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つれづれなるままにパソコンを叩き、カラコルム・ハイウエイを北上、フンザをはじめとするインダス河上流の渓谷村を訪ね、最後にカイバル峠を覗くと言う好みぴったりのツアーが目に止まった。いずれもかねてから行きたいと思っていた場所ばかり、相当な強行軍の日程とは理解していたものの、老い先短く日に日に足腰の弱りを感じる今日この頃、このような陳腐極まりない形容を使うと自体が老いの証拠だが、小膝叩いてにっこり笑い、早速参加を申し込んだことだった。
出発当日関空でツアーの顔触れを見るとあのような山間僻地訪問だというのになんと男性は3人、女性6人とは意外であった。皆個人参加である。いずれも姥桜、梅干爺と呼ぶに相応しい年齢だ。そうではないとご自身自信のある方にはゴメンなさい。ただ、「えー歳こいて」外務省より注意情報が出ているパキスタンの片隅まで出掛けようという海千山千のつわものばかりとお見受けした。添乗員Tさんのみが若く、旧い形容を使えば明眸皓歯、なにも世話の焼ける我侭なツアー客の面倒など見なくても、街で男性から面倒を見てもらう方がおよろしい女性と見た。気配りを感じたのは、ツアー客の機内での席の取り方で、すべて通路側席を確保してくれていた。これはおじんの前立腺肥大症による頻尿、おばんの骨盤内筋肉の緩みに寄るお漏らしを配慮してのことだと感心したが、ホンネは客を窓側席に座らせた場合、騒音の機中では彼女が通路側の客二人越しに身を乗り出して会話をせねばならず、それでなくても地上より低い気圧の機内で豊胸が通路側客の顔面をモロに圧迫、窒息させる可能性を恐れての処置とも考えられる。
いずれにせよパキスタン航空の機内でさえアルコール・サービスのないドライ・カントリーに出掛けるので、たとえバンコック経由とはいえ食後のコニャック・サービスまであるタイ航空を選んでくれた旅行会社に呑み助としては感謝したい。バンコックの空港内でのトムヤンクンは袋茸が沢山入っており、結構なお味でした。
今回の旅全般に付いて記すとあまりにも冗長になるので、カラコルム・ハイウエイ、フンザそしてカイバル峠のみに就いて記す。
カラコルム・ハイウエイ
カラコルム・ハイウエイと近代的な名前でも、土地柄からみて中央分離帯があり、すいすいと走れるアスファルト舗装路を期待していた訳ではない。このハイウエイのハイは高所のハイで、従来のハイウエイの意味ではないとの現地ガイドの説明が容易に腑に落ちた。
地滑り、崖崩れの場所も数知れず、その修理も辛うじて車が通れる程度に岩石が除去されていれば万々歳、山側からの雪解け水は場所によっては滝となって頭上より降り注ぎ道路上を遠慮会釈もなく流れ、路肩崩れなどの危険場所は物の数ではない。この道路は中国とパキスタン両政府、と言うよりも双方の軍の力で造られ、国境の4834米のクンジェラブ峠を越えてイスラマバードと西域カシュガルを結び十年以上の月日を掛けて1978年に完成した。中国と印度は敵対関係、印度とパキスタンも敵対関係なので、中国は敵の敵は味方との論理からの尽力かも知れぬ。特にパキスタン側の地形はヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークシ ュと、世界の屋根的三大山脈の末端が三つ巴に入り組んだ場所であり、インダス河沿いに草木も禄に生えぬ峨々たる岩山の中腹をトンネルや橋を掛けることもなく、ただひたすら忠実に山襞を辿って造成されており、相当な難工事であったらしい。工事中の死者数についても中国側は正式の発表はしておらず、諸説紛々、千名に近いとの説もあり、1キロにつき一人が死亡していると言うのがもっぱらの噂であった。