Radiance of the Seas               ちょっとおしゃれ
 昔は、子供に船を描かすと、必ず赤い吃水線下が赤く塗られその上が黒い船体、甲板上には白いハウスが乗っかり、煙突が1、2本、気の利いた餓鬼だと、それにマストかデリックを付加えたものである。もっともN郵船に勤めていた従姉妹の亭主の話によれば船底が赤く塗られたいるのは蠣殻が付着するのを防ぐ為だそうで、必ずしも吃水線を表示しているものではないとのことだった。
 しかし、なにはともあれ現在では海外へ旅は空路が常識、船旅は船旅そのものを主として愉しむクルーズが主力となり、船体と同じ幅のホテルをどっかと乗せたようなハウス構造に様変りし、何処までが船体で何処からがハウスやら、ウエストも定かでない肥った中年のおばはんの全身白塗りの厚化粧風、船の象徴であった煙突も付けねば船のイメージを損うとばかり、アクセサリー化したものが多く見られている。
 今回我々がアラスカン・クルーズのため乗船したのはロイヤル・カリビアン・インターナショナル会社のレディアンス・オブ・ザ・シーという、90、090屯、乗客定員2501名、乗組員数は891名という、巨大な客船というよりも海上移動装置付ホテルと呼んだほうが手っ取り早いタイプの船である。会社名が示す通り、この時期を除いては社名通りカリブ海を主舞台として稼ぐらしく、我々夫婦も四年前に同社のほぼ同型の船でカリブ海で遊んだことがある。カリブ海クルーズと言えばカッコよく聞えるものの、実際には日本からでは大概デトロイト経由でニ十数時間、気息奄奄としてオーランドから乗船するよりは、ハワイより距離的には近いアラスカからのクルーズの方がよほどラクチン、エキスカーションもこちらの方が変化があって面白かろうと思ったものだ。今回のクルーズでも船客はパッセンジャーと呼ぶよりも、むしろ船長のスピーチでいみじくもゲストと呼ばれたほうが相応しい乗客は、カナダ人アメリカ人が合計500人を越え、あと世界の33ケ国に及び、召使を連れたインド人金持まで含まれ、中国系の人々も多かったが、彼等は台湾人かインドネシアの華僑で、中華人民共和国民は皆無、日本人は44名、殆ど満杯の盛況であった。

                      船内生活
 船内生活の第一歩は例によって避難訓練に始まった。我々のキャビンは7階で吹きぬけの豪華な中央ロビーに近く、カミさんの懇望もだし難く、清水舞台飛降り精神で、バルコニー付きのキャビンを予約したのだが、結果的にはこのクルーズの呼び物である氷河見学など我がキャビンにいながら眺められ、高いだけの価値はあった。5月28日出帆の船に決めたのは、ケチな私の深謀遠慮、次のクルーズからはハイシーズンとなり値段がどっとはねあがるのを避けたからである。
 レストランはコース・メニューを出し、乗船中席が決まっているメインダイニングルーム、ビュッヘスタイルのウィンジャマーカフエを始めとして数カ所あり、また、20ドルの予約料とチップが必要のステーキ・ハウスやイタリヤ料理を出す特別食堂もあった。但し、そこでは20ドルの予約料と別途チップを払う必要があり、それなら私の熱愛する地元の激辛葱ラーメンが5杯は食えるまたもやケチな計算をして一度も利用しなかった。メインダイニングでは定食といってもアペタイザーからデザートまでチョイスの種類が多く、ポテトチップが山ほど盛られ、硬い味のない肉などがドデンとおかれ、見ただけで食欲を失う通常のアメリカ料理とは較べものにならぬ極上の味であった。聴けば総料理長はインド人、しかしカレー料理は一度も出さず、場所柄最後の晩餐に多分出すだろうと思っていた焼きアイス、アラスカン・ベークド・アイスクリームも、ついに出さずじまい、かなり気骨があり、プラウドの高い料理人と見受けられた。