ボダナートでの挙式


 「うちの息子がカトマンズで結婚式をあげることになりまして」などと言うと同情とも憐憫ともつかぬ顔をし、それを押し隠そうとして「まあ。それはそれは」と複雑な表情をする人もいましたが、相手の期待に添えず残念ながら相手はネパール娘ではありません。          
 一年程前ネパール行のパックツアーで息子が彼女と知り合い、その思い出の地で結婚式を挙げたいと言うだけの話、相手はれっきとした日本娘です。ハワイ、グアムでの結婚式は珍しくありませんが、ネパールとくれば結婚する当人達は勿論、双方の親もある意味では進歩的というか、相当理解がなければまとまらぬ可能性もあります。しかし、我々としては古い箪笥の奥から引っ張り出し埃を被ったような親戚を義理で呼ぶのも無駄なことですし、駆け落ちの次に廉い費用で上がるかもしれぬという親の計算も働いて大賛成,相手方も異存なく話が進んだものです。第一日本での披露宴では忍者ではあるまいし、ドライアイスの煙の中から新郎、新婦が現れたり、高級ホテルで雨漏りがするわけもないのに相生傘、果てはドラゴンで式場に天下るというのは少なくとも僕の趣味ではありません。両家とも佛教徒の家庭に育った以上、チベット仏教といえども仏教ですから、キリスト教会で挙式するよりも違和感がない筈です。
 当地には当地のしきたりもあることだと思い。、面倒な手続きはすべてカトマンズに支店のあえるk旅行社にお任せしました。
 我々一行は、王宮に向けて真っ直ぐに走っているメインストリート、ダルバーグマルグに面するホテル・シェルパに宿を取りました。前回の旅では斜向かいのアンナプルナに泊まったのですが、機能的で西欧化し過ぎて気に入らず、かなり古びてはいるものの、正面に壁に取り付けられた看板Hotel Sherpa と縦に長く尾を引いたネパール風の書体が印象に残ったこのホテルを選んだのです。カンは違わず、シェルパ族の衣装を着けたドア・マン、例の三つ目を持った仏の顔が描かれた金色のエレヴェーター・ドアなどネパール情緒が豊かで、従業員も親切なホテルでした。
 同行された皆さんはネパールは初めてなので、ポカラその他、あちこち案内したりして遊び暮らしていた呑気な親もさすが結婚式当日となると緊張します。男は一同平服ですが安物でべらべらの赤黒の杉綾模様のトピー帽を被って準正装としゃれました。トピー帽はネパールの庶民の最も一般的、かつ安価な帽子で、左側に縫い目を持ってくるのが正式だそうです。息子は僕らのトピー帽と違いゴーカなものを被り,花輪を首から掛けて花婿であることを演出していました。約束の9時30分に旅行社の人達が昨夜遅くまでかかって苦心して飾りつけてくれた婚礼用の車が到着しました。カラフルなキンキラキンテープが何重にも天井からボンネットとトランクの両端まで扇状に吊り下げられ、ドアにはマジック・インクで花嫁、花婿の名前が派手はでしくも彩り良く書かれています。そのうちパレードの先頭にたつ白い制服に赤い帽子の楽隊11人が揃って到着します。良く見れば制服は皆相当くたびれており、あちこちから寄せ集めたらしく細部がそれぞれ異なるのがご愛嬌です。我々が現れるとそれっとばかりトランペットを鳴らし太鼓を叩き始めました。もう、右翼の宣伝車も裸足で逃げ出す音量です 近くの商店街の人達や通り掛かりの野次馬でホテル前は満杯、ジャポネ、ジャポネと騒いでいます。白人観光客はコングラチューションと挨拶してビデオを撮りまくり、最早見世物的存在です。花の都カトマンズでもジャポネの結婚式はあまり前例がなく、翌朝現地の新聞に記事が出たとのことでした。
 キンキラキン車に乗れるのは花婿とこれから迎えに行く花嫁と、その介添えだけで、両親始め参列者は車のあとからゾロゾロとついて歩くのが当地流だそうです。花嫁一家が泊まっているヤク・アンド・イエェテイ・ホテルは僕らの泊まっているホテルの同じ通りの同じ側で目と鼻の先、当地の都大路とも言うべきダルバーグ・マルク通りのほぼ中央に位置しているのですが、ご丁寧なことに王宮と反対側の路のどんずまり、ラル・ダルバー通りとの交差点までまずは行進して、そこでもう一度隊伍を整えてから、また来た道を引き返してにぎにぎしくパレードを再開、我々両家の人達が泊まっている二つのホテルの前を素通りして王宮前まで進み、そこでトランペットの音を一段と響かせてから、またもやまた来た道を引き返し、ようやく目的のヤク・アンド・イエェテイ・ホテルに到着という経路で、完全に都大路を一往複、それも車道をぞろぞろと練り歩くのですから交通渋滞は起る、巡査が笛を吹いて交通整理を始めるはという騒ぎになりました。