前穂北尾根

 昨夜来の雨で洗われ、まだ濡れている木々の新芽が美しい。我々のツアーバスは梓川沿いの道を上高地に向って進んでいる。両岸には広葉樹が欝蒼と茂っていた。梓川には昔はなかった幾つかのダムが造られ、その鉄桁などに書かれた奈川渡、沢渡と懐かしい名前を見過ごせば、これが五十年以上前に重い荷物を担いで年中通い慣れた道とは思わなかったに違いない。トンネルも多く掘られている。その頃は両岸ともに雪の重みや雪崩で谷に向ってU字型に曲がった幹の多い樹林の間には多くの岩壁やガレ場が続き落石の危険など日常茶飯時だった。乗合いバスは夏場のシーズンはさておき、崖崩れや残雪により前川度、奈川渡、沢渡止りとなり、ある正月にはバスが休業、松本電鉄終点新島々駅より歩いたことさえもあった。
 もう八十歳にひょいと手を伸ばせば届く歳にもなり、もう一度上高地の土を踏んでからこの世におさらばしたいとかねて思っていた矢先、某旅行社の「得だ値!!たった一万円で上高地・霧が峰、2日間」の広告に釣られて参加したのが今回の旅である。昨夜は白馬山麓のスキー宿に一泊した。このお値段のツアーで昔の山男感覚からすれば金殿玉楼の宿だった。
早朝7時、夜半からの雨がまだ上がらないうちに上高地に向けて出発した。何度か登った後立山を右手に眺めながら安曇野を通り抜けて梓川渓谷に入った。積雪期にはいつも世話になっていた酒巻温泉は、左岸から右岸に移ったそうだが見逃してしまった。ここの親父は通いなれたこの道で雪崩にあって亡くなったと聴いた。山には一歩はいると油断がならないのだ。
 新しく掘られた釜トンネルは現在使用中止の旧釜よりも高所を通っていた。旧釜は冬場には雪が吹き込むのを防ぐため、縦横1メートル半ほど、奥行き2メートルほど僅かに人間が一人ようやく通れる木枠で造られた通路以外は上下の入口ともに木材その他で閉鎖されていて、まずザックをその狭い通路に押込み、それから人間がザックの尻を押しつつ腹這いになってトンネル内に潜り込むのである。旧釜は長く、相当な急勾配で、重い荷物を担いでの登りは相当に辛かった。しかし、釜トンを抜ければ、先は上高地までは平坦な軽い登り道となる。冬場には河原に降りて氷結した大正池を渡って行く手もあった。前方にまず焼岳が迎えてくれるのだが、今日は姿を見せぬ。大正池名物の立ち枯れ木も殆ど姿を消し、池は小さくなり昔の風情は残っていない。
広大な駐車場が河童橋のやや手前に設けられ既に多くのバスが止まっていた。満車になると空くまで場外で待たされるらしい。上高地では4時間の自由時間が与えられた。取敢えず河童橋を渡ってみる。昔のようにぶらぶら揺れる釣橋ではない。岳沢は中腹以上が雲に覆われていて僅かに雪渓の裾が見えた。          
五千尺も西糸屋も皆愕くほど瀟洒な建物に変わっている。昔は西糸屋の親父に「もみじ−50円の隠語−で泊めろ」と無理を言って囲炉裏端で勝手に飯を炊き屋根裏でごろ寝させてもらったものだ。なんと河童橋近くのせせらぎに鴛鴦のつがいが住んでいた。雨が降ったり止んだりの天気では遠くまで行く気もせぬ。せめて小梨平迄でもと歩き出す。新人のとき、岳沢でごろごろした石の上での長いテント生活、十ニ分にしごかれた合宿が終り、上高地に戻って白い綿のような柳絮の飛ぶ小梨平、その緑の柔らかい大地に最後のテントを張り終わった時にはこれぞ地上の天国と感じられた。しかし、雨は上がる様子はなく、柳絮の季節には早すぎた。女房は手が凍えそうだと訴える。風邪でも引き込むと、年寄には死病となる。引き返して上高地帝國ホテルで食事をとることにした。
 帝國ホテルは私にとって馴染み深いホテルだ。といってもホテルそのものに泊まったのは、学生時代、ホテルの番小屋を根拠地にごろごろしていた頃、従姉妹やその友達の一行をホテルに泊め、上高地と焼岳登山に案内したお礼に屋根裏部屋に一泊させて貰ったことがあるきりで、本当に馴染み深いのは薄汚い番小屋の方だ。番小屋には上高地の主と呼ばれた今は亡き木村さんがちょーさん、くれさんと、他の旅館が無人となった季節にもホテルの番人として一年中住込んでいたのだ。積雪期の穂高、槍の登山を上高地から狙う登山者ならば誰もが世話になっていた筈である。
旧道は今や車道となり、新しく設置されたプランク・ウオークを伝って、昔と面影の変わらぬ栂の疎林の中を歩く。10分程で昭和初年に建てられたスイス山小屋風の重厚な建物の赤い屋根が木影を通して見えてきた。
ホテルの支配人に尋ねると、懐かしの番小屋はとうの昔に壊されて跡形もないという。
