玄奨三蔵法師も見た物見の塔

 平山郁夫描くところの駱駝に荷を乗せたキャラバンが砂漠を行進する絵などを見る限りシルクロードはとてもロマンチックな風景ですが、現地の荒涼たる砂獏、土獏、峨々たる雪山と禿山の連続を見るに及び、命を賭けてまで得ようとする人間の金銭への飽くなき執着が結実した道がシルクロードの実態と覚ったことでした。金と銀との鞍を置いて王子様とお姫様が月の砂漠を遥々と行けば盗賊に襲われ身ぐるみ剥がれ王子様は殺され、お姫様は陵辱されること請け合いの非情の世界なのです。
 狭くて水利が乏しいオアシスでは多数の人間を農耕、牧畜で養うには限りがあり、必然的に他の仕事、即ち商業や工業、その結果として流通産業を営まざるを得なかったことがシルクロード発展のもう一つの原因でしょう。
 中国語もウイグルも出来ぬ私は今回N社のツアーに参加しました。ツアーの常として、名所旧跡見学が飽きるほど積め込まれ過ぎており、さて帰国してみると常時アルコールを高濃度に含有した脳脊髄液中に、すでに老化し萎縮したした脳が浮遊している状態の私にとっては、すべての風景が重なり合ってピンぼけ状態と言う有様ですが、中国の最西端、カシュガルまで足を伸ばしたことで西域、あるいは新彊ウイグル自治区と言う地域を理解することが出来たと満足しており、印象に残ったことのみを記してみることにします。

                   ウルムチは大都会
 全日空のチャーター便が到着したウルムチは、四車線道路が縦横に走り,近代的ビルディングが櫛比し、日本の中都市、県庁の所在地などとは較べものにもならぬ、名古屋を彷彿させる大都市です。とても水面下156メートルとやらのタリム盆地にある辺境の都会とは思えません。したがってウルムチやトルファンを終着点とし、周囲の観光地に遊んで旅を終えるなら西域の印象はまったく違ったものになるでしょう。この辺りの道路は高速有料道路のみならず幹線道路はすべて四車線、いつでも軍用機が離着陸できる広さです。このような豊富な資金を持ち、反日教育を徹底的に施している国になぜいまだに不況の日本が政府開発援助を続けているのか、理解に苦しむところです。    
 トルファンはカレーズと呼ばれる天山山脈の水を人工の地下水路を利用して発展したオアシスの街です。カレーズは万里の長城、大運河とともに中国の三大事業とも言われるくらいで、氣の遠くなるような距離を砂漠の地下を掘り抜き造設されたカレーズを見ただけでオアシスの水の重要性が実感されたことでした。
 トルファンは、昔玄奘三蔵法師のお供である化け物ブーちゃんこと猪八戒が貪欲に食べすぎてここで下痢を起し、その排泄物に含まれた種から生えたと言う汚いが歴史ある葡萄の名産地でもあり、ハミの瓜とともにその美味さ、甘さで有名です。

                    広大なタクラマカン砂漠
 タクラマカン砂漠は世界第二の広さを誇る大きさで、最早サハラ砂漠横断は年齢的に無理と考えたことがこの旅行に参加した主な理由でした。我々が通過したタクラマカン砂漠縦断道路は、砂漠に石油開発のために開発された道路であり、人民や観光目的のための道路ではありません。天山山脈の南麓に位置するクチャからビユグルまで109キロ、ビユグルからタリム河を越え崑崙山脈北麓のニヤまで611キロの直線道路が1995年に完成され、沙漠公路と呼ばれています。我々は約10時間かけてバスで縦断しました。ほぼ新幹線で東京から岡山の距離にあたります。
 遮るものとてない砂漠を直線的に縦断する道路にしても、単にアスフアルトを固めて道路を造るだけでは済まず、道路が砂で埋没せぬよう人手を要するいろいろな工夫が為されており、いくら人件費が廉い中国でもその費用、労力は大変なものだったと想像されます。    
 まず道路の両側のかなり離れた場所に1.5メートル程度の葦の束か、またはほぼ同じ高さのネットが張られ、これが風の流れを止める第一の防砂装置です。ナイロン性だかの人工ネットは自然産物である葦束に較べて持久力や防砂効果が弱いらしく、あちこちで破れたり、砂に埋もれてしまったりしていました。
 第二の防砂装置として50cmぐらいに短く切った葦を半分地中に刺して道路両側に規則正しく格子状にかなりの広さに埋めてあります。随分原始的な仕掛けですが、結構道路に砂が吹き込むのを防ぐのに有効だと聞きました。 
 しかし、このような仕掛けでは尚不充分らしく、第三の装置としてなんとか草木を育て上げるべくあちこちに深い井戸を掘って地下水を汲み上げ、それに圧を加えて、一定に間隔で水が少量ずつ流れ出る仕掛けのある直径2cm程度のビニール管が三、四本、全線とまではいきませんが延々と道路の両側に延々と敷設されていました。
 縦断中石油採掘のため、不用ガスを燃やす焔が二、三箇所道路からみられました。ここで掘り出した石油を当地から上海まで届ける輸送管の建設も出来たとか出来る寸前だとかの話で、日本と違い途方もなく広大な国ですから、その費用もまた莫大なものでしょう。
 当砂漠の砂は極めて微細でしかも極度に乾燥しているため、手で握ってもさらさらと指間から零れ落ちてしまい、歩くと靴がかなり砂中に潜りこみます。道路の両側には見渡す限り果てしなく大小の砂丘が連なっており、高いのは100メートル近くもあるそうです。空には鳥も飛ばず、地には獣の影さえありません。
 タクラマカンとはウイグル語で「いったん踏み込んだら出られない」という意味で、このような広大な砂漠の縦断を試みたロシアのブルジェバァルスキーをはじめとする先人達の行為は、譬えそれらが探検家としての名誉欲や帝國主義的発展に連なる行為としても、その勇敢さには頭を下げざるを得ません。
 なお、ガイドが教えてくれたウイグル人の笑話に、人間がタクラマカン砂漠横断を成し遂げたこと聴いた三匹の犬が、我々も負けずに試みようと決心し、まず最初に一匹が食糧を背負って出掛けましたが、そのまま消息を絶ちました。次の一匹が、今度は水を背負って出掛けたのですが、これもまた行方不明となりました。最後の一匹は、食糧と水を背負って出掛けましたが、この犬も、先発の二匹の屍骸を見付けたのち記録を残して死亡してしまいました。あとで発見されたその記録には「砂漠には小便する場所がなかった」と書かれていたと言うのがありました。成る程、砂漠には犬がオシッコを引っ掛ける電柱その他がありませんからね。

