ヴァレッタよりスリーシティと地中海を望む



 12時間近いの長旅の後、ミラノのマルペンサ空港着陸寸前に濃霧のため空港が閉鎖されたとの機内放送があり、予定を変更してトリノ空港へと機首を転じましたが、これがまた閉鎖、やうやくにしてジュノバ空港に着いた頃は現地時間で8時を過ぎていました。しかし、添乗員Tさんの機転と努力で、ローマ行き最終便に席が取れ、予定通りその日のうちに清掃員のストライキとかでごみだらけのローマのフィウミチーノ空港にに辿り着くことが出来きました。翌日はなんのトラブルもなくシシリー島の上を飛んで2時間弱でマルタのルア国際空港に到着です。
 なにかの本にこの空港を「地方空港のような」という表現がありましたが、この国自体が佐渡島の半分たらずという小さな国なので当然のことでしょう。僕がマルタ島に行ってくると言うと「そういえばマルタだか、ヤルタだか戦争終結に関係がある会議があったとかで聴いた名前だなあ」と応じてくれれば相当の物知りで年寄り、「マルタの鷹という小説があったなぁ」などと答えてくれればこれは大インテリです。実際にはこの小説にはマルタ島そのものの描写は一切出てこないのですが。実の所、僕自身も地中海にあるちっぽけな島で、マルタ騎士団とかの名前しか頭に浮かばず、新聞広告でモニター・ツアーと銘うって費用が10万円台の廉さと、未知の場所であることに釣られてなんとなく出掛けたと言うのが本当のところです。
 十字軍の負傷者と病人の看護を主とした任務とするヨハネ騎士団がオスマン・トルコによって居住地のロードス島を追われ、神聖ローマ帝国皇帝カール5世から年貢としてたった鷹1羽と引換えに貰っただけあって、全島石灰岩のお粗末な島だったのです。今でも緑地は極端に少なく、巨石の超古代遺跡も、執拗なトルコ軍の再攻撃に備えて造られた城壁も、現在人が住んでいる家屋もすべてこの島の石切り場から取り出した石で造られており、薄い地表の土を耕した農地の境界すらすべて石積みなのです。有名なブルー・グロット、青の洞門も海に面した崖が侵食されて出来たものですから、我々はなんの事はない、身も蓋もない言い方をすれば石灰岩を見に態々アジアの端から暇と金を掛けて遊びに行ったということになります。過去に200年におよぶアラブ人支配の時期があり、現在のマルタ語はアラビア語を基礎とした言葉です。しかし、その後長くヨーロッパ諸国の支配下にあったのですがなんとなくヨーロッパとは一味違う感じで、結構それなりにエキゾチック趣味を満足させてくれました。
 それではその石灰岩文明とも言うべきマルタ共和国について旅と同じく駆け足ながら、少し紹介して見ようと思います。

