久し振りにSQに搭乗し、バンコックに降り立った。SQとはご存知シンガポ−ル航空のことで、新型機種を逸早く購入し平均五年とか言う短い就航期間で下請けに出す故か、事故が少ないこと、民族衣装着用のキャビンアテンダントのサービスが良く、食前、食中、食後にそれ相応のリカーを惜しみなく供することで評判が高い。格安搭乗券が他の航空会社より少々高くともSQを選択する乗客が多いのも無理もない。今回は同社が特別キャンペーン実施中で通常よりも廉い格安航空券を購入できた。女性キャビンアテンダンが、揃いも揃って今流行りの小顔に見せるためか、鬢付け油かなにかを使用して出きるだけ髪を引き詰め、後頭部で髷にして、ほんわりとした色気を襟足から発散させていた。但し歩き方は以前より次第に上品となり、大股で歩いて巻きスカートの間から生足ちらりと言う風情が無くなったのは進歩か退歩か。各航空会社必死の生き残り戦術の影響を受けて、酒の質は前より幾分落してあるとみた。SQでは、他社が小瓶入りワインを配っていた時代から、フルボトルでのワインサービスで評判だったのだ。私は食前酒にスコッチ・アンド・ソーダをオーダーしたが、よほどこちらの発音が悪かったのか、スコッチにソルトを入れて供されたにはあんぐり。まあ、文句を言うのも面倒くさく、桝酒の隅に塩を置いて飲むのと同じことだと思ってそのまま引っ掛けた。これなら名物シンガポールスリングを頼むべきだったと思ったが後の祭だ。どうも昔から英語の発音が悪かったのが益々酷くなり、その上難聴が加わったので、娘と二人での今回の旅行中、誰かに英語で話し掛けた場合、いつのまにか相手は私を差置いて発音の良い娘の方を向いて話が進み、親としての権威ははなはだしく傷つけられたことが多かった。
 空港を出たた途端、ココナッツオイルの香りがムゥーとばかり熱風とともに吹きつけ、いかにも東南アジアに到着しましたと言う感じだった昔のドムアン空港とは全く異なり新しく建設されたスワンバブーム空港は無機質な趙モダンな構造ある。ドムアン空港は国内線の空港と格下げになったそうだ。汚職が理由でクーデタ−によりその職を奪われたタクシン前首相が一枚噛んでいたため開港早々雨漏りがしたという噂もあった新空港は、成田空港の三倍の大きさであるという。コンコード中央に置かれた一見鬼が綱引きをしているように見える原色巨大な彫像はアンコールワットの壁画、乳海攪拌の立体像で、この近代的大空港が東南アジアの一郭にあることを誇示していた。
息子の出迎えを受けて駐車場に赴く。息子は本年4月から日本のM自動車製造会社現地工場勤務となり、事故を起こされては会社の名声が傷つくのを恐れてのことか若い癖に専用運転手がついていた。
50年も前、1950年代に、私もアメリカでの研究所務めを経験したが、当時病院や研究所に勤めていた医師や科学者と、商社駐在員との間には経済生活に天地の開きがあったことを思い出した。乏しい給料で自前で食っていかねばならぬレシデントや研究員は帰国の運賃を貯めておかねば親の死に目にも会えず、小汚いアパートに住み、まず帰国費用1000ドルを貯めるのに必死になったものだった。現在と違って1ドル360円であり、ドルの日本国外持ち出し200ドルまでとの制限があったからである。
 空港からパタヤまでは一部工事中の場所を除いては素晴らしく立派で直線に近い高速道路が貫通していた。コンテナーを積んだ大型トレイラーがひっきりなしに走っている。聞けばチャオプラヤー河口のバンコック港には砂泥が蓄積し、大型船の停泊が難しく、パタヤ港で荷の揚げ降ろしする船が増えたからだという。
3時間あまりでパタヤに到着した。息子がリザーブしてくれたビーチ近くのウッドランド・ホテル・アンド・リソートはこのあたりに乱立する大資本系コンクリート製高層建築ホテルとは異なり、プールが大部分を占める中庭を囲んだわずか135室の名前通り木造三階建てのこじんまりとしたホテルで、私の好みにぴったり、バスルームのタオル一つにしても一寸工夫がしてある洒落たホテルだった。エコノミークラス・シンドローム防止の為弾性ストッキングを外すと、カバーされていなかった足先がひどくむくんでいるのに気ついた。老いの証拠、情け無いことだ。
時間も遅く、孫達の顔を見るのは明日のことにしてまずはホテルのバーでビールの乾杯をし、近くの雑駁な現地人用の店で腹ごしらえして、早々にベッドに横たわる。孫達は目下地元のアメリカン・スクールに在学中である。長男はおとなしく読書好きだが、次男は甘えっ子の癖に腕白で、私に喋った唯一の英語が「Hey,come on!」だったには恐れ入った。