グリル「アルペンローゼ」でホテル特製ビーフカレーを注文した。その昔、岳沢から下って、ホテルのボイラー室に潜り込んで濡れた着物類を乾かしていると余程私がしけた顔をしていたのか、馴染みのボイラ−マンが、「原田さ、腹がへっているずら、一寸待ちましょう」と言ってごみバケツの中に隠し持ってきてくれたのがこの特製カレーだった。その時の美味さを思い出しもう一度味わいたいとかねてから思っていたのだ。格式を誇るホテルだけあって2400円、相当なお値段だが、思いでにはかえられぬ。カレーはライスと別に銀器だか銀器じみたポットに入れて供された。当時と較べ口が肥えた今でも普通とは匂いの違う香料が心地よく鼻腔を刺激し、満足して平らげた。まだ戦後間もなく食料の確保にも苦労があった時代のことで、キッチンから彼が苦心してそっと運んでくれた親切を思い出すと目の前のカレーがうるんで見えた。なにしろ、木村さんからホテルのお客さんの西穂へのガイドを頼まれて、日当500円、それのチップ100円貰って欣喜雀躍、これで数日は上高地に長居出きると喜んだ頃の話である。
 まだ時間に余裕がるのでロビーでお茶を飲む。ふとテラスを眺めると、なんと猿の親子が毛繕いをしているではないか。先刻の鴛鴦といい、五十年前と今ではすっかり住んでいる動物相が変わったらしい。猿には梓川の急流を到底渡れる筈がなく、霞沢岳から下りてくるのかと想像したが、西穂からひょいひょいと下流に架った田代橋を渡ってくるのをウェイトレスが見たと言う。2グループに別れて総計20匹ほどいるらしい。時には熊も出ると言う噂だ。足しげく当地に通った頃は穂高の稜線付近には、まだ雷鳥が数多く棲息し、カモシカの足跡や時には姿さえも見掛けることもあったが、熊は噂さえ聴いたことがなかったのに。
もう時効だから話してもよいだろうが、番小屋では解禁に関係なく木村さんが一寸姿を消すと、岩魚をどっさりと釣って戻ってきてくれた。「雪崩にぶたれて死んだ」カモシカの肉もご馳走になった。その頃には山男は勿論、営林署の役人でさえもカモシカの尻当てを腰にぶらさげていたのだ。北アルプスのカモシカは自分の庭とも言える山々でしょっちゅう「雪崩にぶたれて」死ぬほど頓馬で間抜けだったとは到底信じられないが、信じておくのが大人の知恵、お互いの幸せだ。かなり大きな二重に折畳んだカモシカの生皮尻当ては山男のダンテズム的装備の一つで、本来の目的以外に天幕や雪洞内でこれを体に巻きつけて寝ると随分と寒さが違った。その頃我が家は貧乏していたにもかかわらず、医学書を買うと称してはその金が山靴その他に化けてしまい、皮当てを買うときはもう騙すタネもなく高価な胴部分には手が出ず、安値な頭部分で我慢したのだ。
私の親父はデビスカップ選手だった男で、スポーツには理解があったが、「命を賭けるような山登りはスポーツとは言えぬ」と説教された。母も心配してくれながらも、物のない時代で親父の古手のゴルフ用ニッカーポッカーを登山用に縫い直し、厚手の靴下を編んでくれながら、「いつ山に出掛けいつ帰ってきたのか、一緒に住んでいないから知らないだけまだ幸せよ」とポツリと言ったことが頭に残っている。優しい母だった。苦労し用意してくれた物を身につけて若し遭難死でもしたら母はどんなにか嘆き悲しんだかと今は考えるだけでも恐ろしい。当時の母の複雑な心境を考えると目がうるむ。一人息子が山に凝るほどの親不孝なことはないが、不思議なことに一人息子が多いのもまた事実である。
集合時間となり再び駐車場に向かう。そう言えば対岸には清水屋旅館がある。春の岳沢に登る時、確かカーテンの下りていた窓が下山時にはカーテンが上がっていたのだ。誰かがいるに違いないと木村さんに報告し、内部を探索すると脱獄囚が一冬中隠れ泊まっていたことがあった。秋に逃げ込みその侭雪に閉じ込められていたらしい。そろそろ雪も解け下界に降りようとした矢先だったそうだ。可哀想に翌日腰縄付きで木村さんに警察まで護送されて行った。
バスが出発直前になって青空が広がり、西穂、天狗のコル、コブ尾根、奥穂、前穂と昔登った峰々がすべて姿を現わした。
 春の西穂に二人で登ったSは鹿島槍で遭難死した。天狗のコルでは、先輩のYさんと雪崩にあったて腰まで埋まった。コブ尾根ではOが雪渓から滑落したが幸いピッケル制動で助かった。そのYさんもOも今は幽冥境を異にした。Fと冬季奥穂に向かい雪が腐っていて絶えず滑落の危険にさらされながらの氷雨ふるなか霧に巻かれたジャンダルムのトラバースなど半世紀を越える過去の記憶が次々と甦ってくる。もう二度とは会えないだろう穂高岳。さようなら。青春の山々。これが見納めかと思うとまた目が潤む。どうも歳をとるといけない。女房にばれると恥かしいので、頚をそらして上を向く。昔と変わらぬ蒼い空に二つ、三つ白い雲が浮いていた。
注 北尾根の写真は山友麻生周作の作品




さようなら上高地