったのは……。

 車の免許は、退職してからです。

中村 退職してからですか。そのような体で、新聞の配達も、集金もなさってた。それから、拡張もなさってたんですか?

 一応そうなってるけど、拡張は僕はいやですから、止めていました。(笑)

中村 一緒に働いていた同僚がですね、一目見たら分かりますよね。どういう反応っていうんですか?どういう対応されました?

 聴いてくるわけですよ。「その手どないしたん?」言うから、これは小さい時火傷していうて……。それで通ってましたわ。疑うことなかったみたいです。

中村 子どもには痛烈にやられたでしょう?子どもはどう言ってました?

 やられましたわ。「おっちゃん、変な顔してる」言うんです。今やから、「ほんまやなぁ」って言えるんやけど、あの当時は、まだ頭固いから「お前ほんなこと言って、悪いことするとこういうことなるぞ」言うて。そんなん言うた憶えあるんですけど。

中村 結局、新聞配達なさっている間は、自分がハンセン病だったということを、一度も仰らなかった、同僚には。

 はい、同僚には言ってません。

中村 ああそうですか。病院でも、結構喧嘩もされたようで。


〓療養所へ帰れと言われ〓

 はい。面白い話があるんですよ。呑み助だから、仕事帰りにスナックなんか行って、ボトルを空けて、単車で帰るんだけど。その日たまたまひっくり返って、あばら骨を折ったわけです。あばらを折って、一週間ほど、まあ治るやろと放っといたら、全然治らないもんだから、こらぁ医者行かなあかんな思って、医者行って……。

 それでその時、始め病院で、俺はこうこうこうで、ハンセン病で、と言うたら先生は「療養所へ帰らなあかんのと違うか」と言うもんだから……。僕はそこで言うたわけです。病気治っとるのになんで帰るんかと、俺は仕事あるんやと。いちいち療養所帰っとったら仕事なくなっちゃうし、そんなんでは困るからと。で、先生とちょっと揉めたんです。帰る、帰らんと……。僕は帰らんということで。で、ほんなん言うとっても、こっちは痛いんやから早よ治してくれと、いうことで、治してくれたんだけど。その時には、コルセットを巻いとったら一週間で治っちゃったんです。あの時、あばらが3本折れとったんです。

中村 その時は、病院の先生が、療養所へ帰れと、そういうことを言ったらしいんですが、法的、制度的には、そういうことは何もなかったでしょう。あの当時は、まだあったんですかね?

 まだあった。まだ予防法は改正されていなかったから。

中村 「癩予防法」は改正されてなかったので、診察をした医者は届ける義務があったんですかね。

 いや、どうなんだろう。僕は感じるんだけど、そう言うたけど、向こうはなんにもそれをしなくって、只黙って治療してくれましたよ。

中村 喧嘩したからでしょう。

 あ、そうか。結局言われたら、はい、そうですか、言うて引き下がらなかったから、向こうが降りたの?そういう感じ?

中村 まだまだ武勇伝はあるようですけども、奥池の事故も……。

 奥池?……。ああ、ひっくり返った話?

中村 皿を割った話。

 これはね、自動車と喧嘩して負けました。その時に皿が割れました。右の足のくるぶし、この皿がね、カーンと割れたわけですよ。そーら痛い痛い。

中村 その時はどうでした?お医者さん、受診なさったんでしょう?勿論、その時はすんなり診てくれましたか?

 その時はね。芦屋市民病院に行ったんだけど。その時にね、大島青松園にいたという医師がいたんですよ。その医者が言うふうには、俺もそう言うていったんだけど、俺ハンセンだよと。わしは大島青松園の外科やっとた言うて。名前は大野といいましたけど。その人が俺に聴いてきよったんですよ。整形の先生みたいなんですよ、これが。「こういう手なんか、整形で治ると思うか?」て言うから、「いや俺は治らんと思うよ」と言うて、そういう話をしたことがあります。


〓緊張で胸が張り裂けそうに〓

中村 まだまだ武勇伝は続くようですが、川島さんの方へ話を振りまして、川島さんが、療養所を出られたのは、ちょうど万博の年でしたか?

