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最近旅行会社のバスツアーの味を覚えた。歳を取ると言うことは恐ろしいもので、昔なら考えもしなかったバス利用の団体旅行に参加と言う旅人としては最低、堕落の極みのチンケな旅だが、定時にバスの集合場所にさえ出掛ければ後は目的地になにの苦労もなく連れていってくれ、費用も個人旅行では考ええられぬほど廉くつく。しかも、近頃目的地でかなりの時間の自由行動が許されるツアーが多くなったのも有難い。
今回は電鉄系H旅行社主催、「びっくり高山・白川郷と奥飛騨温泉郷2日間」という名前からして散文的通俗的しかも盛り沢山的ツアーを利用した。7時50分定時にバスは動き出した。参加者は殆ど全員が定年過ぎではあるが、デイケアーや老人ホーム入居にはまだまだまだ間がありそうな方々である。どうやら我々夫婦が最高年齢らしい。バスの座席間隔が航空機のエコノミークラスよりもまだ狭くバック・シートも後に倒せず、窮屈極まりないのが難だが、平均1時間半、長くて2時間以内にトイレ休憩が設けられているので、それを利用して所期の目的を達する為に駐車場を歩くだけで足の血流が改善されエコノミークラス症候群に罹る心配もない。税金の無駄使いと評判の悪い議員道路族のお陰で、高速道路が四通八達し、昔なら思いもかけぬ遠方まで1日で到着することが可能となった。しかし新幹線の旅と同様、バス・ツアーも只ひたすら短時間で目的地に達するのを至上目的としている為、窓外の風景をのんびりと愛でるという訳にはいかぬ。子供の頃、まだ在来線のみがゴットン・ゴットンと窓外の風景が眼にしっかりと捉えられる速度て走っていた頃であっても
今は山中、今は濱、今は鉄橋渡るぞと、思う間もなくトンネルの闇を通って広の原
という鉄道の速さに驚く唱歌があった。停車中に駅弁が買え、プラット・ホームで煤に汚れた顔も洗えた時代であってもである。特急つばめが東京・大阪間を8時間で走って話題になった頃のことだ。夜行寝台では靴をカーテンの外に出しておくと車掌が朝までに磨いておいてくれたGood
old daysだった。現在では高速を走るバスですら80キロ近いスピードで、関が原なども添乗員が「徳川家康と石田三成が天下分け目の決戦場でありまして」などとまだ話が両者の勝負の決着まで及ばぬうちに通り越してしまう。木曾の三川も同様で、その謂れが判らぬ間に通りすぎた。
途中「高山まつりの森」というレストランで昼食を取る。街道筋の店では観光ツアー・バスの停車場となるか否かで売上が大違いになるに違いない。勿論バスが停まれる広大な駐車場があることが前提条件だが、恐らくレストラン間には熾烈な観光バス停車獲得競争があり、旅行会社との間にも露骨な利益誘導競争が裏にありそうだ。バスが到着するのをレストランの係員が店頭で待ち受けていて、特別定食を客にさっと出し、さっと食わせて、後は土産物を買わせる時間を十分に取らせるシステムがしっかりと出来上がっているのだ。
昼過ぎには高山に到着した。生憎の雨で名物朝市は勿論とうに終っている。もう20年以上前の現役時代当地を訪れたことがあり、女房を喜ばせようと一番由緒ある旧い建築を誇る旅館を予約したのだが、当時我々の住んでた倉敷の家も築百年を越えており「家で寝るのとちっとも変わらへんやないの」と言われてがっかりした宿も、地元の父兄の招待で御馳走になった会席料理の美味さが舌に残っている美しい庭のある料亭も、古い記憶を頼りにホームページで探してみてもそれらしい名前は見当たらぬ。もうあのような古式ゆかしい旅館や料理屋は当代のコンドミニアムに住み、ファスト・フードで育てられた年齢の観光客が中心となった現在では流行遅れとなり潰れてしまったのだろう。
土産物屋ではさるぼぼという妙に下卑た曰くありげな名前の赤顔で目鼻のない可愛げもない猿の郷土人形のみが何処の店でも幅を利かせて並んでいた。飛騨の小京都と呼ばれる程の古い情緒のあった街であったが、本家の京都と同様、こちらも負けず劣らず観光地として汚染されつつある感じだ。
又も高速道路をひた走り、ほぼ定時、五時半頃奥飛騨温泉郷の「なかだや」に到着した。部屋も綺麗だし、無色透明で匂いも殆どない湯だが、純粋檜風呂とはいかぬまでも檜を精一杯気張って使ってある湯量豊富な掛け流し温泉風呂も気持ちがよい。夕食も鯉の洗い,飛騨肉と野菜朴葉味噌焼、山女の甘露煮、タラの芽を含む天麩羅、そして田舎蕎麦など当地名産の品が並んだ。勿論タラの芽も山女も養殖物に違いないが、色変わりの鮪の刺身なんぞを出されるよりも余程有り難い。飛騨肉の柔らかさと味の深みにも驚いた。旅費一万三千円にしては驚くほどの料理であった。