道路端のあちこちにある小さな慰霊碑がこの事実を裏付けている。見上げれば今にも崩れ落ちんばかりの突出した大小の露岩が絶壁の随所に引っかかっており、絶えず岩雪崩を起こす恐れのあるガレ場は道路を横切って数知れず存在している。見下ろせばインダス川が数百メートルはある崖下を滔々と流れている。当然事故も多く日本の某テレビ取材班の車が河床まで転落、ニ名が死亡されたと聞く。交通量も相当な量で、狭い二車線の道をスピードも落すでもなく至近距離で擦れ違う。追い越しは警笛を鳴らして先行車を道路端ぎりぎりまで寄せさせて擦り抜くのだが、このルールは相互了解事項らしくスムースに行われている。我々のツアーの催行は西遊旅行社だが、これは西方浄土旅行社の間違いではないかと肝を冷やすことの多い危険な道であった。ただしさすが辺境に強い会社だけあってご指名の運転手は安全を旨としてラヂオもテープも聴かず真面目に運転してくれた。しかし運転開始後八日目、レストランで食事中に彼の義姉が出産時不幸にも亡くなったとの急報が届くや、顔面蒼白、見るも気の毒なほどの気落の様子であった。やむを得ず運転手交代となったが、この国では金よりも、家族愛、隣人愛、それとコネが生き甲斐であると言う彼らの社会を裏から垣間見られた気がした。
またパキスタンのトラックは運転席上部に大きく前方にせり出した神輿風装飾をこれ見よがしに積み上げ、車体のあらゆる部位にサイケデリックな模様が隙間もなく描かれている。これがご当地トラック野朗の見栄らしい。とてつもない大金を掛けているそうだ。運転席内も造花やらなにやらで所狭しとばかり飾られ、事故を起こせばそのまま棺桶として使用可、埋葬可と言う程立派である。所変われば品変わるで無駄な趣味もあるものだ。あのような悪路を走っていれば「命を掛けた男伊達」との心意気の表徴であるかも知れぬ。
我々はイスラマバードからかなり北上したぺシャムを朝7時に出発しハイウエイに乗ったのだが、フンザのカリマバードに到着したのは、とっぷりと日の暮れた10時過ぎであった。しかし同じ旅行社が我々のツアーとほぼ前後して催行した他のツアー二本は崖崩れのため通行止をくらい、途中泊となり、肝心のフンザに三泊滞在予定が二泊と短縮されたのをみても、我々は幸運であったのだ。
帰路に砂嵐に遭遇した。ガイドの説明によれば対岸の砂州の微細な砂が上昇風によって岩壁を這い登り、上空で向きを変えてこちら側の岩壁を伝って吹き下ろすという不思議なメカニスムによるそうで、こちら側の岩壁からその砂がさらさらと道路に間断なく滑り落ち、すべてが褐色、視野が全く利かない状態となった。その上一台のトラックが故障して路を塞ぎ砂嵐が収まらぬ限り修理も出来ぬと言う。また引き返しか野宿かと心配したが、二時間と少しで砂嵐が収まり無事道は再開した。
時間をかけてインダス川フンザ川沿いに延々と続く危険なハイウエイを四輪駆動車で揺られながら駆け抜けることは苦痛と言えば苦痛だが、単なる目的地への空間移動とは考えず、パキスタン北部を知る醍醐味ある前奏曲と思えばまた愉しの心境となる。この道ではナンガパルパット(8126米)の勇姿が拝めた。吊り尾根のあるどっしりとした山容であった。この辺りでは7000米以下の山々は名前すら付けて貰えぬ雑魚扱いの哀れな存在でしかないのだ。
フンザ
フンザには常に桃源境、或いはShangri-Laと言う形容と共に記される。桃源郷とは陶潜の「秦の乱を避けた者の子孫が住む世間を離れた別天地」との桃源郷記から、Shangri-laはJ.HiltonのLost Horizonsの「歳をとらぬ人が住む平和境」に由来する。
