ある国会議員が北海道の高速道路では車より羆の方が多いとか言ったとかで、物議をかもしたことがあった。そのような話に成程と納得させられるほど、北海道の道路は空いているにもかかわらずよく整備されていた。しかし、この道路なくしては北海道の発展は有り得ないことが納得できたのが、齢八十を一つ過ぎて始めて北海道の土を踏んだ僕の印象だった。
往復を含めて三日間三万九千円也の安値につられてのツアー参加だったが、新千歳空港の降りたって、本州とどこか一味違う風の心地よさにまず驚かされた。札幌経由で直ちに旭山動物を尋ねた後、小樽郊外の定山渓温泉に泊まると言うのが、初日の行程である。    旭山動物園は新聞雑誌でユニークな動物園として随分と世間に知られているが、山の斜面を利用した動物園で、老人の我々夫婦にはその登り降りが「しんどい」こと甚だしく、また屋外の檻の中は御当地育ちの蝦夷鹿を除いて冬期間は蟄居中らしく姿をみせぬ。なにしろ旭川と言えば豪雪と寒さで有名、最低記録は零下40度に達したという。我々も寒い戸外を避けて暖房の効いた室内でぬくぬくと暮している手長猿、蜘蛛猿、オランウータンの三猿を、我々もまたぬくぬくと観察したのみだった。
 ただ手長猿には人間の指紋と同じく各匹で異なる尾紋があることや、蜘蛛猿がガラスに足を吸着させることが出来ることを知った、オランウータンはボルネオで見た元気一杯で綱渡りなどを見せた野生とは異なり、ここではベッドで不貞寝していて殆ど動かず、囹圄の身の不遇を託っていた。その後は西門近くの食堂に駆け込み、僕は地元ワインを引っ掛け、妻はコーヒーで集合までの時間を潰した。
 旭川と言えば北海道のほぼ中央に位置する。僕にとっては本日のバス走行距離約230キロの長旅は退屈するどころか本当に楽しかった。道路の両側には、獣の足跡以外には降ったままの処女雪に、一葉も残さず枯れ落ちた蝦夷松や唐松の裸木が、おりからの斜陽に長い影を落としている風景は、本州ではめったと見られぬ美しさだった。妻は鹿を目撃したという。北海道の広大さを感覚し、「白い大地」という形容の適切さを知ったことはこの旅の一番の収穫だ。しかし、これだけの長さの高速道路や一般道路を積雪期に除雪し維持することは大変な費用と人手を要することだろうと人事ながら心配した。
 小樽に移動中、月形町の道路標識を見た。ここには明治の昔、月形潔が典獄を務めた樺戸集治監のあった場所である。今様に言えば月形が刑務所長を務めた監獄があったのだ。吉村昭の確か「赤い人」だかの小説を思い出した。昔の獄衣は罪の軽重によって色が変わり、赤い獄衣は重犯罪人が着るものであった。彼等は逃走防止の為重い鉄球の付いた鎖に?がれたまま、道路建設その他に酷使されたのだ。北海道は彼等囚人や、屯田兵、あるいはタコ部屋に住まわされた坑夫などの多くの犠牲者の上に開拓されたことを憶えておく必要があるだろう。 
 小樽散策に40分を費やす。小樽は戦前には外国航路の船も寄航する国際貿易港であり、石原慎太郎、裕次郎兄弟の父親が山下汽船の当市支店長を勤めていた頃は殷賑を極めていたらしい。しかし、今や往時を偲ばせる旧日銀、日本郵船支店などの重厚な建築物や運河沿いの倉庫を売り物としている観光都市に落ちぶれており、繁華街のど真ん中にある堺町の街路表示板には鴉が一匹停まっていた。しかし、若い世代で、旧い建築物に興味を示す人なぞ稀だろう。またここには石原裕次郎記念館があったが「狂った季節」の兄の慎太郎や「チャタリー夫人の恋人」「日本文壇史」の伊藤整の記念館はないようだった。一本の筆は二本の長い脚には勝てなかったと見える。 
