チベット

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「我々チベット人にとって『チベット解放』という言葉ほど、その道義的・精神的意味において心外きわまる言葉はない。・・・ 解放、それは一体誰からの何からの解放なのか、・・・我々はここに、全ての中国人がチベットから撤退することを要求せざるを得ない。」
チベット国ルカンワ総理の発言

通史

1910年、四川総督(四川省の最高監督官)趙璽宝率いる清軍がラサに侵攻。ダライ・ラマ13世インドへ脱出。清がダライラマの廃位を宣言(後、復位を要請)。

1911年、辛亥革命により清朝崩壊。全チベットから清朝官吏・兵士を追放。

1912年7月、チベットが独立を宣言。

1913年、蒙蔵条約締結。
→モンゴルとチベットが相互の独立を承認。

1949年10月1日、毛沢東が北京天安門にて中華人民共和国建国を宣言。
→北京放送が次のような放送を開始。
「人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。チベット、新彊(しんきょう)、海南島、台湾も例外ではない。」

1950年10月7日、政治委員王其梅指揮する中国軍4万が東チベットに侵攻。州都チャムド北東のデンゴにおいてチベット軍、カンパ義勇軍が中国軍を撃退するも、質量ともに勝る中国軍により、同19日、チャムド陥落。東チベット州長官アボ・アワン・ジグメ以下チベット軍西方へ敗走途中中国軍に包囲され降伏。

1951年5月23日、中国の脅迫により中国−チベット間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(17条協定)締結。

1951年9月9日、17条協定が未だダライラマ14世の批准を得られていないにもかかわらず、中国軍が同協定を口実としてラサに「進駐」。

1952年、インド、ネパールが中国の圧力により駐チベット代表部(大使館に相当)を総領事館に降格。

1955年3月、北京政府がチベット政府に代る「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案。

1956年4月、「西蔵自治区準備委員会」が公式に発足。

1956年前半、東チベットでカンパ族が中国に対するゲリラ戦開始。

1958年、東チベットでカンパを中心に蜂起続発。中国軍、ゲリラ掃討と称して寺院・町などを無差別に砲撃・破壊、宝物を掠奪し、僧侶を民衆の前で虐殺。

1959年3月10日、ダライ・ラマ14世が中国側に拉致されることを懸念したチベット人約3万がノルブリンカ宮殿を取り囲み、ダライ・ラマの身を守るとともに、大衆集会を開いてチベットの独立や中国の撤退を要求する決議を採択。

同3月17日、中国軍がノルブリンカ宮殿に迫撃砲弾2発を撃ち込み、また中国兵が非武装のチベット農民2人を射殺する等状況が緊迫化したため、チベット政府は、ダライラマ14世がこれ以上ラサに留まることを危険と考え、ダライラマにラサから脱出することを懇請。これを受け、ダライラマは兵卒に変装し、夜陰に紛れてラサから脱出。

同3月19〜22日、中国軍が41時間に亘ってノルブリンカ宮殿、ポタラ宮殿等への砲撃を行い、チベット人1万人以上を殺戮。(チベット蜂起)

1959年3月28日、中国国務院総理周恩来がチベット政府の「解散」を宣言。

1959年4月、ダライ・ラマ14世がインドにてチベット臨時政府の樹立を宣言。

1959年6月、ダライ・ラマ14世が17条協定を「武力威嚇によってチベット政府と民衆に押しつけられたものだ」として正式に拒否。

1959年7月、中国がチベット全土に中国通貨の使用を命令。

1962年5月10日、中国がインドの経済的影響力をチベットから排除することを目的として、チベットにおける輸出入関税の課税、外国通貨流通の禁止を布告。

1962年10月20日、中国軍インドに侵攻。

1963年、
・チベットで蜂起発生するも中国軍により鎮圧。
・パンチェン・ラマ9世がモンゴルへ亡命を図るも、中国官憲の追尾を受け途中で逮捕。

1965年9月1日、中国が「チベット自治区」設置。(「自治区主席」アボ・アワン・ジグメ)

1966〜67年初、チベット人約7,000人が蜂起。

1968年、チベット人約4,000人が蜂起。

1968年2月、学校等においてチベット語使用禁止。

1975年、中国の圧力によりネパールのチベットゲリラ武装解除。

1980年、チベット語の授業が再開される。

1981年5月、中国がチベット独立組織を摘発した者に5,000元を贈与すると発表。

1983年、中国政府が中央チベットへの漢人入植政策を推進。

1987年、チベットで独立を求めるデモ多発。中国武装警察の弾圧により死傷者多数。

1989年3月、ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞。

1989年3月5〜8日、ラサにおいてチベット独立を求めるデモが行われ、中国武装警察がデモ隊に発砲してチベット人約400人を殺害、数千人を負傷させ、3,000人を逮捕。同7日、「自治区」書記胡錦涛が戒厳令を敷く。