十時間を越える危険な路を通り疲労困憊、闇夜のカリマバードのとばくちにある宿泊地フンザ・バルチット・インに辿りつき、夕食もそこそこにベッドに倒れこんだのだが、翌朝窓のカーテンを開くと青空の下、褐色の大岩壁が眼前に飛び込み、岩壁の前には杏が花盛り、その後には白雪の山々が輝いているではないか。写真で見たレディス・フィンガーと呼ばれる名前通り繊細な岩峰の先端には霧が巻いている。地獄道を通ってからこそ極楽地に到着出来たのだ。
ジハードで殉死したムスリムは緑の木が茂り澄切った水が流れ、食い放題、薄物を纏い何度セックスしてもすぐ処女に戻る美しい娘がぞろぞろといる極楽に行けると信じていると何かの本で読んだ記憶がある。砂漠で生活しているアラブ民族が望んで止まぬ夢の場所なのだ。フンザ娘が処女再生術を心得ているかどうかは知らず、緑の木と清冽な水に満たされ、飢えることもないフンザは彼らの天国の条件にかなり合致する。外部から隔絶された地でストレスも少なく、果物、野菜、小麦それに山羊の乳製品を主とする自家製自然食物を摂取していれば百歳を超える長寿者も多いのも頷かれる。彼らが自覚しているか否かは知らず、耕す畑すら殆どない山岳地域で生活する他のパキスタン人に較べれば桃源郷での生活と言っても過言ではあるまい。観光客にとっては長い荒涼たる道を辿った後、ラカボシ(7788米)はじめ磑々たる雪山に囲まれながら、杏の花が咲き乱れる渓谷が忽然と眼前に展開すれば誰しもがこれこそ桃源郷と感じるに違いない。春には杏、李(すもも)、桃、林檎、桜などが少しずつ満開の時期をずらし、花もまた白、ピンクなど少しずつ色をずらしながら次々と咲いていくのだ。秋にはポプラの黄葉が美しいと聞く。しかし、文字通り「桃李物言はざれども下、自ら蹊を成す」場所であっては、現在の上高地状態となるのも遠い将来ではあるまい。夜はあまりにも冷えるので熊、兎、コアラなど可愛らしい動物をかたどった袋に入れられた湯たんぽをベッドに入れてくれた。湯たんぽは見ぬこと久しの品である。
翌日午前中にジープに分乗して、1991年フンザから入山しウルタルU峰(7388
米)で雪崩のため遭難死された長谷川恒男さんの妻が建てられたハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールの朝礼を見学する。遭難時に現地の住民が親身に世話をやいてくれたお礼として、亡き長谷川さんの友人達の援助があったとは言え、生活の糧をもたらす夫を失った未亡人のなまじっかに実行出来るアイデアではない。制服を着用した先生と生徒は規律正しく整列し、私語を交わす者もいない。厳かに国旗と校旗が掲揚される。遠い雪山を背後にて両旗が冷たい朝風に翻った。この学校のパブリックとは公立の意味ではない。旧宗主国英国のイートン校のような格の高い規律ある私立校を意味するパブリック・スクールなのだ。私立のため、200ルピー程の月謝を払わねばならず、日本では狭い村での較差社会の始まりと騒ぐかも知れぬ。フンザの人間は田舎に珍しく人見知りしない性質なのだが、このスクール設立以来特に日本人に好意的となったそうで、あちこちでジャポネかと話し掛けられた。アレキサンダー大王の末裔を自称しているだけありフンザの子供達の中には碧眼や金髪など白人系の顔を持つものもかなり見かける。しかし年齢の増加とともにフツーの印度系の顔貌に自然と移行していく人が多いようである。また近親結婚、主として従姉妹結婚が多いとの話だったがdisableの子供を見掛けることは少なかった。ちなみに現在パキスタンでは小学生の教育が義務とされているのはパンジャブ州のみであり、特に女子の就学修率は極めて低い。
再びジープを駆ってフンザ川の対岸にあるナガール村を通ってホーバル氷河を訪れる。杏の花咲く桃源郷のすぐ間近まで氷河の舌端が迫っているのだ。
遠い昔はフンザとナガールは一つの王国であったが、生れつき仲の悪い双子王子の相剋の結果、二つの王国に分離したとの伝説が残っている。醜い骨肉の争いは桃源郷にもあったのだ。