翌朝7時半にプールサイドを横切ってブッフェ・スタイルの朝食を取りに食堂に向う。早くもプールサイドの椅子にはこれ以上体型が崩れようもないという老婦人が三段腹、四段腹にビキニを着用、日焼け止めを塗りたくって座り込んでいる。白人の皮膚癌は過剰なサンバーンが影響すると判っているのにご苦労なことだ。海外でいつも思うことだがリゾートに行ける余裕がある証拠としての見栄も加わってのことか、コカソイドの日焼け願望は我々モンゴロイドには異常としかうつらぬ。
どうやら日本人宿泊客は我々親子だけらしい。もう一組の東洋人カップルは、英語で話していたが、ラー、ラーという単語が入っていたので、どうやらシンガポーリアンだ。単独旅行の白人は例外なくタイの女性同伴、所謂お持込で泊まっているようだ。彼女らは若いだけが取り柄で、揃って低い鼻が左右に広がっている典型的なタイ南方系の田舎娘、躯の発育も貧弱だ。このあたりの現地人はバンコックで見られる多くのタイ人と全くの趣が違う印象で、これはバンコック住人には華人もしくは華人との混血が多いためらしい。美人の産地チェンマイあたりから流れて来た人達も多いのかも知れぬ。
面白いことに白人同士のカップルは現地人お持込の連中とは一線を画し、彼らを完全に無視して視界の外においていることだ。お持込の白人達は流石照れくさいのか、さっさと食事を済ませるやそそくさと席をたつ。残された彼女らは皆椅子の上にあぐらをかき始め、なるべく高そうな物を選んでむさぼり食っている。寒寒々した風景だったが彼女らにとっては「サバーイ」*状態だろう。
その内、男の目が一斉にプールに向けられた。そこにはまだ日焼けしていないプロポ−ズ抜群の若き白人美女が現れたのだ。しかし、彼女が昨夜からお持込したらしい現地人の赤いパンツを穿いた所謂ピーチボーイが彼女の世話を焼き始めると彼女もまたカップルの白人客の視野外に置かれることになった。これが白人達の洗練された?個人主義的リゾートマナーなのだろう。
 ホテル従業員のお持込の現地人に対する態度は彼女らの暮しの苦しさを理解しているのかマナーなのか、あからさまに軽蔑した態度は見せなかった。もっともタイでは素人と玄人との境があまりはっきりせず変幻自在という噂も聴いた。なにせ小乗仏教の国だから、坊さんには戒律がひどく厳しいだけに、俗人にはすべてが寛容なのかも知れぬ。
パタヤビーチはベトナム戦争当時、神出鬼没の北ベトナム解放軍に心身をすり減らされたアメリカ兵の一時帰休地として開発された場所である。戦地割増制度で金だけは潤沢に持つ荒んだ気持ちのGI達がこのような場所では何を望むかは判りきったことだ。現在でもその伝統が引き継いでいるのか、バンコックからの日帰りも可能でもあり、他のリゾートビーチに較べ、当地は柄のわるいことで有名だそうだ。今時の流行の影響かタトー男も少なからず見られた。
食後息子の社宅を訪れる。駐在員達の社宅として借り上げられるのを目的として建てられた庭付き白亜の邸宅が、ガードが常駐する鉄門扉と白壁で囲まれた一郭に並んでいる。セキュリティ的にはまず問題があるまい。ただ不思議なことに主婦の座である筈のキッチンは採光も悪く、居間より一段低く設計され冷房装置さえ備え付けられていないことだった。息子の家庭では仕方なく居間の冷房装置からの冷気を扇風機でキッチンに回し送っている始末だ。我々から見れば随分と奇異に感じるが、これはキッチンをメイドの居場所としてしか考えていないのか、あるいは伝統的タイ式食生活を頭においての設計とも思える。この国の一般家庭ではごく最近まで電気冷蔵庫が普及していなかったため食物の買置きが出来ず、夫婦共働きが一般的で、退社後、町中にごまんとある屋台で出来合いのおかずをニ、三ビニール袋に入れて持ち帰った方が家庭で料理するより簡便且つ経済的であり、それらのおかずを大皿に移して床の上に直接並べ、家族が車座になって居間で食事するというのが一般的習慣らしい。この伝統的食事形式は最新式のマンション住まいの住人にも受け継がれており、ダイニングキッチンで椅子に座って食事をする家庭は稀だと聴いた。たまに家庭で調理する際も、食材や俎板その他調理用具をやはり床に置いて座って造るという。