翌朝縁側のカーテンを開けると昨夜来の雨はすっかり上がり、澄みきった青空には雲一つない。八時出発で近くの白樺平にある新穂高ロープウエイに向う。梓川沿いの上高地への道には土砂崩れがあり現在車両通行止になっており、上高地行き予定のツアー客にせめても穂高を飛騨側からでも拝ませようと、旅行会社が知恵を絞ってこちらにツアー・バスを回したらしく大勢の客が駅改札口に並んでいて大混雑である。
蒲田川沿いの標高117メートルにある新穂高温泉駅から4分で1308メートルの白樺平駅に到着し、ここで二階建ての第2ロープウェイに乗り換え替えて、7分で2156メートルの西穂高駅に到着する。建設には相当な費用の掛かったろうに、信州側の上高地のみに客を取られるのが悔しく、飛騨側を開発して客を集めようとの思惑から無理をして造られたに違いない。往復一人2800円という高料金もその為だろう。ロープウエイの三ッの駅には土産物屋、食い物屋がむらがり集まっていてなんとか元を取ろう頑張っている。このロープウエイに加えて高速道路をはじめとする多くの道路が開通整備され足の便がよくなったことが、多くの新しい温泉郷が飛騨側に出現するきっかけとなったようだ。私が山に登っていた頃は飛騨側には平湯温泉、それも1軒きりの宿しかなかったと記憶している。
周囲に雪の残った西穂高駅展望台からの眺め確かに素晴らしいものだった。陳腐な表現だが、北アルプスの全景パノラマと言う言葉がそのままあてはまる。遠くには白山も蒼い霞の中に白く浮かんで見えた。眼前には笠ケ岳がその巨大な山腹を正面に晒している。安房峠を挟んで、焼岳も穂高の峰々とともに岩と雪との美しいコントラストをなして輝いていた。穂高から南岳に続く稜線の彼方に槍ケ岳の尖峰が頭を覗かせている。あの頂に単独で新雪にステップを切りながら登ったこともあったなあと若い頃を思い出す。
安曇節の
槍や穂高は霞で見えぬ
見えぬあたりが槍穂高
チョコサイコラコイ
ではなかったのは本当に幸いだった。
私には飛騨側からの穂高へのアロポーチ経験はなく、はじめのうちは所々雪屁の張り出した穂高の稜線を目で追っても、好天気すぎてのまぶしさと老眼のため、どの峰が何処やら同定するのに時間がかかった。そのうちジャンダルムのドームが見付かり、後は簡単に独標、西穂を始めとして穂高の峰々を確認することが出来た。唯一の飛騨側で経験した登攀ルートであった滝谷はジャンダルムの下で横顔だけ見せてそっぽを向いていた。
私がチーフ・リーダーをつとめた唐沢での夏季合宿中、ジャンダルムのみの登攀の約束であったにもかかわらず、滝谷第二尾根から取り付いたパーティが転落事故を起こし、既に自分達パーティの登攀を終わり、唐沢の天幕場に戻っていた私は、急いで現場に駆け付け、チーフ・リーダーとしての責任上、骨折してうわ言ばかりをいう負傷者に付添って、一晩中落石と岩雪崩の音に怯えながら岩影で過した夜が思い出された。岩雪崩の際に起こる金属が焦げるような匂いさえも。
ここから1時間半ほどで西穂の小屋に行けるらしい。小屋は大層立派になったそうで、一年中番人が住んでいるとのことだ。
どんなお偉い宮様方も、
雪の褥(しとね)に、雪の褥に岩枕
チョコサイコラコイ
などは昔話だ。上高地の西糸屋でフランス料理のフルコースが供される時代である。 西穂小屋の持主であった村上守さんには、戦後間もない食料不足の時期に登山を始めたので、闇米の買い付けをはじめとして色々と世話になり、無人の積雪期にはこの小屋に窓から入って一晩過させてもらったこともあった*。現在、小屋の連絡所は松本市の村上ビルとなっており、彼がまだ存命なら、ビルを持つ社長として威張っているに違いない。我々の登っていた頃の山男達、特に冬山を登るベテラン達は、昔彼等が山案内人であった頃の名残の習慣からか守、徳沢の主人上條さんは進と呼び捨てにしており、上高地の大将と呼ばれた帝國ホテル番小屋の木村氏のみ何故かさん付けで呼ばれていたものだった。
このロープウエイから見降ろす雨に洗われた新芽の木々の美しさは、八十歳の老人に文字通り眼が洗われる感動を与えてくれた。若い時、特に新人の頃は、樹林地帯は、氷雪の岩場へのアポローチにしか過ぎず、ただ下を向いてザックの重みに耐えるだけで、木々の美しさなどに眼を向ける余裕なぞはなかったものだ。その頃はザイルも天幕もナイロン製ではなく、麻と木綿で、新人時代にはそれが新人の貫禄だなどとおだてられて大きな鍋まで担がされたザックの重さは今思い出してもぞっとする。よく五十キロ足らぬ身体で頑張り通したものだと我ながら感心する。もうズク(意地をはるの山男の言葉)でしかなかったのだ。
