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○ 不思議な秋の夕暮れ 2016.09 散歩がてら、スーパーマーケットに買い物に行きました。終わって外に出ると、あたりはすっかり 暗くなっていました。 秋の日の釣瓶落とし 頭では分かっていますが、つい先日までの明るい夕暮れとあまりの違いように、驚きました。 暗い中を歩きだすと、見慣れた周囲の中高層マンションが、急に暗くなった大空を背景に、これ までより黒色が増し、そして高く見えました。 マンションの出入り口や廊下などの照明は、いつもは明るく楽しい家庭を連想させますが、なぜか 無機的な表情をしていました。 ふと、今、未曽有の大地震が起きたらどうなるだろうと思いました。 私は、約50年間、建物の構造設計、技術開発、構造計算の適合性判定に携わり、真摯に 取り組んできました。一般の人より、構造物の長所や短所についてはよく知っているつもりです。 しかし、最先端技術で建てられた超高層建築においても、未曾有の大地震に対しては、安全 であることの立証はできていません。 目の前にある中高層マンションの重要な1階部分は大丈夫だろうか、ベランダや外階段はどう だろうか、周囲へ落下物はないだろうか。 免震構造をキャッチフレーズにしていたマンションはどうだろうか。鉄骨造の立体駐車場やたくさん ある戸建住宅はどうだろうかと、思ってしまいました。 もちろん、それぞれの建物は、適法な耐震構造や免震構造で建てられています。 しかし、最近の異常な気象を考えると、これまでの経験やデータだけでは予測できない状況が 考えられるのではないでしょうか。 歩いていると、遊歩道脇の草むらから虫の声が聴こえてきました。 自然や生命に対して、奢ることなく、感謝して、もっと謙虚になろうと思いました。
○ 義父・義母のこと 2016.04.20 義父のことを思うと、いつも一つの情景が浮かびます。 私の長女(二歳)を呼び、目の前で、おもちゃの小さなネジを巻いてくれている姿です。 義父は、造園業をやっていた職人さんです。武骨な大きな手で、小さなネジと格闘していました。 おもちゃは、その当時、就航したばかりのジェット旅客機で、小さいけれども精巧にできていました。 ネジを巻くと、車輪が回って走る形式でした。 次女が生まれたとの連絡を受け、長崎に向かう途中の羽田空港で、「そうだ!長女に、何かお土産を 持って行こう」と思いつき、求めたものでした。 島原の実家に着くと、義父、義母、長女が待っていました。三か月余、離れていたせいか、長女は、 私を見て、恥ずかしそうに義母の後ろに隠れました。 ボストンバックからジェット機の箱を取り出しても、あまり興味を示しませんでした。その当時の私には、 女の子が喜ぶようなものを選ぶ余裕がありませんでした。 その様子を見ていた、義父が、ジェット機を手に取り、ネジを巻いてくれた次第です。 義父の心配りに感謝し、もっと女の子が喜びそうなものにすれば良かったな、否、荷物になっても、もっと 大きなものにすべきだったなと、反省しました。 そして、妻が入院している間、お二人がいかに長女をかわいがってくれていたが分かり、深く感謝しま した。 入院中の妻と生まれたばかりの次女に会いに行きました。帰りに、義母が、私と長女を二人にして くれました。散歩をしながら、帰ることにしました。少し遠回りをすると、よく知らない道に出ました。 すると、今まで良くしゃべっていた長女がピタリと話すのを止めました。私が少々迷っているのが、分かって いる様子でした。二歳になったばかりの長女の感覚に驚きました。 その後、市役所に出生届を出し、一泊させてもらいました。帰るとき、義父、義母、長女に見送られ、 島原駅に向かいました。振り返ると、義母と長女が外に出て手を振っていました。駅までの道を歩き ながら、なぜかしら涙があふれてきました。
○ 900秒 2015.10.11 妻、娘、孫たちが千葉そごうに行くというので、千葉駅まで車で送りました。 車内での会話から、着いたら、私が家に戻ることを知った弟孫(5歳)は、私と車で戻ると言い出しました。 デパートがあまり好きではないようです。 妻、娘、姉孫を降ろし、私と弟孫の二人で戻り始めました。 来るときは、後ろの座席に、娘(母親)と姉孫(姉)の間に居心地良く座ってましたが、今は、後ろの座席に 一人で座っています。 日曜日のせいか道路は混雑していました。 その上、走っている街並みも、馴染みがなく、大いに退屈している様子でした。 「まだ、着かないの?」、「遠回りしてるの?」と何回か聞いてきました。 私は、「もう少しだから・・・」というような返事をしました。 生実池に近づいた頃、たまらなくなったように、「あと何秒で着くの?」と聞いてきました。 私は余裕をみて、「あと15分」と答えました。 「フン?フンって何?、何秒かって聞いているんだけど」と言いました。 きっと、保育園や家の風呂などで、時間をはかる単位として、「ハイ、あと何秒!」、それを、 「いち、に、さん、・・・」というように、数えているのでしょう。 私は、15 * 60=900 と頭の中で確認して、「900秒!」と答えました。 弟孫は、"900"という、あまり聞いたことがない数字に、戸惑っている様子でした。 しかし、一息ついて、思い切ったように数えはじめました。 「1、2、3、4、5 ・・・・・」 5才の弟孫が、900まで数えるのは無理だろうと思いながら、聞いていました。 「・・・・・91、92、93、94、95、96、97、98、99、100」 100まで、無事、到着しました。 