思うこと -単位ニュートン、地球の歴史、他-
戻る
(1)単位ニュートン
建築などの分野では、平成5、6年の頃、力の単位をkgやtonではなく、国際単位(SI単位)のニュートンNにしなさいという通達がありました。わたしは悪い冗談だろうと思いました。そして、偉い先生方が反対し、そんな通達は無かったことになるだろうと思ってました。 ちなみに、ニュートン(N)は、質量(kg)に重力の加速度(9.8m/sec2)をかけたもので、1kgに働く力は、9.8Nだというのです。しかも、SI単位は、長さもmかmmにしなさいとなっています。人の感覚を無視した話です。 わたしの予想ははずれ、平成7、8年頃には、SI単位が強制されました。さらに悪いことに、平成12年の学習指導要領もニュートンになったとのことです。そこには「1ニュートンは、約100gの物体にはたらく地球の重力の大きさとほぼ等しい」とあるそうです(こまかくは0.98N)。 いままでは、100g(質量)のものは100g(または100g重、100gf)の力(重さ)と扱ってきました。たとえば、月に行けば、100gのものは約6分の1の重さになりますが、われわれは、地球に住んでいます。その地球で小さい時から、跳んだりはねたり、ころんだりしてきました。人の感覚では、地球の重力は空気のようにみな一様であり、加速度の値なんて関係ありません。 われわれは、昔の人に比べ感覚が鈍化しています。生活が便利になり、自然と向き合う機会が少なくなっているからです。そして、人間は地球上の生物であり、その重さやバランスに対する感覚は必要不可欠なものです。したがって、これまで以上に、この感覚を鍛えなければなりません。 それらの感覚は、経験し、体験することにより豊かになります。経験や体験を蓄積し、整理するには、もろもろの単位や基準が仲立ちをしてくれます。ニュートンはこの感覚と無縁の単位です。そんな単位を強制する役人や知識人、それに平気で従っている専門家・教育者はどうなっているのでしょうか。 このホームページのメインテーマはかたちです。かたちを通して、人はものとどんな語らいをするのかを考えたいと思っています。それには、感覚が大変重要な役割を担っています。 本論に戻ります。わたしは、SI単位を強制することが、ある意味で「構造計算書の偽装」を助長したのではないかと思います。チェックがしにくくなり、経験を軽視するようになったからです。したがって、行政の責任は重いと考えています。SI単位の強制について、行政は次のような安易な態度だったのではないでしょうか。 1)国際化が重要だ。 2)計算が煩雑になっても、パソコンなら問題ない。 3)単位なんて慣れの問題だ。尺貫法からm法と同じだ。 4)より専門的な動的解析などの考え方によく合う。 反論しよう。 1)何が何でも国際化ではない。大切なのは人である。SI単位なんて絶対的なものではない。従来の単位も十分に活用することこそが大切であり、強制することではけっしてない。 2)コンピュータは万能ではない。それを使いこなすことが大事だ。建物の設計などでは、何百というデータを入力し、千頁におよぶ出力データをチェックしなければならない。目で見て、チェックすることが基本であり、最も重要である。その場合、感覚とは無縁の単位では無理がある。 3)尺貫法は日本古来の生活に即した単位であり、m法では補えないものもあったと思うが、両者とも目で見、感じることができる単位である。したがって、ニュートン法への強制移行とはまったく次元が違う。 4)単位の併用が可能である。専門的なことは、その分野でやればよい。多くの人を巻き添えにする必要はない。 SI単位(ニュートン)の強制はやめなければならないと訴えます。特に、学習指導要領で児童・生徒に強制するのは間違いであると強く訴えます。
(2)建築構造設計者の心構え
