少数山岳民族探訪 ベトナム



ラオ族の娘達


 南北に細長いベトナムは両端が膨れ、その地方が農業主産地であるところから、米穀を担った天秤棒に譬えられています。その北側荷物の端の端、中国との国境近くに住む少数民族を訪ねる旅を試みました。人が人を遊びで見に行くことは、ある意味で大変失礼な行為ではないかと考えないでもなかったのですが、なにしろ辺境好きのことゆえ、倫理問題はさておいてと出掛けることにしたのです。
 坐骨神経痛持ちの年寄旅行、ホーチミン経由でのんびりとハノイでニ泊、ホアンキエム湖で捕れたという体長2メートルという青海亀も裸足で逃げる淡水性の大きな亀の剥製に度肝を抜かれ、このような池の主的存在を捕獲しても放生することなく標本にしてしまうのはレーニン、ホーチミンの遺骸の見世物的保存作成と同様の精神であると変なところで納得した後、21:30発の汽車で国境の街ラオカイに向います。この列車にはビクトリア号と称するラオカイの同名のホテルが所有する寝台車と食堂車が各一輌連結されており、ホテル宿泊予定者のみが利用できるのです。社会主義の本家ソ連は崩壊し、中国とは紛争を起し、頼る国が無くなったベトナムの苦肉の選択、ドイモイ政策の一端がこのような資本主義を絵に書いたような車両の出現となったのでしょう。
 寝台車はコンパートメント形式で、各々曇りガラスの入った引き戸型ドアが付き、壁もマフォガニー風の木目も麗しいクラシックスタイル、枕元にはミネラルウオーターやアメニティーまで置いてあります。四名一室なのですが、我々は夫婦で一室を占拠することが出来ました。出発後間もなく紅河の鉄橋を渡ります。やはり紅河は大河で、渡り切るのに相当の時艱がかかります。鉄道の傍に道路が併設されており、天秤棒を担いだオッサンが行き来し、恋人同士が寄り添って夕涼みをしています。後学の為、旧東海道線並みの設備を持つ食堂車に行き、余り美味くもないフォーを食べた後、翌朝コンダクターに叩き起こされるまで、ぐっすりと眠りました。 
 ラオカイには04:30着、迎えの車でがたがた道を約2時間でサパ村に到着、小高い丘の上に建つコッテージ形式ながら辺地のホテルとは思えぬ豪華なクトリアホテルで、旅装を解きます。
 当地の露店マーケットは土,日しか開かれず、今日は日曜日、暖炉に大きく切られた薪が赤々と燃える食堂でバイキングスタイルの朝食をそそくさと済ましマーケットに向いました。それぞれ独特な特徴のある民族衣装に身を固めた少数民族達が、近隣から大きな竹籠を背負って集まっており、店を開いて物を売ったり買ったり、それに村の人や観光客が入り混じり大層な賑わいです。しかし案内者もなく、夫婦でほっつきあるいた我々にとっては、どれがどの民族か確かめるすべもありませんが、大部分が黒モン族、花モン族、ザイ族だそうです。サパ村は3000メートルを越えるフワン・シ・バン山にも近く、夏涼しいので観光客目当てのホテルが続々と建築中でどんどんと軽井沢化していく様子です。ラオカイからの道路は崖崩れが随所にみられる悪路ですが、大勢の人が転げ落ちた大きな石をひとつひとつ大きなハンマーで小石になるまで叩き潰すという、気の遠くなるような仕事振りながら、将来の舗装に向けて道路整備に勢を出していました。随所に見られたブルトーザは日本から中古品を輸入したらしく、00建築など日本の建築会社の名前が書かれた侭使用されています。