そこで小休止があり、そして、また100から数えはじめました。 「100、101、102、103、104、105、106、107、108、109、110 」 今度は、110で止まりました。 そして、また、100から数え、 「100、・・・・105、106、107、108、109」、このあと、一呼吸して、 思い切ったように、「900!」と、宣言しました。 "109"の9と、"900"の9が、何か感覚的につながったのでしょう。 "900"に挑戦しただけでも、拍手してやりたい気分でしたが、 「109の次は、900ではないよ。900は100が9個だから、」 やはりそうかと思ったようです。答えはありませんでした。 運転中の前座席と後座席での話には限界がありますので、話題を変えようと思いました。 ちょうど、学園前あたりに来ましたので、聞いてみました。 「ほら、ここ、どこかわかる?」 「うん!わかるよ」 しかし、いつもの元気のいい声ではありませんでした。 「もうすぐ着くからね!」 家に着いてからは、「900」のことは話題にせず、二人で仲良く遊びました。
○ 2015 夏 2015.08.25 上の娘が、前の小学校にいた時、膝を悪くし、夏休みを待って、入院・手術をすることになって いました。夏休みの7月26日に入院、翌27日に手術となり、姉孫と弟孫を預かりました。 姉孫は小学校の学童保育へ、弟孫は保育園へ、毎朝8時過ぎに送って行き、いつもより少し 早目の夕方4時過ぎに迎えに行き、その後、娘の入院先に面会に連れて行く毎日でした。 規則正しい生活をさせようと思い、私自身も早く起き、6:30のラジオ体操を行うことにしました。 ラジオ体操をすれば、小遣い百円をやることにしたところ、ラジオをつけると、ふたりとも自発的に 起きてきました。鏡を前に、私、弟孫、姉孫の順で縦に並びました。第2体操のからだを倒す 運動では、弟孫が私の尻に手をぶつけて喜んでいました。 娘の入院前から、私と小4の姉孫の夏休み自由研究を準備しました。夏の風は、本当に 南風が多いのかどうかを、測定して確認するというテーマです。 ペットボトル、木の丸棒、ダンボール紙を主な材料とし、風向計を一緒に作りました。毎朝、 学校に行く前に、測定しました。姉孫と私が、記録用紙と風向計を持って外に出ると、必ず弟孫も 付いてきました。 8月5日昼ごろ、電話があり、妻が出ると、保育園からで、弟孫が体の具合が悪いとのことでした。 二人で急いで保育園に向かいました。その日は、保育園から離れたところにある畑に行ったそうです。 連日35度を超える猛暑であり、しかも、保育園の長袖の上着を着せられていたため、日射病に なったようです。外に出かけるときは、長袖のシャツを着ることになっているそうです。 妻は、長袖のシャツを弟孫の棚に置いていたそうですが、いつもと置き方が違うためか、本人も先生 も分からなかったのでしょう。それで、半袖の上に園の長袖を着てしまったようです。 弟孫は、顔が蒼白で、ぐったりと横になったままです。たすき掛けの袋に冷却材を入れたものを、 両脇の下につけています。保育園の先生も日射病と考え、対応してくれたのでしょう。 そのままの姿勢で、車の後ろ座席に横たえ、家に戻り、娘に連絡しました。掛りつけの病院のひとつ は休診日で、もう一つが15時から診療になっていることが分かりました。 弟孫はずっと横になったままで、寝ています。体温を測ると、38度を超えています。 病院診察まで2時間ほどあるため、とりあえず、首回り、脇の下などを冷やし、部屋の温度を下げて、 寝かせることにしました。私もそばで横になると、足などが驚くほど熱くなっていました。 妻は用事があるため、私一人で病院につれて行くことになりました。 熟睡したせいか、顔色は少し良くなりました。しかし、自分からは動くことができない様子ですので、 横抱きにして車の後部座席に横たえました。 病院に着いたら、「日射病の子供を連れてきました」と言いなさい。そうすれば、看護婦さんが運ん でくれるから、と妻に言われて、出発しました。 病院に着き、私だけ受付に行き、日射病の五歳の子である旨を伝えると、「看護婦さんに伝えて ベットを用意してもらっておきますので、連れてきてください」とのことでした。 横抱きにしてつれて行くと、こちらへと言われ、ベットまで運び、息が上がりました。 ベットで寝ている間、体温は38度ぐらいまで下がり、顔色も良くなり、話もできるようになってき ました。多少ぜんそくの傾向があるせいか、時々咳をしました。 診察の順番がきて、看護婦さんに、「歩ける?」と聞かれると、自分で体を起こしました。 熟睡したのが、良かったという医師の話でした。 良くはなりましたが、夕食はいつもの半分ぐらいであり、8時前には寝始めました。翌朝のラジオ体操 にも起きてこず、結局12時間続けて寝ていました。体温は平熱の37度程度に戻りましたが、用心して 保育園は休ませました。 娘は、8月8日に退院しました。
