「下の活気衰えれば、即ち舌の活気は盛んとなる」とは紀元前500年前後、東西のニ大先哲ヒソクラテスと孔子が喝破し、ピタゴラスがその定理を証明したというのは全くの誣説だが、七十歳を越えて神戸に移り住み、生い先短い私にとっては身に迫る覚えがあり、廉くて美味いくいものやを探求することは人生最後に残された究極一大事業と考えている。
神戸のくいものやに関する万巻の文献を渉猟し、これぞと思う店構えの店が目につけば万金をも惜しまず試食してはみたものの−というのは大袈裟で関西弁の「ええかっこ」し過ぎだが−、なかなかこれぞと言う店は見当たらぬものであることを知った。それらのうち、江湖の諸彦に推薦するに足る店を数軒列挙してみたい。

                      なだや

 住宅街にある目立たないこじんまりとした鮨屋である。あまから手帳うまい店100選に記載されており、下駄(握った鮨を客の前におく二本の低い足のついた下駄大のもの)に河豚、赤貝、貝柱、穴子という四つの鮨が何の変哲もなく並べられている写真を見て、ウム、これはネタに自信のある店に違いないと直感したのだった。河豚には味付けとして少量の浅葱と酢醤油であえた大根卸しが乗せており、赤貝は色良く、端の部分は綺麗に落としてある。ばち貝なんぞと言う場違いなものを使ってはいない。貝柱は海苔を巻くような下らぬ小細工はしておらず、穴子もいかにも「うちはサービスがよろしいでっしゃろ」としたりを顔して一匹付けを自慢して燕尾服風に尻尾を長々とたらしていたり、シャリを上下で包んでとぐろを巻かしたりはしてはいない。穴子はかなり味がしつこいネタでありシャリとのバランスが大事なのだ。訪ねてみて写真通りのけれん味のない店であることがすぐ判った。
大将は昔、弁当家その他を商っていたこともあるそうで、現在気に入ったよいネタで鮨を握れるのが嬉しくて堪らぬという風情がある。彼の趣味はへら鮒釣りで、微妙な手先の釣り感覚を楽しむのみ、釣れればすぐリリースするという。この繊細な指先感覚がとけそうでとけない空気を含ませたシャリの握りに生きていると見た。
 地元名産である明石鯛や高砂穴子は言うに及ばず、殆ど生のように見える平目や飴色がかったキスなど昆布〆めも魚の種類によって異なった加減で〆てある。鮪も中々のもので、トロでも白い筋が口に引っかかるような品物は仕入れていない。当地名産である明石蛸は気に入ったものが中々手に入らぬとかであまり握りたがらない。遠来からの客の中には折角神戸を訪れながらと、がっかりする方もあるかも知れぬが、職人気質のこだわりと諦めて貰うことだ。先日は蒸し鮑に、一寸わた(腸)を添えて出されたが、その蒸し方の程よさ加減は、残念ながら生の鮑を食うのが無理となった老人にも十分に満足のいく、生に近い海の匂と味を残しながら、しかも塩の効いた柔らかい蒸し鮑の妙味も十分引き出しており、噛めば噛むほど、鮑の甘味が堪能出来、ガリで口を洗うのが惜しい絶品であった。
 現在博多の割烹旅館店で修行した息子が一緒に働いている。上下関係のうるさい九州の職場で相当の苦労をしたのだろうが、覚えるものは覚え、盗めるものは盗んで中々の腕前、しかも美人の嫁はんまで引き連れて帰って来たのだからたいしたものだ。でしゃばることもなく親子の息がぴったり合って仕事をしているのは客にとって見ていても気持ちが良い。ただ鮨屋も東京三原橋際のニ葉鮨で親子二通って味を覚えた私としては、関西でこはだや煮蛤など江戸前の仕事をした鮨が食えぬのが残念だ。先代の二葉鮨の主人は芸者あがりのあいその良い女将が帳場に座らせ大層な道楽者で近くの歌舞伎座にも顔が効き、楽屋に案内してもらったこともある。その後お互いに主人も客も二代目どうしとなり、生鮑のへたの切り落としを貰ってコリコリと塩で食いながら一杯やった楽しみなど老残の身には最早夢物語でしかない。 
 鮨好きの最後の願いとしては、どちらかの店で鮨を小さく小さく握ってもらい、一寸酒で咽喉を湿らせて食らうのを末期の楽しみとしている。ただそのような状態で往生できればの話だが。