川島 第1回目ね。万博の昭和45年ですわ。1970年ね。それで、あれは万博の期間よりちょっと前やったから、どのくらいか憶えている。

 ちょうど私が出た時、四条畷市になったんです。四條畷町から四條畷市に。それで大阪の街が全部一方通行になって、四條畷のタクシーの無線の配車係をやったわけですよ。

 最初は音がガーガーいうて何を言うてるのか、よう分からんかったわね。それでもちょっと慣れてきたら、割と運転手の声を掴めるようになって。ところが、班長という人がだみ声しとって、やっぱり同じように入ってきたら、若いきれいな男の声が、しゃっと入るんですわ。「お前何回ワシが言うとんねん。しとっつも掴まえんな」言うて……。事実聞こえてきた人は、「はい、了解」とか言うからね。悪いとは思うけど、どうしても耳にすっきり入ってくる声じゃなけりゃあ、掴まりにくいということですね。

 そこでは1年やったんですけど。タクシーは朝から動いているわね。午前中に所長が来て、ずっと5時過ぎまでやって帰るわけです。その後私が、5時から12時半頃まで、四條畷線が最終になるまで、そこで番をしておったんです。

中村 森さんがまず、就職する時に履歴書で悩んだと、川島さんはどうでした?

川島 私も、ある日、友達の家に転がり込んでおったんですが、喫茶店に入って、新聞を見るのを仕事にしとったわけです。そしたら、今は少ないですけど、その当時求人欄を見たら、3頁ほどあったですよ。それを見よったら、ひょこっと、先ほど言うた(昭和)38年の同窓会の時、「お前出て来いや」と言うた男が言うたのが、タクシーの配車係やったわけですね。「あ、あれが言いよったのはこれやな」と思うて、「よーし、これしかない」と思って。それまでに何回か、事務員とか割と大きな会社へ面接に行ったんですよ。そやけど不採用で帰ってきたんで、これしかないと思って。

 それから履歴書書いた!その時はもう、36歳になっていたと思うんですけど。ところが、履歴書書いたら、ハンセン病で長島愛愛生園にずっといたということを隠すために、嘘で固める履歴書やけど、どうしても、あと2年ぐらい縮まらんのですわ。もうしゃあないな、ちょと若いけど34歳ぐらいでいけと(笑)、それでいったわけですよ。

 これほど緊張したことは無かったね。面接なんてのも、初めてやしね。履歴書書いて出すいうのも、初めてやし。それでまあ、これ問われたらどうしょうとか、ほんとに胸が張り裂けるような緊張というのは、あのことを言うんじゃあないかなぁと。あれ以来、そんな緊張したことないもんね。そいう緊張もって行ったけどね、ちょうどおりも折、人が足らん時やなかったですか?そやからもう、儲けのいい所へは、健康な人は行ってしまうわね。そやから、老人とか、障がい者はそういう無線とかが残っとったんやね。私も、今、補聴器入れとるけど、その時はまだ耳良かったんですわ。ですから割と、無線の音、ガーガーいうとる音に割りと早く慣れたわね。

中村 その時にも、新良田の学校卒業したのは、履歴書に書かれた?

川島 私、岡山おったことはないし、四国やから、高知県の公民館に勤めとったということにした。(笑)公民館というのは、私よう知らんけど(笑)

 だから、聞かれたらどうしようと思うような心も、募らしたんじゃないかと思いますけど。高知県の公民館に勤めとって、今度大阪に出てきたというふうなストーリーで。(笑)

中村 そのストーリーは旨くいきましたか?

川島 それでね、そんなことは尋ねずですわ。この手はどうした、なんでなったか言うたら、ハンセン病と言わずに、(愛生園)園長の言うた「多発性神経炎」ね。だからそんなこと聞かれたら、言わなあかんなと思うて。それから、嘘を履歴書に書いとるから、どうするか。徹夜で勉強したような処もあるんですがね。ところが、行ったら、すぐ明日から来てくれというようなことになったんです。着替えを取りに帰ってくるからというて、帰って、すぐに来て、それからやりだしたんです。

中村 ちょうど、景気の良かったときでしょう?