○ 7、8年前の疑問 2015.07.07 孫たちと、7、8年前、昭和の森に行き、私がトイレか何かに行った時のことです。なぜなら、近くに 家族がおらず、一人で歩いていたからです。 欧米系の年配のご婦人がひとりで歩いていました。たいへん気品のある姿でしたので、公園には 不似合いな光景でした。 軽く会釈されたので、私も頭を下げました。満足そうに、微笑んで、手に持っていたコーラを胸の あたりで持ち替えました。コーラを大切そうに持っていることに、驚きました。 その頃の私は、暑いときの冷えたコーラは飲みましたが、それ以外は考えられませんでした。 きっと、ご家族の誰かを訪ねて日本に来て、孫たちとこの公園に来たのだろうなと思いましたが、 品のいい、年配のご婦人が、なぜ、コーラなのだろうかと大きな疑問が残りました。 数年後、疑問は氷解しました。私は、今、季節を問わず、常温のコーラを飲んでいます。 ○ 鳥獣戯画 2015.06 国立博物館の鳥獣戯画特別展に行ってきました。終了が6月7日ですので、その二日前の 金曜日でした。切符売り場で「甲巻は150分待ち」と書いてありましたが、よく分からないまま、 切符を買って入場しました。 第一会場の高山寺、明恵上人の展示は、通常のテンポで見ることができました。次の鳥獣 戯画の第二会場では、列の最後尾に並びました。 並びながら、鳥獣戯画には甲、乙、丙、丁の全四巻があること、そして教科書で良く見た絵は 甲巻にあることを、学びました。そして、それを見るのに150分待ちという意味でした。 列は少しずつ前に進みますので、150分は少しオーバーに言っているのだろうと思っていました。 しかし、列はぐるぐるとまわり、どこがゴールか分からず、少しずつしか進みません。心身ともに疲れ、 2時間位経ったころ、ようやく、ゴールの場所が見えてきました。 そうか、絵巻は小さいから一度に大勢の人で見ることができず、時間が掛っているんだなと思い あたりました。絵巻が展示されている上段には、拡大した複製の写真が飾られています。何も 小さな絵巻を見るために、長い時間待つ必要があるのだろうかと、ちょっと後悔し始めました。 初めから、分かっていれば、私はきっと見るのをあきらめていたことでしょう。 しかし、長時間待って、絵巻の原本を目の当たりすると、その素晴らしさに感動しました。複写 された写真では感じられない、小さな墨絵の瑞々しさに驚きました。 良いものに出会えたことに感謝しました。初めから事情が分かっていたら、逆に出会えなかった かもしれません。めぐり合わせに感謝です。 もう一つ、第一会場の高山寺重要文化財の小さな「神鹿」の彫刻を見て、大いに魅かれま した。しかし、残念ながら、カタログの写真は、私が魅かれた角度ではありません。 ○ 常緑樹 2015.05 常緑樹はあまり様子が変わらないので、落葉樹に比べて関心がありませんでした。しかし、 車である公園に行った時、まるで雨や雪のように、多くの葉が降っていました。なんという名前の 木か分かりませんが、比較的小さな葉で、駐車場のまわりは落ち葉がいっぱいでした。 少し風のある日でしたが、大量の落葉に驚きました。調べると、常緑樹も落葉すること、それが 春に多いことを知りました。古くなった葉を落とし、新しい葉を芽生えさせるためなのでしょう。注意 してみていると、小枝もたくさん落ちているような気がしました。 四季を通して、緑の世界を見せてくれる常緑樹も、注意してみると、春には樹の外側に多くの 新緑をまとっているのが分かりました。自然の神秘に脱帽しました。 ○ すずめと水鳥 2015.04 寒暖が続き、やっと春らしく晴れた日、散歩をしていると、急に小鳥たちのにぎやかな鳴き声が 聞こえてきました。見ると、近くの小枝に7〜8匹のすずめが短い間隔で並んでいます。さえずり合い、 躍動しているようなすずめもいます。 冬の間は、単独かせいぜい2〜3匹で静かにえさ探しをいていましたが、どうしたのだろうと思い ました。あらためて、まわりを見回すと、木々に新緑の若葉があふれています。きっと、暖かくなり、 餌にも困らない季節の来たことに、みんなで喜んでいたのでしょう。 一方、池の周りでは水鳥の数が激減しています。真夏日に近いような気温の日が時折あり、 冬鳥が北国に帰ったためです。寒い冬でも、水の上をすいすい泳ぎ回る彼らには、暑い日は 苦手なのでしょう。寂しくなった池を見て、冬にはまた会えるのだろうかと、思いました。 ○ 木蓮 2015.03〜04 近くに、木蓮の街路樹が、左右に、ずっと並んでいる道があります。春が近くなると、一番初めに、 真っ白いふくよかな花を見せてくれます。木蓮の花が膨らみはじめると、少し遠回りでもその道を 通って、両側に並ぶ真っ白い花を車から鑑賞しています。 今年も春の訪れを白い花が教えてくれました。ちょうどその頃、床屋さんに行きました。雑談の折、 「今、木蓮の花がきれいだよ」と言うと、店長が、「そう、きれいですよね」と言ってから、「でも、 どうして、あんなにきれいな花が、散ると汚くなってしまうんでしょうね」と言いました。 純白のきれいな花が散る時には、花びらに茶色が混じり、それが道路にたくさん落ちているのを、 私も何回か見ています。 木蓮は、冬の寒さがまだ残っている時に、多くの植物の中で、先頭を切って花を咲かせ、春の 到来を知らせてくれます。しかし、さくらが満開に近づくころ、木蓮の花は散り始めます。さくらの花 が大歓迎されている中で、なにか哀れな気がしていました。 少し経ってから、木蓮の道を通ると、落ちた花びらは既に清掃され、枝にはたくさんの若葉が芽生 えていました。若葉は太陽の光をあび、透き通るような新緑で、純白の花と同様、私に元気を くれました。そうだ、店長にも木蓮の若葉がきれいなことを教えてあげようと思いました。