構造設計者は、謙虚でなければならない。おごった心、いいかげんな気持ちは厳に慎まなければならない。建物の健全性・安全性に対して、大きな責任があるのだから。しかし、残念ながら、単に確認申請(行政上の手続き)を通すことだけしか考えていない者が見受けられる。また、プログラムの適用範囲などを理解せず、出力結果を検討せず、俺は度胸がいいんだなどと公言しているような愚か者がいる。そんな人間は、他の専門分野(職種)なら、きっと自然淘汰されるでしょうが、建築という一品生産の特殊な業界では淘汰されにくい体質がある。したがって、構造設計者は甘えることなく、まず自分に正直に、謙虚に努力する必要がある。 構造計算の結果は、十分検討しなければならない。一番いい方法は、応力図を書くことである。手で書くか、頭の中に描くかは問わない。類似の建物を数多く経験していれば、頭のなかでもいい。応力・変形をチェックすることにより、わかりにくい入力データの間違いもわかる。使用したプログラムの適用が妥当であったかも確認できる。お役所の評定プログラムだからといって、やりっぱなしではいけない。 人間は勘違いや誤りをする動物である。数百のデータを扱えば、きっとミスはある。それを排除するには、謙虚に責任を持って出力結果をチェックしなければならない。
(3)地球の歴史−小さな人間−
上の図は、約46億年前の地球誕生から現在までの時間を表しています。最上段は地球誕生から現在までの時間の長さを直接示しています。これだけでは現在に近い部分がよくわかりませんので、2段目は古生代から現在までを拡大しました。それでもまだわかりにくいため、3段目は新生代を拡大し、さらに、4段目は第4紀から現在までを示しました。長い地球の歴史に比べ人間の時間がほんのわずかであることをわかってもらおうと思い、上図を作りました。 約1万2千年前に、氷期が終わり、気候も温暖になって、海面が上昇し、約8千年前に今の日本列島ができたといわれています。この時期は、新石器時代(縄文時代)、地質学の沖積世(約1万年前から現在まで)に対応します。また、エジプトなどの古代文明は約4000年前であることなどを考えあわせると、人間が人間らしい生活を始めたのは、せいぜい約1万年前(図の沖積世)といえるのではないでしょうか。 約46億年前から現在までの地球の歴史を、1日24時間とすると、約1万年の人間時間は、ほんの一瞬の0.19秒でしかありません。ほとんど勘定にも入らない瞬間でしかありません。もっとさかのぼり、約50万年前のジャワ原人からの時間としても、9.4秒でしかありません。 そんな超々新入りの人間が、地球は人間のものと勘違いし、自然や環境を顧みずに勝手気ままな生活をしています。地球はいくつもの偶然により、今の状態になったといわれています。その絶妙なバランスを、人間は乱しているのです。このままでは巨大な地球・自然から手痛い報復を受けることになるでしょう。 地球や自然の悠久な時間から見ても、その大きさから見ても、人間は小さな、小さな存在であることを再認識し、自然や環境に対して、謙虚に、誠実に対応しなければなりません。
(4)サービスとは
近くの郵便局へ振込みに行きました。窓口の番号札をとって順番を待っている間、どうしてこんなに遅いのだろうと不思議に思いました。民営化がどうなっているのかわかりませんが、約30分待つ間、局内の人たちを見ながら、考えさせられました。 働いている人たちは、怠けているようなことはなく、よく働いています。これは、はっきりいえます。では、なぜ、嫌になるほど待たされるのでしょうか。窓口は大きく3つに分けられていて、@は郵便、Aは貯金・振替、Bは投資信託となっています。実際の窓口数はAが最も多いのですが、番号札を持って、多数の人が待たされているのも、Aの窓口だけです。 Aの窓口のようすを見ていると、通帳のようなものを書換えたり、手間のかかる処理が間に入っていることに気付きました。すぐ終わる人と長くかかる人が混じっているのです。待ちながら、どうすればいいのだろうかと考えました。 Aの窓口数をもっと増やし、もっと一生懸命働いてもらう、これらも当面の対応だとは思いますが、もっと、抜本的な対策が必要なのではないでしょうか。単に窓口や人を増やすだけでは効率が悪くなるおそれがあり、もっと一生懸命といっても限度があります。それより、組織的な、構造的な改革が必要なのではないかと思います。 それは、これまでずっとやって来た伝統的な、窓口の取り扱い区分を変えることだと思います。 現状の区分は、業務の種類によって分けられています。それは、局内の管理運営には好都合でしょうが、利用者には関係のないことなのです。それよりは、処理の難易度、手間のかかり具合によって区分すべきだと思います。例えば、切手・ハガキの扱いや単純な振込みなどは短時間に終わります。局内の管理上は異なる業務かも知れませんが、これらを同じ窓口で扱えるようにすることです。これにより、多数のお客さんは短時間で用が済ませられます。さらに、書換えなどの人やお年寄りなどへは、より時間をかけて、丁寧な対応ができるようになります。 すなわち、ほんとうにお客にサービスしたいなら、自分たちの組織の都合やこれまでの慣習はご破算にして、お客の立場にたって、体制を作り直すことが不可欠ではないでしょうか。それができないサービス機関は結局淘汰されることになるでしょう。