                    ウイグル人戸は何者?
 新彊の大部分はウイグル族自治区に属し、多くのウイグル人が住んでいます。昔、この地方は東トルキスタンと呼ばれたことでも判る通り、ウイグル人はトルコ系の民族の末裔とされています。
 しかし、この旅で各オアシス都市を巡りましたが、なるほどこれがウイグル人かと納得出きる、一つの括弧で括ることのような類型的な顔には出合わないのが不思議でした。あるウイグル人はトルコ風、といってもトルコ人自体がかなり風貌にバリエーションがある国民ですが、こちらの人はペルシャ風、あちらの人は漢人風、そちらの人はアラブ風、すれ違った人は完全な白人風と言うように到底容貌という括弧で括れる族ではないということが判りました。     
 我々日本人の場合も現在では単一民族の典型と言われていますが、有史以前から、大陸から半島から、或いは南方諸島からと多数の渡来民族の混血ながら、現在は例外こそあれ、半島人や中国人とさえほぼ区別出来る風貌を持ています。ところがウイグル人に関してはムスリムであるとの括弧以外括り様がないという印象なのです。
 トルコ民族は北アジアの遊牧民族を始祖とし、中国で丁零、突厥の名で呼ばれている民族で、彼等は次第に勢力を増してタリム盆地に以前から住んでいたアーリア系とイラン系人種を駆逐、吸収してこの地方に定着したと言われています。その上、農耕牧畜民族となった彼等の貯蔵物を収奪するべく、北からはモンゴル族、南からはチベット族という年中食いっぱぐれの恐れのある騎馬民族がしばしばし侵略を繰り返したので、人種雑種化、人種の坩堝となった結果が現在の多種多様な顔を持つウイグル人と称する族が出来あがったのでしょう。しかし、本来のウイグル族は昔天山山脈の麓あたりに種族国家を形成していたらしいのですが、ジンギスハン率いるところのモンゴル族に征服されて消滅してしまい、現在ウイグル族と呼ばれる人達は西域のトルコ系住民を人為的に一括、ウイグルという旧い名称を復活したのだそうで容貌の雑多なのも、その所為かも知れません。ウイグル人による東トルキスタン独立運動はあったのですが、すべて短期間で失敗、ソ連崩壊後中央アジアのトルコ系民族の独立に刺激されて再びその流れが甦ったものの、中国政府としては、お隣のチベットの独立運動に手を焼いていることもあり、チベットと同様どんどんと漢民族を多数移住さることで独立運動を防ぐベくおおわらわだそうです。

                     厠、即ちトイレ
 なにしろ砂漠の地域ですから、川屋というような粋な装置は望むべくもないのですが、ほぼ外人向けのホテルを除いては、トイレの汚さは他の中国地方と同様です。
 孔子も、彼の思想の中心が仁であり、仁とは人に対する思いやりの心であるとし、礼によって仁が実現すると説くならば、「朋遠方より来る。また楽しからずや」と気取る前に朋遠方より来る。それ便所掃除じゃ」と曰くベきで、「徳孤ならず必ず隣あり」と曰くよりは「排泄孤ならず必ず隣あり」とトイレに戸を付けてプライバシーを護る方が礼に適うと思いますが、いかがなものでしょう。
 まあ、日本も50年ほど前はご不浄という言葉が生きており、殆どの家が汲取り式で、大きなことは言えませんが、少なくとも自分が出すものを出せば後は我関せずではなく、出来るだけ後の使用者が利用しやすいような清潔な環境をつくるべく努力したことは確かです。現在は、日本の公衆トイレの清潔さは世界一と言っても過言ではありません。
 この旅のツアーでご婦人方が一番困られたのはトイレで、たまにトイレがあってもドアがなくプライヴァシーのなさ、汚さにむしろ青空トイレ使用を選ばれたほどで、現地ガイドさえなるべく人気のない、一寸した茂みのある場所で「それではトイレ休憩といたしますが、男性はバスの右側、女性は左側で用を足して下さーい!」と言う有様でした。孔子が中国に生まれ道徳を説いたのも、「またむべなるかな」であまりにも中国人の道徳心不足の必然的結果かもしれません。
                           