 翌日、手始めにサパ村から15kmのタイフン村に出かけました。ネパールと同様の狭い段々畑が随所に見られます。途中焼け爛れ、外郭のみが残った修道院があり、米軍の北爆によるものかと訪ねたところ、中越戦争の折り、中国が爆撃した跡だそうです。中越戦争はベトナム軍がクメール・ルージュ掃討のためにカンボチャに兵を出すと、クメール・ルージュを支援していた中国がベトナムに「教訓を与える」ためという、中国の覇権主義丸出し、なんだか訳の判らぬスローガンで始めた戦争です。核保有のときの理論と同様、資本主義の軍隊は悪で、共産国の軍隊は善であり、常に正義の味方か月光仮面などと世迷いごとを言っていた日本の左翼政党が共産国同士が戦うという「ありえぬ」事実に頭を抱えた争いでした。
 入場料5000ドンを払って、村にはいると赤い布を頭に大きく巻き、黒に近い紺衣装の花モン族があちこちの家々からわらわらと物売りが出てきていつまでもつきまとう、観光ずれした随分と気分の壊れた村でした。物売り達はそれでもかなりゴウーカな銀の耳輪や、首飾りなどの装飾品を財産として身につけています。彼らのみならず一般のベトナム人も度重なる戦争に政府を信用せず、銀行に預金するという発想は殆どなく、ドルに換えての箪笥預金か、金銀に換えて身に付けるのが普通だそうです。
 ホテルがハイ・シーズンのため2日しか取れず、翌日は夜行でハノイに戻る日です。昨日の気分治しに早朝出発して、95km離れた丁度その日に当たる火曜日だけ開かれる「新しく発見された」というコックリ・マーケットを訪ねることにしました。ガイド以外の同行者はデンマークの大使か総領事夫人と大使館員、スイスからの退職者夫妻、それに新婚旅行らしい絶えずいちゃいちゃしているドイツ人夫妻でした。カメラが全員キャノンのイオスだったには驚きです。ラオカイを通過して、どんどんと車が腹を擦る山また山の悪路を進むこと4時間、谷あいに面した小さなコックリ村を通る一本道に青いビニールで即席覆いを掛けたり、ただ道端にシートを引いただけの露店がところ狭しと並んでいるマーケットに到着しました。新しく発見されたという謳い文句だけあって我々に付き纏う者もおらず、かえって我々を見物する者もいるくらいで、昨日と大違いまだ擦れていない人達で埋まっています。なによりも驚いたのは買い物客の大部分を占めるラオ族のカラフルな民族衣装です。その間に混じってやや黒っぽい衣装は黒タイ族ということでした。彼女等は遠い山道を遥々と何時間もかけて歩をいてマーケットに来る訳で、近くの川に架かった吊橋には来る者、帰る者と往来が盛んです。我々が銀座に出る時と同様、一応晴れ着を着てくるのでしょうが、その色彩感覚のきらびやかでありながら洒落ていることには驚きです。頭に巻いているスカーフだけはなぜかそれが流行なのか英国風タータンチェックなのが気になりますが、それ以外はすべて伝統的な模様の民族衣装を身に纏っています。着物に似た左前合わせのブラウスの襟元と袖、そしてスカートにもそれぞれに細かい凝った模様入りの横縞で、少々、大屋政子、田辺聖子風のど派手な感じがしないでもありませんが、それらのコーディネイトは我々の感覚から見ても納得がいくものです。足にはこれもカラフルな巻きゲートル式の脚絆、スカートの上から前後に鎧の草摺りのようなこれは縦縞模様入りの少し硬め布をぶらさげています。脚絆は山歩きに必要で、スカートの前側の布はエプロン、後側の布は尻敷きの進化した物かも知れぬと昔山男は勝手な想像をめぐらします。赤ん坊は皆一昔前の日本と同様,背中におんぶされ、ねんねこに包まれています。そのねんねこもまた縦縞の民族衣装模様なのです。
 絶好の被写体なのですが、カメラに気がつくと若い娘達はくるりと顔をそむけるのがこまりものです。勿論許可なく写真を撮るほうが礼儀に反しているのは承知していますが、辺地に行けばいくほど許可を取ろうとすると、嫌々をしたり、くるりと後を向いたりで、たまにOKすると澄まし込んで写真にならなくなったりするのが困りものです。