印象に残った料理は、新鮮な鱈のバター焼きとロブスターのガーリックオイル焼き、それに生春巻きが一度、唯一のアジア料理として供され、脂っこい料理に飽きた舌には有難い素直な味であった。酒はリーズナブルな白ワインをキープしておいたが、アラスカという地ビールはアルコール濃度が高く、スタウトを日本製ビールで割った色合いと飲み心地で、なかなか乙な味だった。テーブル係も固定し、我々の係りはフイリッピノの男性と、国籍はついに聴きそびれたが八頭身のブラック・ビューテイ、充分に満足できるサービスを受けた。メインダイニングでは夕食にはドレスコードがあり、乗船当日、下船前日は乗り込んだままの服装でよいのは旧来からの船の習慣として当然のことながら、船長主催のカクテルパーテイ後の2日目と6日目にフォーマル着用の夕食があり、タキシ−ド着用者が多かったのはカリブ海クルーズと違うところである。あとの日もスマートカジュアルだのなんだのと結構うるさいが、これも船旅の愉しみの一つと思えばよい。
 カクテルパーテイでは恥ずかしげもなくおのぼりさんよろしく船長と並んで写真まで撮ってもらった。船長は長身の北欧系のカナダ人で、まだ若いが、カナダディアン・ロイヤル・ネービ出身とのことで、ハンサムである。これまでの経験からも、どうやらこのような船の船長を務める程の男は歴代北欧系の船乗り家系が多いようで、バイキングの血が現在まで生残っているのかも知れぬ。
 船の娯楽設備もショーその他の催し物が連日あるシアター、すぐ懐すってんてんのカジノ、スマートな美女並びに腹ぼてオジサンで満杯のプール、船の中までご苦労なことに汗かき仕事のフィットネスジムと五つ星ホテル・クラス以上、それに岩登り用の壁まで上甲板にあったのには驚きである。
 最後日夜遅半にパジャマパーテイという珍なるものがあり、なまめかしいスケスケルックなどが見られた可能性があるにも拘わらず、我々老夫婦はその時間には既に白川夜船、歳は取りたくないものである。
 下船時のラゲッジは前夜の12時までに廊下に出さねばならぬが、酔っ払ってすべての衣装をラゲッジに仕舞い込み、パジャマ姿やパンツ一丁で下船した乗客がいたと言う噂も飛んだが多分嘘だろう。船が巨大になればなるほど上、下船の手続きに時間が掛かるのは難だ。

                      寄港地
 この辺りでは日の出は4時、日没は22時頃と日が長い。温度はそれほど寒くは無くセター一枚で甲板の散歩ができるくらいだ。アメリカとの国境近くにあるバンクーバーを午後5時に出航、翌日は1日がかりで、フヨルドの名残と言われ、瀬戸内海の規模を大きくしたようインサイド・パッサージを北上する。両岸に斧鉞を知らぬ原始林の山並みが迫り、大小無数の島が存在する狭水道を航行する船長の気苦労は大変だろう。ガイドブックには、鯨だのシャチだの種々の動物が見受けられるとあり、期待したのだが、廉いクルーズを選んだケチの報いか、何一つ生き物の姿を見ないまま最初の寄港地ジュノーに昼頃到着した。
 ジュノーはアラスかの州都で、ロシアからアメリカが750万ドルで買取し、最初に造られた町だそうだ。しかし、聖ニコラス・ロシア正教会があるところを見ると、買収後も多数のロシア人が居残っていたのではないかと思われる。桟橋のすぐ前から、観光客用のヘリコプター数機が、ひっきりなしに、交互に飛び立って氷河見物のお客を運んでいる。小さな水上飛行機も盛んに行き来しているが、大体,カナダやアラスカは湖沼が多く、フロート付の自動車がわりの自家用が多く見られるようだ。
