突然早稲田のオーケストラ部のドイツ、オーストリアへの演奏旅行に医師として付添って行かないかという話が舞い込んできた。予定していたM医師が体調不良で代わってくれぬかとの話だ。中央ヨーロッパの冬の寒さは相当厳しいと聞いているし、殆ど甲状腺以外の病気を診たことがない医師に勤まるかのと、一瞬躊躇したものの、往復ビスネスクラス、日当附きとのおいしい話なので、お受けすることにした。慶応と早稲田は昔からの好敵手という長い長い因縁もあるが、我家の個人的なことながら、慶応出身で昔デビスカップ選手だった親父の葬儀には、慶応のレッドアンドブルーの塾旗とともに、早稲田の海老茶の校旗が葬儀に並んだことを思い出したからだ。慶応庭球部時代には、早稲田の福田雅之助選手などと切磋琢磨し、彼は死ぬまで早稲田に特別の近親感を抱いていた。戦後のデ杯戦でも、早稲田の加茂と慶応の高山両選手を率いての監督であった。慶応には人の倍くらい授業料を払った筈だから当然としても早稲田が校旗を掲げて遠い岡山での葬儀に参列して下さったことは、泉下の親父にとってはまたとない喜びであり供養となったに違いないと感謝していたからである。
 私もホモファルブスからホモルーデンスに変身して10年、またヒンズー教の人生を四期に別ける考えからも最終の遊行期にあたる時期であり、いまや旅こそが人生なのだ。幼児期から中耳炎をしばしば患い、その上ダイビングで潜るたびに中耳炎が再発する厄介な耳を持っていたため聴覚が鈍いこともあり、音楽に対して何の知識もないのが心配だった。知っている音楽と言えば、はとぽっぽ、ラバウル小唄、若き血、安曇節、芸者ワルツぐらいなもので、カラオケですら唄ったことがない。オーケストラの生演奏を聴くなどは高嶺の花か、ハルウララの優勝だ。
 オーケストラの語源がギリシャ語由来で、Oestereich、ローマ時代の円形劇場でオペラ上演の際、舞台の前方にあたる部分を意味するとは帰宅後畏友K先生から伺ってはじめて知ったぐらいである。ただし、これは音楽の本質になんら関係ない知識だが。
2月15日
 成田発なので、前日から早稲田キャンパスに近いリーガロイヤルホテルに泊まる。翌朝キャンパス内のバス待ち合わせ場所に行くと、大勢の受験生の姿が見られた。彼等にとっては自分達の憧れの大學に入学し、どのようなサークルかは詳らかではないにしても楽しげに何処かにバスに乗って出掛ける団員の姿は、羨望の的に写ったことだろう。兵役が無くなった現在、受験が若者を鍛える唯一のチャンスなのだ。走りっこでもお手々繋いでご一緒にゴールインなどという日教組的教育では、甘くはない人生を送れぬことを今彼等は身をもって経験しているのだ。
 今回のツアーは役1ヶ月の予定で総勢180人余の大所帯で、医療関係者は3人、10日毎の交代である。
 手違いでビスネスが取れなかったとやらで、エコノミークラスの席だったが、早稲田大學西原元総長や、終身名誉会員の田中指揮者も学生と一緒にエコノミークラスの乗っておられるのに、刺身のつまもどきの付添医師がビスネスクラスに一人乗るのは僭越の沙汰、こちらも尻が落着かぬ。帰国までずっと面倒を見てくれることとなったTさんが隣に坐ってくれた。そろそろ前立腺肥大傾向にあるので、通路側に坐らせてもらい、ご用の際はいつでもご遠慮なくと彼女に予め念を押したが、彼女は10時間を越える搭乗中、一度も席を立つことがなかった。最近は日本女性のエチケットも膀胱も欧米人並みになったとみえる。
