ベラルーシ独立記念日祭典



私は1993年から2003年までウクライナやベラルーシに、チエルノブィリ原子力発電所爆発事故後急増した小児甲状腺癌を中心とする検診を行ってきた。これは甲状腺専門医師としての義務感からで、決して旧ソ連に好意を持っていたからではない。むしろ、日本の敗戦が決まったも同様の時期に、相互不可侵条約を破って満州国に侵攻し、略奪、強姦など日本人民間人に暴虐の限りを尽くし、終戦後日本の兵隊を理不尽にもシベリヤで長期間強制労働に服させたことは今でも許せない行為だと思っている。「異国の丘」という帰国への切ない歌をまだ御存知な方も多いと思う。 
 ベラルーシは当時旧ソ連邦の一国であり、それらの責任の一半を担っていないとは限らぬが、それはもう五十年に近い昔の話で、どこか近隣の国のごとく、いまだに根にもつのは日本人の矜持が許さぬところである。
 ベラルーシも昔からロシアとヨーロッパとの街道筋にあたったことが災いし、今次大戦でも独ソの主戦場となり、巻き添えを食らって国民の4分の1が死亡し、首都ミンスクは跡も残さぬほど徹底的に破壊された。ちなみにミンスクとは宿場町との言う意味でモスクワとヨーロッパとの街道町だったのだ。そして戦後には隣国ウクライナの原発事故で国の大半にわたる地区が汚染されると言う曰くつきの薄幸の国である。現在でも経済的に疲弊し、ロシアとの連邦再形成の動きがあるという。
 先日、検診で知り合ったルドミラと言うチエルノブィリ支援運動・九州の現地連絡員として働いている女性から結婚を知らせる手紙が届いた。彼女は、自分自身が小児甲状腺癌で手術を受け、頚部にU字型の大きな手術創があり、当時大学院学生でPTSDを専攻していた。この専攻科目の選択を見ても、被曝により肉体的のみならず精神的にもまた大きな傷を背負っていることが察せられる。       
 スラブ人としてはお洒落で小柄、その上繊細な神経の持ち主であった。英語も達者で良く話が通じ、帰国後、かの地では入手し難い専門書を贈ったこともある女性だった。
 この手紙に添えてあった結婚式場で取られた写真では手術創を上手く頚に薔薇の花を付けたピンクの太めの首飾りで隠し、マッチョ然とした新郎に寄り添ってとても仕合せそうに見えた。その写真から思い起し、当時の印象深かったことの一つを書いてみたい。
 ベラルーシでの検診は主として首都ミンスクより400キロ離れた汚染が酷かったストーリン地区で行なわれた。その際にはいつもチエルノブィリ支援運動・九州が寄贈したワゴン車を利用して移動したのだが、この車がなぜ九州には縁の遠い「雪だるま」号という名前なのか不審に思っていたところ、同会が編集したチエルノブイリ事故で被曝した子供達の作文集「私たちの涙で雪だるまが溶けた」(梓書院発行)を贈呈され、腫瘍病院に入院中であった被曝後発症した白血病患者、ナジェージュダの日記を読んで初めて氷解したと同時に彼女の悲しみに胸を打たれたのだった。以下はその日記の抜粋である。
3月1日
 第12号室の男の子たちが、春のお祝いを言いにやってきた。病室には、もうすぐ春が来るというのに、不幸な私や男の子たちがいた。通りにはまだ雪が残っていて、彼らは雪だるまを作り、病院の大きなお盆に載せて私たちの病棟に持ってきて来てくれた。雪だるまはすばらしかった。それをつくったのは、トーリャに違いない。彼は化学療法のあと、ベッドで起きることを今日許されたばかりだ。トーリャは、みんなの気分を盛り上げようとしたのだ。「だって、春が始まったのだから!」その雪だるまのそばにはメッセージが添えてあった。「女の子たちへ。皆さんにとって最後の雪です!」と。「なぜ最後なの?本当に最後なの?」私たちは、ひとり、またひとりと泣きながら尋ねた。
雪だるまは少しずつ溶けた。それは私たちの涙で溶けてしまったように思えた。
3月10日
 おかあさんは私の好きなコートを持ってきてくれた。それを着れば私だってまだこんなに可愛いのに!私はやっと歩いて、病棟のみんなに別れをつげてまわった。さようなら、みんな。私を忘れないでね!私もみんなのことを忘れないから!
 彼女はそれから10日後に自宅で亡くなった。日記の最後のページにはラテン語で「生きた」で結んであったという。ナジェージュダは「生きた」という過去形ではなく、どれほど未来に向って、すぐ手に届くほどに近付いた青春の喜びに満ちた未来に向って「生きていたかった」ことだろう。
 !の多い文章は生への未練の悲しみの叫びだ。「なぜ最後なの?」と泣いたとことは、最後という言葉に自分達の明日にも来るかも知れぬ運命を予感してに違いない。ナジェージュダにとっては、本当に最後の雪になってしまったのだ。
 病気の種類が違うとはいえ、再発もせず結婚できたルドミロは、この絶望的な日記を書いいて死んだナジュージュダに較べて、たとえ大きな傷跡を心身に抱えようともどれだけ仕合せだったことかと思わずにはいられない。
 この頃の検診旅行から、私が車から降りようとすると、同乗している当地の若い女医さん達が、手を差し伸べてくれるようになった。当時は自分はよろけるほど老いている積もりはなかったのだが、平均寿命が60歳前後と短いこの国では私など大年寄りにみえたに違いない。感謝しながらも情けなく、それ以来検診から次第に身を引いていったことだった。
 後記:べラルーシに2年間滞在された元信州大学助教授、現松本市長の菅家昭先生の忍耐強い御努力で、現在ベラルーシでは甲状腺癌手術に醜いU字型の皮膚切開は姿を消し、我々が採用している弓状横切開になったそうです。先生がベラルーシに行かれたのは教えるためではなく、助っ人としてであるとの思いから、自分が術者、即ち執刀者になるまでは、彼等の手術方法を踏襲し、術者として手術を任されるようになって始めて自分の手術方法、皮膚腺にそった横切開を行われたそうで、黙っていても若手の現地医師が次第に見習うようなり、今や標準術式となったということです。余程の信念と忍耐がなければこのような無言の教えは出来ることでは有りません。