「レディスリッパー」平成12年 3月
地域の英会話サークルの集まりの時のこと、仲間の一人がアメリカの友人からプレゼントされたという「レディスリッパー」という絵本を持ってきました。
レディスリッパーというのは花の名前で、その名前は凍りついた谷の愛する自分の村を救うため村を出て、薬を持ち帰ったアメリカインディアン女性の悲話からきていました。
すると、誰かがそれは日本のアツモリソウの花じゃないか?と言いました。確かにその花弁は国語Uで学んだ「敦盛の最期」の中の挿絵の武者が背負っている矢除けの母衣(ほろ)に、そしてこれも図書館で見た「春の野の花」のアツモリソウ・クマガイソウの説明で『この花の袋状にふくらんだ唇弁の形を矢除けに背負った母衣に見立てたもの』とあったのに似ています。
日本ではその一風変わった形状の紅紫色の美しい花弁を持つ花をアツモリソウと名付け、アメリカでは心優しく勇気ある女性の足下を包むレディスリッパーと名付けたのです。
そして日本ではアツモリソウの葉が鞘状なのを敦盛の笛に見立て、アメリカではレディスリッパーの葉をインディアンの希望の灯火の象徴である白い羽に見立てました。
さらに日本では、唇弁がさらに大きく葉が扇状に広がっている花をクマガイソウと名付けました。
二つの花は平家物語で知られる一ノ谷の源平合戦で、源氏の武将・熊谷直実と一騎打ちで敗れた平氏の悲運の若武者・平敦盛を語る対の花として長く日本人に愛されてきました。平敦盛の悲話は唱歌としても、作詞・大和田建樹、作曲・田村虎蔵による「青葉の笛」の一番の歌詞として詠み込まれています。
しかし、最近では二つの花とも数が少なくなり、とくにアツモリソウは種の保存法による「国内稀少野生動植物種」に指定されるまでになってしまいました。
それにしても、戦に挑む武者たちが風をはらんだ大きな袋=母衣を背中に背負って矢を防ぐ。それが射られた矢に対してどれだけの効果があったのかわかりませんが、それを母の衣と名付けるなんて・・・。何と愛情のある、言い得た名前でしょう。
天地の創造主が造りたもうた美しいものに名前を付けるのは人間です。その名前に込められた熱い思いを知るとき、私は胸が高鳴るのを押さえることが出来ないのです。
「老子経」
《杜陵高校通信制で学んだこと》平成11年 1月
私の今年一九九九年のお気に入りの暦は故、吉丸竹軒師のタイトル「墨戯生涯」の書に綴られています。師のまさに書に親しんだ生涯の神髄を表す「墨戯生涯」という文字は盛岡の報恩寺の石碑にも刻まれているそうです。
私はめくられていく暦の中で老子経からとった象形文字と漢文に強く興味を引かれました。そしてどうしてもその意味が知りたくなって、図書室担当の先生に教えていただいて老子経を繙いてみました。
要約すると老子という人は「無為自然」といって、他人に干渉せず欲望も持たず、赤子のように無心の気持ちを持って静かに生きていくことを唱えた人で、いわゆる水のような生き方を自ら実践し百二十歳の生涯を終えた人でした。
私なりに勝手に想像し理解してみると、この漢文のいわんとしているのは「世の中では一般に良いとか悪い、正しいとか正しくないとか言って守るべき道を説いているが、そういうものは万物を生み出す天地が開ける以前にはなかったのだ。みんな一つで同じ玄という奥深くて幽かで不確かなところから出ているのだ。」といっているようです。
ところが世の中では、みんなが良くて正しい道を歩くように求められます。そんな現在の日本でも絶対のものを求める人々が後を絶ちません。その中でも最高のものを求めて、山の頂上に登り詰めたと思われるフラメンコダンサーの長嶺ヤス子が虚ろな眼差しで空しく溜息をつく姿を見るとき、全きものを求めて挑み続けた桂枝雀が自らその命を絶ったことを知るときに、私は老子の言葉がこんな風に響いてきました。
「そんなに無理をして頂上に登らなくてもいいんだよ。人は皆同じところ(玄)から出ているんだから、お互いに支え合いながら愛を感じあいながら生きていけばいいんだよ」と。
老子はしたたり落ちる雫がいつの間にか石に穴を開けるように水の心で生きなさいといっているのです。それは私が、まさに憧れて止まない生き方なのです。
