
江戸時代も終わりに近い文政11年(1828年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」がある。この本は、当時の昌平坂学問所
地理局総裁であった林大学頭述齋が、文化7年(1810年)に幕府に建議して同学問所で編纂されたものである。その内容は、
江戸はもとより武州、相州、下総等の民間の行事、寺社に関すること、古文書、遺跡・遺物にいたる広汎囲にわたる事柄が記述
されている貴重な史書である。この風土記の荏原郡等々力村の項に諏訪分とそこにあった諏訪社についての貴重な記録が残され
ている。等々力村については、次のように記述されている。
等々力村は、世田谷領内にあって、東を衾村に、西を野良田村に、北を深沢村に、南は多摩川に至り、川向こうに橘樹郡小杉、
宮内の2村を飛地として有している。また巽の方角には、沼部の上下村、鵜木、雪谷等の諸村と少しく接していると書かれている。
また等々力の地名については、天正18年の古文書で[兎々呂城]と使われていたとも記述されている。この風土記によれば、
江戸時代に多摩川をはさんで、川向こうに等々力村の飛地として小杉、宮内の2村があったことも窺い知れる。さらに諏訪分と
諏訪社については、次のように記述されている。
諏訪分 下沼部、奥沢本村、雪谷の3村にはらまれたる地を云う 或は大平分といふ
諏訪社 字を則諏訪と称する所なり 勧請年月を詳にせす 社2間に9尺 同村西光寺の持なり
とある。これを見ると地名の呼び方は、諏訪分と呼ばれたり大平分とも呼ばれていたようである。
どのように使い分けをしていたのかは、定かではない。諏訪社については、創建がいつであるか
不明とされているが、等々力の西光寺が別当寺となっている。なお西光寺については、次のように記述されている。
西光寺 字宿と云所にあり 是も満願寺領の内なり 真言新義満願寺の塔頭にて住慶山と 号す 是も近き頃回禄の災にかかり其後再造の沙汰にも及はす 今はいささかの
庵室たてり本尊大日如来坐像1尺5寸と云 此寺も開山開基詳ならす
「ふるさと世田谷を語る」によれば、西光寺は文化6年(1809年)2月の火事で本堂、宿坊が焼失した。その後、仮の建物が
建てられ、庵室は明治初期まであったという。明治7年玉川小学校の創立のときには、この西光寺の庵室が改修されて使われた
ともいう。諏訪社が西光寺の所有であったということは、諏訪分が等々力の飛地であったということからも肯けることである。
明治39年の諏訪分の古地図を見ると、地図内に鳥居の記号(
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より西になる。かつて早川銘吉氏より聞いた『明治時代にあった神社は、現在の2丁目19番の鈴木幸雄氏の宅地の雑木林のなか
にあった』という話と合致する。「新編武蔵風土記稿」は、東玉川の歴史の上でも貴重な文献といえる。
明治期の諏訪社の位置 現在の神社からかなり西の位置にあった事がわかる

明治39年発行の地形図「溝口」の一部 この地図に記載されている諏訪社は、明治41年11月に等々力の
熊野神社(現玉川神社)に合祀され、昭和の初めまで諏訪分から神社はなくなる。