(5)かえるの話
今、住んでいるところは、20数年前に住都公団が大規模開発した住宅地である。 そのゆるやかに上った場所に我が家がある。そこから北東側に少し行ったところに小谷(こやつ)という小さな谷状の窪地があり、南側の離れたところに泉谷という大きな池のある公園がある。 我が家が引越した時には、すでにまわりに住宅がたくさんあった。 しかし、引っ越して数年、春になると、ひきがえるが庭に迷い込んでいたという。 家人は大きなかえるに驚き、娘がバケツに入れて空地に持って行ったという。 勤めから戻り、その話を聞いたとき、どうしてだろうと思ったが、すぐ忘れていた。 少し経ってから、犬と泉谷公園の池のまわりを散歩していた時、急に「そうだったのか」と思いつき、かえるたちにたいへんすまない気持ちになった。 大規模開発される前、ここは起伏のある雑木林と一部に畑があったところだった。 泉谷公園には小さな泉があり、それが小川になって、大きな池に流れ込んでいる。この池は水がきれいで、流れがほとんどないので、かえるの繁殖にはとても適しているのではないか。かえるの卵が流されず、おたまじゃくしの成育にも良い環境だから。 かえるたちは繁殖期に水辺で過ごし、それ以外は雑木林などで生活するという。 それで、この付近のかえるたちは、春になると、それぞれの棲み家から泉谷の大きな池に集まり、繁殖期が終わるとそれぞれの雑木林や谷地にもどっていたのだと思いついたのである。この往復をかえるたちは、何万年も前から、否もっともっと昔から連綿と続けて来たに違いない。 小谷の窪地には、食料になる虫などが豊富におり、棲み家として良好な場所だったのであろう。 小谷と泉谷は200〜300mである。きっと親子代々の通ってきた道があり、さらに泉谷の水のにおいが誘導してくれたのだろう。海に下った川魚が、生まれた川の水のにおいや味をたよりに戻るように。 しかし、泉谷と小谷の間に、住宅地ができ、さらに、中央分離帯のある片側2車線の道路ができてしまった。かえるたちの生死に関わる問題である。 無意識のうちに、環境破壊に加担してしまったことになる。 引越してから数年経つと、迷い込んでくるかえるはいなくなった。 小谷を棲み家としていたかえるは全滅したのかも知れない。 幸いなことに、10数年前、高校生だった娘がバケツに入れてかえるを運んだ空地は、我が家より目的地である泉谷公園に近い場所だった。ほんの少しだけ手助けしたことになったのかもしれない。
(6)こころなごむ思い出
昭和47年ごろ、約37年前の話である。仕事で盛岡に行った。 午前中に、岩手県庁に提出した書類の説明・訂正をしなければならなかった。 新幹線がなかった頃であり、前夜、上野から寝台車に乗った。 翌朝、盛岡駅から県庁に直行し、思ったより早めに仕事が終わった。 仕事が終わったら、どこか寄り道してもいいなと思い、いつもより少し余分にお金を持っていた。 数年前、啄木記念館が出来たということが頭にあった。 まずは県庁から駅にもどろうと、タクシーに乗った。 落ち付いた年配の運転手さんだった。 啄木記念館にはどう行くのかを尋ねた。 盛岡駅から数駅先が最寄駅で、そこから少し離れているということだった。 「今の時間だと、駅で少し待つようになりますね。このまま行きませんか」 「えっ」と思ったが、概略の料金を聞いてみた。 金額は忘れたが、その頃の私には身分不相応な額だった。 迷ったが、たまにはいいかと思った。 「それでは、行って下さい」 タクシーは駅の近くでUターンした。 その頃あまり多くなかった個人タクシーであり、今日はいいお客さんにめぐり合えたなどと言ってくれた。 私のことも尋ねられ、ありのままを言った。 「私は館長さんと知り合いだから、案内をお願いしますから」 私は半信半疑でいた。 記念館に着くと、先に運転手さんが降りて行った。 後から行くと、館長さんに紹介され、確か入館料も払わず、館長さんがずっと一緒に回ってくれた。 予想外のことだったせいか、残念ながら館内でのことは、今、あまり覚えていない。 