                      青葉

 関東と関西では鰻の裂き方と焼き方が違う。関東では背開き、関西では腹開きであり、関東では白焼きにし、一度蒸してそれからタレをつけて焼くが、関西では蒸さない。
江戸には武士が多く切腹を嫌って背開きにしたというが、江戸前の握りでこはだが背開きしてあるわけでもなし、身の厚い背開きの方が、蒸すときに身が崩れないからだと聴いている。蒸しについては調べても由来がはっきりとせぬ。折角精がつくというので食べる鰻の脂を抜くのは勿体無いと言う関西の合理精神あるいはケチ精神の表れとも考えられないこともない。 
 ただ現在料理店で出す鰻はすべて養殖である。戦前には養殖鰻の餌には蚕の蛹を与えており、独特の臭みがあった気がする。現代では蚕の蛹を食わそうにも最早蚕そのものが殆ど飼われておらず、餌が改良されて味が良くなったのが原因だろう。天然鰻も食べたことがあるが、舌が養殖物に慣れてしまったせいか脂が少なくそれほどの美味いとも思われなかった。もはや天然鰻を売り物にする店は材料不足から殆どあるまい。
このあたりが他の養殖ものとは違う所で、例えば鯛などは養殖物と天然物は比較にならぬ。昔は養殖鯛は浅い所で飼っていたので、ゴルフ焼したように黒ずんだ肌合をしていたものだが、現在は日除けを被せたりしているのか色だけは桜色となったものの、これぞ鯛と言う特有の噛み応えがないので一目、いや一噛み瞭然だ。 
 鮎も倉敷で若い頃から自宅のすぐ近くを流れる高梁川でとれとれの天然物を食って育った私としては、背骨の両側に脂がびったり、身に締りがなく、香魚と言う別名が泣く匂もない養殖鮎は塩焼きは勿論、せごし(腸を取ってまるのまま輪切りにして梅酢でちょっと〆る料理)にしても食う気がしない。
 さて、神戸では江戸前風の鰻を食わす店は私の知る限りでは二軒だけである。私の行きつけの店は「青葉」だ。最近は随分と面影が変わってしまったが、昔はデパートで売っていない洒落た高級品が置いてあった専門店が軒を揃えていた神戸一の繁華街、元町通りもから鰻の匂が届く距離の横丁にある。狭いながらも和風の入口には狸が置いてありなんとなく風格のある構えだ。 
 青葉を贔屓にしたのは漬物が他の一軒より美味いからだ。鰻屋では漬物に気合いが入っていないと格が落ちる。漬物を店で漬け込んでいた昔には、漬物が女将の腕の見せ所だったのだ。
 昔は客が来てから鰻を裂いていた。倉敷にいた頃、まだそのような店が一軒あり、贔屓にしたものだが、世知辛いスピード時代の世の中では客との間拍子が合わないのかすぐに潰れてしまった。鰻にありつくまで時間が掛かった頃の名残で、青葉ではつきだしにも平目の昆布〆めだの、神戸で戦前から有名な「たいや」鱧いり蒲鉾だのとしゃれたものが置いてある。肝焼きは活きの良いのを焼くのでこりこりした心臓部の歯ざわりがなんとも言えぬ。ただこの店では肝はすべて肝焼きに使うのか、肝吸いが出されず、味噌汁なのは残念だ。やはり漬物だけではなく、肝吸いで時に舌を洗うのも蒲焼を旨く食うコツと思っている私には残念でならぬ。鰻屋で鯉こくを出す店も関東にあったが、かなり脂濃い椀なので肝心の鰻の味を殺すのではないか。蒲焼の前にごたごたとくだらぬ料理を出す店は、社用族接待向きのためで、ゴルフ場での昼飯にステーキなど豪華料理を出すのと同様、全く無粋なことだ。
スーパーなどで売っているわざと照りをつけたまっ茶色の鰻ではない。ここは三河産をを使っていると言う。裂いた鰻の身と皮の間に竹串を打ち、一度白焼にしてから蒸し,再びた焼きながら二度タレにどぶ漬け〈タレを鰻に塗るのではなく、直接タレ壷に漬ける〉し、鰻丼、鰻重の場合は二度目のタレに漬けたあとそのままご飯の上に載せて供するのだが、ご飯とタレとの割合が丁度良い加減となっている。代々続いて追い足ししたタレは,あまからずからからず、陳腐な形容でしかないが老舗の味と頷かせるものがある。
 鰻屋修行は裂き何年、焼き何年と年季が掛かるそうだが、単純な料理だけに、かえって誤魔化しが効かず、いろいろと難しいコツがあるようだ。
 話が飛ぶが鰻をヨーロッパで食らうと蒲焼の語源通り、丸のまま輪切にしたのが出てくるが、ローマ時代には貴族達は、日本と同じく裂いた鰻に魚醤に蜜で甘味を付けたタレをつけて食べていたそうだ。牡蠣とともに養殖もしていたそうだ。そう言えば、マドリッドはプラザマヨールの一郭、半地下のバルで白葡萄酒の肴にした小さな鰻の子の煮凝りが美味かった記憶がある。 
 先日、暑い盛りに、この店でデザートに西瓜が出た。鰻と西瓜は食い合わせだと子供の頃聴いた覚えがある。吉村昭の「歴史の影絵」にも、フォンシーボルトと遊女其扇との間に生まれた女医イネが鰻と西瓜を食べて死亡したとその娘高子が語ったとあった。しかし、この店で大勢の客に毎年西瓜を出して、当たったとの話を聞かぬところをみれば、この食い合せは俗説に過ぎぬのだと安心したことである。