○ さくらウォーク 2015.03.28 3月28日のさくらウォークに参加しました。妻にインターネットで申込んでと言われ、ついつい 出来心で、私と妻の名前で申込んでしまいました。 集合場所が日比谷公園で、赤坂御用地沿いを経て、青山霊園、六本木、芝公園、南浜橋を 通り、レインボーブリッジの歩道、お台場海浜公園から、ゴールのお台場のホテルまでの延べ 13kmのウォーキングです。 妻は、参加費用(2人x3000円)を郵便局で払込み、2週間前位から積極的に歩きはじめ、 リュックサックやシャツなども揃えました。一方、私は少々落ち込み、次女に代わりに行ってくれ ないかと頼んでみましたが、ダメでした。 前日の夜、持ち物や服装を揃え、やっと覚悟を決めました。 自宅から最寄り駅までの距離、京葉線で行った為、東京地下駅から日比谷公園までの距離、 お台場の最寄駅までの距離、その他を入れると、総歩行距離は20kmを超えたことでしょう。実際、 当日の歩数計は約34000歩でした。 当日の朝、家を出るのが少々遅くなってしまい駅まで急いだこともあり、青山霊園あたりから、右足の ふくらはぎが歩くのを嫌がり始めました。東京は翌日にさくらの満開宣言がありましたので、さくらの花は それなりに咲いていましたが、それを楽しむ余裕がなく、あまり印象に残っていません。 レインボーブリッジの歩道は北側と南側があり、南側を選びました。お台場の砲台跡を真上から見る ことがてきました。1853年(嘉永6年)、ペリー来航を機に、造られたもので、伊豆韮山代官の江川太郎 左衛門秀龍の設計といわれています。真上から見た、いにしえの石垣はいとおしく見えました。工事に 携わった人たちに思いを馳せました。 お台場海浜公園からゴールのホテルまでは、惰性で歩き、ゴールして、完歩の証書や賞品の リュックサックをもらいました。 家に帰ってから、妻とスーパー銭湯に行きました。ジェットバスで入念に足を揉みほぐしました。 参加したお蔭で貴重な体験ができました。 コース沿いには、さくらの木はたくさんありましたが、余裕が無かったせいか、いつもの感激はあり ませんでした。近くの公園で、匂うような桜花をゆっくり鑑賞し、自然に感謝したいと思っています。 ○ 3年ぶりの人間ドッグ 2015.02.08 1/30 (金)に、久しぶりに妻と一緒に人間ドックを予約しました。あいにく、前日の天気予報 では、関東地方南部にも雪が降るということでした。しかし、千葉市を見ると、昼過ぎまでみぞれ とのことでしたので、とりあえず車で行こうと思いました。 前の晩、夕飯を早めに済ませ、風呂に入りました。明日の朝は、飲食できないということが、 頭をよぎり、10時過ぎ、ヨーグルトを食べてしまいました。 朝起きると、とても寒く、みぞれのような雨でしたが、比較的スムーズに病院に到着しました。 受付で女性に、書類の見てもらい、最後に「昨夜9時以降は、飲食していませんね?」と念を 押されました。 私が、「はい!」と返事をすると、隣に居た妻が私を指し、「この人、10時過ぎに、ヨーグルトを 食べました」と言いました。受付の女性は、ちょっと笑顔を見せ、何のコメントも無く、受付を終了 できました。まさか、妻がそんなこと言うとは思っていませんでしたので、大いに驚きました。 あとで聞くと、半分冗談で、半分は本気で反省させようと思ったそうです。 採血が終わり、身長体重測定の前に、胴囲の測定がありました。単にメジャーで測るのですが、 担当の女性が、「楽にしてください、楽にしてください」と強調するので、リラックスした姿勢で測定 しました。 次の検査を待っていると、測定した女性が来て、前回と胴囲が随分違うので、もう一度測らせて くださいと、恐縮そうに言いました。測定の結果、やはり、5cm位大きくなっていました。 太くなっているのは事実ですが、本当に「楽にした」結果だからと、自ら慰めました。 ○ 孫の知恵(?) 2014.12.02 二番目の孫は、娘二人の私にとって、初めての男の子でした。今は4才ですが、2才の頃、 車のオモチャに興味を持っている様子でしたので、車を走らせて遊ぶ道路と駐車場のオモチャ を買い、我家に来たときに遊ばせていました。 それが壊れたので、処分しました。数か月経ったころ、孫が二人だけの時、私に聞きました。 「車を走らせるのが、無くなちゃったでしょ、また買うの?」 「うん、そうだね」 私はあいまいな返事をしました。 それから、週2回ぐらいは孫と顔を合わせていましたが、オモチャの話はでませんでしたので、 私はすっかり忘れていました。 数か月過ぎたころ、突然、娘が私に聞きました。 「ねえ、じぃじぃ、和君に車のオモチャを買うって約束したの?」 「いや、約束したわけじゃないけど」 あいまいな返事をしたことを思い出し、"やまみちドライブ"という、車を走らせるオモチャを買い ました。そして、組みたて、孫が来るのを待ってました。 新しいオモチャに、孫は喜びました。 半年ぐらい経ったころ、孫が私の手を取って2階に連れて行きました。2階の部屋には、"やまみち ドライブ"が入っていた箱が置いてありました。 箱の外側に印刷されている小さな写真を指して、 「ほら、くっつけられるんだよ。いいでしょ!ほしいでしょ!」 「うん、そうだね」 また、いい加減な返事をしてしまいました。 一か月ぐらい経ち、忘れていた私に、娘が聞きました。 「じぃじぃ、和君と約束したの?」 結局、今度は、"にぎやかドライブ"を買い、"やまみちドライブ″と接続し、たたみ1畳ぐらいにの 大きさになっています。