 13時30分、JAL407便は定刻に成田を出発した。Tさんと話をしたり、テレビゲームの麻雀で遊んだりして、結構楽しく時間を過ごすことが出来た。Tさんとは出発前の打ち合せの時、顔を合わせたことがあり、その際、僕の酒好きを知ってか、紺の蛇目模様入りの杯に入った日本酒とチョコレートを混ぜ合わせた「酔」という粋なお菓子をプレセントして下さった。
 11時間を越える長旅で、17時40分フランクフルト着。アウトバーンに乗りバスで4時間余を走ってオーバーハーゼンに向う。アウトバーン両側の木々は一葉も残さず、灰色の空に寒々と屹立しており、ヨーロッパの冬の旅を実感させた。オーバーハーゼンは昔炭坑産業で栄えたそうだが、今や無名の小都市で、街にも英語の看板はマックドナルドとバーガーキングとアメリカ資本のファーストフード店のみ、街のレストランにも英語のメニューは置かれていない。宿泊したNHオーバーハーゼンは機能的なビスネスホテル風だったが、日本円のユーロへの両替が不可能だった。観光客のよりつかない街らしい。着後2時間を診察時間と指定されていたが幸いにも受診者なし。
2月16日
 今日1日、団員は休養日でフリーだ。
 診療時間は15時より18時までなので、午前中数人の団員と共にケルンに出掛ける。途中乗換えを含めて約40分程で、ケルン着。ドームへの出口の庇を越えた瞬間、まさに天に沖する157メートルの大聖堂が眼前に現れた。聖堂内のステンドグラスが素晴らしい。団員達はドームの頂上まで階段を上るというので、老人は遠慮して、ローマのコロニアル時代の遺跡に腰をかけて待つ。どこかからか教会の鐘の音が鳴った。帰後の診療時間中風邪症状の受診者1名があったのみ。
2月17日
 風邪症状で受診するものが2、3名いたが、昨日のケルン参りで引き込んだらしい。なるべく風邪そのものには効かぬ抗生物質は使用せぬ方針でPL顆粒のみを投与した。金管楽器の団員の場合、咽頭炎などを併発すると演奏に差支えるのではと少々心配になる。団員はホテルに隣接するルイゼアルバートハーレでリハーサルを開始。昼食はホテルでパルマ産の生ハム。これは美味かった。
2月18日
 午前中に市長出席のレセプションがあった。市長は女性で酒は出なかった。団員は皆上下黒の背広姿だ。この服装が演奏の場合にも着用する制服らしい。昼食にホテルでレッド・パーチを注文したが、味も悪く、生焼けで食えたものではなかった。リハーサル終了後19時より出発前から諸事万端お世話をしてくれた4年生のS君を始め、おじん面倒見係その他を引き連れて、近くのレストランで会食する。親爺の遺言にディナーは最低スープ、メインディシュそして、デザートまで摂って始めて完成する。懐加減でデザートをケチらねばならないような店なら、ランクを落とした廉い店でデザートまで取れとあった。「親の教えと茄子の花は、千に一つも無駄がない」そうだが、親の教えは心にも響くが、今夜のように多人数の場合は懐にも響く。酒は地ビールと白ワイン、双方とも廉いので助かった。翌日街に詳しくなった美女団員の案内で銀行まで両替に出掛けた。
2月19日
 今日は渡欧以来初めての演奏会だ。次第に大都市で演奏するので、この小都市での演奏は観客には失礼ながら小手調べというところらしい。観客の殆どはネクタイを締めたセミホーマル姿だった。指揮者はウイン滞在中の早稲田出身の寺岡先生だ。指揮棒一本で箸二本、いや今はナイフとフオークの生活を支えておられるのだからたいしたものだ。客席で聴かせてもらったが、ほぼ満員で、第2部の「荒城の月」と和太鼓の演奏には拍手鳴りやまずの盛況だった。「君が代」と同様、外国で聴く「荒城の月」は、何故か私を涙ぐませるものがある。