待っていてくれたタクシーに乗り込むと、メーターはOFFのまま帰路についた。 少し走ったところで、申し訳なさそうに話かけられた。 「私の家はこの少し先のところなんです。できれば、寄って昼食にしたいのですが、お客さんもいっしょにいかがですか」 今日の仕事は終わっており、後は東京に戻るだけだとすでに話しており、断る理由もなく寄ることにした。 家に着くと、奥さんが出てきた。 「お客さんをお連れしたよ」 突然の客に、奥さんは、私が予想していた困惑の表情も見せず、歓迎してくれた。 そして、炬燵のテーブルに二人の昼食を用意してくれた。 私は運転手さんの向かい座って、ごちそうになった。 すでにお昼は過ぎていたので、奥さんの「私はもう済ませているから」という言葉を、30才前の私はそのまま信じた。 後で気づいたことだが、私の突然の訪問に、あわてることもなく、にこにこしながら昼食を出してくれたということは、自分の分を私に出してくれたのではないだろうか。 奥さんはご主人の帰りを待って、一緒に食べようとしていたのではないか。きっとそうだと、今は思っている。 お二人は、一人息子が東京で働いており、いろいろ心配していることなどを話した。 食事と会話が一段落した時、運転手さんが言った。 「食事の後、私はいつもここで少し昼寝をするんですが、・・・・・」 「はぁー」と、しり込みしたが、居心地のよい雰囲気に、私も横になった。 奥さんは私にも上掛けをかけてくれ、寝台車だったせいか、私もついうとうとした。 お礼を言って、タクシーに乗り込むと、奥さんがおみやげにリンゴをくれた。 見送られ、まるで我が家から出発するような気分を味わった。 駅に着いた。運転手さんの住所を聞き、別れた。 上野に着いても、まだ暖かい人の気持ちに包まれていた。 私の貴重なこころなごむ体験である。
(7)ローズマリー
会社を退職して、ほぼ順調に4年が過ぎた。自分のまわりの人々とその巡り合わせに感謝している。 数年前から、机の上にローズマリーを置くようになった。 植物を意識して身近に飾るということは、これまでの経験には無かったことである。 私にとっては革命的な出来事といえる。 ある時、伸び過ぎているローズマリーの枝を切った。その枝を手に持ってどうしようかと迷った。 捨てる気にはならず、コップに入れ、自分の机に持って行った。 それがはじまりである。 前によく県内のハーブがある公園などに行き、いろいろなハーブを見て回ったことがある。 そして、家人が勝手口の脇に、ローズマリーを植えていた。 しかし、あのモジャモジャ状態の木がローズマリーであると、はっきり結びついていなかった。 名前と姿が、私のイメージとちょっと違っていたからかもしれない。 机に飾り始めて、香りがとてもよく、丈夫で、けなげな風情であることがわかった。 地中海沿岸が原産であり、いろいろな効能もあるという。 今では、私の机に欠かせない植物である。 飾り初めのころは、丈夫であることをいいことに、あまり水を替えなかった。 みんなが花の水を毎日替えている姿を見知ってはいたが、まあいいだろうと思っていた。 ガラスのコップなので、水がにごっているのはわかったが、化学的に古くなっても、"水は水だ"などとタカをくくっていた。 でも、今では、毎日替えるようになった。 水を替えると、ローズマリーが生き生きしてくることがわかったからである。 派手さがなく、比較的単調なローズマリーを飾っている人は少ないことだろう。 しかし、この線香花火のような形で、葉を伸ばすローズマリーを見ながら、これからもいっしょに時間を過ごしたいと思っている。
(8)なさけない教訓
私は、時々孫に、故意に意地悪をする。 孫は、これから成長していろいろな人間と会うことになるが、なかには悪い奴もいるはずである。みんながチヤホヤしていては、その免疫ができないと思うからである。しかし、それは表向きの理由で、ただ面白がっているだけだろうという非難もある。 孫が泊まった朝、みんなでホットケーキを食べた。後片付けの時、電気コードを抜いた。ホットプレート側の接続部は、手で持つ平たい部分から棒がでている。まるで、大きな注射器のように見えた。 手で持つ部分は熱くなく、ホットプレート部分は熱いが、電気コード部分は断熱されているはずであるという先入観があった。技術的には、目的物を効率よく高熱にし、他の部分、特に電気系統部分には熱が逃げないようにすべきだからである。 私は、この大きな注射針を孫に見せ、先端を孫の手のひらにあてた。 「ぎゃー」と泣いた。 驚いて、自分で棒を触ってみた。それはホットプレートと同じような高温になっていた。 手のひらには、小さな白い点ができた。 家人たちが、孫の手を冷やし、大騒ぎになった。 私は一人取り残された。 包帯をして一段落したとき、「ごめんね」と謝まると、孫は「いいよ」と言ってくれた。 先入観だけで、行動してはいけない。 孫を泣かせて得た教訓である。