○ おぼんだま 2014.08.15 お盆玉というものがあることを聞きました。正月とお盆にしか、孫と合わない祖父母が、お盆に 来た孫にあげるものだそうです。学校や保育園で、他の子がお盆玉をもらったという話を聞いたら、 孫がちょっとさびしくなるのではと思い、あげることにしました。 8月15日は、近くで花火大会があり、みんなで見に行く日です。私の家に集まり、車ででかけ ます。姉孫(小3)と弟孫(4才)にあげるポチ袋にひらがなで「おぼんだま」と書き、準備しました。 でも、何と言ってあげようかと迷いました。正月ではないので、「おめでとう」は変だし、毎週 合っているので、「久しぶり!」や「大きくなったね!」もおかしいことに気づきました。 そうだ、「今日は、お利口だった?」と聞き、「お利口だった」と答えたら、あげようと決めました。 二つの袋を手に持って、まず姉孫に聞きました。「お利口だった?」と聞くと、下を向いて、 「自分では言えない」という返事でした。「どうして言えないの」と聞き返しても、「わからない」との ことでした。 脇で見ていた母親(娘)が、「夏休みの自由研究もちゃんとやったでしょ。お利口だったでしょ」と 助け船を出しましたが、下を向いたままでした。昼間、夏休みの宿題や自由研究のことで、母親 といろいろあったんだなと思いました。 らちが明かないので、弟孫の方に、「お利口だった?」と聞くと、即座に「お利口だった」と 返事したので、おぼんだまの袋を渡しました。すると、「ありがとう」と言った後に、「おネイちゃんも、 お利口だったし!」と、付け加えました。私は、ほっとして、姉孫におぼんだまをあげました。 ○ スズムシの予知能力 2014.07.30 今年の台風8号は、7/7に、沖縄に接近した超大型台風であり、初めて特別警報が発表されま した。沖縄近くにいる間にも、九州から東北の広い範囲で、集中豪雨による洪水や土砂災害を もたらした台風でした。 7/10朝には、鹿児島に上陸し、夕方には和歌山に再上陸しました。この後、7/11未明にかけて、 東海沖を通って、千葉に来るという報道でした。 7/10の日中、台風で飛ばされるものが無いように、家の周りを見直し、自転車などは紐で結わえ ました。また、明日(7/11)は、仕事で出かけなければならないため、テレビの台風のニュースを追い かけていました。 7/10夜になると、雨や風が一段と強くなりました。台風に備え、2階のシャッターなどをもう一度 確認しました。しかし、一時間ほどで、少し弱くなりましたので、とりあえず、風呂に入りました。 浴槽につかっていると、雨と風の音が途絶えました。すると、急に、家のまわりのスズムシたちが リーン、リーンと大合唱をはじめました。これから台風が来るというのに、なぜ大勢のスズムシが一斉に 鳴きはじめたのだろうかと不思議でした。まるで、夏の夜を謳歌しているような鳴き方でした。 人間の自然に対する予知能力は、衰えて、ほとんど無くなっていますが、他の動物たちは、この 予知能力よって自分の命を守っているはずです。スズムシは、人間と同様、予知能力が衰えて しまったのだろうかと思いました。 しかし、翌朝起きると、台風は急速に衰え、ほとんど熱帯性低気圧になっていました。雨が降り、 風も吹いていましたが、車の走行には支障がありませんでした。ともかく、まずは一安心しました。 そして、スズムシたちは、昨晩の段階で、台風が急速に衰えるのを予知していたのかもと、思い 当たりました。 小さなスズムシの予知能力に敬服しました。 ○ 突然の訃報 2014.04.17 近くのヨガサークルに参加し、6、7年になります。千葉市の高齢者福祉施設のサークルで、月に2回 やってます。指導者は73才の男の先生で、私生活も含めてヨガを実践しているような人であり、健康 そのもの体で、難しい姿勢も容易にやって見せてくれる人でした。また、私のような体が硬い人や膝な どが具合悪い人には、できる範囲で無理をしないように指導してくれました。 4月15日、4月2回目のヨガの日に、会場内に行くと様子が違っていました。 「4月5日に、先生が亡くなられた」とのことでした。 俄かには、誰も納得しませんでした。4月1回目ヨガサークルが4月1日にあり、その数日後に亡くなった ことになります。ご遺族からは、亡くなった日のみの連絡で、その他の情報は一切なく、香典、弔電なども 不要とのことだったそうです。 心身ともに健康で、志の高い人格者でした。なぜ、あんなに健康な人が、どうしてという思いが強く、 とても残念に思いました。きっと、何かの事故に遭われたのではと思いました。 先生は、ヨガを始める前に、今日はどんなことをやるかを黒板に書いていました。それに追加して、 先生が好きな言葉の一節などを書いてくれました。 2014.01.07 聖典ウパニシャッドの一句 「万物の創造主は人間の穴を外向きにあけた。それで、人間は外の方を見るだけで、内の方を見よう としない。ただ賢明な人たちだけが、目を内に向けて真我を見る」 2014.01.21 佐保田鶴治(先生の先生) 「人は死ぬべきもの。このことをいいかげんにあしらっていると、生きることに徹することはできない」 歳を重ねるにつれ、突然の訃報に接することが多くなり、その度に寂しい思いをすることになるので しょうか。 ○ そめいよしの 2014.04.02 今、桜が満開です。見事な桜花が咲いてます。 近くに、大百池公園があります。そこには中央に周囲1kmぐらいの池があります。それに隣接して、 小高い雑木林の丘があります。由来はわかりませんが、城ノ台遺跡となっています。 駐車場に車を停めて、池の周りの桜を見て、雑木林の丘を縦断し、小川が流れる遊歩道を歩き、 さらに池の周囲を歩いてきました。 よく来る公園ですが、桜が満開のころは、他の桜がきれいな場所に行っていたため、ここの桜は初めて 見たような気がします。池の周りを桜が一周していました。何回も来ているのに、池のまわりの木が みんな「そめいよしの」だったことに気づきました。 一方、丘の雑木林にはヤマザクラが数本あるだけで、「そめいよしの」はありませんでした。「そめい よしの」は、人が育てた桜であること、そして日本人の心に深くかかわっていることを実感しました。 遊歩道の左右には、「そめいよしの」が連なり、桜色のトンネルのようでした。低い枝の花に顔を 近づけると、ひとつひとつの花が真摯に咲いているのが分かりました。
