ラフレシア

 マーレシア訪問は学会出張を入れて四度目、ボルネオは二度目の訪問である。ガキの頃、南 洋一郎の、猛獣大蛇の棲むボルネオらしき所を舞台にした血沸き肉躍るジャングル冒険小説を読み、また田川水泡の漫画、磯辺の小船でうたた寝している間に波に乗って南洋に漂着、現在の横田めぐみさんの夫と称する男と同じような?運命を辿って、ついには土人の酋長になったという「冒険ダン吉」の影響もあり、南洋には一方ならぬ憧れが続いているからに違いない。
 今回は娘を連れての旅である。パンツ一つで寝るいつもの旅と違ってパジャマ持参であった。関空から5時間少々、頂に雲を被ったキナバル山に一寸御挨拶してコタ・キナバル空港に到着した。マーレシア航空を利用したが、フライトアテンダントの女性は華人、男性はマーレシア人だが、主導権を握っているのは女性のほうである。これはマーレシア特有のプミプトラ政策−プラミトラとは土地っ子の意味で、大学入学や就職に際し、より優れた能力を持つことの多い華人その他外来系民族より、マレー人その他原住民に優先権を与える政策−により、女性は実力で、男性はこの政策のお陰で入社出来たとのではないかと疑われても仕方があるまい。現地人の言葉でコタとは街、キナバルとは魂が宿る山との意味だそうだ。サバ州の州旗にもキナバル山が描かれている。
 コタ・キナバルの街は昨日の8月31日が独立記念日だったので、建物にも車にも基本的にはアメリカの国旗とそっくりなマーレシア国旗とサバ州旗が飾り立てられていた。国旗を真似たアメリカと同様、多民族で構成されるこの国では、国旗を中心として各民族に愛国心を起こさせる教育をしているに違いない。日本も自領の主権が侵され、いつミサイルが飛んでくるかも知れない今日、日の丸の赤は血の色などと言う馬鹿な奴もいて、愛国心と言う言葉にさえもアレルギーをおこすようなお国柄から脱し、せめて自分の国は自分で守るという精神ぐらいは日本の全国民に持たすべきであろう。日の丸は太陽を表すか、あかきこころ(赤心)を表すと教えて悪い理由はない。赤丸が血の色ならば共産主義国のシンボルであった赤旗と描かれたハンマーと鎌は、ソ連のコルポーズの解体、中国の農民、工民暴動多発からみて、赤旗は労働者農民の血涙・膏血の色を表すとどうして言わないのか不思議な話だ。 
 我々の宿泊したホテルのロビーには隣の州の首長が来られるということで赤絨毯が延べられ、民族衣装の男女が歌と踊りでの盛大なお出迎えだった。首長は、そこんじょそこらに転がっている昼寝好きのグータラオジサンとは違い、風格のある威厳に満ちた顔で多分サルタンかその一族と思われた。ちなみにこの国では国王はサルタンの互選で5年毎の交代だそうだ。万世一系を誇り、男系だの女系だので揉め、男子親王の誕生を待ち焦がれた我が国の皇室より、4人まで妻を持て、就任より5年経ち、官庁などに掲げてある国王のカラー写真が丁度色あせる頃、スラマット・ジャラン(さようなら)と王位を交代するこの国の国王はよほど気楽な商売だ。それ故かタイのごとく各家庭にも国王の写真を飾り、国民がこぞって崇敬するというような存在ではないらしい。
 翌日07:30発の飛行機で約40分、サンダカンに飛ぶ。予定と違ってまずセビロックにあるオランータン・リハビリ・センターを訪れる。ここはオランウータンの孤児を集めて飼育し、自然界で自活出来るような訓練を親の代わりに人様が施した後、保護区の森に返す施設である。どのようにして広い原始林の中から孤児猿を拾ってくるのかは聞きもらしたが、考えてみれば相当な難事だろう。名前は忘れたけれども世界で一番硬い木や、あるいは傷つければ血液同様の赤い樹液がでる木の生えている熱帯雨林をブランク・ウオーク、木道を伝って通り抜け、中央の大木の幹に給餌場から10メートル程離れた展望バルコニーに達する。人間とオランウータンの遺伝子は96.4%まで同一であり、人間の病気が感染せぬよう人間とオラウータンとの間には、ある程度の空間距離が必要なのだ。保護区の森では人と猿との接触は勿論、放尿、脱糞、喀痰排泄も厳しく禁じられている。