2月20日
 オーバーハーゼンに別れを告げてフランクフルト・アム・マインまで2時間あまりをバスで移動した。アム・マインと附けるのは、オーデル河沿いにもう一つ同名の街があるからだ。マイン河は男性で、オーデル河は女性というからドイツ語は面倒だ。ここには若い頃、K銀行に勤務の方と結婚した従兄妹が住んでいて、一度訪問したことがあり、ゲーテの館などを案内して貰ったことがある。あの頃は元気一杯でここからスイスのルッツエルンの友人宅まで、レンタカーのベンツですっ飛ばしたものだった。私と同い年で東大出の秀才だった従兄妹の主人とも今や幽冥境を異にしている。♪昔の元気今いずこ♪である。フルトとは渡河点を意味し、フランク族のマイン河の渡河地点と言う意味だ。交通の便がよいため金融や商業が発達した。ホテルはシュタインベルガー・フランクフルターホーフで、100年以上の歴史を誇るルネッサンス形式の5つ星だ。藝術家に贅沢は必須条件だとの観点からの選択だろう。しかし、団員達は無料の朝食以外ホテルの食堂で姿を見掛けたことはなかった。これではハード満点でもソフトは0点に近い。無理もないことで、115万円とやらの今回のツアー費用を出世払いと言う名目で親からむしり取ってきたともなれば、小使いまで寄越せとは言い難かったに違いない。
 診療時間の合間に近くの三越を覗く。バーゲンセール中でブランド物が廉く、これ幸いと土産物を購う。夜、おじん面倒見掛り達TさんHさん、T君I君とレーマー広場に出陣する。レーマーとはローマ人のという意味で、広場には丸い文銅二つをぶら提げた秤のようなものを持つ正義の女神ユスチツイァの像がある。広場にある市議会の政治が正義に基づいて行なわれるよう監視しているのだそうだ。大阪市もはよ真似しはったらどないですやろ。
 ドイツ風の大きな木組の館内にあるツム・シュヴァエウテン・シュルテン、黒い星と言う妙な名前のレストランで食事の摂る。蛇足だが、この国の木造建築は日本のように心棒を通すのではなく、各階を各々箱状に造りあげて、順次積み上げて組立てる形式だそうだ。地震のないこの国でこそ成立つ構造だろう。寒いのでオニオンスープを皆に薦めたが、フランス風のチーズとパンを浮べたキャセロール入りの舌が焼けるようなスープを期待したが、唯のスープ皿に入った酸っぱいばかりのしろものだった。この国でのスープはしつこく色も味も濃く田舎風だがコンソメの注文が無難なようである。しかし、なんと言ってもドイツでは街頭の小店でパンに挟んで芥子をたっぷり利かせたワイスウルスト、白ソ−セージを立ち食いするに限る。一番美味で経済的だ。      
2月21日
 団員はアルテ・オペラでステージリハーサルと本番。客席で近くの席の日本人夫婦が話しかけてきて、自分達の子供が演奏者の中にいると言う。当地勤務の商社か銀行員の駐在員だろう。子供の頃より音楽を学ばせながら、難関早稲田に入学出来た子供を持った親は幸せだ。尚和太鼓の熱演中に、心臓発作だかを起した観客がいたそうだが、あの音は肉体にも響くらしい。
2月22日
 マンヘイムのローゼンガルテンでの演奏に向う団員に同行。楽器はトラックで輸送していたが、これだけの数多くの楽器を滞りなくあっちこっちと移動させる係りの団員は相当な苦労で、気使いの程が察せられる。ここでも満員の盛況だ。深夜24時を過ぎてホテルに帰着。早寝早起きの老人にはちと辛いスケジュールたった。
2月23日
