ドバイ市街                  砂漠ドライブ

なしてアラブへ。
 「砂漠に日は落ちて
    夜となる頃」
旧い、旧い歌だ。昭和の始め、僕が生まれた頃はやった歌だろう。
懐かしいなあ。 
「月の砂漠をはるばると」
   金と銀との鞍乗せて」
とかいう情緒溢れる童謡もあったっけ。残念ながら若くて凛々しい金の鞍の王子さま、可憐な銀の鞍の王女さまではなく、しょぼくれ我々老夫婦がアラブくんだりまで柄にもなく出掛けたのは、やはり、これらの歌の裏にある、そこはかとないロマンとエキゾチックな哀愁にいまだ憧れを感じるからだろう。今年3月長年の願望であった南極クルーズにも出掛けたことだし、今度は一丁暑いところへ行ってみっかという天を恐れぬ自虐的感覚も後押ししたことも確かです。
 数あるアラブ諸国の中でアラブ連邦首長国を選んだ理由は、別にこの国の王様に親戚,知り合いがあった訳ではもちろんありません。AB-ROADでドバイ行きツアーがあるのを知り計画を立てたあとで、この国の位置を地図で確認したぐらいなのです。他の厳格なアラブのムスリム諸国とは異なり、この国では酒が呑めるからという、はなはだ現実的生理的理由からこの国を選んだ訳なのです。
 そろそろ我々は最近問題となった「エコノミークラス症候群」、僕はむしブロイラーチキン症候群もしくはホアグラ家鴨言った方がそのものずばりで判り易い表現と思うのですが、それに罹り易い年令になってしまいました。香港までは関空から4時間で問題がないとしても香港からドバイまでは8時間以上かかるので、機内時間をすこしでも短縮するためバーレン経由ではなく直行便の飛ぶ曜日に往復するキャッセイ航空に乗るスケジュールを組みました。 この症候群は乾燥した機内の乾燥した空気とアルコール分過剰摂取による脱水で、血液が濃縮され、その上長時間狭いシートに縛り付けられているため特に下肢静脈の血流が停滞、血液が凝固して、血栓が生じ、その血栓が肺に飛んで呼吸困難を起こし、時には死亡することもある肺塞栓症という恐ろしい病気でなのです。医師としての現役時代、ただ旅費節約のため、ヨーロッパの学会に出掛けるのに、南回りで30時間以上かけて行ったのも懐かしい思い出です。歳をとると嫌でもいろんなことを考えなければならぬのは辛いことだと悟りました。
 某旅行社のツアーにのることにしたのですが、予想通り我々夫婦二人だけのツアーとなってしまいました。この前女房を連れずに行ったベトナム行、ラオス行もツアーを利用したのですが,参加者は僕一人のみで、行動の自由が利いて、安くて,ラクチンという、三拍子揃った旅行が出来,味をしめたのです。空港ターミナルビルを出るや否や,命懸けのタクシー・ドライバーとの交渉、バスは満員、下手な英語もホテルを一歩出ると通じ難い辺鄙な場所を訪れるのは小さな旅行社主催のツアーを利用するに限ると思うようになりました。何も今更年寄りが粋がって個人旅行を試みて苦労をすることはありません。行き倒れの可能性もある70過ぎたおじいさんはやはり今までの知恵を生かすのが本当です。耳順ですぞ。
 この国では観光ビザは出国前には発行されないのです。宿泊するホテルや現地旅行社がスポンサーとなり、パスポートを基に作成しビザ原本と称するものを空港で受け取り、入国する仕組みらしいのです。香港発16:10、ドバイには20:05定時に到着し、ターミナルに入って少し歩くと何処からともなくベールを被ったおばはんが現れてビザ原本を手渡してくれました。それを提示するとあっけなく入国審査終了、外には若い日本人イドが待ちうけていました。
 宿泊したザ・リッツ・カルートン・ドバイはジュメイラ・ビーチにあり、夜目にも鮮やか、ベージュ色で統一された地中海風建築で,内部はアラブ様式を取り入れたクラシカルな格式のあるホテルでした。部屋は広々としていて、バスルーム、シャワー室、トイレットは別々、コックはすべて金ピカです。ミニ・バーも完備していましたが、すべて相当にお高い値段でビール一缶が1000円程度でした。ウイスキーを一本日本からザックに入れて持込んだのはでし御正解でした。ただ、後で判ったことですが、このホテルは空港は勿論ドバイ市内までも25キロと相当に遠く、しかもシャトルバスも運行していないので、街に出掛けるには一々タクシーを利用せねばならずその費用が馬鹿にならぬ欠点があります。従ってビーチ遊びにあまり興味ない人はドバイ市内に宿泊するのが良策で、ビーチにこだわるならこのホテルより少し街に近く、シャトルバスが運行しているザ・ジュメライ・ビーチ・ホテルに泊まることをお勧めすします。このホテルは波をかたどった流線型の超近代的大規模なホテルで、部屋数も多く、10以上のレストラン、バーが揃っているそうです。格式にこだわるザ・リッツ・カルートンとは全く別のコンセプトで建てられたホテルらしいのです。