小猿から成人に近い大猿まで、次々と森の奥からロープを伝って集まって来る。幼いほどオレンジ色で、歳を経るとともに褐色になるそうだ。猿も木から落ちるというが、一匹まだオレンジ色の小猿がロープから転げ落ち、さすが恥かしく思ったのか、餌も取らずそのまま地上を伝って何処かに消えてしまったのは御愛嬌だ。某代議士が「猿は木から落ちても猿だが,代議士は落ちるとタダの人だ」と名言をはいたが、猿は恥を知っているだけ、タダの人となってもまだ威張っている元代議士より余程ましだ。
 リハビリ・センターまでは舗装された片道二車線の立派な道路だったが、この幹線道路から分かれてコマントン洞窟に向かう道はひどい泥濘の悪路となった。コマントン洞窟はツバメの巣を採取するので有名である。巣には白いものと黒味がかったものとがあり、白い燕の巣は純粋の唾液で作られ、採り難いより高所にあるので値段が大幅に異なるそうだ。過去25年間で2人か採取中に縄梯子から滑落して亡くなったとかの話だった。私はもう洞窟入りは前回旅行時のサラワク州のグヌン・ムル国立公園で何度も経験しており、洞窟の床が鳥の糞で一面に厚く覆われ、その上を歩くと滑りやすく、転べば糞まみれの目も当てられぬ姿となり、その上糞臭に辟易した覚えがあるので、車中にて待つことにした。濃緑の熱帯樹林上に広がる紺碧の空に真っ白な入道雲が浮かんでいる大好きな熱帯風景を心行くまで眺めながら時間を潰した。
 洞窟からまた悪路を飛ばしサバ州第一の大河であるキナバタンガン川の船着場に到着、エンジン付のボートで川を下ってスカウ・プロボシス・ロッジに向かった。川に面してシャレーが立ち並んでおり、ボートを利用しない限りトンズラできないロッジである。荷物を下ろし、猿の現れる公算が大である夕刻に再びボートで眼前の大河から狭い支流ムナンゴール川を遡りつつワイルドライフ・アニマル・ウオッチングに出掛けた。この歳になると揺れる小型ボートからの乗り降りが危なっかしくなっているのが情けない。
 天狗猿は蟹食い猿と共に川辺に好んで棲むと言う。目を凝らすとなるほど長い鼻をぶら下げ、もう一つの特徴である内臓脂肪蓄積型のお腹をポコントと突き出した天狗猿が枯木の枝に座ってござるのが見えた。絵本で見ると特徴ある鼻は顔面付着部と末端が細くて、中太り、むしろ鱈子状と形容するのが適当であると思われたが、我々が観察した猿はまだ若造なのか、ガキのチ0コよろしく先細でかつ半立ちであった。しかし、巨大な鼻をぶら下げるには何らかの利点があるに違いないが、象のように鼻から水を飲むわけでもなさそうだ。発情期には充血して、天狗鼻を持たぬ雌猿から、「あら大きくて逞しそうだわ」などと言わたいばかりに伸びたのだろうか。ある一匹は我々のボートが近づくとくるりと背を向け、そのくせ耳を後方の音が聞こえ易いように屹立させていたのは、写真撮影を嫌う小癪な猿だ。また蟹食い猿は自分らが脇役であることを知っていて、せめての見せ場を作ろうと敏捷に枝から枝へと飛び移る動きを見せてくれた。その他白い角の犀鳥や大蜥蜴も見られた。そろそろ帰途につこうとする頃、突然雷鳴とともに今まで経験したことがない大豆大の大雨が降り出し、川は見る見る増水、レインコートなどは物の役にもたたず、船内水浸しとなり、何もかもびしょ濡れで、命からがらロッジまで逃げ帰ったことであった。お陰で愛用のニコン・イオス5のボデーを一台オシャカにしてしまったが、時には天狗猿が全く姿を見せない日もあるようで、まあ、彼等を間近かに見られて写真が撮れただけ幸せと思うことにした。