 早朝朝食抜きでホテルを立ち8時20分発の列車で、寒々とした雪景色の中、国境を越えて14時ザルツブルグに着く。Tさんは毎日当日のスケジュール表を早朝部屋に挿し入れしてくれるし、移動の度におじん面倒見掛りの男性が部屋まで迎えに来て私の重いラゲッジや医療器具、薬品を運んでくれるので、本当に有難い。卒業生でもないが、年上の面倒をこれだけ親切にみてくれるのは、やはり早稲田の学生だけのことはあると感心する。
 到着後カラヤンの墓参りに向う。このオーケストラ部は昔カラヤンの指導を受けた縁があるそうで、スケジュール表に先人カラヤンと古風な表現があったのはそれゆえか。
 街外れの小高い岡の上に古い石造りの教会があり、それを取り囲んだ敷地が墓地となっている。この教会の正面に掲げられているキリストは十字架ではなくY字型の木に磔となっており、釘で打たれた手のひらが荊冠を被った頭部と同じ高さで、十字架の磔よりも首を傾けて苦しそうに見えた。予め連絡してあったとみえ、路傍に花束を車一杯積んだ小型トラックが駐車しており、団員すべてに一つづつ渡してくれた。教会の入口からカラヤンの墓とその周囲が綺麗に除雪してあった。雪を被った多くの墓は石か鉄製で、デザインも多様だ。先祖代々の墓は家を重んじる日本特有の風習となにかの本で読んだ記憶がある。しかしここでも夫婦以外に家族を一緒に葬った墓が随所に見られた。最近は世界各地で墓地が欠乏し、土葬の国では棺を縦てに入れることを推奨している所があると聞いた。私のように、小学校時代から罰としてしばしば立たされ、中学校では執銃教練で「気ヲツケ」の号令で長期間不動の姿勢で苛められ、成人してからはこれまた手術場で長時間立ちっぱなしが商売の外科医で一生を終った者としては、死後はせめて横になって永遠の眠りにつきたいものと思うが、私の場合は火葬だからいらぬ心配た。          
 カラヤンの墓は礎石に名前さえ記されていなければ、カリスマ性が強くクラシック音楽の帝王と呼ばれた世界的に高名な音楽家であることを示す何の印もない鉄製の複十字の墓であった。日本なら観光の目玉として、道標が立って茶店でカラヤン饅頭などが売り出されるところだ。墓前はすぐに次々と団員が真摯な表情で献花する花束で一杯となった。
 ザルツベルグでは我々は二つのホテルに分宿した。私にはシエラトンザルツベルグホテルが割り当てられた。20時より22時まで診療時間だったが、風邪の患者が2名と胃痛が1名、胃痛はストレスか、墓地での冷え込みがたたったらしい。

2月24日 
 昨日は大勢の団員が墓前に花束を捧げるために騒然としており、写真を撮る気が起らなかったので、早朝もう一度撮影目的でカラヤンの墓地までタクシーを飛ばす。無人の墓地でのアルプス下ろしの風は頬に冷たい。
 ザルツベルグは音楽祭で有名だが、しっとりと落着いた街だ。私にはとてもこの雪空をメンヒベルグ山上のホーエンアルツブルグ城まで登る元気もなく、ザルツアッハ河の辺りのみを散歩したのみで宿に引き上げた。
 今夜のグロッセス・フェストスピールハウスでの演奏会では、田中御大が指揮されるというので、万一に備え楽屋で待機する。どこの楽屋も、華やかな舞台とは打って変り、何の飾りもなく前面に鏡が張り巡らされた化粧台が並んでいるだけで、旧式のスティ−ムが通っているものの、かなり冷え込む。団員が食事を運んでくれる。日本茶を出す場合は、いつも茶托附きだ。ここまで茶托を持って来るとは早稲田の躾か家庭の躾か、近頃稀な娘がいたものだ。