(9)愛犬のこと
今日も夜中の2時半に愛犬に起こされた。 暗い中、階段をあがり、私のベット脇に来て、前足でベットを叩いて起こす。 夜中、排泄したくなったためである。 もうすぐ15歳になる老犬で、半年ほど前から体調が悪くなっているせいか、このところ、夜中、起こしに来る回数が増えてきた。 小さい時から、おしっこやうんちは散歩中に外でしており、家の中ではしていない。 しかし、体調が悪くなってからは、何回か夜中、おしっこを家の中で漏らしている。 おしっこを漏らすと、まるでそれを知られるのが恥ずかしいかのように、体全体で見えないように隠している。 だから、起こされると、急いで服を着て、夜中の散歩に行くことにしている。 数ヶ月前、2週間ぐらい、ほとんど餌を食べなくなったことがある。 獣医師の話では、「人間でいえば80歳ぐらいにあたり、血液検査の結果でも内臓のあちこちが制限値を超えている。しかし、この子は基礎体力が高いので、それでカバーできているのではないか」ということであった。 その後、徐々に、食べるようになった。 きっと、調子が悪くなったため、絶食してコントロールし、自分である程度回復させたのだと思う。 それでも、元気なころに比べれば、量は半分以下である。 元気なころは、公園などによく行ったが、今は家のごく近くだけの散歩になった。 車も好きだった。車に乗りたいときは、後部のドアの前にお座りをし、こちらの目を見つめた。 ドアを開けると、座席に飛び乗った。 家人と出掛ける話をしていると、自分も行くと言って、いつも付いて来た。 千葉県内の各所、厚木、宇都宮などにも、車で行った。 今はもうジャンプができず、車の脇にお座りすることもなくなった。 私が長年勤めた会社を4年前退社し、家で仕事をするようになった。2階で机に向かっていると、いつもあがって来て、まるで秘書のように脇に控えていた。今は、もうあまりあがって来なくなった。 体が不自由で、時々は相当痛いはずである。好きな食べ物も食べられず、いろいろな所に出掛けることもできなくなっている。 それでも、諸々のことを従容として受け入れ、時には哲学者のような表情を見せている。 人間の年数でいえば、もうすぐ中学卒業の年である。 長い間、いろいろな贈り物をもらった。 これからも、起こされれば、夜中の散歩に行こうと思っている。
(10)ニーバーの祈り
ニーバーの祈りは、ラインホールド・ニーバーが、1943年夏、マサチューセッツ州の小さな教会で説教した時の祈りの言葉だそうです。 O God,give us, serenity to accept what cannot be changed, courage to change what should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other. いくつか表現が異なる英文があるそうですが、私には上の文章がより気持ちに合っています。 また、大木英夫さんの訳文も知られていますが、直接、強く心に響くのは上の文章です。 私は、私の恩師のように英語に堪能ではなく、娘(高校英語教師)のように英語の知識もありません。 しかし、訳文ではなく、この文章に強く魅かれています。原文のもつ力なのでしょうか。 この祈りの言葉に接し、私の中でまとめられなかった気持ちが、見事に凝縮されているので驚きました。 我が愛犬や周りの植物が身をもって教えてくれている、どうしようもないことは静かに受け入れるということ、また、人間としてあるべき姿を実現するために、変えるべきものを変えるということ、そして、変えるべきことかどうかを判断する能力がとても大切であるということが、短い文章で見事に表現されています。 私は1944年生まれです。私が生まれる1年前に、この祈りがはじめて語られたということに、不思議な縁を感じています。
戻る