初 瀬 街 道
All roads lead to Ise shrine
1章 縄文〜壬申の乱  2章  3章 4章


文献

 名張市の歴史を知る文献は名張市内にほとんど残っておらず、東大寺・薬師寺・伊勢神宮の文献や17世紀後半に菊岡如幻が編述した「伊乱記」等に拠るところが多い。 伊賀を含む津藩の歴史を知る史料は、1751年に藤堂高文が編纂し藤堂高芬が補正した「宗国史」がある


縄文・弥生

 百合ヶ丘で白早稲遺跡・名張川河岸で下河原遺跡(縄文後期)が発見され祭祀用土偶・石槍・柄鏡式住居跡などが出土している。

柄鏡式住居 入口が柄鏡の柄のようで住居内に石が敷いてある。遺跡近くでは25基の土器棺墓群も発見されている。


古墳時代
美旗古墳群を見る限り、なにがしかの豪族がいた模様。蔵持町原出の稲荷神社、鹿高の神社にも石室 跡がある。
冬景色の貴人塚馬塚


美旗古墳群:5基の前方後円墳(馬塚・貴人塚・女良塚など)と横穴式石室があり、4〜6世紀のもので、人形埴輪・家型埴輪が出土

馬塚:全長142m、前方辺100m、高さ6m、後円部98m、高さ14m。
貴人塚:全長55mの前方後円墳で、水田の中にポツリとある
女良塚:全長100mの前方後円墳。馬塚に埋葬された豪族の妻という説も。
毘沙門塚:全長65mの前方後円墳で周囲に幅9mの壕跡がある。江戸時代末期まで墳上の武装土偶を毘沙門天として祀っていた



古事記〜壬申の乱

 名張という地名が初めて出てくるのは古事記」安寧天皇3条である。安寧天皇の三男=師木津日子命に二柱(2人の子供)がおり
「一柱は伊賀の須知の稲置、那婆里(名張)の稲置、三野の稲置の祖なり」。稲置とは朝廷領の稲穀を管理収納する地方官。
  安寧天皇(紀元前577〜511)3代天皇 陵墓は畝傍山西南御陰井上陵(奈良県橿原市吉田町)

倭姫世紀
伊勢神宮の起源を記したことで有名な「倭姫世紀」は崇神天皇が倭姫に命じ天照大神を祀る地を探させた内容が書かれている。 その中で
「崇神天皇64年伊賀国隠市守の宮に遷幸し二年斎き奉る」  現在でも倭姫が安部田で機殿を建て錦を織ったという伝説が残っている。

国造本紀
645年〜654年頃に伊賀は伊勢に編入 → 天武天皇(680年)の時に再び伊賀は独立

改新の詔
大化の改新の翌年(646)の正月に出された「改新の詔」にもある。そこに、「名墾の横河(現名張川)まで畿内とする」。つまり、畿内の範囲を明文化し、名張川北を 東国、南を畿内とした。

壬申の乱
大化の改新後、中大兄皇子は天智天皇となり近江で政治を行い、弟の大海人王子が政治を助け、次期天皇は大海人王子であると誰も疑いはしなかった しかし、天智天皇の子・大友王子が後継者となり、天智天皇の死後は、弘文天皇として近江で政治を取り仕切った。そのころ、大海人王子は僧として吉野に篭っていた。

日本書記
「夜半に到りて隠郡(名張)に到りて、隠(名張)駅屋を焚く。よりて邑の中によばいていわく、天皇、東の国に入ります。 故、人夫もろもろ参れ、という。しかるに一人も来肯(きか)えず。横河にいたらんとするに、黒雲あり。広さ十余丈にして天に経れり。 」

大海人王子は、672年に挙兵し、伊賀・伊勢へ向け吉野を出発した。大友王子の母である伊賀采女宅子は伊賀の豪族 伊賀国造の娘であり非常に危険な地域であった。大海人王子は名張・伊賀の駅屋を焼き、兵を募るが名張郡は参加せず、伊賀郡・阿拝(あえ)が数百の兵を引き連れて参加した。 後に、瀬田の戦いで弘文天皇を破り、天武天皇として飛鳥で政治を行った。天武側の伊賀郡が勢力を伸ばしたに対し、名張郡は弾圧された。

日本書記
持統天皇3年(689年)に「伊賀国伊賀郡身野二万頃に漁猟を禁断し、守護人を置く」身野は現在の小波田・古墳群あたり

夏見廃寺:神亀2年(725年)天武天皇の娘大来皇女が建立した元昌福寺。
「大来皇女最初斎宮以神亀二年為清御原天皇建立昌福寺。字夏見。本在伊賀名賀郡。」(薬師寺縁起 1015年)
夏見廃寺は夏見運動公園陸上競技場横にある。遺跡からは694年の文字が彫られたものが発掘されえいる。。金堂・三重塔・講堂跡が見られる。
夏見廃寺跡夏見廃寺説明板

 

万葉集
 ・我が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ(持統天皇の伊勢行路に帯同した当麻真人麻呂の妻)
  (参)持統天皇は天智天皇の第二皇女・天武天皇の妻・草壁皇子の母

 ・宵に逢ひて 朝面なみ 名張にか 日長く妹が 廬りせりけむ
  (参)長皇子(天武天皇と大江皇女の子)の702年の作

 ・宵に逢ひて 朝面なみ 名張野の 萩は散りにき 黄葉早継げ
  (参)縁達師の作(伝不詳) 黄葉とは、名張市の木に指定されている「もみじ」のこと  

702年 文武天皇 名張を通り東海へ行幸
740年 藤原広嗣の乱 → 聖武天皇 名張を通り伊勢へ逃亡

春日遷宮
全国の春日神社は(武みか槌神・経津主命・天児屋根命・比売命)の四神を祀っている。その中でも主神=武みか槌神を祀る奈良の春日大社は767年 に鹿島から奈良に勧請したものである。「春日古社記」にその移動の様子が記されている。
「神護景雲元年六月二一日、伊賀国名張郡夏見郷一の瀬という河にて沐浴ます。・・・・」現在の積田神社か宇流富志神社あたりと見られる

789年 伊賀で飢饉  




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