ヤンゴン−バンコック間に国際線が就航し始めた頃のミヤンマー航空のスッチ−は裸足だったとの噂があった。我々の搭乗したヤンゴン行き関西空港16:00発全日空1180便にはビルマ人スッチーは見当たらず、日本人のみであり、靴どころかパンストまで穿いていた。7時間でミンガラドン空港に到着。当地の税関はカルカッタ、東京と共に検査が厳しく三悪税関と言われ、その上ここは賄賂を寄越せだのなんだのと大層面倒だと言う話だったが我々は殆どフリーパスで通してくれた。ロビーに出ると、一般人は男女を問わずロンジー(腰巻)姿だ。妙齢の美人で大学生のアルバイトだという出迎えのガイドもロンジー姿だった。大学は今閉鎖中であると言う。スカート風ロンジーは腰の上で余った布地をくるくるっとひねりあげて内側に差し込むだけ、バンドの類は一切使用しておらず、もし結び目が解けてすっぽり抜け落ちたら紳士である私は目のやり場に困ると心から心配したのだが、ロンジーはミャンマー人特有の優雅にくびれた腰にしっかりと巻きつき、そのような場面は幸か不幸にも一度も起こらなかった。彼女は話が政治に及ぶのを極力避け、スーチ−女史についても殆ど語らなかった。かなり政治的締付けがあるとみた。不思議なことには空港の両替所では1ドルが6チャットだが、市中の両替所では、ほぼ公認でどこでも150チャットに替えてくれることだ。社会主義国も随分と歩いたが、公定と実勢価格がこれくらい違う国も珍しい。ヤンゴンのホテルで一泊したので、早朝散歩に出てみる。現地人は殆ど全員ごロンジ−姿で、シャンバックと称する麻で作られた弁当入りのバッグを肩にしている。東京駅から吐出されるサラリーマンよりも、大阪駅から吐出されるサラリーマンのほうが歩く速度が速いと聞いたが、ミャンマー人も大坂人にも負けぬ速度で往来しており、かなり勤勉な性質と見た。たまに通るバスはすべて満員で人が車内に入りきらず、あちこち車外に人をぶら下げて走っていた。
空路約一時間、マンダレーに飛ぶ。チェックインした荷物は日本でも昔使われた懐かしの大八車(人力で荷物を運ぶ木製大型の二輪車)でゆっくりと待合室まで運ばれて来た。
乗船するロード・ツウ・マンダレー号はイラワジ河畔に係留されていた。白塗りで極端に長く舷の浅い船だ。この船はケルンで製造されライン川で観光船として就航していたのを改装、スエズ運河経由で廻送されて来たのだそうだ。このような舷の低い船では波の高いインド洋を越えるのはかなり危険な大仕事だったに違いない。 
ブリッジを渡り舷側で迎えてくれた船員が各々の部屋に案内してくれる。現地人の船員は皆フレンドリーながら礼儀正しく、欧米の白人によく見られるような優越感を隠した慇懃無礼な態度ではなく、気持ちよく接してくれた。我々のスーペリアキャビンはフアーストデッキの下で、舷側の窓から覗くとすぐ下に褐色の河面が見えた。早速荷物を整理し、ダイニングルームでビルマ風ブッフェの食事をそこそこに済ませて、マンダレー観光に出掛ける。バスは一台毎にJapanese、 English、 Germanの貼紙があり、言語別に乗る仕掛けだ。日本人は8人しかおらず気楽で良い。 菩薩が豚になったなどと言うから「えっ」と思うと仏陀のことだったり、処女仏教が小乗仏教のことだったりし、時に頭をひねることがあるもののここのガイドも日本語が巧い。
この国の仏教は上座部(小乗)仏教で、釈迦の教えを忠実に守る宗派である。映画「ビルマの堅琴」でビルマ僧になった水島上等兵が一緒に帰国しようと叫ぶ戦友の声を背に琴を演じながら鷹を肩に一人黙って歩きさる印象的なシーンがあったが、ビルマ人から見れば僧が楽器を演奏することなどは絶対にあり得ず、僧を侮辱するものとしてミャッマー人の間で大分問題になったとの噂だ。