それでも道を塞がれた車が警笛を鳴らしたり、誰も文句の一つも言わないのは結婚式に敬意を表するネパール人のウオーミィ・ハートのなせるわざでしょう。旅行社が多大のチップを渡したのか楽隊は大張切りで演奏します。曲はワグナーやメンデルスゾーンのウエッディングマーチでもなく、勿論謡の荘厳調の「高砂やー」でもありません。今や滅多にみられませんが、僕らが子供の頃盛んだった旧時代の宣伝の代表者たるチンドンヤ風の音楽で、ネパールの婚礼曲と今ヒット中の流行歌だそうです。車の後からついて歩く父親の僕はそれでなくてもテレ屋なのに衆人環視の中でどうゆう表情をとってよいか判らず、しまらない顔でニャニャするばかりでした。見物人達は慈愛と仕合せに満ちたに満足気な父性像と写ったのかも知れませんが、実態は父親はあまり自分から金を出す気もない癖に、こんな派手なことをしていくら物価の廉いネパールとはいえ相当の物入りだわいと息子の懐勘定をし、自分の懐に響くのを心配することで少しでも厳粛かつ威厳ある顔をしょうという健気な試みがテレ気分に負けて失敗に終り、ニャニャ顔を続ける羽目になっただけの話なのです。どうみても締まらない顔だったなーとあとで反省することしきりでした。
 ようやくのことでヤク・アンド・イエティ・ホテルに到着です。花嫁が現れると楽隊は一段とボリュウームを上げます。裾が金色,背中に緑の帯をたらした豪華な赤い衣装は花嫁の白い顔によく似合っていました。当地では花嫁が実家を出る時、家族が嫁ぐ娘に名残を惜しみ必死で縋り付いて引き止める演技が延々と長時間続くのだそうですが、ジャポネの母も娘もそのような愁嘆場シーンを演じることもなく、しらっとした顔で出てくれたので、歩き疲れた僕はほっとしたものです。ここで僕らはミニバスに乗ることを許され花嫁、花婿の車に追従、結婚式をあげるボダナートに出発しました。
ボダナートは市内から8キロ、カトマンズ盆地の中心に建てられた最大最古のストーパを持つチベット仏教の僧院で、今日も好転に恵まれ、雪を頂いたヒマラヤ山脈を背景に、白い基台上の黄金の塔、ストーパが頂点から吊るされた色彩豊かなタルチョを四方にひらめかしながら青空を突きぬけて聳えています。似ても似つきませんが、日本の墓地の侘しげに立っている卒塔婆とは実はこのストーパの訳なのです。観光客は勿論、結婚式を挙げる僧院の窓からも、小僧、大僧が鈴なりに顔を覗かせて花婿花嫁一行を見物しています。ボダナート名物で平常悪戯をするので悪名高いお猿さんも大熱演の楽隊音楽に押されたのか、大人しく軒端の陰から覗いていました。
 僧院に入ると中央の通路を隔てて赤褐色の衣を着た坊さんが既に着座しており、奥の一段高い部分に二列机が置かれ、そこが花婿花嫁と介添え役および我々の席です。内陣は黄色のカーテンの内側にあり、瑞雲たなびく中に須弥山を現すと思われる半立体的な構造の山を背に金色の仏像が安置されています。お顔はチベット系でもなく、インド系でもなく、目がばっちりと大きくて豊頬で色っぽく近寄りがたい感じではなく現代風の美女的感覚です。一番内陣に近い席になぜか色の濃いレイバーンの色眼鏡を掛けた年寄りの坊さんが牢名主よろしく座布団を二、三枚重ねて座っており、彼が本日の導師というかリーダー役でした。やがて両面張りの太鼓のトン、トン、トトトンという調子に合わせて読経が始まりました。一巻を読み終わる毎にジャンジャンと擂り合わせる銅鑼、ブーと鳴る長い縦笛が鳴り響きます。どうやらこれらの音で坊さん達の眠気を覚まさせる仕掛けらしいのです。暇に任せて居並んだ坊さんを眺めてみますと熱心にお経を読んでいるのは前列近くのほんの少数、あとはお付き合い程度で口を動かし、末座の少年坊主にいたっては口も動かさずひたすら時の経つのを待っているという態度です。もう少し真面目にやれと言いたいところですが、まあ、長い僧院生活で仏も坊主も共に倦怠期、お義理でお勤めを果たすと言った感じもやむを得ないのかも知れません。リーダー役の坊さんも、お経を忘れたのか、暗い場所でレイバーンを掛けているので、お経の読んでいるところが判らなくなったのか、虎の巻風な薄い経文をあっちこっち捲ってカンニングしているような感じですが、あるいはお経のはしよるところを探していたのかも知れません。
 長いお経が終わると茶菓が出てインターミッテントとなりました。お菓子はたいしたこともない輸入品のクッキーなのですが、あれだけだらけてお経を読んでいた小坊主達が涎を流さんばかりの真剣な表情でお菓子を眺めまくるのでこっちは頂くのが心苦しかった程です。お茶はバター茶でなく、普通の茶でした。