川島 田中内閣の列島改造論が出始めて、大阪は万博で、燃えるような熱気に包まれておったところやったね。

中村 そういうふうに、時期も幸いしたのかも分りませんね。皆さん同じような体験をお持ちだと思うんです。退所して働かれる方は、履歴書書くのにどう書こうかという……。嘘を書くと何時嘘がばれるか分からない。こういう、張り裂けるほどの気持ちを持ちながらということを、お話なさったんですけれども。


〓韓国定着村のこと〓

 ちょっと話を、日本の場合は、「終生隔離」を国是として、国の方針としてやってきたと。隣の韓国では、日本が韓国を当時、侵略している時には、「小鹿島(ソロクト)」という所、長島愛生園と非常に良く似た所なんですが、そういう所に隔離してたんですが。

 開放後、いわゆる戦後ですが、隔離じゃなくて、一般の地区の一部で生活を営むということに変わって。それを定着村と言うのですが、定着村を釜山と邸丘の近くの定着村を一緒に訪問させていただいたのですが、そのとき川島さんがおっしゃった感想が、非常に耳に残っているのですが。川島さん、行かれてどうでした?

川島 向こうの人が、日本は後れているなと、こう言うたですよ。我々は国が造った隔離の療養所に行ったから、5年前まで、治ったという形で出てくることはできなかったでしょう?ところが、韓国人は日本の植民地から独立して、しかし、国がそんなに富んでたわけじゃないから、患者さんが多いのに、療養所を造ってというふうな力が無かったんじゃないかと、中村さん言いよったがね。私もそう思いました。それで、結構社会からは、偏見の目で見られるから、なかなかそこでずっと生活していくことは出来ない。そやから弱い者同士が寄り添って生活してきた。だから今は、日本は後れているなというふうな形になったけどね。その言葉の中に、ずっと自分たちは、社会で生活してきたと、いうふうな自信に満ちたような言葉があって……。我々には、そういうようなことがなかったなぁというふうな。ただまあ、その代わり屈辱に甘んじてというか、そういう形で辛抱はしてきたけど、韓国の人たちは自立という形で、やってきたので、そういうふうなことは現在は言えるけれど。

 やっぱり私は、2つの定着村を見てきて、1つは大方解体して、去年の暮れぐらいに一般のところに、土地が案外良いところでね。大きな資本に買い取られて、大きなマンションが建って。それで中村さん聞きよったよね。この中で、何人か入った人がおるんかちゅうたら、そこは我々が入るマンションじゃないと、言いよったがね。

 もう一つ行ったところは、非常に土がない、韓国というところは大体、地盤というのが岩からできてるところがあって、土が余りないところが多いんやって。一つは、ほんまに畑もできんような谷間やね。そんなところは、ずっとセメントを塗って、そこで鶏を飼って、生活を立てていくというような。最初は子どもさんも、夫婦、健全者の人もいたんだと思いますが。私らが行った時には、子どもの姿も見えんかったわね。皆 で年を取ってしまったような。しかし、それを見てみると、やっぱり当初は苦労をしたんじゃないかなというふうな、思いがしました。そうですから、我々は療養所ということがあって、隔離されていたけど、向こうは隔離がなかったけど、非常に苦労した。そういうふうなことが、感じられてね。ほんとうに、韓国の方が私は羨ましいとは、感じられないようなところがありましたね。

中村 韓国の定着村で私たちを待っていてくださって、お話をして、高齢のかたもおられましたから、ちょっと日本語が混じって、私たちにとっては理解し易かったんですが。

 川島さんがね、終わった後、一言ポツリと「定着村に住んいでる人は誇りを持ってるな」て、人間としての誇りですね。やっぱり仕事を、山間の大変深い谷とはいえ、そこで、自分で働いて稼いでいると、社会に参画しているという、それがそう川島さんをして言わしめたんではないかと思いますが。森さんはどうでしたか?定着村を2箇所ご覧になって。

 川島さん言うたように、とにかく、一山離れた所というんですか?離れて生活しているという、まあ僕は、一番最初に感じたことは、俺は療養所に入っていたから、だからこの人たちは、「あれ?日本より進んでる」という感じを受けたんですよ。何故か言うたら、自分たちで自活しているということを、ものすごく感じたんですよ。「あれぇ、えらいなあ」と思っとったんだけど、(中村)苑長が言うたことは、療養所ができないという、経済的にあったんじゃないかと言われて、「あ、それもあるのかなぁ」とは思ったけど。