午後、岩山の上にある領主(ミール)の住居だったバルチット砦を見学に出掛ける。曲がりくねった道の周囲には確りとした石摘みの段々畑が延々と続いており、各所に植えられた杏の花との見事なハーモニーが素晴らしい。現在畑では馬鈴薯が主に植えられるそうだ。山上のバルチット砦は改築や建て増しを繰り返した所為なのか不正形の窓の少ない暗い部屋がやたらとごちゃごちゃと入り組んでいる。気候の違いや、建築材料の入手困難のためもあろうが、同時代の日本の城に較べてかなり粗末な造りであった。不動産屋の広告ではあるまいし眺望絶佳だけの取柄でこんな前近代的な砦に1945年まで領主ジャマル・カーンが住んでいたとはと驚いた。領主がアラ・モード住居に移転後、砦は荒れるに任せ、殆ど崩壊の危機に瀕していたのをアガ・カーン財団の資金で再建されたそうだ。アガ・カーン一族は世界的な大金持ちの財閥で、何代目かのプレイ・ボーイ息子はハリウッドだかの映画女優と浮名を流した記事を子供の頃昔何かの本で読んだ記憶がある。ませたガキだったなー、あっしは。
イスラム教のこの国では飲酒は禁止されているが、この地方ではムスリム改宗前より果物からワインなどを醸造していた歴史がある。実は私も同じホテルに長期滞在しておられた比較言語学の先生から密造ラクを一本頂戴した。焼酎に近い味でありかなり強烈、ご親切ときついアルコールがぐっと胃にしみたことだった。こっちも論文書きも仕事のうちとするので学者の端くれには入るだろうが、かなり世俗的な仕事の医師としては、比較言語学など失礼ながら金にもならぬ仕事を専門としておられる先生には尊敬の羨望の念が深い。
三日目には幸い天候も良く、三時半に起こされてジープに乗ってドウイカル村の小山の上から朝焼けの山々を見に行く。ほんの一寸した登りでも身体のバランスがとれない。あまりにも不安定に見えたのか添乗員のTさんやツアー仲間のMさんが手を貸してくださる。これが昔穂高の滝谷や奥又白、谷川岳の一の倉を我が物顔に登った男の末路かと思うと我ながら情け無い。やはり八十近い年齢の怖さを知った。凍りつく寒さの中でわざわざ運んでくれた熱いチャイのサービスが有り難い。遠い雪山の朝焼けの荘厳さは今も昔と変わらず、変わったのは老いた身の衰えのみであった。モルゲン・ロートに我が身も輝く日は再び来ないのだ。
昼食後、上フンザのグルミット村まで出掛け、スルタンさんのお宅を訪問する。この辺りの家は塀も含めて石と泥で出来ており、入り口のみが木製だ。窓や炊事の煙り出し口が小さいの で薄暗く、内部には囲炉裏のような暖房ならびに炊事施設があり、部屋の場所によって段差が有って高い部分に布団を敷いて寝るらしい。決して不潔な暮しではないが、当家のように訪問客受け入れをしている場合、この換気では一人でも結核に感染すると一家全滅の恐れがある。ご主人は六十五歳で現在五番目の三十歳代の若い奥さんとの間にも二人の子供をもうけている。このあたりの女性は、生まれてから一度も村から出ることも無く、病気に罹り、昔からの民間療法も効かず瀕死の状態となって街の病院に担ぎ込まれる時が、都会を見る初めで終りの人も多いとのことだった。こ の村でも男は男だけ、女は女だけ集まって街角でお喋りしていた。話題は限られているだろうが、多くを見、多くを知ることは決して幸せにつながらぬ。イスラム教徒は印度のヒンズー教徒のような女性のダウリー(持参金)の習慣はなく、逆に男が金を積んで娘を貰うそうだ。現在では複数の妻を持つのは経済的に大変なので、一夫多妻を実行出来るのは相当な金持ちのみ、数も限られているとの話であった。しかも複数の妻を平等に可愛いがらなければアラーの教えに背くので、歳をとればえらいしんどいことでっしゃろなーと羨望と共に同情の念が湧く。