                        杏杏

 しんしんと読む。鯉川筋から一寸入った横丁にある小さな狭い店である。幅広いガラスの入った広いカウンター席は鰻の寝床で、格子戸を開くと座っている客の背中が鼻先に迫る。ただしキッチンの裏にもう一つ殺風景な部屋がありテーブルの二、三席もあるのだが、客には人気がなくカウンター席が空いている限りそちらに行きたがらぬ。カウンター向こうのキッチンもこれまた鰻がようやく寝返りを打てる程度の広さで、よくこれで料理がつくれるものだと驚くような狭さだ。しかし、この狭いキッチンから名物支那粥を始めとして女主人の呉杏芳さんが大汗を流しつつつくる家庭風中華料理中国語で言う「家常菜(チャーチャンツアイ)」に惹かれて大勢の客が寄ってくるののである。この店は彼女の細腕,と言っても相当に太いが、で持っているのだ。昼飯時などいつも満席である。鳥がらスープ加えて、お米の姿が消えるか,消えないほどに長時間煮込んだ塩味のお粥の味は「うむ」と言ってあとの言葉が出ないほどの深みがある。胡麻油が一寸たらしてあり、細キリの白葱、香菜、餃子の皮の揚げものを付け合わせて食べるのだ。このお粥には魚、鶏、ピ−タン入りと三種類がある。魚は白身の薄切数片を熱いお粥にくぐらせて食べるのだが、これは若い頃通った横浜中華街の謝甜紀と同じ趣向だ。謝甜紀には貝柱、牛肚などの粥もあったと覚えている。ここの粥は鶏がらスープの味が濃いのであまり具にこだわる必要はあるまい。これだけ多くの客に昼夜食わすお粥はどんな大釜で炊くのか一したいものだ。ここのピータンは白味が茶色のガラスのように透き通っていて、特有の硫化水素じみた匂がすくない。あと、蒸鳥、焼豚、胃のボイルなど、それぞれ結構で、新鮮な蝦が透き通ってみえる薄いライスペーパー巻きも、揚がりが確りしていて甘酢の良く効いた酢豚も中々の味だ。しかし、この店ではやはりお粥をメインにして食べるのがまっとうな通と言うものだろう。
 最近この店も豚マンを某百貨店に出店して売ると聴いた。今までの経験では店を大きく改装したり、支店を出したりすると大抵の店ですっかり味が落ちる。この店もそのようなことにならないことを祈るのみである。