赤子がひたすらお母さんの乳を吸うように、盲目の高橋竹山が津軽でひたすら三味線を弾き続けたように、私もひたすら針を動かし続けています。余りにも手がスムーズに動くので、自分が息絶えても手はそれを知らずに動き続けるのではないかと思うときがあります。そんなことを考えながら仕事をしているのが、一番自然で楽な生き方かも知れません。
私は思想家・老子は年を重ねていくことが不安になりがちな現代の社会であればこそ学ぶべき人だと思うのです。そして、書道家・吉丸竹軒師が何故、老子のこの言葉を選んで書くことにしたのかを思い、また師が創玄会という書道研究会を作ったことを重ね合わせますと、師と老子の間には自ずから共通のものが流れていると想像できるのです。
私はこのところ、職場での不満やイライラをどう解消したらいいのかと苦しんでいました。しかし、この老子経を解読していくうちになんだか「ああそうか、人は皆同じなんだ」と思われてきました。
そして不思議なもので、そう考えていきますと今同じ時、同じ空間を共有している回りの人々が急に愛おしく大事に思えてきたのです。
書との出会い、それは思いもかけず、私に人生の大事な指針を与えることになったのです。
「祖母の涙」
《杜陵高校通信制図書館報2000年創刊号》二十歳のとき、私は兄の死によって、東京からUターンしてきました。そして職に就く前のしばらくを母の実家、紫波町佐比内で過ごしていました。その昔、佐比内には金山があって、方々からたくさんの人が来て働き、隠れキリシタンも含まれていたと伝えられています。又、佐比内はアイヌ語で「サッピナイ」と称し、水の無い里を意味するそうです。
家の前をその名も水無川が流れる祖母の家は、遠野に通じる街道筋に位置しています。落合(おずや)という屋号からしても、交通の中継地点として人々の出入りの多い家だったようです。私は常居で祖母の話を聞くともなしに聞いていました。
祖母の父、大蔵は若い頃、東京の蔵前まで行き、しこ名を「月見山」といって、相撲取りの修行を積んで帰ってきた人でした。白山神社で相撲をとったり、金山で書記として働いたりしており、かなりの発展家だったようです。祖母の母・サワは隣村の赤沢から嫁いできた人でした。ところが、どういう訳だったのでしょう。大蔵が最初に見合いした人はサワではなく、サワより器量の良い人だったらしいのです。大蔵はその人を気に入り、いざ結婚ということになったのですが、嫁入りしてきた相手が違っていたものですから大変です。すっかり腹を立てた大蔵にサワの父親が泣いて頭を下げ、なんとかサワは嫁入り出来たのだそうです。なるほど、お寺に残る黒紋付きの羽織袴姿で写真に収まった大蔵は、なかなか立派な体格の男前に見えます。
そんなことですから、サワの苦労は目に見えていたのです。娘一人(祖母)を残して三十七歳という若さで亡くなりました。サワはその死の床で娘の運命を決定づける重大な遺言を残したのです。それは夫・大蔵の弟二十歳と娘十一歳を結婚させるようにという内容でした。昔から、家の中(いぇのなが)結婚といわれ、閉鎖された地域社会の中でしばしば行われていた近親者同士の結婚の最たるものでありました。祖母は、どうしようもない運命に巻き込まれて、自分の叔父と結婚したのです。最後に祖母が漏らした「おら、罪作りなごとしたもんだ・・・」の言葉が、私の心に重くのしかかってきました。私は木槿の花をいっぱい付けた垣根が見える縁側に出て、大きな深呼吸をしました。そして、時の流れを止めたような昼下がりの眠そうな空気を破りたいような気分にかられました。
サワの真意は何だったのでしょうか。自分の死後、夫が後妻を貰い、その妻に男子が生まれると娘は他家に嫁がされてしまい、自分の血筋が絶えるのを怖れたのでしょうか。案の定、大蔵はサワが死ぬと妻を娶り、男子も生まれたのです。しかし、その男子は分家とされてサワの血筋は守られたのです。
大蔵爺さんは余程の負けず嫌いだったらしく、山林や田畑の所有権のことで裁判所に日参するものの、財産は減る一方だったようでした。祖母といえば、遠くの井戸まで天秤棒を担ぎ、水を汲んでくるのが日課でした。養蚕、機織り、無尽講(むんじん)や親類縁者の世話までを一手に引き受け、働きずくめの毎日だったようです。