 札樽自動車道を走り札幌に至り、渋滞がみられる札幌市内の市電通りを通過、かなり距離のある山道を遡って定山渓温泉の万世閣ホテルミリオーネという聞くも気恥ずかしい名前の巨大ホテルに到着したのは8時前であった。800人収容可能のこのホテルの当夜の宿泊客は700人ということだった。8時30分オーダ−ストップのビュッフェスタイルの食堂はもう8時を過ぎているのに座席待ちの盛況であった。しかし、まあまあの味を食わせた。これだけの客を要領よく捌くマネージメント力は相当なものだ。ルームキーをレセプションで各自に手渡さず宿泊予定の室内に前もって届けてあるなぞがその一例だ。折角の有名な温泉地ではあったが、食堂の混雑から推察して、たとえ大浴場が湯量豊富で掛け流しであったとしても 浴場は芋洗い状態ではと考えて敬遠することにした。
 翌日8時にホテル発。230号線を走る。確かに人と出合うより羆と出合う確率が高そうな国道でさえ完全に除雪してある。途中羊蹄山のどっしりと腰の据わった姿と、その後、延々と走り続けて対照的な鋭い山容を持つ駒ケ岳を心いくまで眺めることが出来た。学生時代「山屋」であった僕は、今や大老年となり平地を歩くのさえよぼよぼと覚束ないのに、山や岩壁を目にすると、登攀ルートや、あの雪渓は雪崩が出そうでヤバイなどと一人で考えては悦に入る癖がまだ抜けていない。
 またまた延々と走り続けて大沼国定公園に到着した。ガイドによると.沼と湖の区別は深さが5メートル以上であるかないかで決まるとのことで、大沼は深度が5メートルを超えるので大沼湖と呼ぶのが正式だとのことだ。大沼,小沼は共に氷結していたが、まだ冬景色の現在はあまり風情のある場所ではない。しかし、木の芽が吹き出し下草が緑に染まる頃には、素晴らしい公園に変わるに違いない。
やがて、函館山が姿を現わした。なるほどこの山容から函館の名称が生まれたという説があるほどで、四角い箱型の山である。
 これからの予定では、ハリストス正教会をはじめとする市内観光の目玉が並んでいる元町を歩きつつ、ロープウエイの乗り場に達し、日の暮れるのを待って山頂から神戸、長崎とともに日本三大夜景の一つである函館の街を眺めるとのことだったが、そもそも三大夜景の本家本元は六甲山や摩耶山から眺めた神戸だし、観光の目玉ハリスト正教会などの並んでいる元町付近は函館山の北山麓斜面にあり、阪道も多いらしいので、疲れてもおり、寒さもきつくなってきたのでパスするとし、バスに残って待機することにした。風邪引きは老人には死病に繋がる。バスの運転手さんが、エンジンをかけたままにして暖房を効かせてくれていたのは有難かった。函館市も昔は国際貿易効港でもあり、造船関係の産業や北洋漁業の出航地として賑わっていたが、オイルショック後の不況や、ソ連の200海里経済水域の設定などで次第に人口が減少の一途を辿っているらしい。青函連絡船も1988年に青函トンネルが開通して以来、一日に何度も出入航を知らせる重い汽笛の響きも過去の風物史と化したようだ。そう言えば嵐の中を出航し1400余人が命を落とした洞爺丸転覆という大惨事もあったことを思い出した。
 8時に湯の川温泉の平成館海洋亭着。昨夜と同様の規模のホテルだった。ブッフェの味は昨夜のホテルに軍配を上げたい。どちらのホテルも現在の経済事情から薄利多売主義に徹した商売を行っている。今夜は日本間を割り当てられ、敷布団一枚では背中が痛かったと女房が翌朝ぼやいていた。神戸に帰りパソコンで調べてみると一般客の宿泊料は夕食、朝食込み7500円程度で、ツアーの旅行客はもっと安値で泊めているに違いない。本日のバス走行距離は240キロだった。延々という言葉を何度の性懲りもなく使ったのは、それが北海道のバス旅の特長だったからだ。
