スルメをイカ刺しにする。死人を生き変えさせる???

 自動車教習所で教官をしているときに、孟寧(もう・ねい)さんと出会った。
 孟さんは新彊烏魯木斉(シンキョウウルムチ)の工学院の助教授だった。当時24歳でウルムチ工学院では教授だ。太陽エネルギーの研究に日本の大学、八戸工業大学を選んだという。
 当時中国では車の免許は一般の人では取得できなかった。むずかしいのではなく料金が高いのだ「十年間ほど生活費を節約しお金を貯めないと運転免許は取れません」孟さんは言っていた。
 私は中国の教習所はどれだけ儲けているんだろうかと思っていた。
 鄧小平氏の政策は。「もしこの国に他の国と同じように車を自由に走るようにすれば燃料の需要と供給に混乱がおこる」と云う理由らしいが、それに、贅沢品とし税金を高くしているのだ。日本から軽自動車を持ち込む場合も日本円にして二千万円の物品税がかかるという。
 孟さんがはじめて教習所に来られたとき、私が、
「孟さんが免許合格するまでに、私は独学で中国語の挨拶程度を勉強してみたいんだが、どちらが先にマスターできるか競争してみないか?」
 孟さんにがんばって早く免許を取ってほしいという気持ちからだった。
「いいですよ。頑張ります」
 私は本屋で買ってきた『これ一冊で中国旅行』を開いた。今は100円ショップにある簡単なものでカタカナが振ってある。先ずは単語を覚えよう単語で物の読み方、そして仲間の名前を言えるようになればとカタカナをよんで暗記した。
 孟さんに最初にした質問は、ハンドルを指し。
「チォシーシェヌマ」
 これは何ですかと言ったつもりだったが孟さん。
「ん~ん言っていることは大体分かりますが、全然発音が成っていません、室野さんは本屋さんで買ってきた本で言っているんでしょう、あれはほとんど役に立ちません。基礎を教えますからこれから私のところに通ってください」
 と、言うことで、仕事を終わってから孟さんのところに通うことにした。
 八戸工業大学の寮は、旭ヶ丘にあった。教習所からは車で十分その寮から自宅まで十五分、教習所は夜の八時に仕事が終わる。約3時間から4時間。帰りは夜中になることもあった。
「中国語の発音は英語のスペルで覚えなきゃだめです、この本の基礎発音をマスターすれば私がいなくなっても室野さん一人で勉強できます」
 といってB4版の薄い本をくれた。日本にはない発音の部分が書いてある。私が孟さんに最初に質問した「チォシーシェヌマ」は倦舌音で難しい発音だったのだ。その発音をずっとやらされた。
 一週間たったころ、
「孟さん、もうそろそろ単語の方を教えて下さい」
「だめだめ、今の発音そこのところをもう1回やってください、ボオウではなく、ボゥ(不)この言葉はたくさん出てきますからしっかり覚えてください」
 孟さんは二人のために料理を拵えながらわたしの発音を聞いている。
 食事をしながら、
「八戸に来て食べ物では何が気にいりましたか?」
 聞いてみた。
「イカの刺身が美味しかったです、これはウルムチに帰ってぜひ皆に食べさせてやりたいです」
「あぁそうですか、魚などの刺身は食べられないんですね、シンキョだから。」
「冷凍をするようなものは食べられません、ですからスルメを買っていって刺身にして食べます」
「んんっスルメをイカ刺身に、それはできませんよ」
 ところが孟さん、
「イカがスルメになるでしょう、だったらスルメがイカにならない訳はないですよ」
 と本気でいう、わたしは。
「もしそんなことができるんであれば、死んだ人を生き返させることもできるのですか」
「人間は無理でしょうイカならできます、スルメがイカ刺しにできれば、死んだ人間を生き返えさせることも可能です」
 きっぱり言うところは若い学者らしい。わたしもそれ以上は言わなかった。
「孟さんはどんな研究してるんですか?」
「太陽エネルギーの研究です」
「たとえば?」
「家庭の屋根にソーラーがありますね、あのソーラーの熱が、冬になると内側より外側が早く温度が下がります。何故なのか?でも分かりました。これを今度の学会で発表することになりました」 
 わたしにすればごく当たり前のことであって、外気が冷たいからソーラーの外側の熱を下げてしまうだろう、と思っているが。これ以上は学者とは論ずれない。
「そうですか、がんばってね」
「ありがとうございます」