昼食には海に張り出したテラスを持つ半野外風レストランで、タイ式海鮮料理をご馳走になる。海よりの微風が頬に気持ちよい。すぐ横の海岸では犬も暑いのか海水浴と洒落ていた。いろいろと品数が出たが、中でもかなり大振りの魚を背割りにした唐揚げの甘酢掛けが絶品であった。からりとした揚げ方といい、南方の魚には珍しい身の締まった魚そのものの味といい、この旅行の直前に岡山の寄島で、賞味した瀬戸内海名物オコゼの唐揚げに勝るとも劣らぬ一品である。そう言えば昔はシナ料理のフルコースの最後には鯉の丸揚げ甘酢掛けが必ず出たものだった。当時子供だった私はその前にお腹がくちくなり、横目で眺めて手が出なかった悔しい思い出がある。しかし、最近日本では鯉の丸揚げが滅多にコースのしめに現れなくなった。鯉が減ったのか、値上がりしたのか、日本人の味覚の変化かのどれかだろう。
午後には東南アジア旅行の経験の少ない娘のためにマーケット巡りをしたりした。私も海外でのマーケット巡りが大好きだ。一番その地方住民の生活にじかに触れることができるからだ。ここでは日本では天然記念物と成り果てた兜蟹まで売っているそうだ。戦後ある時期までは岡山県の笠岡あたりの海岸では沢山の兜蟹が棲んでいたものだったが、この地区の無計画な埋立事業や水島工業地区の発展のため、最早天然ものは殆ど見られず、笠岡カブトガニ博物館で養殖したものが天然記念物として生き残っているようだ。あまり肉がついているとは思えないが、どこを食べるのだろう。兜蟹は本当は椰子蟹同様、蟹属ではなく、蜘蛛の一種だからあまり食べたいとも思わないが。
昼飯を堪能して腹がへらないので夜はイタリアンレストランでスパゲッティを食べる。欧米人の客が多いので、スパゲッティの茹で方も、ガーリックの効かしかたも、日本では滅多とみられぬ本格的イタリア風味であった。生憎この日は選挙期間中とやらで、公式にはアルコールの販売は禁止されていたが、ちょっと人目を避けた場所に座るといくらでもビールが呑めたのは仕合せだった。「マイ・ペン・ライ」**でこのあたりの融通無碍さがタイの良いところだ。
道路にも建物にもタイ王族のカラーである黄色の旗がタイの国旗と対をなして掲げられている。日本では菊の後紋章どころか日の丸さえ最近は見ることが稀になった。丁度この日は黄色いシャツを着ているタイ人が多く、選挙中のこともあり、王様派の人達のキャンペーンかとも思ったが、この国では、週日によってその日の色があり、丁度この日は月曜日で、黄色の曜日だったのだ。何でも物事は現地の人に確認してみるものだ。
王様御夫妻の写真も何時もの如く街中至る所で見られた。この国の王様に対する国民の尊敬は絶大である。数年前スイスの馬鹿男が王様の写真にいたずら書きをし、裁判の結果王室侮辱罪で収監されたとのニュースが流れた。昔評判をとったユルブリンナー主演の映画「王様と私」も王家を侮辱しているとして上映禁止とした国のことで当然の処置だろう。 
何度もこの国を訪れたが、王様の御写真が今までは必ず金ぴか軍装風のりりしいお姿ばかりであったのに対し、今回は国民と気軽に一緒におられるところや、ご趣味のカメラを覗かれていると言うようなくつろがれた平服姿の御写真が多く見られたことに気がついた。大きな変化である。現国王は相当のお歳ではあり、健康状態も万全ではないとも聞くが、どなたが王位を継承されるのかまだ未決定なのだそうだ。王子より王女方が有能であるとか、評判がよいとかの噂もある。王位の継承を考慮に入れての変化とも思われる。万一王女の場合、金ぴか軍装姿では宝塚少女歌劇風となり格好がつくまい。 
ネパール王家の訳のわからぬ王位継承騒ぎやそれに続く新王の失政で、残り少なくなったキングのカードがまた一枚減ろうとしている現在、私個人としてはわが皇室に特に親愛の情を示されるこの英邁な王様のさらなるご長寿とタイ王室の末永い存続をお祈りしたい。
食後、娘は息子夫婦に連れられてタイ名物ニューハーフショー、即ちオカマ・ショーを見に行くという。私はその手のゲテモノ趣味はなく、また、昼間に見たこのショウの催行される"小屋"が一見オペラ劇場を模したような壮大ながらどこか下卑た感じのただよう建物だったことに嫌気がさしていたので、慣れぬことながら腕白孫の守をホテルですることにした。あっしも歳をとったものだ。王女より自分の方が先に清く、正しく、美しくと宝塚のモットー調になり下がったことは残念なことではある。鏡張りの床の上でのスッポンポン踊りも見たパッポン通りなどの歓楽街への出陣も最早「遠い昔の夢でした」。まあこの歳ではスカッタナカンベヤ。人生は諦めが大切です。
*快適のタイ語
**気にしない.大丈夫と言うような意味。