ベトナムの人たちの HOT(ホット)な心に触れて!
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私が働いていた婦人服製造工場で心通わせた友人たちに会いたい!
その願いが叶って平成14年、8月9日わたしは初めての海外旅行の一人旅へ!ベトナムのハノイの大学で日本語を教えていたというスーさん(70歳) の家に泊めてもらいベトナムのなまの生活を体験してきました。
日新月歩のホーチミン市の往来はバイクであふれ、2日間その 後ろに乗った私は解放された人々のたくましさを肌で感じました。
人々はよく働き、よく喋り、よく笑います。共産党の政府は国民の 不平不満の解消に努力。国民の90%の支持を得ています。
家族相和す堅実な暮らしぶりにはお金では得られない幸せを大事にする 考えが根づいています。30年位前の日本もこんな人々であふれていたのに・・・。
びっくりと感動の連続から14日朝涼しい日本に帰ってきて、ベトナムの 暑さと熱い心にHOT(ホット)ボケしていましたが、あらためて、まだまだ 残っている日本のよいところを大事にしていかなくっちゃと思います。
躍動のホーチミン市! ベトナム人は皆働き者! とにかく食べ物がおいしい!
「世界の中の日本と私」平成10年9月 畠山貞子 記
降り続いた雨もやんだ台風一過の朝、近くの運動公園で腰痛解消のために続けているウォーキングを始めようとしていた私は、きれいな 虹を見ました。下から紫・青・緑・黄緑・黄・橙・赤の順番で弧を描いています。このところ職場でいやなことが続いていたので、私は「 これは神様から私へのプレゼントだろうか?」と涙ぐみたくなりました。虹はグラウンドを一周している間に消えてしまい、わずか十分ぐ らいの間の出来事でした。この万物現象が私には不思議に思えることばかりです。
中学時代私のあだ名は「ハテナちゃん」でした。何でも「どうして」「なんで」と訊く私に閉口した友達が付けたのです。最初のクェス チョンは十歳の頃だったと思います。お寺の境内で「何で人は死ぬんだろう?」とボンヤリ考えていました。このボンヤリ夢想する私の楽 しみは残念ながら高校へ入学し、どっぷりと競争社会に浸っていく中で、すっかり消え失せていました。
ひたすら荷物を増やし続け、そして必死で減らし続けて五十歳になった今、ようやく身一つの自由を得られました。私が一番したかった こと、それは自分が納得するまで見たり、聞いたり、知ったりすることでした。苦労して通信制の高校を卒業し、今も科目生として勉強し ている友人に、私は「このまま、よちゃよちゃと歩くようになりたくない!」と言いました。友人は「それでも、いいんじゃない?」と言 いながらも一緒に入学の手続きをとってくれました。
私は最初に勉強する科目を物理と英語にしました。物理は仕事と何か関連したことを学べると思ったし、英語は世界のいろんな国に行っ てみたいという私の夢の実現に必要不可欠と思ったからです。
わたしの生家は鍛冶屋です。父が打つ鎚音を聞いて育った私はリズムというものがとても好きなのです。音と音の間の何ともいえない「 間」がぞくぞくするような心地よさなのです。北上川を流れる水の音、祭りの太鼓ばやし、躍動するさんさ踊り、心を伝える演歌舞踊、自 分を主張するジャズダンス。それらは私の心を十分満足させてくれるものでしたが、何より好きなのは私が毎日取り組んでいる針が布地を 通る時の音です。
糸を素早く引き上げて、ひたすら袖ぐりに裏地をまつり付けるのも、ダイナミックに針を振り上げて釦をつけるのも、きれいなシルエッ トをイメージしながら付ける肩パットも、私が持つ針一本から生まれるのです。そう、私は婦人服製造会社の最終部門、まとめ係のお針子 なのです。針を持っているとき私はどうしたら早くきれいに商品が出来るかを考えます。まるで針を腰に差した宮本武蔵か、いや一寸ぼう しになったかのような気分なのです。
いよいよ杜陵高校に入学し、張り切って臨んだ物理の授業では脳ミソをかき回されるようなショックを受けました。しかし、次第にそう か疲れないで楽に針を刺す角度は四十五度の方向なんだなぁーと解ったら、もうたまりません。分子運動、波の原理・・・。次々に興味が 広がっておもしろいのです。絶対、完全を信じない学者が失敗を繰り返して得たように私も「表がきれいに見えるためには、裏に余裕がな ければならない。これは人生にも通じる!」なんて勝手に定義づけて楽しんでいます。
ところで、最初によその国の言葉を身近に聞いたのは英語ではなくベトナム語でした。会社に研修生として働きに来たベトナムの方々か らでした。ハノイの大学で日本語を教えていたという通訳のスーさんに率いられた五人でした。
その中にまとめの仕事を覚えてもらうガーさんがいました。ガーさんは四十五歳、それにいわゆるバツイチということで私と同じでした。 ガーさんはきれいな姿勢で仕事をこなすがんばり屋さんでした。社長からは「個人的にベトナムの人と仲良くなって出歩かないよう に。」と注意があったので、職場だけの交流でした。でもガーさんと過ごした数ヶ月はとても幸せな時でした。