 昔は慶応と早稲田の学生はカラーがかなり違っていた。大學令以前から座布団と言われた角帽を被っていた早稲田と大學令以後も丸帽で通した慶応という制服時代の帽子だけの違いではない。創設者である福沢諭吉と大隈重信との人物の違いの影響だろう。福沢は一生乞われても官途につかず在野で過ごし、時事新聞主筆として健筆を振るった以外、塾の子弟の教育、経営に打ち込み、大隈は政府に仕え大蔵卿まで栄達したが北海道官有物払い下げ事件で政府を追われるや、再起して政党内閣の総理大臣となった。今は慶応出身の政治家も小泉純一郎を始め少なくはないが、かっては慶応は卒業生の多くは実業界で活躍し、早稲田は多数の政治家を世に送り出したものだ。
 傾向として慶応には都会的洗練さはあるが、
「三年がほどにかよいしも/酒歌煙草また女/外に学びしこともなし」と、3年で中退した佐藤春夫ほどではなくとものんびりした学生が多く、早稲田には「笈を背負いて」上京、歯を食いしばってまで頑張って卒業、社会で成功し故郷に錦を飾ろうという野生味がある学生が多かった気がする。しかし、今度のツアーで感じたことだが、もうそのようなカラーの違いは殆どなかったことだ。大部分が首都圏出身、趣味がオーケストラという家庭環境もあろうが、皆スマートな学生だった。入試難易度も試験科目もほぼ同じであり、学風を慕うよりも、私立に学ぶのなら伝統ある慶応か早稲田という受験者の入学優先の気持ちがカラーを消したに違いない。ただ慶応は親代々兄弟共々に慶応に学んだ一家が多いのに較べ、早稲田はその傾向が少ないようだ。在学生を塾生、卒業生を塾員と呼び、公式には先生と呼ばれるのは慶応では唯一人福沢諭吉のみであり、教員の休講に「00君。本日休講」との大學の告示で示されるように、弟子が弟子を教えるのであるから公式には教授であろうとも先生と呼ばず「君」で呼ぶなど、慶応にはその他独特な習慣と、それに伴うカラーが今でも残っていることは良い事だ。早稲田の法学部の司法試験合格数は東大、中央代を抜いたと西原先生から伺ったが、これも早稲の頑張り精神の現われで、大変喜ばしいニュースであった。独特なカラーがあってこそ私学の存在価値があるのだ。早稲田と慶応の理工学部をともにパスした団員に何故早稲田を選んだのかと聴くと、私が慶応なのを承知の上で、早稲田の理工学部の方が歴史も古く、オーケストラ部もレベルが上ですとサラリと答えが、これぞ昔ながらのサムライ早稲田の学生で、私学の宝なのだ。
 和太鼓の響きが終り、楽屋にも万雷の拍手が聞えてきた。耳の肥えたザルツブルグの住民にも感銘をあたえたのだから大したものだ。
2月25日
 午後にウイーンへ移動する。今度は1等車、
一つのコンパートメントに4名で、樂旅だ。日本と同じく車内販売が廻ってくる。販売員は東南アジヤ系であるが動作が素早くきびきびとして釣の計算も速い。東南アジヤ系はファーストフードの店などでも多く見かけた。問題になっているトルコ系は意外に目につかなかった。三時間余でウイン着。ここでもデラックスなインターコンチネンタル・ウインが予約してあった。
 着後診療。この辺りの冬は酷薄だ。冷酷と言ってもよい。朝8時を過ぎてようやく空は明るさを増し、太陽の位置もさだかならぬうちに白い1日が過ぎ、午後4時過ぎには早くも夜の帷が降りてくるのだ。
 ギリシャ、ローマ文明を受継いだ地中海市民にとっては、フン族に押されて、シュバルツバルド、黒い森あたりから南下してきたゲルマン民族は未開の蛮人だった。英語のsavage野蛮なは、ラテン語silvan、森の住人に由来する。アフリカ砂漠の住民berberべルベル人からbarbarian野蛮人と言う言葉が生まれたのと同じである。勿論ゲルマン人もローマ人との闘争や、彼等自身がローマ人の傭兵や小作人となり、キリスト教徒に改宗することによって除々に文明化していったのだ。クリスマスツリーの樅の木を使い、生贄の儀式の名残として人形をぶら下げるのも、ゲルマン民族の土俗宗教の習慣をキリスト教が受け入れたためと言われている。欧米人が蝋燭の光で食事をするのを好むのも、薄暗い森の洞窟などに住んでいたゲルマン生活の名残なのだそうだ。