 俺が知ってる、日本での療養所生活。療養所で養鶏、養豚、牛を飼っていたとか、それは皆自分たちの生活のためにやっていたんじゃないかなと、僕は思うんだけど。出荷した歴史もないように思うし、そんなんで、韓国の人は偉いなぁという感じを受けました。

中村 日本のハンセン病療養所の中でも、昔は豚舎があったし、牛舎があった。それは自分たちが死なんがために、生きていかんがために、それを飼っていたという歴史があるんですが。

 韓国の場合は、それを売ってるんですね。出荷してるという、社会の経済の中に自らの行動が組み込まれていってるというところが、大きな違いじゃないか。だから、働くということ、社会に参画していくということ、社会の経済状況の中に自分のポジションを占めるということは、人間にとって大変大事なことなんだなぁという感じが致しました。


〓地域に解放された奄美和光園〓

 それで今度、私たちはまた、奄美大島の和光園というハンセン病療養所に、今年になってご一緒したんですが。その奄美和光園の訪問のことを踏まえて、何か感じたことがございましたら。

川島 和光園というのは、名瀬、和光園の近くは、名瀬という大きな市ですわね。名瀬市。前は、迂回しなければ行けなかったらしいですけど。今はトンネルが出来て、ほんすぐなんですよ。

 昭和18年に療養所が出来て―昭和16年に建てる予定だったらしいけど、戦争とか地域との折り合いがつかずということで、昭和18年に造られたんですけど。その時に、造る条件として、地域の医療も診るということの責任を、そういう話し合いの中で出来ていたということは、私が感じた中では、今後の療養所のあり方としては、―今この表にあるように、和光園は64名です。現在の、大分前に出来た厚生労働省のデータでも、平成40年ちょっと過ぎぐらいの時に、大体療養所の患者さんは皆いなくなるというふうなことになっているですね。隔離法が廃止されてからは、新しい患者は出ても入れんということになっとるからね。自然にその時分に無くなるということになっとる。その後は、どういうふうに使われていくかなぁ。

 今度見てきた和光園はね、その地域の医療の一端を担う、今でも随分外来から来られて診ているいうからね。説明の中で、1日に55人から来たこともあると言うほどの、外来が来てやっておられるんで、和光園の場合は、地域の医療機関として残っていく。だから今64人ですかね。入園者おるけど、その人たちの最後は、もう見えているけれど、一般の人たちと一緒に入院して、最後の一人までもちゃんと診てもらえれば、私は、和光園の最後というのは、割と意義ある最後になるんじゃないかなぁというか……。

〓新しい発見〓

中村 奄美大島の地図が載っている「園田苑だより」に、奄美和光園の訪問を若干紹介させていただいています。和光園の医療機関が地域にも解放されている。それは、地域の住民の反対運動を抑えているといいますか、妥結させるためにやったという経過もございますが、韓国の定着村の診療所もそうでした。定着村外の人も受診に来るというお話されていました。

 森さん、私が一つ奄美和光園で驚いたというのは、ハンセン病療養所では、結婚するときに断種をする、あるいは子どもが産まれた場合に、堕胎をすると、こういうことが公然と行われていた。それが、和光園ではちょっと様子が違ってたんですが、その辺り如何でしょうか?

 これちょっと、よう分からないんですが、あそこカトリック教会かなんか言うてましたね。神父さんが、その人たちを庇ったというような話を聞いたんだけど。深いことはよう知らんのですけど。

中村 私にとっては、新しい発見でしたね。確かにハンセン病療養所、全国の国立療養所13ですが、ございます。どことも良く似ているんですが、必ず違いがあるんですね。だけども、私は、和光園に行くまでは、ハンセン病療養所での結婚が、断種が大前提。妊娠した場合は、堕胎するということが当然のように行われていると思っていた。和光園のときに、「園田苑だより」に書きましたが、パトリック神父という神父さんが、そこの療養所の歴史を書いた本の中にも、「準職員のような」という下りがあるんです。自分で土地を買って、教会を建てて「堕胎をするようなことは間違いだ」ということを、おっしゃったという。たった一人の力が、そこまで発揮できるんだなぁということにも驚いた。しかし、和光園も、かつては3mを越える有刺鉄線で囲まれていたということも、同時に知ったわけです。




会場の様子


〓会場からの発言〓

 それでは、時間が大分迫ってきたんですが、皆さんの中から何か質問がございましたら、お受けしたいんですが。どんな質問でも結構です。これ言うたらまずいんじゃないかというのがあったとしても、これは聞いておきたい、あるいはお二人の話に関連したことでも結構ですし、ハンセン病に関することに対してでも結構です。何かご質問ございませんでしょうか?