■■巨石の超古代遺跡■■
 マルタ島及びお隣のゴゾ島には幾多の巨石を組み合わせた神殿があります。エジブトのピラミッド建築よりも500~1000年前に造られ、巨石文明の発祥地だとも言われています。勿論それだけにピラミッドのような幾何学的精巧さ緻密さはありません。入口付近やそれに続く祭祀室と思われるところは正確に四角く立方形に削った石を使って綺麗に組立ててあるのですが、それ以外の場所ではあまり細工したあとのない石を積み上げたり、ただ大きいだけが取り柄の石を縦に並べてあるという建て方なのです。
 我々はゴゾ島のジュガンティーヤとマルタ島のハーガールキム神殿の2ヶ所に出かけたのですが、どのような情熱と情念が長時間かけてこんな大きい石を積み立てたてる作業に駆り立てたのか全く不思議に思って眺めたものでした。大きな石を動かすことによって、ただ自分の権力を誇示したかったのか、巨石自身を神として尊敬したのか、あるいは我が国の磐(いわくら)のごとく、神の依代(よりしろ)と考えたのかは知らず、超古代にどのような技術、道具を用いてこのような巨石を運び、削り、神殿を組立てたのかはいまだ解明されていないそうです。いずれにせよ相当な土木知識を持った住民と、その彼らを労働に従事させた絶大な権力と富を持った首長がいたことには違いありません。これらの神殿を上空から見ると、右の写真のような構造で、これらの神殿から出土されるやたらと胸と腰を大きくデフォルムした女性土偶と同じ型であり、豊満な肉体の女体を象徴していると説明されましたが、ジュガンティーヤ神殿など腰部より胸部が大きく余程のおっぱい偏執狂的女好き考古学者が想像を逞しゅうして考えた感じでがしないでもなく、ただ五つの祭祀室を単純に左右対称に並べたらこのような形になったのではと思ったりしたものです。ミロのビーナスも現在の美的水準からすれば相当な巨腰デブチンですが乳房は週刊誌などで見掛ける現在日本の巨乳女性のそれに比べてもむしろ小さいですしね。また蛇足ながらギリシャ男性像は皆男性の象徴が小さく、包茎なのも不思議です。オリンピックも素裸で競技したようですから巨根では邪魔になって良い成績が挙げられず、いざという時以外は折りたたんで縮小する一物のほうが機能的であるとして尊敬に値されたのでしょうか。
 閑話休題、これらの神殿では石に点々と小さな点を適当に穿っただけの雨降り模様と、同じ太さで同じ間隔で整然と丸く浮き彫りされた渦巻き模様が主な装飾として使用されていました。幼稚、簡単な前者に比べ後者はかなり幾何学的、絵画的にも進歩した彫刻なのですが、その技巧的差についてはガイドからなんの説明もありませんでした。渦巻き模様製作に精魂を使い果たし、雨降り模様はつけたりでどうでもよいやという気持ちになってしまったのでしょうか。そう言えば、アンコールワットの数百の優雅な天女像の中に一体だけペロリと舌を出したのを塔の頂上付近で見付けました。石工が毎日の同じような労働で飽きたための悪戯か、こんな仕事を強制する王様へのささやかな反抗かも知れぬと思ったことでした。
 しかし、治安の良いことを誇るこの国だけあって、一度もしつこい物貰いや土産の押し付けには会いませんでした。イタリヤ、スペインで猛威を振るうジプシーも見掛けません。やはり彼らは幌馬車時代の感覚から抜けきれず、海を渡ってまで放浪すると言う思考には達していないのかも知れません。
 もう1ケ所見学予定だった海岸べりのイムナイド神殿は今年4月に何者かによって爆破され、現在閉鎖中とのことでした。世界中どこにも馬鹿がいるものですが、相当大規模に壊されたそうで単なる悪戯とは思えず、この国の歴史を顧みると、ビン・ラーデン率いるところのアル・カーイダ系ムスリムのテロ小手調べとも考えられぬことはありません。