 大晦日は私の家で年越しをした。日本の正月はどのようなものか体験したい、ということだったから、たいへん喜んでくれた。お正月には私の兄弟たちが私の家に集まって新年会をやることになっている。いつからか定かではないがそうなってしまった。正月は何処かに行ってのんびり、は今は無い。
 孟さんに一応と思って全員を紹介した後、一緒に写真を撮った。じいさんばあさん子どもたち兄弟の子ら全員で十五人。
 一週間ほどして写真が出来上がったので孟さんに持っていった。
「初男さん元気ですか?」
 と孟さんは言う。初男はわたしの父。
「へ~えよく覚えておいてくれたね」
「室野先生が紹介してくれたでしょう」
 と、あっさりいう。
 後で孟さんに聞いたことだが。中国人は紹介された場合、覚えておかないと失礼にあたるというので、その記憶力はすごい。そこでひとりひとり写真を指差しながら聞いてみたが、十五人全員を覚えていたのには驚きだ。中国では一度にたくさんの人を紹介すれば、意地悪にもなるらしい。孟さんはこうも言っていた。
「私は十五人位が限度だが、聖徳太子は百人まで覚えていられたそうです」
 
 それから間もなく教習所を卒業をした。今度は公安の本試験がまっている。一度きいたことは確実に覚えていて、私の学科問題の質問にも理由をつけながら答えていく。公安の学科試験も一発で合格した。
 八戸工業大学の孟さんの研究室におじゃまをしたとき。孟さんの机の上には、A3大の、厚さ10センチほどの太陽エネルギーに関した本が置いてあった。開いてみたが、数字と記号のようなものが書いてあって、私がみてもチンプンカンプン。
「これは半月前に佐藤先生からプレゼントされた本です、あと一週間すれば全部頭にはいります」
 半分ほどのところに栞が挟んであった。

 三年間の日本での研究期間が終わり本国に帰ることになった。
「これはお土産の荷物で明日送ります」
 箱の中には。ラジオ、時計、ネクタイ。この三つは百円ショップから10点くらいづつ買ったもの、
「すごく安くてびっくりしました」
 ラジオも時計も本国で合う電池があればいいのだが。

 送別会の席で孟さんは。
「もっと勉強したいんですが、日本の大学のレベルは?どこがいいですかね」
「まぁ東京であれば、東京大学だし、関西では京都大学だが。でも孟さんは国の命令で今日本にこられているのだから、そこは国と相談してからのことではないんですか」
「ん~ん、そうですね」
 十一日町の停留所から、八戸発仙台行の南部バスを見送った。

 それから一年後、孟さんから手紙がきた。
「室野先生、孟です、今東京大学います、少し難しかったけどがんばりました。それから結婚をしました。家内の写真も送ります」
 封筒にはチャイナ服を着たきれいな奥さんの写真が入っていた。

 ここで一寸、別のお話を。
 中国から日本に母と一緒に観光で来た若者が、デパートに買い物に行ったときのことである。
 若いきれいな女店員さんが笑顔で。
「いらっしゃいませ」
 この応対に若者はびっくり。当時の中国では考えられないことなのだ。
「…この人は僕に一目惚したんだ…」
 女の人の笑顔は中国では愛情の表現になるらしい。

 若者の誤解が始まった。若者はホテルに帰ってから母に。
「お母さんぼくにいいお嫁さんができそうだよ」
 と言った。母も半疑ながら、
「そう良かったわね、でもどこの方なの?」
「とにかく明日もう一度あのデパートに行ってみようよ」
 翌日またそのデパートへ行った。昨日入口いた店員さんは今日はそこにはいなかった。若者は、
「昨日こちらにいらした店員さんは?」
 そこにいた店員は、
「今日は休みになっていますが、今日はご家族でこの上のレストランに来ていますよ、ご用件をお伝えしてもよろしいですが」
 若者はがっかりした、が、一応と思い、四階のレストランに行った。遠くからみた昨日のあのきれいな店員さんが、家族三人で楽しそうに食事をしている姿をみてさらにがっくり。
 ところがこれでは終わらないのが中国人の若者。
「…待てよ、さっきの店員さんこそぼくにぴったりだ」
 と。そのあとのことはわからない。
 
 共産主義の中国では商売人は皆公務員なのだ。売上高はどうでもよいのである、給料制だから。
 あるとき私が床屋さんに行った時のことである。私がお店に入っても店主は本を読んでいて挨拶がない私に気が付いたと思うが。
「おい頼むよ」
 と言ったら、やっと本を置いて、
「どこを切ればいい?まだ早いよ」
 まだ髪は切らなくてもよい、ということだ。なんだぁこいつ商売っ気ないなぁ、と思ったが何とか頼んでカットしてもらった。
 終わって、料金はいくらかと聞いたところ。
「お前は日本人かい?」
 そうだと答えると。「900元置いていけ」という。安いな、そうか安いから接客態度はこんなものかなぁと思っていた。
 帰って友達に話をしたところ。
「お前やられたな」
 という。どうゆうことかと聞いたら。
「日本人だからお金をとられたんだよ、中国人はただ(無料)なんだよ」
 という。共産主義国家のことをよく分かってなかったわけだ。
「そうかい、でも900元だからチップだと思えば」
「900元あれば日本では家族三泊で温泉旅行できるよ」
「えっやられたのか~やっぱり。
 
              おしまい         59年 7月     
昭和59年7月 作