 翌日は、その日の予定にしてあったオランウータンを昨日見てしまったので一日サンダカン市内見物に当てられた。サンダカンと言えば、山崎朋子の「サンダカン八番娼舘」の遊女達の舞台だ。「鬼池の久助のつれんこらるばい」と女衒久助の甘言に乗せられて連れ去られた娘達は島原の子守唄にあるように貧しい島原や五島列島から、
  姉しゃんなどけいたろうか
  青煙突のバッタンフル
  唐はどこんねき
  海のはてばよしょうかいな
とこんなに遠い南冥の海を隔てた異国の果てまで親の前借のかたに女郎に売られて遊郭で働かざるを得なかった古き時代が日本にあったのである。現代の身勝手な援交娘などとは全く違い、貧乏な親の為に身を売ってでも孝行しようという娘がいたのだ。この地で望郷の念にかられながらも一生を終わった薄幸な彼女達のお墓には、戦時中の苦労があったとはいえ、戦後の日本経済急生長期に恵まれて育った私としては是非お参りして菩提を弔いたいと出国前から考えていた。ガイドに頼むと日本人の墓の場所は知っていると言う。早速車を飛ばして市外の山道にかかり、車を降りると二つの山の中腹に広大な華人の墓地があった。遊女の墓はその上の稜線近くに祖国に背を向けて並んでいるとガイドブックには記されている。左方の山の華人墓地を上ると、日本人墓地と赤字で書かれた鉄製の門が見つかった。ここぞとばかり中に入ってみると、無縁法界の霊と刻みこまれた石塔を中心に数基の墓が並んでいた。ただしこれらの墓は海難の船長の墓だの何だのと比較的新しい大正以後の墓ばかりで苔むした遊女の墓は見当たらぬ。娘を背後の稜線まで偵察に出したが、墓らしい物は無かったとの報告である。1970年代の記録に遊女の墓は最早倒壊したものが多かったとあり草に埋もれてしまったかも知れず、また無縁法界の霊塔に改葬されたことも考えられた。あるいは日本人墓地からみて反対側の山にある華人墓地の上方にある可能性も捨てきれなかったが、ひどい暑気と湿気の中に薮蚊の攻撃に悩まされたあと、ここから一端麓まで降りてもう一度隣の山の稜線まで上る元気はとても七十過ぎの老人には残っておらず、とうとう諦め、無縁法界の霊の前で手を合わせることで折合をつけ、心を残しながら引き上げたことだった。その後市場や華人がその財力を誇示するべく建てられたのか、なんとも壮大にして華麗な港の見える丘のプー・ジー・シ寺などをぶらついて時間を潰し20:00の航空機でコタ・キナバルに帰った。
 後の二日は自由行動だ。このホテルの朝食ブッフェの中華粥は美味い。自由行動の初日は植民地時代パーム・オイル採取の為の椰子園経営者とその従業員並びに椰子油を運ぶ目的で敷設されたサバ州鉄道の後身である北ボルネオ鉄道に乗車することにした。薪を燃料とする時代物の蒸気機関車に牽かれた観光列車がステソンパパール駅まで走っているのだ。乗務員はヘルメットにショートパンツ、ハイソックスと植民地当時の椰子や護謨園労務監督の服装である。機関車は乗客へとサービスと思うのか、すぐ近くに人家があるにもかかわらずやたらと汽笛を鳴らし続ける。日本なら騒音で訴えられるところだ。約片道2時間、原始林や椰子園、渓谷、マングローブの生える沼地ありで移り変わりの多い風景を結構楽しむことが出来た。ただし、帰路に出たインドの労働者が使う三段重ねのブリキ缶に入った弁当は不味かった。
 次の日はキナバル山の登山ゲートまで行くツアーに参加した。途中戦時中日本軍が開発したポーリン温泉に立寄る。ポーリンとはこの地方に生える竹のことだ。大小いくつも型の違うタイル張りの湯槽が露天に数多く並んでいて、空いている風呂に自分でお湯を入れて入浴する仕組みだ。源泉は手を入れられない程熱く、美しい淡草色をしていた。イスラムの国だけあって、子供は別として入浴している婦人は見当たらず、彼女らは足湯に漬かるだけで満足していたようだ。