会場 最近興味をもって大阪の方から参りました、山沢という者です。お二人方非常にお若いんですが、もっと若い頃ですよね、入所されている女性の方もおられますよね。その中には、10代の頃なんか、恋愛感というか、女性との接し方というのは、どうでしたでしょうか?

川島 私は、野球をやって18のときに、目が見えんようになって、不自由になってしもうてね。実は、療養所の結婚といいうのは、大正4年に、療養所内の結婚というものが許されて、始まったんですけどね。しかし結婚するために、条件として男のいわゆるパイプカット、ワゼクトミーというんかね、それをするということが条件やったわけです。しかも、最初にできた5つの県立療養所へ言うていったわけですよね。

 この部屋というのが、24畳ほどある。24畳の部屋があったんですよね。そういうところへ、夫婦になる者が、7組も8組も寝とったいうわね。夜は、男が通っていって、というふな夫婦寮やったね。私が入った国立療養所長島愛生園は、12畳半が一番大きかって、後から15畳ができたけど。その時分は、12畳半に2組の夫婦が入って、間にカーテンを引いたような夫婦が、私ら青年舎出たすぐ上が、そういうふうな寮やったけどね。

 そんな形で、夫婦というものが許されておった。それで晩は、男が帰ってきて7組、8組もの夫婦が、何の囲いもなしに、寝るというふうなのが、夫婦生活やったんやね。これはほんとに、人間の社会にあるまじきものやと、私は思うけどね。しかし、それでもなんちゅうか、後は個室が、6畳なり4畳半なりが、ま、大体4畳半が夫婦舎としてずっと普及していってね。

 何故夫婦になりたいかいうのは、大人で雑居生活いうのは辛いですよ。せやから夫婦になって、個室をもらいたいというのが、大きな原因じゃなかったかなと思います。ところが、先ほど言ったように、食べ物がない時代がずっと永く続いたでしょう?女性の発病というのは、全体の男が3人やったら女性は1人ぐらいしか発病せんです。女性の生物学的に強い人ですよね。だから発病しないということ。だから女が男を選ぶような関係になっとた。私は、そういうふうに病気の後遺症が増えて、選ばれる対象から落ちたなと思ってね(笑)だから、女性に興味がないとか、そんなことはないですよ。そういう気持ちはあったけど、だからという気持ちはずっとあって、私は野球をやっていた時分には、極々少年の恋心というか、そんなことを小説に書いたことはあるんですが。高校へ行って、あの2人は結婚するんやないか、と言われておった時もあったんですが、それっきりなくなってしまって、今は、もう終わったなという感じです。(笑)

中村 森さんはその辺りの武勇伝は?

 高校に入っているときに、こういう風潮があったんですよ。壮健の女性と結婚するというのが、流行とったんです。僕はどっちか言やぁ、おくての方やから、そんなん全然、女の人に関心がなくって。

 俺は高校卒業してから、なんかしらん発情したというから、ちょっと女の人に興味を持ち出して、暫く看護婦と付き合った憶えがあります。

 デートをするんだけど、納骨堂があって、その裏で(笑)デートをするとか、そういう感じで。お前他にデートするとこあったんちゃうか、言うから、一番あそこは誰も来んところやから、ええんちゃうか言うて。そんな感じで、接しておったんですけど。

 たまたま彼女の方が、親に相手がハンセンの人だということで、強烈に反対されたいうことで、向こうが泣く泣く俺に手紙を寄越して、こんなんで親に反対されてどうしようもありませんいうことで、断ってきたという事実はあります。

中村 その後はもう……

 それからもう何もありません。(笑)募集中です。(笑)


会場 今日、吹田から寄せていただきました。まず始めに、今日こういう形で、同じ目線で川島さん、森さんのお話をいただく場所を作っていただきました中村苑長、ご尽力ありがとうございました。また、川島さん、森さん貴重なお話をありがとうございました。