祖母の九十度以上曲がった腰は、決して伸びることはありませんでした。垂れ下がった乳に触りながら、昔話をせがむ孫たちにとって、祖母の懐はまるでカンガルーの袋のように見えました。自分のことなど一切考えない祖母でしたが、「孫が図書館から借りてきた本こ読むのが、一番の楽しみだてば。」と、眼を輝かすのです。
ああ、祖母はどんなにか広い世界を見たいと望んでいたことことか。母の遺言により、自分の叔父と結婚させられて、その遺言に縛られ従いつつも、心の中で、どんなに苦しみもがいていたことか。そんなことは、おくびにも出さず、衰退の一途を辿る家勢のなかで、血族結婚したことに畏れ戦いていたのでした。
その時、私は兄が早世したために、母のいいつけで家を継ごうとしていました。祖母は自分が母の遺言に従って結婚したことを考えると、孫娘が家を継いで苦労することを心配したのです。
私は祖母の話に胸がキューンと締め付けられるような痛みを感じました。そして、その時の祖母のやわらかい口調と、やさしい慈愛に満ちたまなざしを生涯忘れることはないと思います。細々とした流れの水無川を辿っていくと、程なく当国三十三箇所十四番札所の岩谷観世音があります。祖母は御観音様(おがのさん)を信仰することが心の支えだったようでした。息子と昼餉を共にし、「ちょっと、眠くなった。」と言い、炬燵に横になったまま亡くなりました。その死に顔は、この世に何のこだわりも持たない自然そのものの姿でした。花や木が枯れるように八十七歳の大往生を遂げたのです。
祖母の葬列は雨が止めどなく降りしきり、御詠歌仲間の歌が朗々と流れていました。それは祖母をあの世に送るのに、最も相応しい光景に思えました。
北上の山並みを臨む川岸に立つと、私は「おばあちゃーん!」と叫びたくなるのです。閉鎖的な家や社会の中で、まさに血の涙を流し続けた祖母。今、その涙は透き通った輝きを放つ水になりました。そして、祖母が一生を暮らした山峡の山際から、登ったばかりの太陽に照らされた水面の水の一滴、一滴となって、キラキラと光りながら流れていきます。その流れは、静かに、やさしく、いつまでも私を励まし続けているのです。
「宮澤賢治ーその愛」を読んで
(映画化・・脚本 新藤兼人/ノベライズ 田村 章)平成10年 3月賢治は幼い頃から自分の心の内面と向き合って生きてきました。
そして真摯に追い求めるあまり傷つくことも多く悩みも深かったのではないかと思うのです。新藤兼人さんは新しい切り口で賢治と父・政次郎との愛の軌跡にスポットを当てたのではないでしょうか。
やはり紫波町の児童文学者で教師の故・藤井逸郎さんも「兄(えな)さん」という本の中で、その当時そこかしこに居そうな 身近な存在として賢治を描いています。土地の人からは「兄(えな)さん」と呼ばれていた賢治と其処の有力者であり一家の家督でもある政次郎との間には、 次女として生まれ育ってきた私にはわからない、深くて重いつながりがあったに違いありません。
そういえば私の亡くなった父と兄との間にも似て非なるそうしたものがあったような気がします。
そう考えますと、それまでどこか遠い国から来た人のようで、ちょっと近寄りにくかった賢治が 急に人間くさく身近に感じられてきました。
賢治は本当は父のことを大好きだったし、尊敬もしていたと思うのです。
そして政次郎が賢治を諭した言葉は私の胸を強く打ちました。
「お前は、自分というものを人に認めさせたいのなら、他人のやることも認めなきゃいけないな」。
だから賢治はその父の愛に報いたくて体をこわすまで、がむしゃらに働いたのではないでしょうか。
死ぬ間際に父から「お前もたいした偉いものだ・・。」と誉められて賢治はどんなにかうれしかったことでしょう。もし賢治が死ぬような病を持たないでいたなら、父と本当に解り合い、支え合って生きていったのではないかと、 そう思わずにいられません。
「イメージ・フラワー」平成11年10月 記
イメージフラワーとは、その人のイメージにぴったりの花のこと、それを名付けるのが私の趣味なのです。