 固有の民族衣装を身に付けるのは、お祭りその他の特殊な場合だけではなく、日常生活でも、特に女性では普段着としても着用しているようで、このマーケットの行き帰りに行き会った人達や、2,3の小屋からなる少集落でも子供まで着用していました。多くて、数万、少ないものは数千人というこれらの少数民族が、この文明開化の世の中で民族衣装着用になぜここまで固執するのかは、とても興味のある問題です。勿論彼らの住居には電気が引かれていない所が多く、テレビの影響を受けにくいことや、都会から隔絶した地域に住んで特有の言語で生活していることも大きな要素でしょう。しかし、多数民族であるキン族に圧迫されて山間僻地に追い上げられても、あるいは追い上げられたがゆえに、むしろ他民族との差異を際立たせるシンボルとして服装を固定化して自分達の誇りを保とうとする強い意思が働くのかもしれません。ただ、これら民族の男性は女性に比べ働きが悪いそうで、そのうち余程の力仕事以外は家の中でうだうだしている者が多く、このマーケットでも酔っ払って道端に寝ているオトーサンがいました。男女共に特殊の才能を持っているか、なんらかの機会により教育を受けることが出来た人達のみが、下界でホテルのポーターやウェイトレス、客室整備などの職についているようです。現にビクトリアホテルでも、これらの民族探訪のツアーにはベルボーイやポーター達がガイドとして同行してくれましたが、体格容貌と少数民族との会話に苦労していないことから察して、近くの少数民族出身者を雇用しているようです。 
 十分に写真を撮り、マーケット見物が終わった後、吊橋の架かった川を途中2,3ケ所川沿いの少数民族の部落を訪ねながら下ります。川沿いに散見される部落内の人達も皆固有の民族衣装を真面目に着ており、これらの衣装着用は決して観光客目当てではないことが確認されました。彼らは相当に急峻な山の斜面を恐らく幾世代にもわたってでしょうが開拓し、段々畑を造ったり、あるいは斜面の侭で,砂糖黍その他を植えて生活しています。当地は相当の寒冷地なので、収穫量はたかが知れていると思います。我々の見た範囲では焼畑農業を現在行なっている形跡は見られませんでした。彼らは人口が少ないにもかかわらず,他の民族との通婚は滅多にないそうで,いとこ婚など近親結婚が多いのではないかと想像されます。
 数十年先とは言わず、数年先に彼らの生活がどのように変化するのか、劇的に変るのか、あるいは現在と同じように固有の民族衣装を着続けて生活していくのか、ジーパン姿に変るのかは非常に興味のあるところですが、齢七十を越えた私にはそれを確認する月日が残っていないのはとても残念なことです。
 ここからラオカイに直行し、汽車の出発までの時間を利用して中国との国境をなす紅河の支流ナムティー河に架かる新キエウ橋を見学に行きます。例によって別名友誼橋と名付けられているのは両国の仲が悪かった証拠であるという私の理論的根拠はここでも証明された訳です。ベトナム側は橋の麓にある鳥居を思わせる赤門と通行禁止の柵がライトで照らされている以外、この時間では税関も無人で、国境の街という面影はなく薄暗い感じに比べ、中国側はこれみよがしにどぎつい色彩のイルミネーション、ホテルのライトアップと盛り場の趣きです。これも中国がベトナムに「教訓を与える」一環なのかもしれません。
 ちなみにベトナム人に一番嫌われている外国人は韓国人です。進出した工場などで、興奮するとすぐに従業員をぶん殴る癖があり、殆ど毎日新聞沙汰になっているそうです。次が旧宗主国面をする中国人で、アメリカ人はあれだけ戦ったにもかかわらず「昨日の敵は今日の友」の友好的存在であり、日本人の評判は上々だとのことでした。フランス人の評判を全く聞かなかったのは、ディエンビエフーの壮絶な戦いの後遺症で彼らがこの国に来ることを敬遠している所為かもしれません。



ここに幸あれ,青い空