 私もこういった形で、啓発の場が必要であると、改めて決意をしたところでございます。

 実は私は、3年前に川島さんと、ほんとにもっともっと小さい会場で、お会いして初めて川島さんと握手して、自分自身人生の大きな節目がありました。その後、そういった形で、仕事の上ですけど、しっかり啓発に取り組んでいます。

 昨年も吹田市で、初めて愛生園のパネル展を開催さしていただきまして。当日川島さんが、市長に説明をして、案内をする姿を見せていただいて、ほんとうに大きな感動を致しましたし、市始まって以来の100以上のアンケートがありまして、ほんとうに啓発の大切さ、また先ほど、森さんがお話していただいた、若い頃に指を治療と称して切断があったと。ほんとうに我々でいうと、指1本、治療すれば治るものを、当時は切断してしまうという、実はある新聞のコラムにこのように書いてありました。「手や足に怪我をすると、しかし、治療をしてくれない。化膿してきた。そして、医者に見せると、ああそうかと言ってナイフで指を切り落とされた」と。そして、「1本1本と、指を失い、片足も切り落とされた」と。こういう私自身も、以前はハンセン病の方の指がないというのは、病気で指がなくなったんだなぁと、思っておりました。そのことが、そういった過酷なことで、指また増してや足等々なくなったということを、もっともっと、ある意味ではお知らせすべきであろうと思いまして。また昨日、NHKでやっておりましたけれども、小鹿島の先ほどもお話に出ましたが、小鹿島の方々は、全部の指がない方が大変多ございました。そういった意味では、日本以上に過酷な中で、されていらっしゃったんだなぁということも、思いました.ほんとうに回復者の方々、高齢でございます。是非とも、川島さん、森さんはじめ皆さんがお元気で、一人でも多くの方に語りかけていただきたいということを念願致します。頑張ってください。ありがとうございました。


会場 今日はありがとうございます。私、東京都の小学校の教員やっております、佐久間と申します。今日はこういう会があるということで、川島さんにお話を是非一度、伺いたいなと思って参上しました。たまたま小学校の教員で、多摩全生園のすぐ隣の小学校で、10年前か、森本美代治さんと大変親しくしていただいて。森本さんって方は、東京でも裁判の中心になった方で、先ほどの新良田高校でお二人と一緒に学ばれた方なんですけど。ただいま、私上越教育大学というところに研修で派遣に来ていまして、ハンセン病の教育、子どもたち、あるいはそこで子どもたちに、関わった教師の問題について、自分なりに調べているところですが。

 それで、長島愛生園の新良田高校についても、いろんな方からお話を伺ったりしたいなとおもっているんですが。ま、沢山、機会を別にしてお聞きしたいところですが、1つだけ今、お聞きしたいことは、新良田高校にお二人が通われたということで、得たものと言いますか、先生達からプラスになるあるいは先生達あるいは生徒同士で得た、自分の人生にとって得たもの、あるいは逆に、新良田高校に対する非常に残念だったとか、心の傷として残ってしまったようなことがないのか、その辺り、一言お聞かせいただければと思います。

川島 昭和30年の4月に、建物は厚生省、教育委員会は岡山県に委託したような形でできた国立の高等学校。そういう形で、昭和30年の4月に始まる予定だったけれど、結局建物ができずに、2学期の昭和30年の9月16日が開校になったんです。そこで入学した人は、369人やったかな。卒業したのが224人。その内の社会復帰した人は、225人やったか、そのぐらいが社会復帰して。これは閉校になる昭和62年に、我々が閉校誌  する委員会を作って「新良田高校閉校誌」というのを出しとるから。それはいろんなところにあるんじゃないかと思いますから、見てもらいたいと思います。