最初のきっかけは赤ん坊の頃から石蹴りで遊ぶ時も、焚きつけ用の杉っ葉拾いの時も私を背負い世話してくれた 従姉妹の「和ちゃん」である。いつも私はお月様の姿を追うように和ちゃんを慕ってきたのです。
その和ちゃんが「てこちゃんは水仙だ!」と言ったのです。「どうして?」。
「だって春になれば元気になるもの!」
という訳で、それ以来私は自分のイメージフラワーを「水仙」にしたのです。
瑞々しい緑のすっきりと伸びた茎に黄金色の光を放って、とびっきりの笑顔で咲き揃う水仙。
辛くて寒い冬の新聞配達がようやく楽になって、動き出した春に喜びいっぱいの私にそっくりです。私はそれがすっかり気に入ってしまいました。
そして職場のみんなに次々とイメージフラワーを名付けるのに夢中になってしまったのです。
あなたは誰とでも明るく接するから「たんぽぽ」。
あなたは日本的美人顔で落ち着いているから「りんどう」・・・という風に。
花の名前は数限りなくあって付けども付けどもなくなりません。
そして名付けると、その人にぴったりの花に思えてくるから不思議です。
心密かに決めていて聞かれたら直ぐこたえ、その人が頷いてくれるのが嬉しいのです。私の仕事はお針子、技術の仕事に終わりはありません。
その日も最近入社したばかりの人にぴったりのイメージフラワーが見つかったので、昼休みのチャイムが鳴っても 慣れない肩パット付けの仕事に一生懸命の彼女に声をかけました。
『○○さん。がんばっているのね。私ね、イメージフラワーを付けるのが趣味なのよ。○○さんは「小手まり」よ。
白くて小振りのまん丸の花を枝もたわわに咲かせる花!』。
「エッ!私白い花?、そんな私・・・黒いわ。だって仕事が覚えられなくって悔しくって!」。
ポロリとこぼした涙・・・。でもその後、笑顔で「ありがとう!」と言ってくれました。
よかった。さて、この次は誰に付けようかしら?
「長い貯金箱」平成13年12月 記
私が子供の頃(昭和20年代)町内を木製の長い貯金箱が回覧板のように回されていました。それは、それまでの井戸に代わって町内に 水道を引くための貯金箱でした。各家が数軒分に仕切られたお金の投げ入れ口に日銭を入れて回し、最後に係の人が鍵を開けるしくみです 。
戦後。公共事業がなかなか進まない中で、父たちの町内の人たちは少しでも早く水道を引いて、家族が辛い水汲みの仕事で腰がすっかり曲 がってしまうのを防ぎたかったに違いありません。いち早く自分たちで水道組合を作って水道管を引き、後に役場に買い取ってもらったそう です。私は国語Uで学んだ九州にある通潤橋(水道橋として作られた)が一つ所を住み易くするために知恵と経験を生かして作った農村文化であ るとするならば、近代日本が様々の形態のユニオン(組合)を作り発展させてきた知恵は隣近所の人たちが少しでも便利で豊かになるよう 助け合ってきた市井の人々の文化と言ってもよいと思うのです。
そんな人々のアイディアで出来た「長い貯金箱」、それは隣近所の人達みんなの協力と信頼の気持ちが支える貯金箱だったのでしょう。 ポトンとお金を落とすとき、みんな優しい気持ちになったと思います。だんだんと隣近所の関係が希薄になっていると云われる現代、私は父たちのような市井の人々の工夫と努力に大いに学ばなければいけな いと思うのです。そして広い観点から見て、長い貯金箱の一ますを一つの国とするならば、全世界の国々が知恵と力(お金と言ってもいいでし ょう)を出し合って一つの目標〜平和な地球を作るために協力し合ったらどうだろうか...と夢想したのです。
現在、世界では「N.G.O」や「国境なき医師団」のような非営利組織の団体が活躍しています。そのように一人一人みんなが幸せへの 願いを網の目のように繋げ地球上を覆っていったら、夢は必ず実現すると思わずにはいられません。
私のおすすめの本「私の野村胡堂・あらえびす」
藤倉四郎著(MBC21発行)平成10年6月 記
テレビで広く知られている「銭形平次」の作者は野村胡堂です。そしてクラシックレコードの収集家・評論家でもあった「あらえびす」 は私の住んでいる紫波町の出身です。生家の近くに近年あらえびす記念館が出来、折々ミニコンサートなども行われています。胡堂は本 名が長一、彦部村の村長の息子として生まれました。