最後の目的地白川郷に向う。もう車も売り飛ばし再びハンドルを握ることもない老いの身では、どの道を通って何処に抜けようと、気に病むこともなく、覚える必要もない。
「お控えなすって、お控えなすってくださんせ、手前生国と発しまするは」**と親指を外に出して仁義をきるヤクザの楽旅同様、今ではバスに揺られてさえいれば手拭一本持たなくとも次々と伝達されて何の心配もなく目的地に達することが出来るのだ。交通事故さえなければ遠州森の石松のように殺されなくっても済む。有難い世の中である。
駐車場より庄川にかかる出会い橋を渡って山を背にした「世界文化遺産 国選定 重要伝統的建築物保存 萩町合掌造り集落」と長い肩書きがつく案内図の白川郷を訪れる。同じ合掌造りの民家が百軒近く大小の差はあるものの、皆揃って南北方向に向いて散在している。外人の観光客も多くTypical
Japanese village I have dreamedと感激するに違いない。家と家との間隔が適当に開いており、そのゆとりが村全体にある落ち付きを与えている。明善寺というお寺も同じ合掌造りである。世界遺産に指定されても、いまだに村人達は日常生活を営んでいるので、不躾な覗き見的行為は慎むべきだ。昔は養蚕が盛んだったそうだが、いまや桑の木は近傍には一本も見当たらぬ。村の庄屋だった和田家もそれに次ぐ神田家も現在家人は住んでおらず、資料館として内部が開放されている。養蚕は行っていた頃では昔風で言えば下男、下女、今風では男女家事手伝いを余程多く使わなければ、実生活がいくら簡素な当時であったとしても、これだけの規模の家は維持出来まい。現在ではそのような家事手伝いを探し出すことは殆ど不可能に違いない。高山線沿線にも人手不足のために多くの日系ブラジル人その他外人労働者が出稼ぎに来て働いているのが現状だ。飛騨の片田舎から、遠くは富山からでさえ貧しい農家や山家の若い娘達が実家の食い扶持を減らし現金を稼ぐために徒歩で高山に集合し、世話人に連れられて雪の美女平、野麦峠を越えて岡谷の製糸工場に働きに出掛け、果ては次々と結核で倒れた悲劇は既に過去の物語となった。
私達夫婦は神田家を見学したが、使用されている太く立派な建築材は、すべて釘を使わず、荒縄で縛ってあり、これらの縄は囲炉裏の煙で燻されてより頑丈になって長持ちするとのことであった。時間がなくて説明が聴けなかったが、これらの建物は独楽の理屈とやらで組み立てられ、地震にも強いという。
大きな数百年を経た巨大な金色の仏壇は仏間に残されていた。当家の家族達が現在どこか都会のコンドミニアムに引っ越したとすれば、この仏壇を部屋に持ち込むには窓か入口を壊さなければ到底無理なのがその理由だろう。この部落では「ゆい(漢字では結?)」と呼ばれる相互扶助組織があリ、萱の屋根の葺き替えはお互いに彼等全員で行う習慣だったとのことだが、最近は葺き替える萱も容易に手にいらぬらしい。屋根吹き替えの技術を伝える老人が次々と死に絶え、それを習得する若い衆も村に残らなくなれば、「ゆい」の消滅は間近いこととなる。これからの世界遺産の保存維持には想像するだけでも多くの困難が予想される。
帰りは名神高速道路が工事中で渋滞との情報が入り、他の高速道路を迂回して走ったらしいが、「あっしには関係のないことでござんす」とばかり文字通りの白川夜船で、気が付けば予定通りの9時半頃、大阪に到着していた。
*春の西穂を一緒に登った鈴木道明君は開成高校の学生で当時我々の嶺グル−プに属し、その後学習院山岳部に入部し、富士山での雪崩による大學山岳部の大量遭難のとき、私は慶応医学部山岳会の助っ人として、現地で偶然に落合い、私が貸した寝袋を返してくれぬうちに鹿島槍ヶ岳で遭難死された。明朗な都会的好青年であった彼の冥福を祈るばかりである。
**昔博打即ちヤクザが一宿一飯を土地の親分に御願いする時の挨拶で仁義を切ること言う。親指を出して挨拶するのは役人に追われていない楽旅であるということを示す。
手拭一本を差し出すのが礼儀だが、それは出発時返してくれ、次ぎの泊まり場所をその土地の親分に伝達してくれる習慣があった。
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