カイバル峠
カイバル峠という名前は私にとって若い時からなにかロマンの響きと持って覚えていた。
スレイマーン山脈は中央アジヤと印度亜大陸との分水嶺であり、カイバル峠はこの山脈の峠と言うよりもむしろ幅広い鞍部と言った感じで、高度も1000米一寸であるため、東洋と西洋とを結ぶ貿易路であったシルク・ロードとしての長い歴史がある。ただし、シルク・ロードとの言葉そのものは1905年にドイツの探検家リヒト・ホーヘンによって名付けられたもので、古い時代からの言葉ではない。
アレキサンダー大王やジンギスカンもこの峠を越えて印度に侵入し、玄奘三蔵もまた
仏教の原点であるサンスクリット語の経文を求めてこの峠を越えて印度に入ったと言われている。ガンダーラ芸術もこの峠あってこその産物だ。考えてみれば金銭欲であれ征服欲であれ、あるいは知識・芸術欲であっても、それぞれ人間の"業"である飽くなき欲望を満たすために紀元前から使われていたのがこの峠なのだ。
カイバル峠のアフガニスタン側からパキスタン側にかけて獰猛をもって知られるパシュウト人が占拠する地域であり、歴代この峠を通過する人々から金銭を巻き上げて生活の糧としてきた。パシュウト人はパトン人とも呼ばれるが、これはヒンドー語でインダス河の西に住む獰猛な人との意味で差別用語でありパシュウト人は使わない。印度を植民地にしていたビクトリア時代の大英帝国も彼らの剽悍さには手を焼き、鉄道は敷設したものの、最後まで力でもって彼らを屈服させるには至らなかった。その二の舞を踏んでいるのが現代でのロシアであったりアメリカである。今のアフガン大統領カルザイはパシュウト人だ。一筋縄でいく人ではない。
現在もカイバル峠を通る一本の幹線道路のみがパキスタン政府の管理下にあり、それから一歩でも外れるとトライバル・エリアと呼ばれるパシュウト人の自治区となって、彼らの族長が彼らの掟に従ってすべてが取り仕切られ解決される。中央政府の権力も法も一切及ばぬ区域である。
外人観光客である我々はペルシャワにあるKhyber
Political Agent's Officeに立寄り峠見学の許可証を取得、カラシニコフを提げたパシュウト人二名を護衛に依頼して峠に向った。彼らは車の外部から目立つ前部窓際に席を占めた。誘拐などの観光客に対する事件を未然に防ぐ生きた通行許可証なのだ。毒をもって毒を制すの知恵だ。護衛の仕事は世襲で、二 人は親子である。子供の方は当年十六歳、十四歳からこの仕事に従事しているという。彼を見て姥桜の声が一瞬うわずった程のきりっとしたハンサムであった。濃い髭が若い彼の性的魅力を引き立てている。ペルシャワ市外の両側に墓地の多い道を少し走ると、広大な緑の敷地を持つ近代的なムスリム大學があり、これに隣接して茶褐色の泥で作った原始的なアフガン難民部落が現れた。パキスタン政府も彼らの取り扱いに苦慮しているらしく、アフガンに帰国する人には100ドルを与えるが、彼らの再入国を防止する為、今まで住んでいた家を即刻取り壊す政策を取っているそうだ。ついでジャムルード村に入りカイバル峠のゲートウエイである砦の石門で写真撮影の休憩をとる。ここから先は指定された場所以外写真撮影は禁止なのだ。
この辺りにはパシュウト人のバザールがある。彼らは昔から銃器を製造、模造する特殊技能があり、なんでもござれ各国各種の銃器を製造している。したがってそれらの銃器や、麻薬その他の密輸品等が容易に手に入る無法地帯である。ゲートを通過すると所々にパシュウト人の集落が見えたが、その中に城とも見紛う広大な土塀をめぐらした一郭もあった。この家は有力者一族が住んでおり、この土塀内にはモスク、学校その他一切の生活施設が揃っているとのことだった。麻薬の密輸その他で儲けた財産は当人も判らぬ程の額だそうだ。