 我々は鮭釣りに船を出して出掛けた。入漁料15ドル、キングサーモン釣料とで10ドル、一人あたり大枚25ドルを支払った。釣り人は4人で、トランプを引いて左右2人ずつに判れて4本の竿で船尾部から釣ることになった。女房と私は左右に別れた。私側の竿に最初のあたりがあったが食逃げされ、その後すぐに大形の奴が一匹女房側の竿に掛かったが、女房がぼやぼやしているうちにアメリカ人に竿を取られて釣上げられてしまった。幸先良し流石アラスカ、いくらでも釣れるのではと喜んだものの、あとは鰯の餌を擬似針に換えたりしても、さっぱりあたりは無く期待外れの釣果となった。もっとも生物は船内持込み禁止であるし、日本には冷凍にしても送れぬとのことで諦めはついたが、釣り好きの女房に鮭の強い引きを味合わせてやれなかったのは残念である。釣れた魚は重さと体長を計測し、その記録を役所に提出するらしい。資源保存の見地からの記録だろう。
 翌日の寄港地はスキャグウエイ、インデアン語で北風の吹く場所という意味だそうだ。インサイド・パッサージを抜けた所に位置し、クロンダイクでの金鉱発見で巻起こった1898年のゴールドラッシュ時代はその基地として栄えたが、いまや人口も減少の一途を辿っている。1世紀前の町並みがレプリカを交えて保存されているが、当時は一攫千金の夢をかけた男達の集散地集で、殺人、強奪、売春、賭博、詐欺なんでもありの殺伐とした町であったらしい。最後は決闘で殺された一見紳士風、じつは詐欺師であったソーピイ・スミスなる男の墓まで、観光名物の一つとなっているし、開拓者の一人が黄金への道で一番の難所である後述のホワイト・パスへの有料道路を峡谷沿いに開設したが、金を払う者は誰もいなかったという話からみても当時の凄まじく荒れた気風が偲ばれる。
 我々往きはホワイトパス・ユーコン鉄道の現在の終着駅フレイザーまでバスで山道を辿り、帰りはそこから列車で帰るエキスカーションに参加した。この鉄道の約半分はカナダ領を通過するのでパスポート持参だ。往復ともにイミグレーションはバスと列車内で行なわれたがちょっとパスポートを覗き見るだけの簡単なものだった。この単線狭軌鉄道は、1900年に建設が開始され、1902年に終着駅ホワイトホースまで全線開通した頃には既にゴールド・ラッシュは去っており、その後第二次世界大戦後までは鉱石を運んでいたが、鉱石値段の下落に従って一時は廃線の危機に曝されたものの、地元の切なる要望で、現在フレイザー駅まで観光用列車を運行して復活し生き延びている。
 先に触れたホワイト・パスは重荷を担がされた馬3000頭が疲労の末斃死したとうユーコンに入る際の最難所の峠で、この鉄道も海抜0メートルのスキャグウエイから僅か32キロメートルで標高差879メートルもある峠まで登りきるのであるから、相当の難工事に違いなく、これを4人の犠牲者を出しただけでたった2年あまりで仕上げたという。
 しかし、この4人の犠牲者という数はあまりにも当時としては少なすぎ、アメリカの東西を結ぶ鉄道にも多数のシナ人を含む東洋人が犠牲となった記録があり、これは白人の犠牲者のみの数ではないかと疑っている。昔は峡谷沿いの山裾を巡って敷かれていた線路を、新たにトンネルを開通させたため現在使われていないスチール・ブリッジや、いまだ使用中のトンネルマウンテンを出た直後のブリッジは、なんともか細い材料を何段にも積上げた粗末な橋梁で、目も眩むほどの高さの峡谷を横切っている。よくこれで事故が起らなかったものと感心する。
 蒸気機関車が使用されていたのはいずこも同じ昔の話、現在は2台のデイーゼル電気機関車で牽引されている。ストーブまで設置した旧時代の改造車やレプリカ車からの眺めは、目前に岩肌も顕わな高山あり、水が凍ったままの峡谷や雪で覆われた雪原ありと荒涼としたアラスカ風景が満喫出来る愉しいものだった。鉄道建設以前にこのあたりを徒歩や馬で越した人達の苦労は筆舌に尽くし難いものがあったのであろう。彼等を強靭なパイオニア精神の持主と呼ぶべきか、単に探鉱にも無経験の癖に訳も判らず金に取りつかれた亡者の群れと呼ぶべきかは神のみぞ知ることである。  
 またアラスカには金のほか石油も採掘されるようになったので、ロシアとの取引ではアメリカに先見の明があったことになる。