                     洋食の朝日

 さすが昔から港町として栄えた神戸のこと、真っ白なリネンのテーブルクロスにワインリスト、タキシード姿のウエイターのサービスで西洋料理を供する高級レストランには事欠かない。同時にいまだにどの料理にもライスと味噌汁が付く「洋食」という昔ながらの看板で居直っている店もまた数多くあるのだ。  洋食とはどこか和風の味付けを加え日本の匂いがする独特の西洋料理を形式張らず、しかも安直に食わせる店のことで、「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」明治時代に造られた新語であるらしい。グリルとは、そこまでは日本化することにプラウドが許さないシェフ兼オナーが開いている店が多い。本来グリルとは、例えばホテルなどでメインダイニングルームに出掛けて食事するほど腹も空いておらず、一品料理とサラダでも取って軽く済ませようとする時に利用する食堂のことである。神戸では南京町に近い伊藤グリルがその典型だ。初代は日本郵船欧州航路のコックだったそうで、二階にあるレストランへのリノリウム張りの階段など客船の通路を思わす雰囲気がある。料理もへたなホテルなど到底及ばぬ正統派で、手抜をしていない皿を出してくる。先日1500円のランチに冷たいマッシュルームスープが出たが、ポタージュでありながら、その端雅な味にはこれが格安料理につくスープかと驚いたものだ。
 戦前には客船のコックでフネから上がった連中が自前に始めた店にはこの手のものが多かったようだ。ことに日本郵船のコックやバーテンダーだったと名乗れば、その世界で一目もニ目もおかれたものだ。煙突に赤の二引きのマーク(白地に赤の二本筋が引いてある郵船のマーク)のご威光は大したものだった。私が昭和三十五年に米国留学に向う時、日本郵船貨客船の、客を乗せるの最後の航海を利用したのだが、食事には船長以下高級船員が制服で威儀を正して同席、海員組合の勢いが盛んだった頃でもボーイが銀盆を両手で抱えて背後に立ってサービス、その料理は陸では食べられぬ豪華さだった。戦前からメロンなぞ珍しくもないかなりハイカラな家庭に育った筈の私も恥ずかしながらここで始めてグレープフルーツとグレープの違いを覚えたくらだ。まだ街では戦後の名残が残っておりグレープフルーツなどという果物は街では殆ど出回っていなかった時代の話である。
 しかし、瀬戸内海の新鮮な魚介類に恵まれながら、帝国ホテルや東京會舘などにあったプルにエを名乗る店が神戸に一軒もないのは不思議なことだ。旧オリエンタルホテルにも無かったような気がするが。
 話が飛んだ。洋食の朝日は現在二代目だそうで、初代はどのようなキャリアを持ったシェフだったかは詳らかではない。ただ修行した店の格などとは関係なく、これだけ評判をとるほどの味の料理を出し、それを二代目に正確に伝えたからには相当の手だれコックであったことには間違いあるまい。
 洋食の朝日は西元町の駅から一寸外れた繁華街とも言い難い下町のあり、目立つ店ではないが、ランチタイムには行列が出来ているのですぐ判る。日本独特の値段をつけた料理見本がショウケースに陳列してある街の洋食屋そのものの構えで、高級感を出そうという意図などはなからないような店である。
 男が店先に並んで飯を食うのはみっともないから止めろとは親父の遺言だったが、ここだけは遺言に違反して心苦しいながら、それでも並んでも食う価値ありと粋でないのを承知で並ぶ雄一の店である。戸外に並んでいる客にメニューをわたしてオーダーをとり、客のほうも混雑は承知、相席O.K.というざっかけな店で、長っ尻はおらずわりと客の回転が速いのが助かる。
 ここの料理で美味いものはやはりビーフカツとクリームコロッケだ。もっとも初めて出掛けたときにこの二品をオーダーし、それ以来病みつきとなっているので、他の料理の味については承知していないと言うのが本当のところである。
 ビーフカツはフィレで、肉がまだ赤味を保っており、柔ら過ぎる程柔らかい。そのくせ衣はカリットと揚がり,油の切れもよい。肉がいつも全く同じ程度のメディアムレアに仕上げてあるのが不思議なほどだ。かけてあるグレービィもあまり濃くなく肉の味を壊していない。この手の料理にはいつも芥子をつける癖が直らぬいなかっぺーの私もこの店だけは味を損なう恐れがあると使わない。クリームコロッケも海老、蟹、マッシュルームその他がぎっしり詰まった柔らか目のクリームが、これもまたカリッと歯応えを感じる衣に包まれて揚げてある。
 やはりこの店は素材も良いが、あれだけ込み合った大勢の客の注文に、一つ一つに目を配りつつかつ同じ程度に揚げていくシェフの腕前は並ではない。その腕前がこの店をこれだけ繁盛させているのだろう。私がまだ外科医として油が乗っていた頃、手前味噌ながら手術場で器械出しの看護婦、いまは看護師に、私の手術は難しい症例でも同じテンポで同じ順手順で同じ器械を使うので器械出し〈術者にメスなど手術器械を渡す看護師の役〉が楽だと誉められたことがあった。ここのシェフも恐らくどんなに客が立込んでいようとも、慌てず騒がず、同じテンポで同じ手順で揚げているのであろうと想像したことだった。
職業に拘らず、それが職人のわざというものなのだ。

