明治以前の日本の理学: 窮理

 多くの優れた建築物や巧妙なからくり仕掛けを生み出した我々の先祖は、力学や物性に関する豊富な経験と知識を 持っていた。しかし、それらを体系的に蓄積して学問にまで発展させる機運は起こらなかった。 これは和算との大きな違いである。 日本における自然科学は、江戸時代後期に至って、欧州の学術を輸入することで始まった。

 鬼才 平賀源内は 1765 年(10 代将軍 家治の時代)にオランダ製の温度計を見て 3 年後に自作した。1770 年には長崎でエレキテル (摩擦発電機)を入手し、 これまた自作して見世物にしている。少し後の 1811 年、橋本宗吉が自ら実験した現象を記した「阿蘭陀始制エレキテル究理原」を著した。

 物理学全般について初めて紹介したのは 1825 年に青地林宗が著した「気海観欄」であり、1850-1858 には 川本幸民がそれを補充して「気海観欄広義」第一冊 - 第五冊 を出版した。その間の 1836 年、帆足万里(豊後日出藩家老)がオランダの科学書を研究して「窮理通」巻之一 - 巻之八を著し、1852 年には広瀬元恭が翻訳書「理学概要」を出版している。

 「窮理」とは古代中国の「易経」を出典とし、宋の儒学者達が「ものの成り立ちや振る舞いを隅々まで明らかにする」という意味で用いていた言葉である。

 この頃までに出された書物は西欧での出版物を種本としている。19世紀後半になると欧米から多くの学者が招かれ、 また欧米に派遣される日本人留学生も現れた。福澤諭吉は1860年(万延元年)に咸臨丸で渡米し、1863年には訪欧、1867 年(慶応3年)に再び渡米した折に多くの 書物を持ち帰った。彼は 1868 年(慶応4年 = 明治元年)に『訓蒙 窮理圖解』(きんもう きゅうりずかい)という本を著したが、これは 1861年から 1867 年にかけてイギリスとアメリカで出版された書物を参考にして書かれた自然科学の啓蒙書である。この本は小学校の教科書としても使われた由である。

窮理 から 物理 へ

 1872年(明治5年)に発足した学制から「窮理」に代わって「物理」という言葉が使われることになった。この変更の理由の 1 は 対象が「物」即ち物体的・物質的な存在であることを明確にすることにあったであろう。その 2 として「理」の語には元々「窮める」と いう意味があるから、重複を嫌ったものと思われる: 理 = ことわり = 断り = 言割り = 事割り = 細かな分析、 検討、 判断、 断定 等。


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