 ツアー最終日の朝も8時30分出発で、朝市に出掛ける。朝市の若い衆がホテルまでお出迎えとは驚いた。典型的観光客目当ての朝市に違いない。蟹、鮭、雲丹、昆布など北海道名産がどっさりと店先に並べられている。重いのに態々持ち帰ったり、宅急便で送るほど廉く、お値打品かどうかも判らず、トイレを拝借した以外なに一つ買わなかった。オプションのツアーで郊外のトラピスチヌ修道院と五稜郭を訪れことにした。清く、正しく、そして美しいかどうかは知らぬが修道女に会うことは勿論不可能で、浮世離れした郊外に建てられた厳粛で重厚な修道院を外部から眺めるだけであった。僕の小学校同級生の妹が、家族がカソリックでもないのに何をか思いけん修道女を志し、この修道院に入ったと言うことだった。芦屋でもクラス一の金持ちの娘だった。修道女になると言うことは、キリストと結婚することだそうで、嫁入り道具にほぼ匹敵する用意が必要とも聞いた。正式には「厳律シトー修道会 天使の聖母トラスチヌ修道院」と呼ぶこの修道院発行のパンフレット「神を探し求める生活」によると、定住の誓願をするとここで死ぬまでここで生活するとの記載があった。階級序列制度の厳しいカソリックには珍しく、ここで一生を終えた修道女等の墓は同じ大きさの十字架に統一されていた。
 仏教の僧侶が、還俗して人殺し商売の武将に早変りしたり、悟りを開いたと崇敬されていた高僧がいまわの時、どのような尊い御遺言を残されるかと弟子達が期待していると「死にとうない」を繰返とか、一生不犯で過した老僧が、なに思ったのかソープランドを訪問、こんなエエコトとは知らなんだと、それから亡くなるまで通い続けたとか生臭い話が山ほどあるし、一茶や一休も晩年は相当なスケベ生活を送ったらしい。修道院で彼女らは、あのうるさい女性ばかりの世界で煩悩に悩まされることも無く、神に仕えることに満足し、一生を過ごし後悔をすることは無かっのだろうか。昔のカソリック法王には子供を持っている人もあり、彼らがラテン系にはありがちなネポティスムで出世したことは誰でも知っていることだ。また、尼僧院に孤児院が付属していることが多いのは、尼僧の妊娠の密かな後始末のために始めたことだとにやりと笑ったイタリアの友人もいた。
 五稜郭は良く整備されていて幾何学的な構造であるのは日本離れしている。機能美というのかな。何故、五稜郭見学に僕がこだわったかと言うと、大學時代に大鳥圭介の孫だかに当たる先輩が医史学の教授だった。先生は学生時代極め付きの秀才だったが、犬に噛まれて狂犬病の予防注射を受け、その副作用で水頭症に罹患されるという不幸に見舞われた方である。いつか先生と盛り蕎麦を食ったとき、僕が笊の上に蕎麦を一本残したのを見咎めて「おい原田、俺はお前がもう少し粋な奴だと思ったのにその食い方はなんだ。見損なったぞ」とこっぴどく叱られたことがあってのことだ。先生は病気のため不自由な手できれいに平らげられ、笊の上には一本の蕎麦も残されていなかった。僕が慶応義塾医学部に入って、良かったと思うことは、大鳥先生のこの叱責と、生理学の加藤教授による神経伝導説の講義を聴けたことが一番大きかったような気が今でもしている。