 ここでガイドが情報を仕入れたのか、ラフレシアの花が見られるから立寄るかと言う。世界最大の大きさを誇るこの花は、植物採集に熱中していた小学校時代の私にとって一生のうちに一度でもこの目で見たいものだという憧れの花であり、是も非も無く賛成した。ポーリン温泉から少し車でとばした道端に机を出してオバハンが座っており、一人一人サインをさせて20リギットを徴収していた。どうやら彼女か、彼女のボス家族の敷地内にあるらしい。道路から10分の距離と言う話だったが、案内の子供に付いて行くと、水牛のいる糞だらけの牧場を横切り、鉄条網に両側から桟の付いた板を立て掛けた即席歩道橋を3ヶ所通り抜け、足場の悪い山道を登り下りしてまさに「野を超え山を越え」約30分掛かって、ようやく密林の短い下草の間に開花したラフレシアを見ることができた。周囲はロープが張り巡らされ立入り禁止である。茎もなければ葉もなく、発疹状ぶつぶつのある大きな肉厚の五つの花弁が、深い壷型の花芯を囲んで咲いていた。どうやら後で調べたところRaffresia keithiiと言う種類らしい。美しいというよりは陰気な薄気味悪い花で、花らしい華がない。虫を惹きつける為腐臭がすると百科事典に書いてあったが、私には臭いは感じられなかった。ある種のブドウカズラの根に寄生する植物であるので、周囲には二、三の蕾が見られた。蕾から開花までは9ヶ月も掛かり、開花すると3、4日で枯れるという。その為満開の花は滅多と見られず、当地でも幻の花と呼ばれ、花の情報を知らせるラフレシア・インフォメーション・センターさえ設けられている程で、当地といえどもあっちこっちに咲乱れていている訳ではない。見物客が次から次にとやって来る。土地所有者は坊主丸儲け、うけにいっているに違いない。
 それからキナバル山の中腹にあり、登山基地でもある公園本部に立寄り、トレッキングに参加する連中と判れて、自然歴史ギャラリーを見学、7時過ぎにホテルに帰着した。
我々の泊まったステラ・ハーバ・リゾート&スパは広大な敷地にゴルフ場やマリーナを持つ豪華なホテルで、ホテル内の中華料理店「シルガーデン」は舌を巻く美味さであった。街の水槽の生魚を指差して、好きなように料理させ店なぞ高い値段を取るだけで問題にならぬ味だ。後で聴いたことだが、昨年マーレシアでベスト・レストランの評価を取ったとのことで、むべなるかなと思ったことだ。
 マハティール前首相が日本を見習えと「ルック・イースト」をその昔提唱されたが、最近来日し、若者の茶髪でだらしない態度、服装を見て、「ルック・イースト」もーやめたと言われたとの情け無い話がある。しかし、大部分の日本人はまだ勤勉という美徳を失ってはいない。マレー人は熱帯性気候の下で育った故か一般的に見てどこかのんびりとしていて勤務に対しても責任感が希薄と言える。百貨店や、レストランでも、従業員同士がペチャクチャと喋べって顧客に対する気配りが足りないことが多い。やはり彼等にとっては、資本主義経済の下、時間に縛られて目一杯働かされるよりも昔のように自給自足できる程度の農業を営み、昼寝を楽しみ、腹が減れば近くの木からバナナでももぎ取って暮らす昔の生活の方が向いているのかも知れぬ。このことは帰路我々がコタ・キナバル空港のマーレシア人が座っていたチエックイン・カウンターで航空券をボーディングカードと引き換える際、国内線から乗り継ぎできぬ間違ったフライトが記入された国際線のボーディングカードを渡され、預け入れ荷物の何処かで気がついたのか、我々の名前が放送されて、正しいボーディングカードと交換してくれて事無きを得たが、その失策を謝りもせず、同僚と話ながら手渡すなどしたり、私の荷物が成田に運ばれりしたことを見ても相当に問題があることは確かであろう。そのような間違いは今までの何十回にも及ぶ乗り継ぎでも一度も経験したことが無く、乗り継ぎの国際線ボーディングカードの確認を怠った当方にも落ち度があるものの、一考を要する話ではあるまいか。




人生の旅路も終わりに近い