○ 義母 2013.12.20 2014.01.31〜02 義母が、2013年12月20日未明に満百歳で亡くなりました。 数年前から、介護施設に入っており、これまでも何回か、具合が良くないという知らせがあって、 妻が長崎県島原市に帰っていました。 2013年12月19日深夜、医者をやっている義弟から「もう、だめだろう」という電話がありました。 そして、日付が変わり20日未明1時過ぎ、亡くなったという知らせがありました。 今日(20日)は孫を預かることになっており、21〜23日が三連休であったため、私は待機すること にし、その日の午前中に出発する妻の航空券をインターネットで予約しました。 20日の夕方、島原に着いた妻から、21日通夜、22日葬儀という知らせがありました。私は葬儀 への出席はあきらめ、義母への伝言を妻に頼みました。 「たくさんのお心遣い、ありがとうございました。私の一生の宝物になっています」 義母は、静かな城下町の島原市に生まれ、ずっと島原で過ごした人でした。4男3女を育て、 妻は三女でした。妻は、実家に里帰りして、娘二人を出産しました。そのせいか、私が行くと よく喜んでくれました。 島原の人たちは、島原城を見上げ、雲仙普賢岳を仰ぎ見て、平穏に生活していたようです。 しかし、その普賢岳が、1990年に突然噴火し、義母も大変驚いたようです。1991年には、火砕流 が発生しました。幸いにも実家の方には直接の被害がありませんでした。 義父が1998年に亡くなり、妻と大学生だった娘二人と一緒に、葬儀に参列しました。義母は、 その後、十数年、ひとりで元気に暮らしました。 しばらくして、島原に行った時、季節外れの立派なスイカがありました。私のために、わざわざ苦労 して手に入れていたようです。縁側に座って、スイカを前にして、義母の心遣いに感謝しました。 当然のことながら、味は夏のものと若干異なりました。しかし、その味の違いが、義母の心遣いを 偲ばせ、なお私を感激させました。 2014年2月1日に、四十九日の法要を行うという知らせがありました。良い機会なので、義母と 一緒に行くことが叶わなかった雲仙に行き、義母がいつも見ていた普賢岳を近くで見たいと思いま した。 1月31日朝、妻と共に出発し、羽田から長崎空港に着き、レンタカーを借り、午後、島原に着き ました。まず、お墓に行ってお線香をあげてから、実家に向かいました。 2月1日、法要に参列し、お斎を済ませ、実家で団欒してから、雲仙温泉に向かいました。 九州ホテルの近くには温泉地獄があり、硫黄の混じった煙が噴き出していました。 2月2日、九州ホテルから仁田峠に向かいました。途中、第二展望台がありました。そこに石碑が あり、「雲仙で阿蘇の煙も見てかえる」(池田可宵)と刻まれています。石碑は、その背後に島原、 有明海、そして阿蘇の山が見える位置に立っていました。 仁田峠でロープウェイに乗り、展望台に行きました。左から、妙見岳1333m、普賢岳1359m、 噴火で新たにできた平成新山1483mが並んでいました。妙見岳は緩やかな曲線を見せ、普賢岳 はゆったりした形で、平成新山は噴き出した溶岩のままでした。久しぶりに雄大な自然を目の当たり にし、その偉大さを感じ、そこに暮らす命の尊さが身に染みました。 義母は、私を過大評価し、妻に「一番の当たりじゃった」と言っていたそうです。 義母が安らかでありますように、合掌。
○ 葉のささやき 2013.05.02 数年前、近くの小さな公園で、風に揺れるケヤキの葉が奏でるさわやかな音を聞きました。 その日は気持ちの良い風が吹いており、高さ10数mぐらいのケヤキの枝が揺れ、葉と葉が擦れ あう、とてもさわやかな音でした。 その音を何と表現したらいいのだろうと考えましたが、分かりませんでした。「シー」という音でも なく、「ジー」でも、「サー」でも、「シュー」でもありません。数日考えましたが、あてはまる表現が なく、あきらめていた。しかし、木のそばを通る時には、いつも耳をすまして、木の葉が奏でるささ やきを聞くようになりました。 木の種類によって、少し違いはあるようですが、どの木もさわやかな音を奏でてくれます。枝が 揺れ、葉と葉が擦れうのは、きっと木にとっても気持ち良く、必要なことなのだろうなと思いました。 昨日、よく行く公園に、一人で散歩に行きました。いろいろな木が混じった雑木林があります。 木々はさわやかな音を聞かせてくれています。じっと耳を傾けていた時、まるで天の啓示のよう なものが、舞い降りてきました。 人が言葉で表す音は、日本語であれ、英語であれ、一人ひとりの口や喉でつくる音ですが、 木の葉が奏でる音は、無数の葉が自分たちの命を奏でる音なのだと思いつきました。だから、 単に、文字や言葉では表現できないのだろうと考えました。 動物の鳴き声などは、口まねしたり、言葉で表現できるが、無数の葉が奏でる微妙な音は 表現できないのだ、という答えに満足しています。 ○ チョコ・ブラウニー 2012.02. 孫娘がピアノを習っている教室の小さな発表会の後、バイキング形式のイタリアンレストランに 行きました。孫娘が好きなレストランです。 パスタが一段落し、孫娘とバアバアはデザートをとりに行きました。二人とも、チョコの菓子を皿に のせて戻りました。私は知りませんでしたが、チョコ・ブラウニーと云うそうです。 孫娘は美味しそうに食べました。私は少々いたずら心を起こし、手を伸ばして、バアバアの皿の チョコ・ブラウニーをふたつとも食べてしまいました。 