ある時、私がロッカーの前で着替えをしていると、私のお尻をポンとたたいていく人がいました。振り返ると少し離れた所で悪戯っぽく 笑うガーさんがいました。それからは本当に仲良くなって言葉は通じなくとも、目を見れば気持ちがわかりました。休憩の少しの時間に物 の名前などを絵やローマ字で教えると、そのメモを大事そうにポケットにしまい、次の日よくわからなかったところを訊いてきます。私は 教える喜びも知りました。
ベトナム語は一つの言葉でもイントネーションによって全然違う意味になるということでした。日本語の「雨」 ・「飴」のようにです。そこで窓の外を見て降っている雨を「ア↑メ」・飴をなめながら「ア↓メ」と言い合いました。細かいビーズを布 地に縫い付ける仕事の時はさすがの粘り強いガーさんも大変そうでした。肩が凝っているというのがよくわかりました。私は手を挙げて 「阿波踊り!阿波踊り!」と言って踊ってみせると直ぐ覚え、その後は疲れると二人でその真似をしました。ガーさんは礼儀と自分の立場 というものをよくわきまえた人でした。掃除をして一日の仕事を終えると、まずリーダーにきちんと日本語で挨拶をして、それから私に挨 拶をして必ず私の体にタッチして帰っていきました。
スーさんは通訳の役目を終えて一足早く帰国しました。きちんとした御礼の挨拶を述べながらも御自分の尊厳を守っているように感じま した。「日本人は金持ちです。」スーさんの言った言葉のあとに寂しいような余韻が残りました。スーさんをそのように思わせた日本は十 数年前はベトナムと同じでした。私はスーさんに日本のよいところを知ってもらえただろうかと、ちょっと不安になりました。
あと一ヶ月程でベトナムの方々が帰るというある日、突然ガーさんの元へお母さんが亡くなったという知らせが届きました。直ぐに飛ん で帰れない遠いところに来て一生懸命働いているガーさんの悲しみはどれ程だったでしょう。顔を合わせた途端、私達は抱き合って泣きま した。私は帰り支度を始めたgガーさんのために急いで浴衣とウコン色の帯を買いました。次の日の昼休み、倉庫の片隅でガーさんに帯の結び 方を教えていると職場の仲間が電気を付けて数人集まって来ました。藍地にヒマワリ柄の浴衣はガーさんにとても似合っていました。前の 晩した浴衣の上げもぴったりです。その姿を見て、もう会えなくなるかと思うと泣けてきました。回りのみんなも涙ぐんでいます。
ガーさんは「お金!お金!」と言って心配そうに私の手を握りました。ガーさんは私が貧しいことをよくわかっていました。だからこそ 私はガーさんと心から通じることが出来たのだと思います。キリストは「貧しき者は幸いである。」、マザーテレサは「貧しい人は目で語 ります。手で訴えます。」と言いました。今、私はその言葉の意味がよくわかります。
ガーさんが去って私の心の中はポッカリ穴が空いてしまったようでした。少しして私はリーダーと衝突してとても辛い立場になりました 。その晩自分の思慮の足りなさから無益な衝突になったことをひどく後悔しました。私はどうしてガーさんに学ばなかったんだろう・・・ と。ガーさんは静かに耐えながらも、ごまかしを許さない澄んだ目で相手に向き合っていました。その立派な態度はリーダーも認めるとこ ろでした。ガーさんに会いたい!私は声を上げて泣きました。いつしかガーさんは私の心の支えになっていたのです。ガーさんに会ってい ろんなことを話したい。ベトナムがどんな所で、どんな暮らしをしているかを知りたい。アオザイも着てみたい。そして日本のよいところ や私の夢も語りたい。
私は大きく分けて自分をつき動かす二つのことで世界につながりたいと思います。私は朝の新聞配達の時に見つける山肌に這っているツ ルや物を包む紙や紐を集めるのが大好きなのです。その材料をどうやって再生させるかを考えると飽きません。物の命を生かす手仕事への 興味は尽きません。そこの土地、そこの地域に伝わる手仕事。ハワイのパッチワーク、インディアンの編み紐、私は少ししか知りません。 たぶん日本はその意味では手の文化、物の文化を大事にしている国だと思います。
物の命を感じる楽しさは何処にでも転がっています。私はジャケットに針を刺す時、「きれいになるためなのよ。ちょっと我慢してね。」 と言います。そのことを納品係の若い人に言うと、彼女が商品に値札を下げる時「お待たせ!」と言ったのでおかしくて笑い転げました。
それから私が何よりも好きなのは踊りです。おとなしくしていようと思っていても宴会でついつい踊り出してしまう私は生きることの喜 びを伝える踊りが大好きです。世界のいろんな所の踊りを見たいし、踊りたい。
この二つのことは少ししか出来ないかもしれない。でも「見たい!聞きたい!知りたい!」という私の欲求に素直に従う勇気が私らしさ なのです。もし夢の実現への途中、世界のどこかの片隅で息絶えたら迷惑をかけてしまうだろう息子にこのことを言うと・・・。あっさり と冗談っぽく「どうぞ、どうぞ。かまわないから。」という返事。曲がりなりにも、しっかりと自分を見据えて生きている息子達に感謝し つつ、この拙い文を「世界の中の日本と私」のテーマへの答えにしたいと思います。