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チェルノブイリ原子力発電所爆発事故より最早15年を経過しました。このところ、6年連続して、事故後に多発している小児甲状腺癌の集団検診と欠乏している医薬品の供給を目的としてウクライナに出掛けています。
折角ウクライナまで出掛けて来た以上、事故を起こした原子力発電所をこの目で見たいと思うのは、野次馬的根性も否定できませんが、医師として当然の感覚です。最近は現場の見学が難しいとの噂もあったのですが、検診に協力してくださった某有力者を通じて見学が可能となり、1995年6月検診終了後に見学することが出来ました。
当日の午後、2時にチェルニゴフ市役所前に、約束通り車が待っていました。赤い色をしたオンボロバスで、すべて客席の窓のカーテンが下ろされているのです。我々の見学が公式に許可されたものなのか、あるいは警備員達がアルバイト目的で内々に案内してくれているのか、内実が不明確であるだけに、このカーテンは不気味な感じがしたものです。車中には運転手ともう一人の我々を最後まで案内してくれることになった男が乗っていました。二人とも迷彩服で軍人らしいですが階級章は付けていません。口の利き方から見て運転手は兵士風、他の一人は下士官風でした。下士官風は紋切り型ではあるものの、なかなか上手な英語を話します。30分程も走って、全住民を疎開させ、現在も一般人の立入り禁止になっている事故現場より30キロの地域に到着しました。道路にはゲートが設けられ検問所があります。下士官風は我々を車中に残して持参書類を提示し無事通過、また暫く走ると今度は現場より10キロ地点の検問所です。検問所を通過するごとに公式許可か否かが気掛かりで、少々不安でした。検問所員と下士官との応対をカーテンの隙間から覗いてみると、互いに厳正な態度で接しており、まずは正式に許可を得た上での見学であろうと納得しました。
その後バスは小さな建物に立ち寄り、なぜか我々の靴のサイズと身長を尋ねられて青いバスに乗り換えさせられました。このバスは汚染地専用なのでしょう。やがて汚染のためすべての家屋が撤去され、茫々たる草原に戻った部落跡を通り、バスはなにやら四角な窓のない倉庫を思わせる建物の前に停止しました。入口の内側にある金属探知装置の枠をくぐり抜けると、大きなロッカールームに導かれます。入口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、渡されたキー番号のロッカーに各自の衣類を収納して、パンツ一枚の姿となり隣接する次のロッカールームに移ると、同じ番号のロッカーには先刻申告したばかりの身長と靴に合わせたシャツ、ズボン、ジャンパー、マスク、帽子、布製の靴が揃えてありました。すべてがスローモーなこの国としては信じられない程の手際の良さです。衣類もチャチなものではなく、まだ新しく生地もしっかりとしていました。着替えを済ませて屋外に出ると、例の下士官風ともう一人、ガイガーカウンターを手にした新顔の兵士風が待っていました。少し歩くと事故を起こした4号炉の発電所、今はコンクリートと鉄板で囲まれた所謂「石棺」に4〜500メートルの距離にまで近づくことが出来ました。想像したより巨大であり、灰色に塗られた四角な石棺は造形的な美しささえ感じられ、戦中派の私には巨大戦艦の艦橋のイメージが浮かびました。
1986年4月26日午前1時23分、4号炉は3回にわたって爆発を起こしました。事故後に、この原子力発電所のある区域の消防隊員が殆ど被曝防御具を付けぬまま4号炉の燃え盛る屋根まで登って消火に従事し、夜明けまでに炉心を除きほぼ鎮火させることが出来ました。しかし、献身的な働きをした彼らは指揮者の1名を除き、被曝のため全員事故後死亡しています。その後鉛板を下面に張ったヘリコプターを使用し、コンクリート、砂、鉛を流し込み、破壊された4号炉を鉄板とコンクリートで作った「石棺」に閉じ込め「埋葬」したのです。当然これらの作業中にも沢山の被曝者が発生したに違いありません。しかし、被爆者の数も、被曝の程度、何人が死亡したのか明らかにはされておりません。