「なによ、自分でとってくればいいのに」と言われました。 その様子を見ていた孫娘は、静かに席を立ちました。また、何か好きなものを取りに行ったの だろうと思っていました。 戻ってきた孫娘は、「はい」とバアバアに皿を渡しました。その皿には、チョコ・ブラウニーがふたつ のっていました。 ○ 被災の映像 2012.03.19 被災地の人が撮影したフィルムを、NHKが、深夜、放送した。私はその映像にくぎ付けになりま した。津波が猛威をふるっている映像は何回か見ていますが、津波がすぐ近くまで来ているのに、 逃げずに撮影している人が数多く映っていたからです。 その人たちの多くは、負傷したり、行方不明などになられたことだろうと思います。 一方で、自分は避難したが、母親がまだ家に残っているのに気づき助けに行った人、最後まで 防災放送をしていた人、防災施設に避難しても津波に巻き込まれてしまった人がいます。これらの 人たちの事情や状況を聴くと、まぎれもなく大震災の尊い犠牲者であり、胸がとても痛みます。 では、逃げずに撮影していた人は、どうでしょうか。テレビを見ているときは、思わず、「早く逃げて、 撮影などしなくていいから」と叫んでいました。そして、日本人のカメラ好きを呪ったりもしました。 これらの人たちは、尊い犠牲者ではなく、単に自己責任の問題なのだろうかと考えさせられました。 今回の津波は、防災専門家や地震学者でさえ、予測できなかった規模であろうと思います。 振り返ってみますと、専門家や地震学者の姿勢は問題なかったのでしょうか。私は偉い地震学者に 反省してもらいたいと思っています。実際の地震・津波について、学問で分かる範囲を必ずしも明確 にしていなかったのではないかと疑問を持っているからです。地震を地殻破壊と考えますと、その予測 は無理だろうと思うからです。学問で扱える範囲を明らかにして、学者は発言しなければならないと 思います。 そのような未曾有の出来事に直面した時、これまで人間はどうしていたのだろうかと考えました。 目の前で想像もできないことが起きている。その模様を撮影して伝えようとするのは、人間の本能 なのかもしれないと思い始めました。未曾有のことに出会ったとき、それを他の人に伝えるということで、 人間はいろいろな危機を克服してきたのかもしれないと思い直しました。 だから、今は、津波にカメラを向けていて命を亡くした人たちも、尊い尊い犠牲者であることを確信 しています。
○ 東北関東大震災 2011.03.20 2011年3月11日、大地震がありました(M=9.0、最大震度7、東京震度5強)。 私は、飯田橋駅近くのビルで、建築構造に関する取扱いについての研修を受けていました。 最上階の大会議室で、そこは中央が高い山形の天井でした。14:46、突然、揺れ出し、天井 はガタンガタンと下地材が衝突しているような音がしました。これまで経験した地震に比べ、一段 と揺れが大きく、継続時間が長いので、巨大地震だなと直感しました。 天井が落ちるかも知れないと思い、揺れている間に、テキスト、筆記用具、ペットボトルを カバンに入れ、コートを腕にかかえ、いつでも外に出れる準備しました。 揺れが収まり、主催者が、このビルの防災センターの「このビルの安全性は問題ありません」と いう話を伝え、講演を再開しました。しかし、私にとって、講演の内容は、今起きた巨大地震に 比べ、あまりにも無味乾燥に感じました。 この研修に来ている知人はどうしているかなと見ると、田辺さんと、目が合いました。 出ようかと合図し、二人で会場を後にしました。 会社にいたころ、大きな地震があると、その被害状況を問い合わせ、必要があれば現地に 出向いていた習性かも知れません。否、建築構造の設計に関わっている者は、大地震があれば、 すみやかに情報を収集する姿勢が望ましいと、私は思っています。 この研修は、行政に関わっている人の方が多かったようですが、後で聞いたところ、参加者の ほとんどは最後まで研修を受けたそうです。 エレベーターを使わず、階段で1階に降りました。若い女性がヘルメットをかぶって、テキパキと 対応している姿に感心しました。東京理科大学の前では、大勢の学生が外に出ており、歩道 にもあふれていました。まわりの建物や看板などをよく見ても、被害は見当たりませんでした。 揺れの周期が長く、建物にはそれほど過酷な状況ではなかったのだろうと思いました。 飯田橋駅にもたくさんの人がいて、電車は不通になってました。2〜3時間もすれば、運行する だろうと思いました。 千葉の自宅に、携帯で何回も電話をしましたが、接続できず、メールも送信できませんでした。 公衆電話のところに長い列が出来ていました。電話は3台ですが、1台がカード専用なので、2列 に並んでいます。並んで、家族が無事なことをやっと確認出来ました。公衆電話の価値を再認識 しました。 JRは、夕方の早い段階で、今日(11日)は運行しないとアナウンスしました。しかし、私はそんな ことはあり得ないと思いました。 比較的長い周期で、震度5強であれば、鉄道施設に大きな被害はないはずです。運行する 努力もせずに、いい加減な判断で、数百万人の通勤・通学者の足を止めることはありえないと 思ったからです。 私の予想ははずれ、11日中、JRの運行はありませんでした。午後9時位まで飯田橋セントラル プラザにいて、その後、東京都飯田橋庁舎に案内され、一晩、段ボールのお世話なりました。 横になりながら、JRは運行努力をしたのだろうか。努力したという様子は全く感じられませんで した。どうしてだろうかと考えました。 運行努力をしなかった理由は何だろうか。