道路に沿って植民地時代莫大な費用を払って敷設されたカイバル鉄道が見え隠れした。パシュウト人による破壊工作を恐れ、ほそぼそと走っていた観光用列車も1985年以来運行を停止している。数多くの確りした石造りのトンネルの出入口は健在だが、線路の一部では基盤部が流出しレールが宙吊りの哀れな姿を晒している場所もあった。
往時は荷を担いだ駱駝が一匹ずつ擦り違えるのが精一杯の狭路だったカブール川の河床には、ソ連の戦車による侵入に備えたコンクリート製テトラコット様の防御装置が数多く残っていた。峠への路はつづら折りのカーブの連続ではあるがカラコルム・ハイウエイに較べると道幅も広く舗装も整備状態も余程良好だ。随所に英国軍の残した見張り所や砦が見えた。やがて観光客の通行が許可された最終地点、ミチニ・チェック・ポイントと呼ばれる尾根上のアフガニスタン側を覗ける展望地に到達した。ここからはアフガニスタンの国境までも近い。アフガニスタン側もまた延々とつづら折りの道路が続いていた。確かにこの峠はこれといった見所もなく、つづら折り道路だけの平凡な風景でしかないが、紀元前からの長い歴史が人を引きつけるのである。この峠を野望に燃えたマケドニアや蒙古の大部隊がどのような軍装で通過したのか、また玄奘三蔵が印度より経文や黄金の仏像その他宝物を大量携えて帰路にもこの峠を利用したとすれば、よくぞパシュウト人に経文はさておき宝物を巻き上げられずに通れたのかと、想像するだけでも夢を果てしな広げることが出来るのだ。
さて、パキスタンは従来から軍部、特に陸軍は政府よりも力が強く、現在のクデータ後の軍事政権は、その意味ではこの国のもっとも自然な政治体制とも言えるらしい。先に記したように道路を造るのも、修復するのも軍の力を借りないと動きが取れぬのが実情である。軍人は給料も良く、本人や家族が病気になったときも軍専用の高度な設備を持つ病院が利用でき、将校になると車や家まで貸与され、退職金も大きいと良いことずくめ、軍に入る希望者も多いが、特に将校になるには厳しい試験と訓練が待ち受けているとのことだ。当分選挙による民主政府の出現は無理な感じがする。
そもそもパキスタンはバングラディッシュと共にムスリムが住む地域であるが故にヒンヅ−教のインドから分離、独立したものであり、スンニ派が大勢を占めている。しかしシーア派、それより分かれたイスマール派もいるため、例によって宗派別の揉めごともあり、道路に警察の検問所があるのもその紛争を防ぐことが主目的であるそうだ。現地の人は名前だけで何派か見当がつくらしい。トルコなどと違って飲酒は厳禁、コーランの教えはより厳格に守られている。バザールなどでも、特に我々が訪れた金曜日は、お祈りの時間が来るとさっさと店を片付けてモスクでの礼拝に出席していた。
ムスリムは他の宗教の信者よりも厳格に日常生活が規制されているのに、現在ムスリム間での宗派の違いによって殺し合いをすることは流石のアッラーもモハメッドも考え及ばぬ事態であり、コーランにもそれに関する規定がないためかも知れぬ。
今回の旅行でもシャンカルダール大塔はじめ多くの仏教遺跡を訪ねた。仏教の生まれたインドで何故仏教がかくも衰退したかは不思議な話だ。勿論領主の改宗などの政治或いは経済がらみもあろうが、やはり平等を説く仏陀の教えが印度の骨がらみ宿痾であるカースト制度と馴染まず、またあまりにも現世の生活が苦しいために次の世が期待できる輪廻転生を信じなければ生きる甲斐もなく、悟りなどと言う悟った人のみしか理解出来ぬ境地を求める仏教は、彼らの救いとはならなかったのではないかと思う。素人考えながら印度亜大陸を旅する度に感じたことである。
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