 今の質問に答えますと、私は入学するまでに、11年間ぐらい療養所生活をしておるわけ。私、昭和19年やから。

 教師に、黒板を拭かん先生がおったんですね。若い、若いいうても私は22歳で、高校へ行ったんやけどね。15歳くらいで来とる子もおるわね。これはまあ、若いわね。数学やっとる先生やったけどねー英語とかそんなのは、数学とか高度な、私が付いていけんような講義をしよったけど。その先生が、ざぁーと、黒板に書いたら「おい、榊君」いうて、一番前に座ってるやつが、それが出てきて黒板を拭きよったがね。私はそれが別に、患者を嫌ってというふうなことには、私は気付かんかったわね。ところが皆から、先生は黒板拭きが嫌いで、榊君に、おい言いよったんやぞと。私は永いこと、療養所で生活しとったから、そういうことが鈍感やったかね。入園して1年とか2年とかいう子もおったからね。そういう子どもたち、子どもたちて同級やけど。そういう人たちは、非常に敏感に感じていたんやね、そういうことを。だから、ああ、私も療養所馴れしてしもうてというふうな……。

 実は、職員室に入るのは、入れなかったんですよ、職員室というのは。モールス信号みたいに、ブーと鳴ったらA先生、ブーブーと鳴ったらB先生とか。そういうふうに、モールス信号のようなことをやっていて、それで先生を呼び出すんですね。それで先生に本を買ってきてもらいたい言うて、お金を出すと。札は、教員室の入口に、クレゾール液を置いておいて、そこで濡らして、紙幣をガラスに貼り付けて、金貨はそこの中に置いとくようなことがあった。それでも、あんまり私には神経に触らなかった。実はそれまでに、愛生園の、いわゆるその当時は、分館分館って言いよったけど、分館でそういうことしよったからね。私は、余り勘に障らなかった。いわゆる療養所馴れさせられとったんかね。ところが、若い人はそういうふうなことが、非常に……。後ほど問題になるわけやけどね。

 だから、高校で感じたことは、そういうことがあったけど、しかし私にとって、高校なんていうのは、行く気持ちなかったけど―行きたいけれど、体が不自由やったから、そういう希望はなかったですよ。ところが、中学校の先生が来て、「まあー、試験受けてくれ」というて、受けて、まぁ通ったんやけどね。それで高校へ行ったことが、現在の私があるというふうなことになっているんです。というのは、卒業するときに、先ほど言ったけど、4年制の学校やったから、4年ごとに同窓会が開かれた。それで(昭和)38年に来てくれた同窓生が、「こんな仕事やったら、川島さん、わしもやってるからあんたもやれるから、出て来いよ」と言われたのが、ほんとうに社会に帰りたいという漠然とした気持ちやなしに、よし、なんとかして帰ろうという気持ちになれたのは、その男が、「川島さんやれるから出て来いや」と言うてくれたのが、何よりの励ましであったように思いますね。

 それでずっと、退所してタクシー会社へ行って―ほんとはちょと抜けとるけど、タクシー会社へ行って、1年やって、そこを辞めて、別のタクシー会社へ。大阪では大きい、相互タクシーというところへ行って、営業所へ行って、配車しよったんやけどね。それで親しい運転手からは、「お前どうしたんや」というふうなことは言われたことはないけど。

 私が掃除をしよったら、子どもが来て、「おじちゃん、その手どうしたん?」と聞くんじゃわね。それでそんなことは、なかなか、すっと森君みたいに、私はうまいことよぅ嘘をつかんかったからなぁ(笑)子どもちゅうのは、もう可愛いけど、困ったもんじゃなと(笑)思って。大人は、聞いたら悪いかなと思って、聞かんところもあると思いますけどね。しかし、そういうふうにして、社会へ出れたというのがあって。今度はまた、風呂場で火傷して、平成2年に出てきたんですけどね。それもやっぱり、辿っていけば、その時に高校へ行ったことは、ずっと現在の下で今日があるんじゃないかなぁと思って。そういう点では、いろんなことも高校というものは、どうやったかなと思っておりますけど。東京に在った方が、もっと良かったんかなと思いますけど。岡山県にあったのは、日本のちょうど真ん中ぐらいにあったから、ここに造れと。