 当市には高田屋嘉兵衛、土方才蔵、石川啄木などの銅像がある。嘉兵衛は幕府が拿捕し幽囚されているロシア人船長ゴローニンとの取引交換材料として捕らえられたのだが、ロシア人さえ感服させたほど肝の据わった大人物だったらしい。土方は最後まで徳川家に殉じ、五稜郭で乱戦の中で討ち死にした剣客であった。土方も近藤勇と同じ武州育ちだがただヤットーが強いだけの田舎者の勇とは違い、幕府の崩壊も見通し、すっきりと割り切って蝦夷へ死ぬために随行したように思える。甲府征伐に行く途中、生まれ故郷で旗本に出世し駕籠に乗った「えーかっこ」を見せたくてぐずぐずと滞留した挙句、捕まって斬首された勇との違いはそこにある。啄木は詩才こそあったが、素行は悪く、あちこちで借金を重ね、「われ泣きぬれて砂と」ではなく、「娼妓とたわむる」という一面もあったらしい。親友金田一京助は蔵書までを売って彼を助けたと言うのに。啄木は貧窮のうちに亡くなり、残された家族はすべて彼と同じ結核で死に絶えた。彼の印税は誰が受け継いだのかなどと考えるのは、下世話の話だ#。
 どの世界でも一流の人物は例外を除いてスケベちゃんが多いのが現実である。やはり、今の言葉では「肉食系」のほうが精力、馬力があるらしい。日本資本主義の先導者であった大実業家渋沢栄一を見ても、聖人面して論語の講義までしておきながら、女にはからきしだらしがなかった。「論語、孟子を読んではみたが、酒を飲むなと書いてない」が、女子についても書いてなかったかどうかは不勉強の僕には答えられぬ。
 最近の日本に勢いがないのは、首相在任中離婚独身であるにもかかわらず、世評を恐れて女性を近付けず過ごし、某国の首脳に「あんさん、あっちのほうはどないして始末してはりまんねん」と不思議がられたり、年甲斐もなくカミサンと手をつないで散歩し、完全にかかあ天下ばればれの首相などが続いた所為かも知れぬ。若い時はボーイスビイアンビシャス、おじんになればオールドボーイスビイスケベのほうが日本の指導者たるにはふさわしいらしい。箒と綽名されるほど、目についた女は片端から手をつけ、御自分も相当女好きであられた明治天皇から「過ぎるのでは」との御忠告を受けた伊藤博文の働きをみても明らかだ。
 これですべての見学予定は終了し、5号線から道央自動車道を300キロ北上して新千歳空港に向かう。この大部分海岸沿いの高速道路に沿っては国道と鉄道がほぼ平行して走っている。蓮舫なら早速仕分けの対象とすることだろう。
 この辺りはもう雪を少なく春の香りがする。道々考えたことだが、北海道の市や町の名前はマサツーセッツ州のプリムスやウースターなどと同じく、北広島市、新十津川村のように、開拓者の故郷の名前から付けたもあるが、アイヌ人の使用した名前から転化し漢字で置き換えたものが圧倒的に多い。ニセコなどはどう頭をひねっても、字面のよい日本語が思いつかず、やむを得ずカタカナ表記で残ったのではないか。
 これらのことから考えて、道南の一部には安東氏とか蛎崎氏とかの和人が何時の時代からかある程度地盤を持ってはいたが北海道は元来アイヌ人の土地であったのだ。
 アイヌ人と和人との戦いは東部の族長コシャマインと蛎崎氏の戦い以外は、あまり知られていないが、やはりアメリカでの白人対インデアンのように、武力と狡智をもって和人がアイヌ人を駆逐していったのが本当のところだろう。ガキの頃西部劇映画を見て、インデアンの襲撃にアメリカ人守備隊が、今や全滅の危機に陥ったとき、援軍到着に拍手を送ったのは、今考えれば実に浅はかであった。現在ジョン・ウェインが生きていたら黄色いリボンなどを頸に巻いて颯爽と馬などに乗ってはいられまい。アメリカにはインデアン保護区があるが日本のアイヌ人は和人にほとんど全滅させられたのか、同化してしまったのかは定かには知らぬ。アイヌ人は鉄器を作れなかったのが、致命的だった。また結核などの伝染病を和人が持ち込んだことも原因の一つだろう。
 やがてバスは新千歳空港に到着した。

♯擱筆後、調べたところによると、死亡の四日前、友人の協力で没後東雲堂より発刊された「悲しき玩具」印税前金二拾円を受け取ったとのことである。香典が百四十円余集まったという。