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★記入者 いまい★
「発達保障」という言葉を聞いたことがありますか?
糸賀一雄さんという方が、知的な障がいがある人のために、提唱した有名な考え方の一つで、日本版のノーマライゼーションともいわれるものです。
その考え方として、「教育を受ける権利」「ゆっくり発達する権利」などといわれています。そこで「発達保障」について考えてみました。
「教育を受ける権利」については、昭和54(1979)年まで養護学校は、義務教育の対象ではありませんでした。当時は教育を受けさせる義務の猶予あるいは免除が、障がい児をもつ保護者に対して適用されていました。しかし障がい児のための学習環境の整備が遅れていたために、学校教育を希望しても、多くの場合は入学が認められないといった状態でした。つまり教育を受けたいと思っても、受け皿がない状態だったのです。昭和54(1979)年度から実施された養護学校教育の義務制に伴い、学習環境の整備が進められ、18歳までの人に対しては「教育を受ける権利」は保障されることになりました。
しかし知的な障がいのある多くの人にとっての教育の場は、高校や養護学校までであって、卒業後は大学などの高等教育を受ける機関 への進学は、簡単ではありません。そこで、そのような人たちにも教育を受ける権利を保障することを目的として、オープンカレッジが行われています。
「ゆっくり発達する権利」とは、重度の障がい児であっても環境や働きかけによって、極微の変化を遂げるという考え方から導かれたようです。
それでは「ゆっくり」や「極微」とは、どういう意味でしょうか??
通常では発達水準などを基準としています。そして、それらを用いることにより、多くの障がいのある人は、水準以下という結果になることが予想されます。もちろんその水準は、健常者が基準となります。そこで「障がいのある人は、健常者からみて本当に発達がゆっくり、あるいは極微なのか」という疑問が発生します。
糸賀氏はこの点について、美しいものを美しいものとして観ることができない健常者の方が、盲目であり重症であるといっています。この点については、賛否が分かれると思いますが、興味を持たれる方は糸賀氏の著作を読んでください。ここでは、糸賀氏のいう発達保障をもとに話を展開します。
障がいのある人を、「哀れ」だとか「かわいそう」とみるのではなく、本来は、みずみずしい生命にあふれ、むしろ回りにいる私たちや、世の人々に、自らの生命のみずみずしさを気づかせてくれるすばらしい人格そのものといえるのではないでしょうか(近江学園HP参考)。これは、飾り付けて伝えているわけではありません。障がいをもつ人と出会ったことがある人は、一度は感じることではないでしょうか?
以上をふまえると発達保障とは、健常者から障がいのある人に提供される権利などではないと考えられます。それではそもそも発達保障とは何でしょうか?
個人的には、次のように考えてみました。
健常者は、障がいのある人が表現していることを、知ることや理解することが、困難なのではないでしょうか。健常者は障がいのある人を理解するためには、健常者自身が発達・進化することが大切なのではと考えました。
以上から発達保障とは、健常者から障がいがある人に、与えられる権利ではなく、障がいがある人から健常者に、多くの気づきが与えられる、成長や進化のプロセスであって、障がいの有無にかかわらず、すべての人が学びあい、助けあうことにおける、お互いの変化という可能性を理解しあえる、かかわりそのものといえると思います。
このことは同時に、重度の障がいがある人であっても、社会におけるかかわりを生む重要な生産者ということにもなります。
みなさんは、どうお考えになりますか?? |





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