 私も他所の園に出来ていたら、行ってないでしょうね。愛生園にできたから行けたということで、そんなことが幸いしたんじゃないかと思っております。

中村 はい、ありがとうございます。それでは森さん、今の質問の答えを。

 川島さんとちょっと違うんだけど、僕が入学した時は、川島さんはちょうど卒業した時ですわ。だから年齢層も、ぐっと若くなってるわけです。だから、その当時に高校時代、三つほどの動きがあるんですよ。一つは、恋愛に走る奴。二つは,一生懸命勉強するやつ。俺みたいになんにもせんやつ(笑)。三つぐらいに分かれてましたわ。あの当時、社会復帰するということが若い連中に多かって。それで、一生懸命勉強している人。ここへ来たんやからいうて、女の子とデートしてみたりする連中。結局落ちこぼれは僕なんだけど。そういう感じで……。喧嘩もし、僕はどっちかというと皆なから孤立してたわけではないけど、自分は孤立してると思ってはいなかったんだけど、周りはおまえ偉そうにしてる,チンピラふうにしてるいうて、敬遠されとったふうです。

中村 はい、ありがとうございました。まだいろいろあろうかと思いますけれど、いったんここで閉じたいと思います。

 私もハンセン病療養所に足繁く通いながら、この園田苑を運営しているのですが、園田苑という特別養護老人ホーム、老人福祉施設を運営する上において、私はハンセン病療養所に通っているということがほんとうに大きな影響を与えました。また、おおげさな言い方で言うならば、人がどうして生きてるんだろう、なぜ、生きてるんだろう、とかいうことも考えながらハンセン病療養所を訪問し、人間というのは、ほんとうに残酷なこともやるんだけど、限りなく優しくなれるということをハンセン病療養所へ通いながら私は身に着けていったような気が致します。

 療養所は国立療養所でございます。何憚ることなく行くことができます。

 先ほどお話にもありましたように、もう年をとるばかりなんですね。いずれの日か、ハンセン病療養所は、幕を閉じるんじゃないかと思います。

 私は1987年に、生まれて始めてハンセン病療養所を訪ねた時の、そのときの私の印象は、来るのが遅すぎた! 来るのが遅すぎたという……。しかし、今だからよかったという気持ちもあります。以来今日までハンセン病療養所に行き来しながら自分自身を鍛えていってるという感じです。それではここでお話を終えたいと思います。よろしうございますか?なにかございますでしょうか。


〓むすび〓

川島 新しい問題として、熊本の療養所の近くの、黒川温泉で宿泊拒否の問題がありましたね。皆さんも知ってくれてると思います。

 我々のことを考えてみますと、やっぱりこの日本では医学に基づかない、医学を無視したような、ハンセン病政策がずっと採られてきて、この前の裁判でそれが誤りであったということになったんですけどね。ほんとうは誤りがあったからというて、元にはなかなか戻らないです。だからほんとに、社会に根付いた偏見というのは、30年でできた偏見やったら、その倍も3倍もかかるね。だから、ほんとうに偏見をつくらないような社会をつくりあげていってもらいたい。

 今日聞いてもらった皆さんの中に、まだこれから社会の中で、ずっと永く活躍されていく。私は間もなく死んでいくかもしれんけど、私の力は、なかなかそんなに大きな作用はせんと思うんです。皆さん、聞いてもらって、帰って皆さんの友だち、知人そういう人たちに、一人でも二人でも話してもらったら、そういう偏見をつくってはいかんというふうな。これは我々だけじゃないですよね。

 それで今、私、思い当たるのは、戦争というもので,我々は国のために役に立たん病気とか,そういうことから考えれば,精神を病んでいる人とか,そういう人たちを社会の中から国の厄介者という形で,隔離とか放ったらかしにされたところはあるんですよね。だから,やっぱり戦争はいかんということを,これからも皆さん一人一人伝えていただければ,直ぐにはなかなかなくならないとは思いますが,そういう努力をしていただきたいと思います。(拍手)

中村 森さん,何かメッセージを。

 あんまりいいことを川島さん言い過ぎやから,俺ちょっと言い……。

 僕たちも,丁度5年になるんやけど,ものすごく僕も嬉しかったです。ちょっとは回復されたかなという感じがしました。今こんな感じで,講演さしていただいて,皆さんに接してきて,皆さん一人でも多くの人が理解してくれるということを,ものすごく今喜んでるんです。これからも,自分達もできるだけ出ていって地域の人たちと一緒に頑張っていきたいなと,僕はそう思っています。(拍手)

中村 ありがとうございました。まだまだ喋りたい,訴えたい,話したいと思うことがまだまだあると思いますが,ここで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。





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