 しかし、ミャンマーの僧に無理やり犯されたと日本人女性旅行者もいるとのことだ。この国では男は一生に一度は出家する習慣があるようで、性的犯罪者が何度も罪を重ねることは世界的常識であり、佛陀の教えも何のその、スケベ男がスケベ僧侶になるのは理の当然、何の不思議もあるまい。
 ミャンマー観光の殆どはパゴタ、寺院参詣となる。いずれも裸足になって参詣するので、足の裏の熱さと痛みを覚えている以外印象がごっちゃとなって帰国後記憶が定かではない。パゴタはすべて巨大であり、これが本邦での墓場に淋しく立つ卒塔婆の原型とは想像もつかぬ。仏像もまた原色で、光背にちゃちな豆電球のイルミネ−ションがピカピカと光っていたりし、その上に参詣者が各々賽銭代わりに金箔を仏像に貼り付ける習慣だ。我々にとっては薄暗い内陣に薄墨色の仏像がひっそりと鎮座されているのを「陰影礼賛」として尊ぶ感覚とはかなり異なるようだ。「なにごとのおわしますかは知らねどもキンキラキンに涙こぼれ」はしない。王宮建築の際余ったチーク材で作られたというダータマン湖に架るぐらぐらと揺れる文字通り危ない橋、ウ−ベイン橋を渡って休憩していると、妹らしい赤ん坊を抱き、頬にタナカと言う白檀?の粉(日焼けを防ぐ一種の化粧で、顔全体ではなく頬にのみ塗る)を塗った女の子がやってきて、ワイフに小さな花束をプレセントしてくれた。
 あとで気が付いたことだが、これは何らかこちらからの見返りを期待した行為だったらしいが、それ以上何も要求することも無く微笑んで去っていったのでその時迂闊にも気が付かなかったのだ。頼みもしないのに虱のごとく外人観光客にたかり付き、幾ばくかの報酬をむしりとろうとする他の東南アジアの悪ガキに較べ極めて気品のある行為であった。また車は皆日本製の中古品が殆どで、「新宿車庫前」だの「阪急梅田駅」だのと日本で使っていた行先掲をそのままにして走っているバスや、佐川急便の挟み箱を担いで赤褌一つの丸裸で走っている奴さん姿を横腹に描いたままのトラックがあったりした。ミャンマー人は不精なのか、あるいは日本製が自慢でそのままに放置しているのかは判らぬが、今でも日本人は路上を裸で走って荷物を運んでいると誤解されては困る。
 船での夕食がディナー形式でチョイス可能であり、初日には前菜に鮨を取り、メインディッシュに子牛のメダリヨンを選んだが焼き加減、肉質ともに結構な味であった。デサートのチーズの盛り合わせも、チーズにうるさい欧米人を考慮してカマンベール、ブルーチーズなどもかなり高品質のものが供された。現地産のビール、マンダレーは一寸甘味がきついが飲めない味ではない。
 翌早朝僧侶が船まで托鉢に来ると言うのでデッキより見物する。裸足で赤褐色の僧衣をまとった坊さんが続々と列をなしてやって来る。行列は得度した順だろうか長幼の順ではない。托鉢僧は布施した人が功徳を積めると言う考えなのでどんなご馳走を貰っても頭は下げぬ。ただしいつもの片肌脱ぎではなく、托鉢の際は両肩を被う通肩式着衣法だった。 
 市内の朝市にも立ち寄ってみた。何処からか、かなり老齢のおばはんが出てきて「見よ東海の空明けて明けて」とか「白地に赤く日の丸染めて」など我々の世代には懐かしい戦時中のメロデ−を歌っては、この店廉いよなどと言って言って付き纏う。少女の頃日本の兵隊さんに習ったのだそうだ。こちらが買物をすれば、いくらかリベートが貰えるらしい。現地人には旧大日本帝国陸軍が散々迷惑をかけ、また親身のお世話にもなったと聞いているので、適当に顔をたてておいた。尚、当地で軍艦マーチが聞こえても、パチンコ屋の海外進出かと早合点してはいけない。現在のミャンマ−軍はスーチ−女史の父親であるアウンサン将軍が日本軍の援助、指導の下にビルマ独立義勇隊を編成したのが始まりであり、軍艦マーチは正式のミヤンマー陸軍の行進曲なのだ。アウンサンは最後に敗色濃くなった日本軍を見限リ、英軍に寝返ったのだが民族独立の目的で挙兵したのであれば裏切りも止むを得ぬ行為で、背信との一言で片付けては可哀想だ。大東和共栄圏確立との美名の下に日本の利益追及を第一とした軍のインチキを見通していたのに違いない。