 一息入れた後、花婿花嫁と参列者全員の肩に幸運をもたらすという白い布が掛けられ、花婿花嫁は導師の前に座を移します。それから花婿は僧院の入口近くに置かれた香煙たなびく護摩炉の周りをはたきの化け物のような物を振り振り時計廻りに巡った後、再び導師の前に畏まって小坊主が運んできた乾燥した植物種子のような物を頂きます。我々にもお裾分けがありました。これはインド航空の機内でも食べた記憶があり、名前は忘れましたが口の中がすっとする芳香性の種子です。恐らく、香煙とこの種子で花婿の躯の内外を清める儀式なのでしょう。それから花婿は餅のような物を頂戴した後、オレンジ色の粉を自分の額と花嫁の額にぬりつけます。僕らが若い頃ナンパするときに使った「女の子にコナを掛ける」という言葉はこれから由来しているのかも知れぬと下らぬ考証をしているうち、導師がなにかもごもごと祝福の言葉を述べ、これはどうやら後で翻訳してもらうとこの良き日に両家の息子と娘が目出度く結ばれたと言う意味だったそうですが、太鼓、銅鑼、笛がこれでやっとお勤めから解放されたとばかりに一段と高く演奏され、約一時間で式が終わりました。まあ、なんやら言葉も判らぬ式ではありましたが、キリスト教徒でもない家庭に育ち遊びぬいた娘が、雰囲気だけに引かれて花婿を強引に口説いて教会で挙式、純潔を現す白のドレスを着て真っ赤なバージンロードを父親と腕を組んで歩き、花婿に引き渡す下らないウソコマンマン儀式よりも、余程、この仏式の儀式のほうが僕らにとっては厳粛な感じがしたことは確かです。
 少憩の後、ヤク・アンド・イエテイ・ホテルで野外ブッフェ形式による披露パーテイを行いました。これは中々の趣向で空はネパール晴、暑からず、寒からずの微風が頬をかすめます。緑芝生が敷き詰められた庭園は埃っぽいカトマンズの市内とは別天地、純白のテーブルクロスの上には銀器に入れられた数々の料理が並べられ、傘つきのガーデン・テーブルやチェーアがそこかしこに配置されて演出効果満点です。どうせビュフェスタイルなので、お世話になった旅行社の現地の方々は勿論、ホテルに宿泊中の日本人学生も飛び入りで加わって頂き、新郎新婦に無理やり人前でキッスさせるなどして楽しい一時を過ごしました。
 招待した学生達の酒も料理もほどほどにして引き上げるパーティ慣れした上品、優雅な態度には驚かれされました。昔僕が山を登っていた学生時代にこんなパーテイに招かれたら、天にも昇る心地がして、最後までどんなに賎しく酒を飲み、がつがつとあらゆるご馳走をむさぼり食ったかと思うと、想像するだけで恥ずかしくなったものです。なにしろ、僕達が山に登った頃は物資不足で米の調達から始まり、牛、豚に比べて当時値段がやけくそに廉かった鯨のベーコンが重要な淡白資源であり、それで味をつけたカレーライスが最高のご馳走だったのです。腹を空かして山から下り、鰻屋の前で偉くなったら必ず鰻丼を食らう身分になってやると固くかたく心に誓い、店先の香ばしい匂いを嗅ぎつつ廉い "かしら"(頭)と"こつ"(背骨)の「身の一つだに無きぞ悲しき」蒲焼、もっとも頭と背骨だけではたして蒲焼という名に値するかどうかは疑問のあるところですが、まあ、それはさておき、それを肴に少量の焼酎でさっさと酔うために鼻をつまんで全力疾走、呑み代を節約したことを思うと時代が変ったことを痛感せざるを得ません。ところが鰻の蒲焼ぐらいは食える身分になってみると、最早蒲焼は贅沢品ではなく、廉いお惣菜に下落してしまっていたことは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか思い悩む今日この頃なのです。海外の山の登ることなんぞ想像も出来ませんでした。それでも法律に反して闇米を買い、親不孝なことに医学書を買うと言って親からせびった金が登山靴のそれに化け、留年のおまけまでして山に登った僕の青春に悔いはありません。最後は参列して下さった畏友 I 教授の御発声で新夫婦の万歳を三唱し、教室のK講師が参加者一同のお手を拝借、シャンシャンシャンとの三本締めを珍しくスモッグの漂わぬカオトマンズ盆地の青空に響かせ、目の青いホテルの宿泊客を驚かして目出度く披露宴をお開きとすることが出来ました。僕はなんとなく、山に凝っていた頃はやった流行歌「ここに幸あれ青い空」を思い出したものです。
 追記:いろいろお世話になった風の旅社の皆様方、介添えを務めてくださった現地社員の妹さんに心から感謝に意を表します。また、さすがケチな親父である僕もこのパーテイの費用だけは持ちましたが、ほぼ10万円という廉さでした。これも目出度し、めでたし。



ポカラから見た見た朝焼けのマチャプチャレ