                       麺類 

 東京のうどんは関西人にとっては、濃い口醤油を使ったどす黒い汁の中に浮いている腰のないうどんはとても食えたものではないというが、出汁の材料から違うので無理もない。大阪を丹念に探せば良い店が見付かるのかも知れないが、うどんと汁の両方が揃って吟味されている店は以外と少ないものだ。その意味では腰のしっかりしたうどんそのもので勝負し、生醤油で食わす讃岐から始まったぶっかけは、うどんそのものを生かす上手い食い方の一つだ。
 神戸の水道筋と言う戦後の闇市から発展したと思われる商店街に「なや」という、うどん屋がある。ここの冷やしうどんは中々のものだ。蛍光灯のせいか薄く飴色がかってみえる冷えたうどんは、腰もあり、漬け汁も良い味を出している。白ごまが少々ふってあるのが心地よく舌に触る。
 関西では蕎麦よりうどんがポプュラ−で、良い蕎麦屋を見つけることは盲亀に浮木、優曇華の華だ。まだこれと言った店をみつけられぬが、二号線沿いにある甲南漬け広場の一角にある「そば辰」と言う店の笊がまあまあ咽喉越しもよく、汁も合格で、ちゃんと食い終わった頃、赤い湯桶に入れた蕎麦汁も出す。ただ山葵が薫り高い本物を出さぬのが残念だ。今や本場東京の蕎麦有名店で出す蕎麦はこれで一人前がと疑う程の量で、ダシもどんどんと甘くなってきているのは末世のゆえか。 
 ご大層な工夫をこらしたと称するラーメン屋で、おやじが仏頂面をしていて威張っている店が漫画本によく出てくる。剣道、柔道と同じくラーメン道というものがあるそうだが、親父が道場主然としているのは笑止の限りだ。もっとも衆道というヘンな道もあるので、あまり貶しも出来ぬが。
 しかし、現実には並んで食うほどの店は少ない。雑誌などに偶然紹介されているのにそそのかされて味もわからぬミーちゃんハ−ちゃんが蝟集しているうちに、たとえ始めは美味かったかも知れぬ店でも、忙しくなったこととおやじの増上慢ですぐ味が落ちるのが常道だ。麺は一寸ゆで方を間違えると麺の味のみならず、スープとの絡み方も違ってくるのだ。
 住吉郵便局横の「恵愛」という中国人の経営する小店がある。ここの名物葱ラーメンはラー油をたっぷり使ってあり辛さも辛いが、細切り葱とスープの味とよくマッチしてかなりいける。しかし、最近肝心かなめの細切り葱が産地を変えたのか、昔ほど吟味していないのか、あるいは葱の値段が上がったのか、量も質も落ちた気がする。
ラーメン屋は親父から息子に代が代わったりすると、がくっと味が落ちたりするのは不思議なことだ。息子が親父の作り方を十分習得しなかったのか、新味を出そうとして失敗したのかどちらかだろう。当地ではラーメンを洗って冷し、笊蕎麦のように濃厚なスープに漬して食べさせる店はまだ巡り合わぬ。あれは麺とスープに余程の自信がなければ出せないからだろう。
うどんやの後継ぎが、せめてカレーうどんだけでも先代と違う新味を出そうと、いろいろと香料を加えてたりして金と手暇をかけて工夫したカレーを作ってはみたものの、客の反応は鈍く、最終的には親父の作っていた純日本風カレ−に戻ったと言う話を聞いたことがある。親父の轍を踏んで良し、踏まぬが良しと、いずれにしても後継者は難しい判断が必要とされるに違いない。

さて最後に神戸に四年有余も住みながら、中華料理にまだこれと言った店ガ見付からぬのが残念である。隠れた名店はないものだろうか。神戸のホテルオークラの桃花林も、東京のそれに較べて一寸味が落ちるような気がする。横浜中華街はアンアンノンノンとやらの若い女性向け雑誌がグルメ志向の嚆矢として紹介して以来、どっとその手の客が押し寄せて味が落ちて駄目になってしまった古い記憶がある。神戸南京町も各店が争って立ち食い客専用のようなスタンドを道路に張り出し、肝心の店の入口が見えぬような有様、そのため中高生の修学旅行の連中まで繰り出して雑踏を極め、もはや老人がそぞろ歩きをしながら美味い店を探雰囲気ではない。亡くなった作家、開口健が日本のチャイナタウンの中華料理は、ロスアンゼルスその他の世界のチャイナタウンなどに較べ最低であると貶していたが、現代両チャイナタウンの堕落をみれば絶望のあまり二度死ぬのではないかと思うほどだ。困ったことではある。