どこかからの指示なのか、それともJRが自主的に判断 した結果なのだろうか。 私は、(大)津波警報が原因のひとつではではないだろうかと思いました。 地震の後、余震があり、緊急地震速報もたびたび出ていました。しかし、津波警報は解除さ れず、ずっと出されていました。津波警報は、本来、地震が発生した時、それによって、津波が 発生する恐れがあるとき発令し、その恐れが無くなったら、解除すべきものではないでしょうか。 また、気象庁とJRなどを含めた行政や機関の間で、津波警報に対する考え方は調整出来て いたのでしょうか。私の個人的な感想ですが、何か割り切れない思いでいます。 一方、歴史的な大地震に際して、国民の安全確保が第一であり、首都圏では大きな事故 の発生を回避できたのだから、JRの運行停止は正しい判断だったという意見もあることでしょう。 津波の被害状況、原発の事故に比べると、数百万人といえども、一晩の足止めなど小さな 問題かも知れません。しかし、小さな不合理が大きな事故につながることもあります。成り行き を見守りたいと思います。
○ 人間、動物 そして命 2011.08.21 池波正太郎の 『生まれるや、人間は、確実に [死] へ向かって歩みはじめる。これだけが人間にとって、 ただ一つ、はっきりわかっていることで、・・・』 という文章に、最近、出会いました。 池波正太郎が自分の信条を渾身の力で表現した文章であろうと思います。 これまでも同様な意味の話や文章に、何回か遭遇しているはずですが、なぜか深く心に残りました。 私の年齢のせいかも知れません。あるいは、東日本大震災があったこと、昨年愛犬を見送ったことが 影響しているのでしょうか。 貴重な命は、人間ばかりではなく、動物、生き物すべてに共通するものであり、私自身の課題としても 折々忘れずに考えたいと思います。 ○ せみ 蝉 2011.08.22 猛暑から一転し、秋雨前線の南下により、この四、五日前から、寒いぐらいの気候になってます。この 変動で体調を崩される方もおられるのではないでしょうか。 我が家の狭い庭に、せみがお腹を上に向け動けなくなっているのを見つけました。 長い間、土の中で待ち、地上に出たら、異常な気象できっと短命だったのではと思います。今年は めぐり合わせが良くなかったねと声をかけました。 今年は、例年に比べ、せみの鳴き声が遅かったように思います。七月に気温が低い時期があったせい ではないでしょうか。梨の生育も遅れたと聞きます。命あるものは、自然や環境に大きく左右されながら、 その命を全うします。人間も例外ではありません。自分に与えられた条件の中で、不平や不満を言わず、 坦々と過ごす術も必要なのではと思います。 ○ さるすべり 2010.07.19 梅雨あけ(7/17)を待っていたように、我が家のさるすべり(百日紅)が、紅の花を咲かせた。 今年の梅雨時は、雨・風がはげしく、あちこちの枝が折れたりしていたが、まるでそんなことは なかったかのように、すまして静かに、咲いている。自然の摂理、たくましさに脱帽である。 近くに、街路樹がさるすべりの道がある。片側1車線で、曲がりくねった、500mぐらいの長さ の道である。ひそかに、「さるすべり通り」と名付けている。明日、見に行きたいと思う。 梅雨があけてから、猛暑が続いている。年を重ねたせいか、結構きびしい暑さである。愛犬 クーが生きていたら、体調を崩していたので、相当厳しかったはずである。天国に召された巡り 合わせ、自然の摂理に感謝。 クーの写真の前に、お盆のお供えとして牛と馬を置いた。 ○ 材料強度 2010.07.21 材料には固有の強度があるはずである。 建設材料であるコンクリートは、人工的な材料であるが、やはり固有な強度があるのではない だろうか。超高強度コンクリートとして、これまでの強度の5倍を超えるもの(150N/mm2)が使わ れている。 魔法の薬、高性能減水剤により実現できた技術であるという信仰だけで、本来、技術者が持って いなければならない、謙虚な気持ちが失われているような気がしている。 当然であるが、圧縮強度等は試験が行われており、海外での多くの実績もある。しかし、地震が 多い日本で、材料として十全なのだろうかと思っている。 技術の進歩を否定するつもりはないが、何よりも自然に対する畏敬の念を忘れないで、実績を 積んでいってほしい。 ○ ピアノ 2010.10.31 我が家にピアノが来たのは、二人の娘が幼稚園の時である。その当時、公団住宅の4階に住んでいた。 娘たちがヤマハの音楽教室に通っていた。 ピアノが欲しいと言われ、私の収入にしては高価な買い物をしたという記憶がある。 娘たちの発表会には良く参加したが、私とピアノとの関わりは比較的薄い。ほんの何回か、一本指で フォスターの曲を鳴らしたぐらいである。 しかし、公団時代から引っ越した今まで、約30年間、我が家の居間に置いてあった。娘たちが弾かなく なってからは、装飾品のようになっていた。 孫が音楽教室に行っており、ピアノを娘の家に移すことにした。 昨夜、台風14号が房総半島をかすめて行った。今日の午後、ピアノ運送業者がとりに来る。 朝から、ピアノの前面や鍵盤を磨き、背面を清掃し、メトロノームを拭いた。 娘たちを育ててくれたピアノに感謝しながら。 まるで、ピアノを嫁に出すような気がしてきた。 運送業者が運び出すと、ピアノのスペースがぽっかり空いた。 こちらを出発してから、しばらくして、娘からピアノをセットしたという連絡があった。
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