1993年10月、ティングリにおいて中国軍がチベット人に発砲。

1994年、中国共産党総書記江沢民が漢族のチベット移住を促進。

1995年5月14日、ダライラマ14世がゲンドゥン・チューキ・ニマをパンチェン・ラマの転生者として公式に認定。その後まもなくゲンドゥン・チューキ・ニマはその家族とともに行方不明となる。

1996年3月18日、ラサにある中国共産党チベット本部付近で爆破事件発生。

1996年4月、中国がチベット人のダライ・ラマへの信仰を放棄させることを目的とするチベットで愛国的再教育と精神的文明化キャンペーンを開始。

1996年5月28日、中国国連大使呉健民が国連子供の権利委員会においてゲンドゥン・チューキ・ニマ拘束を「少年は分裂主義者によって連れ去られるおそれがあり、身の安全が脅かされている」ため、「両親の要請に基づいて政府が保護している」と正当化。

1996年12月25日、ラサ市政府庁舎付近で爆破事件発生。

1997年5月、ダライ・ラマ14世が台湾を訪問し、総統李登輝と会談。

2000年1月、カルマパ17世がチベットからインドへ脱出。

2000年10月26日、ラサの裁判所付近で爆破事件発生。

2001年7月、中国国家副主席胡錦涛がラサで演説し、「ダライ一派、世界中の反中国勢力による分離活動を断固として鎮圧し、チベット地域の安定と統一を積極的に推進し、国家の団結と安全保障を確実にすることが不可欠」と発言。

2004年1〜2月、中国官憲がチベット国旗を掲揚した僧侶2人を逮捕。
→カンゼ(四川省カンゼ地区)中級人民法廷が2人に禁固11年の刑を課す。

2004年8月19日、「チベット自治区副主席」武継烈が外国人記者団との記者会見でダライラマ14世に(1)中国が唯一の合法政権、(2)チベットが中国の不可分の一部、(3)台湾は中国の1つの省、と認める「公開声明」を出すよう要求。

2005年2月、ジンバブエで開催された「ミス・ツーリズム・ワールド」への「ミス・チベット」の参加を現地中国大使館が妨害。

同4月1日、中国外交部副部長武大偉がインド政府に「ダライラマとその追随者のインド領内での祖国分裂活動禁止という承諾を守るよう」要求。

同5月20〜21日、「青海省(東チベット)玉樹チベット族自治州玉樹県」において「県政府」がチベット人農民から入山税を徴集し、それを私物化していることに激怒したチベット人数千人が官憲と衝突し、「県政府」庁舎を焼く。

同6月29〜30日、吉林省長春市において漢人警官が携帯用小刀を所持していたチベット人から小刀を没収しようとしたところ、これに納得できないチベット人と衝突してチベット人12人を逮捕。翌30日、漢人警官300人と逮捕された12人の釈放を求めて当該派出所を訪れたチベット人約60人が衝突し、チベット人1人逮捕。

同7月、中国官憲が、ラサ郊外セラ寺において、ダライラマやチベット独立を支持する文書を持っていたとして僧侶1人を逮捕。

同11月23日、中国公安当局が、ダライラマ14世を非難する文書に署名することを拒否したラサ郊外デプン寺の高僧1人を含む僧5人を逮捕。

同11月25日、僧5人の逮捕に対し、デプン寺の僧約400人が抗議活動を行ったため、中国公安当局が武装警察を投入してこれを鎮圧し、2日間に亘って寺院を閉鎖。

同12月6日、ニューデリーの駐インド中国大使館にチベット独立派が進入して「チベット解放」等と書かれた垂れ幕を掲げ、駆けつけた警官により逮捕。

中国によるチベット人大虐殺

・中国軍の機密資料によると、1952年〜1958年にかけて中国軍がアムドのカンロ地区で10,000人以上のチベット人を殺害。

・1959年3月のチベット蜂起の際、中国軍が3日間で10,000〜15,000人のチベット人を殺害。

・中国軍チベット軍区政治委員会の秘密文書によると、1959年3月〜1960年10月の間に中央チベットだけで87,000人のチベット人が中国軍により殺害。

・チベット亡命政府の統計によると、1949〜1979年の30年間に中国の拷問、処刑、傷害致死による死者は42万人以上、これに中国軍の侵略により戦死した数(約43万※)、餓死(約34万)を加えると約120万人となる。
それにしても拷問、処刑、傷害致死で42万というのは異常であり、中国のチベット支配が如何に過酷であるかということを明らかにしているといえるだろう。
※当時のチベット軍は総数1万程度であり、戦死者の大多数は中国軍によって虐殺されたか、中国の支配に抗して蜂起した人々と思われる。

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