■■ヴァレッタの街■■
 オスマントルコの攻撃に耐え抜き、シシリー島からの援軍を得てようやく守り通した有名なグレート・シージ(大包囲戦)当時の騎士団長シャン・パリゾン・ドラ・ヴァレッタの勇名を記念して名付けられたこの街は、湾内に大きく突出する半島にあり、城門は半島の根元にあるバス・ターミナルの広場に面しています。大きな城門を入ると、そこからの真っ直ぐなパブリック・ストリートという繁華な大通りが半島の先端、エルモ砦まで、通っています。グレート・シージに懲りて、再度のオスマン・トルコの襲撃に備え、この街は何処から敵が攻めてきても直ちにその場所に兵力を結集できるよう碁盤の目状に造られているのです。街の中央部が小高い丘になっているので、リパブリック通りから左右に別れる道のどちら側も地中海を見渡すことの出きる坂が方々に見られます。この丘まで急激な兵力結集の妨げにあるとして崩す積もりだったのですが、意外に費用と時間が掛かる為中止になったとガイドの説明でした。 騎士団長の宮殿は街のほぼ中央にあり、外部は平凡な建物ですが内部に入ると絢爛豪華なゴブラン織りや、旧いヨーロッパの君主や歴代騎士団長の肖像画などで飾られています。特に興味を引くのは廊下に並べられた中世期の甲冑です。顔も含めて躯全体を覆うようになっており、手足の関節部は小さなパーツを次々と繋ぎ合わせて屈曲出来る仕掛です。 日本の甲冑に比べ装飾的要素がなく実用一点張りながら、重量は50キロに達するものもあったそうで、敏捷な戦闘動作ができるとは思えず、攻撃よりも防御を主とした造りのようでした。 
 騎士団の紋章の先太り十字の各先端が二股に割れているのは、ヨーロッパ8ヶ国の騎士団の集合体であることを示しており、EU多国籍軍の先取りですから、それを纏める団長の苦労は一方ならぬものがあったと推察されます。なにしろ鷹1羽の年貢で済む石だらけの国で、厳重な要塞都市を建築した上、これだけの豪華な宮殿と各国別の騎士宿舎まで建てたのですから、各君主達から応分の寄付もあったとは言え騎士達が皆かなりの金持階級であったに間違いありません。いくら共通のキリスト教と騎士道精神がバック・ボーンにあったとしても、国の異なる金持ち坊ちゃん育ちの騎士達は相当にそれぞれ我侭であったに違いなく、団長の威光をもってしても統率に苦労したと推測されます。歴代の騎士団長はセント・ヨハネ大聖堂の床下に葬られています。教会の聖堂に埋葬されることはセレブリティとして非常な名誉なことらしいのですが、墓の上を年がら年中他人の土足で踏みつけにされても平気であるヨーロパ人感覚は一寸我々には理解し難いところがあります。やはり、臓器移植問題で見られるように遺体は人間のもぬけの殻であり、ヒトとして生きている時の名譽を後世に残すのみという感覚が根底にあるのかも知れません。
 ヴァレッタにはアパー・バラッカとロワー・バラッカ、騎士達の憩いの場所であった二つの庭園があります。やはりこの街一番の見所は、アパー・バラッカから・グランド・ハーバーを隔ててスリー・シティスへの眺望でしょう。ここから眺めると正面にも堅固な堡塁が築かれ、マルタ全島が難攻不落の城砦都市であったことが実感できます。このことはスリーマから出発するグランド・ハーバーを巡るクルーズに参加し、海上から延々と両側に続く60メートル程の高さの頑丈な城壁を眺めるとよりよく理解できます。ある堡塁の突端にある見張り塔では大きな眼と耳の彫刻がありました。見張り番にゆめ油断するでないぞという無言の教訓を垂れているのでしょう。なお、ヴァレッタに限らず、この国の住宅には道に面してガラリヤと呼ばれる緑や赤で塗られた木製の四角な出窓があり、無機質的石造りの建築物の冷たさを和らげているのです。

■■ブルー・グロット、青の洞窟■■
 全島石灰石で出来ているこの島は、海岸の殆どが絶壁となっています。アフリカからのシロッコと呼ばれる強い風が吹きつける南面は凄まじい波浪によって絶壁が次第に侵食され削られて、その一つの作品がブルー・グロットと当地で呼ばれる観光名所である洞窟形成となったのです。小さな入り江から船頭を含めて10人乗りのボートに乗り、約20分の洞窟巡りを試みました。しかし、外海に面しているので風が吹き、波が高くなると、船が絶壁に激突する危険があるので直ぐに運行中止となります。我々も一度はそれ程の風浪もないと思われた日に運行中止の憂き目に逢い、2度目にようやく乗ることが出来ました。狭い瀬戸内海と違い、入口が狭いジブラルタル海峡一つであってもさすが地中海で、しかもその臍のような中央に位置していますから、ヨーロパ諸国の排出する汚水もここまでは達せず、水の透明度は抜群で、相当の深さまで海底の石や藻が透通ってみえます。洞窟内にはいっても、太陽の光が差し込むところは、「かぎりなく透明なブルー」なのです。
時間のせいかも知れませんが魚影が薄く、これはプランクトンが少ないためで、それゆえに透明度が高いのかもしれません。ちなみに来訪前マルタでの新鮮な魚料理を期待していたのですが、選んだレストランが悪かったのか、食べた魚がランプキーなどの大型魚だったせいか、みな大味でこれぞ地中海の新鮮な魚と感激するような料理には最後までありつけませんでした。ブルー・グロットの帰路にも海鮮料理と銘打ったレストランでスパゲッティの昼食をとったのですが、スパゲッティもソースも、その不味かったこと天下一品、日本の高速道路沿いのレストランのほうがまだましで、ひどく味のないトマト・ソースの中に貧弱な蛸や烏賊の切り身に混じって日本でお馴染みの蟹もどき蒲鉾まで見付け、蟹もどき蒲鉾の世界制覇を喜ぶとともになんだか味気ない気がして持参の醤油をぶっ掛けて溜息まじりに無理してかき込んだものです。

 追記 帰途再びフウィミチーノ空港に立ち寄ったのですが、ストはまだ続いており、最早屑物入れはすべてあふれんばかり、床もごみだらけ、さすがスト大国イタリーと感心しました。


      

巨石神殿                          青の洞窟