 なぜ古代ヨーロッパ文明の後進国であったゲルマン民族、オーストリアからハイドン、モッツアルト、シューベルト、ドイツからベートーベン等多数の著名な音楽家達を輩出したかについては、ウインに本拠を置いた強大なハプスブルグ家の文化が大きかったことは理解できるが、かねてからの疑問であった。西原先生に伺うといかに冬の寒い夜長を暖炉の辺で愉しく過ごすかという有閑貴族階級の工夫の結果であるとの御説明ではじめて得心がいったことだった。ゲルマン民族はラテン系のように絵の才能がなく、その分だけ音楽に集中したとも言われた。絵を描くには写真と同じで、明るい陽光が必要かもしれぬ。短くて白もしくは灰色の昼、そして凍える寒さの長い夜を現地でを実感してみるといかにもと思えてくる。フロイトもウイン育ちだが、彼の精神分析がリビドー一辺倒なのは、やはりこの長くて寒い冬を持て余しての彼自身の夜の実践行為と、その直後の虚無的透明な意識からリビドーの重大さを覚った結果かと下らぬ想像が頭に浮んだ。元来狩猟民族であった彼等が森の静寂‐しじま‐のなかで獲物を探すには鋭敏な聴覚を必要とした遺伝子の影響もあるのかも知れない。
 明日は帰国なので、お礼とお別れを兼ねておじん面倒見係と最後の会食をすることにした。ウィンはチェリノブイリ原発事故後の甲状腺疾患診療の往復時にしばしば立ち寄り土地感がある。当地の市役所内のレストランは、薄汚くて味の悪い日本の市役所内食堂とは雲泥の差、重厚な歴史を感じさせる雰囲気なので、是非皆を連れて行きたかったが、生憎日曜日で休業、戸外は粉雪も舞っており外出を諦めて、ホテルのレストランで食事をすることにした。文字通りの御当地名物、仔牛を学食風に薄く延ばしたカツレ風のウインナシュニツレルをはじめ、ボイルした牛肉のターヘルシュピッツ、肉団子入りコンソメ、クノーデルズッペその他土地の料理をオーダーするように皆に薦めた。     
 Tさんをはじめ、男殺しの黒子のあるHさん、八重歯の可愛いYさん、気軽に食いもの屋探しに尖兵として走ってくれたI君、シユーベルトの「鱒」を思い出したのかの魚料理を頼んだのにダックが出て来て気の毒だったT君、皆さん棺桶半身突っ込みじじいの面倒をよく見てくれて本当に有難う。
2月26日
 帰国の日が来た。団員の休養日なので午前中は診療してくれとのことだ。交代の看護師が16時にこちらに到着の予定だそうだ。重患も出ず、無事にお役御免でほっとする。Tさんが親切にも態々日本の日航に電話を入れて詳細なニュースを入れてくれたにも拘わらず、帰路のフランクフルト空港での乗換えが1時間程しかなく、オーストリア航空は第1ターミナル着で日航は第2ターミナル発、果してあの巨大で複雑、馴染みのない空港をスカイラインに乗って時間内に免税手続きは諦めるとしても出国審査まで迷わず迅速に済ませられるかと相当に心配だった。もっとも、それは杞憂に過ぎず、日航の社員がオーストリア航空の出口で待機していてくれていた。ということは迷って乗り遅れる人がかなりいたに違いない。
 帰路の日航アテンダントは良く言えばベテランの熟女ばかり、老いの血を騒がす憂いもなく、有難いことに非常口の席が取れたので足を伸ばして熟睡できたのは幸いだった。終り良ければすべて良しである。