                故城の土に生まれた恋
 古城とは昔の城砦もしくは都市跡を指します。今回、仏教遺跡のスバシ古城、白玉で有名なユーロンカーシー河沿いのマリカワト古城、玄奘が立ち寄った高昌古城、川中島にある交河古城を見学しました。まあ、同じ遺跡でもヨーロッパの石造りとは違い、土が主原料であるため崩壊が激しく、摂氏40度にも達しようかという暑い最中、広い範囲で大きく積み上げた茶色の土の塊を次々と足を棒にしてへたりながらも見て歩くのは七十爺にとって決して樂なことではありません。崩壊前の盛況を思い描くには余程想像力を駆使しせねばならず、途中でもう充分という感じの観光でした。
 高昌古城では、地元の部落から往復10元で遺跡まで驢馬が挽く車に乗ったのですが、そこに観光地につきものの土産物の一つである鈴売りがちゃっかりと乗り込んできました。まだ若くかなりの美人で、つたない英語で会話を交わしているうちに我々の仲間の独身男性にお熱を上げはじめ、帰国したらお手紙頂戴と住所氏名を誰かに書いて貰って渡す熱心さです。売り物の鈴を彼に進呈し、どうしても金を受け取ろうとはしません。あれだけ五百蝿く、下らぬものを高く売り付ける押売土産屋からタダで商品を貰うとは前代未聞、「見上げたもんだよ屋根屋の褌」と散々彼をからかったものです。彼女はムスリムとしては不思議なことに馬里亜という名前で成熟した大人に見えましたが、まだ14歳でした。私は馬里亜の写真を撮って帰国後彼に進呈したので、彼女の手元に無事彼の手紙とともに届くとよいがと念じています。

                ウイグル人の街カシュガル
 カシュガルはやはり東西を結んだシルクロードの一大拠点で、じっくり滞在してみたい街です。カシュガルでは人口の95%がウイグル人で、同じウイグル人でもホータン付近の東洋風の顔貌とは異なり深目高鼻が多いのが目につきます。服装も日本の矢絣をもっと細かくし、色とりどりにしたようなクイナックと呼ぶ柄が伝統的で、その他も、金ラメ飛ばしや、スパンコール付きの明るい原色の服を好み、何となく異国風なのです。
 結構街の中心は近代的建築物が建ち並んでいるのですが、まだまだポプラの並木道に沿った近郊では、四角い土塀の一角に同じ土で作った家が土塀の一部を家の後壁や側壁に利用して建てられいる住民の住居が多くみられます。雨量が年間250ミリ程度なので無事ではあるものの、大雨でも降れば土製の家は一遍に崩れ落ちてしまうでしょう。
 大部分の住民の足は驢馬車でこれに家族を乗せて仕事にもバザールにも出掛けます。まだ小学生になるかならぬかの少年が一人前の顔をして鞭を振り上げ驢馬車を走らせています。
 ここでは料理も羊を主とする清真料理ばかりを食わせられるには閉口しました。住民の主食はナンと饂飩で、中国でありながら米を食べる長江文明よりも麦製品を主食とするチグリスユーフラテス文明の影響が強いように思われます。饂飩も、羊肉その他野菜などを入れて生トマトからつくったソースを饂飩にかけて供するるスパゲッティ風の食べ方です。名物シシカバブも香料が効いて美味いのですが肉が硬く、焼く前には蝿がワーとたかっているのを見ると余り食欲がわきません。皿も一応水では洗っているのでしょうが、埃が溜まっていたりとバザールでの食事に関してはあまり清潔とはいえぬものでした。
 しかし、彼等は中国での国際サッカー事件で示されたような日本人に対する敵意は見られず、ムスリムの国には珍しく、女性も快く写真を撮らせてくれました。     
 さてそれ以外にクズルガハ烽火台、キジル、クスルガハ、ベゼクリクの各千仏洞、アスターナ古墳、火焔山などを見物しましたが、紙数が尽きたのでをこれで終わりといたします。
 七十五歳のおじんとしてはかなり過酷で疲れた旅であったものの、「見るべきものを見つ」の旅であったことに満足しております。
尚、羽田外:世界の歴史10、西域,川出書房新社、その他多数の文献を参照させて頂いたことを付記します。




孫悟空が団扇で煽いだ火焔山