 早朝目覚めてテラスに出ると、水が循環する豪華なプールと青々とした椰子と芝生の庭越しに紺碧のペルシャ湾が見渡せ、その上点景として白砂の浪打際に駱駝を引いたおっさんまでもが運良く通りかかってくれて異国情緒を満喫させてくれました。しかし、冷房の効いた部屋からカメラを持ち出すと外気の温度差と湿度差は相当なもので、忽ちレンズが曇ってしまい、残念ながら撮影不能となり改めて湿気の多い酷暑の国にいることを実感したことでした。
 ブッフェながら味もサービスも万点な朝食を食らい、ドバイに出掛けてみることにすしました。ホテルで当座に使用する日本円を両替してみました。かねてからガイドブックにホテルでの両替はレートが悪く薦められないと書いてあったのですが、他の国での経験から少々交換率が悪くとも,10%以下と踏んだのが大間違い、翌日街の両替店では1デイラム31円だったのに、ここでは40円だったのです。いくらなんでもこれほどレートに差のある国は珍しいでしょう。ホテルレートではドバイまでの片路タクシー代が30デイラムを越えるので1200円を越えてしまう勘定になるのです。
 ドバイの街はクリークと呼ばれるペルシャ湾に流れ込む河を挿んでバール・ドバイ地区とデイラ地区に別れていいます。デイラの方が賑やかで,主な近代的ホテルやレストラン、ショッピングセンターもこちらの側に集中していいます。ビンボーな砂漠の国がイチかパチかで油脈を堀あてて一躍大金持ちになっただけに、円形、角型、風船形と、新奇,珍奇な超近代的建築物がぞろぞろと並んでいいます。さぞ建築設計家は片手では成熟西欧国家では叶えられない自分の実験的な夢と希望が実現出来、もう一方の手ではごっそり設計料を掴むことが出来たのだからさぞ満足だったことでしょう。しかし、何しろ暑いのです。短い距離でも歩くとすぐ頭がクラクラとしてきます。広く舗装された道路は白々として陽炎が立ち、歩いている人を殆ど見掛けないのも当たり前です。ドバイ最大のシテイ・ショッピングセンターやハイアット・リーゼンシーに近いデイラ・スーパーマーケットを見学しましたが、どちらも巨大で商品の殆どが輸入品です。物価は廉いとは言えませんが、さすがスーパー・マーケットではミネラルウーターはホテルのミニ・バーの二十分の一の値段でした。ゴールド・スークにも立ち寄ってみました。金製品の店が軒を並べています。店員達の大部分は商売の巧いインド人です。  こちらの金製品はすべてキンキラキンの24金,凄くしつこく輝いて見えます。確かに価格の点では免税ゆえにお値打ちものかもしれませんが、日本で身に着けると周囲から浮かび上がって関西では「あのおばはんなんじゃい。派手派手しいかっこしよって」関東では「ご趣味が一寸ね。ほほほ」と言われかねません。帰途のタクシー代はまた1500円、定年後、日本では勿論、物価の廉い東南アジアでもなるべくタクシーに乗らぬことを信条としている僕としては血の気の下がる値段です。口惜しさのあまり血の気の下がった分だけ血の汗を大量にはらはらと流した僕はついに脱水状態に陥り、最早さぞや高かろう勘定も忘れてホテルにつくなりラウンジに飛び込みお茶することにしました。「お茶は何になさいますか。ダージリン?セイロン?」ウエイトレスはなんとセイロンから来たそうです。セイロンのホテル学校の卒業生で、Rの発音の強いインド英語とは違い綺麗な英語を喋ります。今セイロンは、内戦の影響で観光客が減少し、ホテルはがらがららしく、景気の悪いせいでしょう。彼女の義兄は日本人だそうです。世界も広くなったものです。紅茶も菓子も流石流石という感じの味でした。
 彼女の話ではこのホテルできびきびと働いている白シャツ,白半ズボンのポーター達はバリ島出身とのことでした。世界で有名な観光地バリよりも、よほどこちらの方が実入りがよいに違いありません。そういえばタクシーの運転手もすべて異邦からの出稼人でした。蟻の甘きに集まるが如く、人は金のある所に集まるものです。
 夜お上りさんよろしく、予約したダウ船デナー・クルーズに参加しました。ダウ船とは、大型 輸送船が出来る前には、遥かインド,アフリカまで交易に従事した帆かけ舟のことです。荷物を多量に積めるように幅の広い達磨船です。デイナーは予想ど売り不味かったのですが、昼間と違い温度の下がった夜風のもと、ビール片手にほろよい加減で昼間歩いた両岸沿いのイルミネートしたビルを眺めながらクリークを周遊するクルーズは結構楽しい旅路の一駒ででたした。不思議なことに日本人は一人も見かけませんでした。