 翌日は本クルーズ最大の呼び物である、ハバード氷河見学である。ハバード氷河はかの有名なグレイシャーベイ国立公園とは別にもっと北にある氷河だ。なぜか、地球の歩き方にも今だ記載がない。船がハバード氷河の舌端に位置する入江に奥深く進むにつれ、氷河から落下いした氷隗の量が次第に増し、気温が下がって来る。隣のキャビンでは年頃のヤンキー娘2人がどのような了見かビキニ姿でバルコニーの手摺に腰掛けて肉体美を寒風にさらしながらふざけあっている。お隣さんが枯れたおじんで気の毒なことだった。
 氷河の舌端の高さは何メートルあるのか、7階建ての本船より高い感じで、ほぼ屹立して海に落ちこんでいる。随所に土やら泥の筋目が横走しており、時々轟音をたてて、その一角が崩れ落ち海中に落下するのは、氷河が微速ながら動いている証拠である。壮絶な眺めだ。ただ天気が悪く、後方の山脈は低く水平に垂れこめた雲で覆い隠され、期待した氷河の淡青色の輝きが露眼でも、写真でも実感出来なかったことは残念であった。
 最後の寄港地ケチカンは、昔は鮭が多く獲れ缶詰工場が出来たほどだが、乱獲によって漁獲量が減少し、その後は製材工業で潤ったものの、自然保護政策の強化によってこれも衰微に向い、現在は最早クルーザーの寄港地としてようやく息をついている町だ。街中に信号機が殆どなく、そのかわり、赤地に白抜きでストップと大書した八角形板付きの棒を持って、ボランテァだか、市の役人だかが、人力で交通整理をしていた。機械化万能のアメリカでは珍しい風景で、クルーザーが寄港せぬ時には、人通りも少ない町である証拠だろう。スモークドサーモンと飲み物付き、快適ボートに乗り、サックスマン・トーテムポール・パーク見学という唄い文句に惹かれて、ウオーターフロント・クルーズというエキスカーションに参加したものの、不味いこと絶品の干物じみた鮭がちょっぴりと出、アルコールはなし、期待したトーテムも遠く海上から眺めただけと言う、看板に偽りありのクルーズでがっかりだ。港には本船以外にもクルーズザーが散見され、その中には、日本で造船中に火事を起したダイアモンド・プリンセス号の姿も見られた。
 今回の旅は廉いだけあってバンクーバーに着いた日に乗船、下船した日に帰国という慌しさで、バンクーバーは、バスの車内から覗いただけだが、キッコーマンや菊正宗の日本語広告が目についたところを見ると、かなりの日本人が住んでいるのかも知れぬ。玄関の上がりかまちが一段高くなっている住宅と、そうでない家があり、積雪量は多くはないことが察せられた。
 
 追記 20数年前、シアトルでの学会での帰途、畏友M先生とアラスカに立ち寄り、アンカーレッジからフエアバンクスまで、アラスカ鉄道に乗ったことがある。その前まではヨーロッパ行き北回りの空の便は、アンカレッジ経由であり、空港には戦争花嫁のなれの果てらしい売り子がいた土産店が軒を連ね、饂飩の立食いまであった。前回のアラスカ行は経由便廃止後のこととて、空港は往年の面影もなく、昔からあった大熊の剥製も埃を被り、寂びれ果てた地方空港の趣となっていた。フェアバンクスでも夕暮れ時に一杯のんで、ブレザーのボタン一つをメインロードの何処かで落し、翌朝その道路を歩いていたら、無くしたボタンが道路上にそのまま転がっていた程、人通りの少ないのんびりとした街だった。
 マッキンリーの麓、デリナ国立公園で、バスから降り、鋭い岩場に白い綿屑のように点々と見えるドール・シープを眺めていたら、突然グリズリー・ベアがあらわれ、運転手がすぐバスに乗込めと慌てさせられたことがあった。ベアはバスのすぐ近くをモンローウオークで悠々と歩き去って行った。辺境好きの僕は、バローまででも出掛け、オーロを見たいものだと思ってはいたが、この歳では所詮叶わぬ夢だろう。最早エスキモーは差別語とされ、イヌイットと呼ばれるようになり、イグルーには住まず、暖房、冷蔵庫付文化住宅に住んでいると言う。これもまた、「夢去りぬ」の現実というものか。