世界中を恐怖に陥れた事故現場は、沈黙が支配していました。何かの雑誌に、石棺にはすでに罅割れが生じ、放射能漏れを起こしかけて極めて危険な状態にあるとの記事を読んだ記憶があります。遠目で見る限りでは石棺は4号炉全体をがっちりと覆い、随分と頑丈そうに見えました。しかし、旧ソ連邦のホテルに泊まってみれば分かることですが、外観は素晴らしく立派に見えても、中に入って良く見ると窓枠が壊れていたり、トイレの排水管が壁に入る部分はタイルを雑に剥がしたままで中のコンクリートが丸見えだったりするこの国の粗雑な建築技術では、いくらコンクリート壁の厚さが10メートルあろうと、細部に渡ってまで完璧な放射能防御工事が行われているかどうかは疑問が残ります。
その上、施工時には被曝防御具を着けていても被爆防止のため頻繁に短時間で作業員が交替した筈で、被曝を恐れた作業員も一刻も早く現場から離れたい気持ちになるのは当然のことで、落ち着いて作業を行う余裕があるわけもなく、交替者との作業の申し送りも不完全となり、相当に雑な工事を行って可能性もあります。
兵士風持参のガイガーカウンターは、800マイクロシーベルト/1時間を示していました。この値は我々が1年間に被曝する自然放射能値を1時間で浴びたことになる値です。下士官風はなるべく放射能を帯びた雑草に接触して衣服が汚染されぬように、注意してくれました。これは放射能を地下から吸い上げて汚染している雑草に接触することにより衣服が汚染されることを警戒してのことです。何れにしても長居は無用、石棺を詳しく観察し、写真を撮って早々に退散しました。
帰路には事故前発電所従業員の住んでいた廃墟の町、プリピチヤを通りました。大規模なアパート群はすべて無人で、ベランダに風雨に晒されたタオルが風に揺れていました。 4月26日の朝、住民達は街角に警官が立ち、洗浄車が走っているのを見て何かが起こったとは思ったものの何も知らされず、子供達は高濃度の放射能を含む空気の中を平生通り学校に出掛けたり、砂場で遊んだりしていたのです。そして27日の11時になり突然ラジオで避難勧告を受け、着の身着のままでバスに収容されて逃げ出したのです。しかし、
ラジオではたった3日間の避難だと告げたと言います。火事で半焼け、洪水で水浸しになったと言うなら諦めも付くでしょうが、見た目には全く損傷のない衣類や家具すべてを放棄することは、物資不足のこの国で、殊に女性は、かなり心理的に抵抗のある行為だったに違いありません。アパート群の後方には、空白を乗せた公園の観覧車の丸いシルエットが寂しく浮かんでいました。
再び倉庫風の建物に入り、前回と逆の動作で自分の服に着替え、空港に設置してあるのと同じ仕掛の放射能測定装置の枠をくぐり抜けました。幸い誰一人汚染の警戒音は聞こえません。ここで気が付いたのですが、我々を案内してくれた下士官風は行動を共にしたにも拘らず全く着替えもせず帽子もマスクも着けていなかったのです。このスラブ的鷹揚さは褒められたものではなく、目に見えない放射能に対する馴れの恐ろしさをかいま見たような気がしました。我々の厳重な着替えは外国の訪問者を始めとする部外者への汚染防止処置の完璧さを示す単なるデモンストレーションか儀式に過ぎなかったのかも知れません。
過去においては、被爆死亡者の数は事故時の直接死亡者32人とのみ発表されておりましたが、1993年、その後汚染除去作業に従事した約16万人のうち、17,400人が死亡したと改めて発表があったそうです。それにも拘らずウクライナ政府は、1998年4月より4号炉と隣接している3号炉の発電を再開すると公表しました。経済事情が逼迫し背に腹は代えられず援助を渋る西欧諸国に対する恫喝だったかも知れませんが、本当だとすれば、あれだけの災害を自国民のみならず他国にも与えておきながら、まさに無神経な行為で、暴挙の一語に尽きます。このニュースを聞いて我々救護活動に従事している者は激しい怒りと共に、強い無力感に陥ったことは事実です。地球はウクライナの為だけにあるのではありません。全人類、全生物の存在をも考慮に入れて軽々しい行動は慎んでいただきたいものです。
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