 2日目に船は早朝静かに岸を離れ、バガンに向けて出版した。
 流れに乗って、岸辺の風景がどんどんと後に流れて行く。両岸には平原が続き、時に大樹や小部落が見られる程度である。船首に座って微風に身を晒す。至福の時だ。しかし、インパール作戦に失敗し、日本軍が算を乱して敗走した際、この河を渡る船などは最早残っているわけもなく、竹の筏などを急造して渡ろうとして雨季の流れに飲み込まれ、多くの兵隊が亡くなった事実を思い浮かべると、たった5,6歳の年齢の差で、自分がこのように暢気な遊びの旅をしていることに良心の痛みを感ぜずにはいられなかった。ごめんなさいと心の中で英霊に手を合わす。ついでに道楽者の父親が芸者遊びにうつつをぬかしてしてくれたお陰で、母親の妊娠が遅れ、息子の私が戦死せず済んだことも感謝した。 
 翌朝、船は河沿いの遺跡の街バカンに到着した。ただちにバスに乗って観光に出発する。河の左岸の平野を埋めて、ほぼ完全な姿を残したものや、殆ど原型をとどめず崩れ落ちたものなど、無数のパゴタや寺院が見渡す限り点在している。どうもこの国は仏教を信仰していると言うよりも、仏教に淫していた過去があるようだ。これだけの労力と財力を国民のために再生産可能の構造物に使えばもっと素晴らしい国に発展したのではないかと想像せざるを得ない。王様は仁徳天皇のように高殿(たかどの)ならぬパゴタに登って民の竈の煙をみるべきだったのだ。
 ミャンマーの軍事政権は経済的に逼迫しているにも拘わらず、あちこちでパゴタの再建修理が行われていたが、これは宗教心よりも外貨獲得観光事業振興のためであろう。もっとも、この国の人件費は安く、日雇い労働者なだは1日100チャット以下だそうだ。工場労働者で月2000チャット、大臣でさえ5000チャット程度だそうで、政府高官は皆汚職で食っているというのがもっぱら庶民の噂だった。夕食後サンセットを眺めに、5層のテラスがあるシュエサンドーパゴタに行く。四方の中央に階段があるがかなり急峻である。しかし、メキシコのユカタン半島にあるチェチェンイッツアやウシュマルのカステーヨ(城砦)の階段よりも踏段が長いだけ助かる。谷川岳一の倉中央壁はホールドが小さいため、通常草鞋で登るのだが無理して粋がってナーゲル(ビブラム底以前の鋲を打った昔の登山靴)で登った頃のバランス感覚は今や老いの身には求めるべくもなく、ワイフが危険だ危険だと下から連呼するので、二層まで登って三脚を据えた。広漠たる砂漠に近い平原に、パゴタが林立し、遠くの方は霞んで見える。落日は我が身のごとく速く、陽が山陰に落ちる寸前のチャッターチャンスに、雲がかかったのは残念であった。
 3泊目の下船前夜、酒代などの先払いを済ませる。随分とビ−ルやワインを飲んだ積もりだが、たったの78ドルだった。気持ちのよいサービスを受けたので、キャビンボーイとウエイターに各々10ドルずつ渡すことにした。翌朝4時起床、最後の朝食を取って船長以下が見送ってくれる中を下船した。
再び空路でヤンゴンに帰る。
 翌日にはまず、ズシャダゴンパゴタを見学する。中央の約100メートルの金色眩しいの大パゴタを囲み無数の小パゴタや寺院が乱立している。ここは今までのとはスケールの違う大キンキラキンだ。心斎橋の巨大な蟹料理の看板や太鼓叩きの人形を彷彿させるど派手さとしつこさである。このパゴタには釈迦の遺髪と仏歯が納められているとのことであった。仏教国のあちこちに仏髪、仏歯、仏舎利が納められていると称するパゴタが多数あるが、悟りを開いたお釈迦様も「わてはこないに仰山の髪や歯、骨を持ってまへんで。どないなってまんねん」と仰せられるに違いない。