 翌日は夕方発のこのツアーに含まれているデザート・サファリに出掛けました。ドバイ市外に出るとすぐ沙漠の中の一本道となり、振り返ると一握りのドバイの高層建築物が沙漠の彼方に見る見る遠ざかっていきます。まさに蜃気楼的というか砂上の楼閣という形容がぴったりな光景でした。
 舗装道路を外れて沙漠内のラフ・ロードに入るとドライバーが4WD車の全てのタイヤの空気を思いきり抜きます。砂上でスタックしないためだそうです。一寸走って、キャメル・マーケットに赴きました。ワッサワッサと駱駝の居る囲いもあれば、2、3頭が放し飼いにされいている所もあります。こわごわ放し飼いの駱駝に触ってみたが、エジブトの駱駝のように唾を引っ掛けられることもなく、わりとと人懐っこい感じでした。大人しい奴を観光客用に放してあるのかも知れません。運送のため駱駝が車に乗せられていましたが、前後の脚を窮屈に折り畳まされて縛り付けられ、あまりらくだと喜んでいる風でもありませんでした。広場の中にポツンと立っている樹の陰下では、何をするでもなく7、8人のおっさんがいつまでも身動きするでもなく寝転がっています。
 キャメル・マーケットを過ぎてしばらく行くと,今まではちょぼちょぼと生えていた潅木が次第に減少し、風に吹かれて出来たのか,視界一面風紋つきの砂山あり,谷ありの起伏の激しい地域に到着しました。ドライバーが全員にシートベルトを締めさすと,急斜面を砂塵を巻き上げて登ったり、下ったり,縦横無尽に駆け巡り始めました。居合わせた他車のドライバーの中にはあまり急な傾斜は避けて,ゆっくり走らす下手糞もいましたが,吾が達人の域に達するドライバーは物凄いスピードで転げ落ちるように谷底目掛けて突っ込むかと思うと、その勢いでまた対面の山を駆け上る、斜面で急ターンを繰り返すというように、ルーフまで砂を巻き上げて充分に沙漠のドライビングを堪能させてくれました。丁度よいタイミングに、というよりはツアー会社がタイミングを合わせるべくセットしたのでしょうが、真っ赤な夕陽が沙漠の果てに落ちかかる風景を堪能する事が出来ました。まさに冒頭の「アラビアの唄」通りの光景です。 そういえば学生時代山岳部にいた頃、星空の下山の冷気を背に受けてキャンプ・ファイヤーを囲みながらこの唄を「ザバグにサ陽サおジデ,夜サなるゴロ」と東北弁訛りにして歌ったこともありました。合間に小便に立って、明日登る黒々とした岸壁を仰ぐと膀胱が空になったせいか、期待と興奮のせいか、ブルブルと武者震いしたこともありました。まだ戦後間も無くで物資不足、山に担いで行く食料にも事欠いた時代でした。今は手が届かぬほど高価となりましたが、当時は肉類で一番廉かった鯨のベーコンが主な淡白資源でした。その頃まさかアラビアで夕陽を見る機会が自分の人生にあるとは夢にも思わなかったことです。すべて二度と帰れぬ青春の夢のあとなのです。
 その後薄暗くなった砂漠の凹地にポツンとあるキャンプサイトでバーベキュウをご馳走になり、ベリーダンスを堪能して帰路につきました。
 第3日目はアル・アイン・ツアーです。
 アル・アインはこの国の内陸部にあるオマーンに接したオアシスの街の名です。市内を出るとイスラム教徒、キリスト教徒それぞれの墓地が並び、その後は延々と沙漠の中の直線道路を走ること数時間、棗椰子の緑と、土色の城壁とのコントラストの美しいアル・アインの到着しました。この街はアラブ首長国連邦とオーマンに跨った街ですが、国境線を表示するらしきものは何もなく、人々は自由に行き来できるのです。オアシスと言って見せられたものは、へーこれがオアシス?と首を傾げるような道路端の狭い土溝の中に水が流れいる場所でした。 しかし、地下には大水脈があって、あちこちに別れて噴出しているのかも知れません。
 最終日である4日目にはまた街に出て買い物をし、00:05発の香港行の乗るため真夜中の空港に到着しました。当空港は、1000人に一人高級車の当たる籤が1枚100ドルで売っており真夜中でも営業していました。1000人に1人の当たり率はは宝くじに較べるとかなり率がよろしい。アラーの神様が人生の終りに近くなった僕にに一度はベンツなり、ポルシェなりの高級車に乗る機会をお与え下さるかも知れぬと、おのれの運が博打と女にはついていないのを知りつつ1枚買ってみました。運はアラーの神も換えられぬものと見えて、3ヶ月後にはずれの葉書がはるばる郵送されてきたものです。
 アラーの神は偉大じゃないぞ!



夢去りぬ!はずれの通知