胡堂が啄木と共に東京で勉学している頃、胡堂が弟に当てた手紙と啄木が妹に当てた手紙が比較されて載っています。胡堂の手紙には 本当に優しい兄の心情がていねいにしたためられていて泣けてきました。その中で「夏休みに帰ったら犬吠森のタミエの家の向こうあわれ な盲目と痴者にそっと何か持っていって上げたいから工夫しておくように」と書かれています。その犬吠森という所は私が今、毎朝新聞配 達をしている所です。それにもびっくりしました。
胡堂は「あの森の蔭に家ありき・乙女ありき・山吹ありき」の女性ハナさんと一生添い遂げられてとても幸せだったと思います。赤ちゃ んの縫ったばかりの初着までも差し出して胡堂の将来を支えたハナさん。胡堂もまた同僚のいじめに泣くハナさんを抱き上げ「森の熊さん」 のように部屋の中を歩き回ってなぐさました。
作者がハナさんに「あらえびす先生の欠点はなんですか?」とお聞きしたところ、「人を許さないこと。これには困りました。」と。「 銭形平次」を通じてこんなに皆に愛されて世のため人のために尽くした方が・・・。私も作者と同じく絶句しました。それは今の私の欠点 でもあるからです。だから「罪を憎んで人を憎まず」のヒューマンな銭形平次が出来上がったのだと納得しました。
「あらえびす」の名付け親は金田一京助です。京助は無類のお人好し、初めての印税を啄木にやってしまう仏さんのような不思議な人で す。
胡堂の父、長四郎は村政の失敗の債務の責任をとって破産しました。胡堂は後わずかを残して大学をやめざるを得なかったのです。のち に学資がなくて勉学出来ない人のために野村学芸財団を作ったゆえんです。胡堂は考えは少し違っていましたが、善良な魂の持ち主の父を とても尊敬していました。バッハの音楽を聴くと父の広い愛に包まれているようだと評しています。私も今度バッハの音楽を聴いてみたい 気持ちになりました。
「心の花」平成9年6月 記
紫波橋を渡って左に曲がると、北上川を挟んで城山と向き合う形で通称「タテガミさん」と言われる館森神社がある。
見上げると覆いかぶさって来るような急な登り段である。
その神社の裏側を巡る山道は、私の朝の新聞配達の中では難所でもあるが、大好きな所でもある。
キャベツのような蕗のとうにビックリしたり、かわいらしい片栗の花や二輪草も楽しめる
用水池には鴨もやって来るし、春浅く柔らかい草を踏んでキジも出てくる。アザミの花がポツポツ咲き始める頃、私は「アザミの歌」を口ずさんでいた。
「山には山の愁いあり。海には海の哀しみや。まして心の花園に、咲きしアザミの花ならば・・・・」。
歌いながら私は泣けてきた。十五年前に別れた夫が心筋梗塞で倒れ、この年の元旦を待たずに亡くなってしまったからだ。
結婚して間もなく心の病を患った夫とは、子供たちの成長に伴い私の力では支えきれなくなって、決死の覚悟で別れたのである。 別れようと決心した時、長いトンネルの向こうに明るい一筋の光が見えて必死でその明かりに向かって歩いてきた私である。
険しい道ではあったが後悔はしていない。ただ、病気との長い付き合いの末に死んでしまった夫が可哀相でならない。
葬儀に参列した長男が、お棺の中には病院で書いたと言う「心の花」の一筆が添えられていたときかせてくれた。山の際を回って少し登っていくと、池に靄がかかっていた。
土手の草むらの中には鮮やかな濃青色のアザミの花が咲いている。
なんてきれいなんだろう・・・・。私は思わず車から降り、近ずいて手折ろうとした。
その瞬間「痛い!」
茎に付いている無数の棘が鋭く私の指を刺した。
引っ込めた指をなめながら私は『ああ!夫も自分の心の中の美しい「心の花」を守るため外側にこんなにたくさんの棘を持って生きていたんだ。』そう思った途端、後から後から涙が出てくる。
私はあわててその涙を拭い、次の家に行くため帽子を深くかぶり直した。
これからも私の心と心の交流を綴った拙い文章を更新していきたいと思います。
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