寺内のあちこちに賽銭奉納促進装置があり、マイクの呼込みが凄まじい。寺院が日本の会社の事業部制度を取り入れたのか、別組織で各々運営されているのかは不明だが、お賽銭を入れると金の籠がケ−ブルを伝ってパゴタにするすると昇って行ったり、お賽銭をメリーゴーラウンド風にぐるぐると回っていたる鉢に投げ入れる仕掛けなど、遊園地の遊具を真似た工夫があちこちにしてあり、子供を含めて愉しみながら参詣させ、かつお賽銭を巻き上げる仕掛けがしてあった。酷暑のこの国では、現地人が涼しい日陰を利用するのが巧く、人物スナップ写真を撮ろうすると皆日陰に居るのに気がついた。
ついでミヤンマー最大の寝釈迦像のあるチャウタッジーパゴタに参詣する。寝釈迦像は入寂時の姿を具現したものだが、医学的に見れば心臓を圧迫されず、消化にも都合のよい右を向いて寝ておられる。このお釈迦様は白塗の美男で、アイシャドウまでつけておられた。釈迦がアーリヤ系であれバルビタ系であれ、ガンダーラ芸術の影響なのか、植民地時代の白人崇拝の名残なのかは明らかではないが、いくら王子様であっても印度人のお顔ではない。耳朶が長ければ長いほど後世の作だそうで、この釈迦の耳朶は肩まで届いており、戦後日本からの寄付も得て再建せられた像であると言う。ビルマ文字は読めないが英文では日本の援助を受けたと明らかに記されていた。日本の援助で建設されたにも拘わらず、その銘板は大衆の眼に触れるところからいつのまにか撤去され、貴賓室に置かれていたという話のあった某隣国の空港でのインチキとは大違いである。その貴賓室は日本人専用として使用すれば、日本人以外の内外人の眼にも触れることはないのだ。歴史5000年の悪知恵は大したものだ。
釈迦は八十歳で毒茸に当たって亡くなられたそうだが、苦悶されている様子はなく、団扇でも持たせたら昼寝風ののんびりとしたお顔であった。悟りを開くと茸中毒しても苦しまないで死ねるのだろうか。足の裏には碁盤の目のような細かい区画があり、びっしりと三界を表す108の画が描かれていた。
この像は全長65メートルの巨大なものだが、はりぼての感じが強く荘厳からはほど遠い印象であり、プレハブ式の構内に寝ておられるので、あまりにも大きすぎて写真のファインダーに全身を入れることが出来なかった。
 最後に日本人墓地に赴く。入り口から参道の両側に戦前よりの民間人の墓が並んでおり、一番奥には今次大戦で亡くなられた兵士達の鎮魂碑が建立されていた。深く掘られた鎮魂の二字内に血のような赤い塗りがしてあった。豊富な武器弾薬、食料を持ち、散兵線の華と散られたのならまだしも死花も咲くだろうが、雨季にずぶ濡れになりながら、いみじくも白骨街道と名付けられた敗走路を、餓えと下痢に悩まされ、再び故国の土を踏むことも叶わず死亡された兵士達の無念さはいかばかりであったろうかと想像するだけで胸が痛む。この無法で杜撰な作戦を計画、指導した牟0口廉0中将は無事日本に逃げ帰り、責任を追求されることもなく、満州方面の司令官に転任したのだ。もっての外の話である。軍人と言えども官僚であり、戦争より世渡りの巧い軍人がいても不思議はない。この将軍は生きた食料として多数の牛を引き連れて行くというアイデアを披瀝して自慢したそうだが、可哀相な牛は皆山中で食い物もなく早々に弊死したと言う。このような浅知恵の将軍の下では戦に勝てる訳もない。終戦後大陸からの引上船上では彼はずっと目立たぬ私服で通し、下船直前に援護局から将官としての待遇を受けるべくぱりっとした軍服に着替たと言うから要領だけは万点の軍人だったのだろう。「一将功なって、万骨枯る」の典型だ。一度内地の土を踏みながら、部下がまだ現地の収容所に残されており、彼らが無罪でも戦犯に問われることがあっては上官として申し訳がたたぬと自ら望んで現地収容所に戻られた今村均大将とは大違いである。
楽しくはあったが、心苦しいことまた多かった旅であった。ミャンマ−が民主主義の国となって経済的にも発展して国民が幸せになる日が一日も早く来ることを祈りたい。