新編武蔵風土記稿に紹介された諏訪社は、二間に九尺の小さな社であったと記録され、その所
有も等々力の西光寺とされている。明治39年の古地図をみると、鳥居の記号が諏訪分の西の部
分に記されている。かつて明治27年生まれの早川銘吉氏に聞いてところによると、この諏訪社は
現在の2丁目19番地の西はずれの雑木林の中にあったという。この話は、明治39年の古地図の
神社の位置と一致する。
徳川幕府が大政奉還して明治新政府が1868年に誕生した。明治新政府は、基本政策として祭
政一致をスローガンに神道国教化政策を掲げた。その結果、神仏分離令を発令して、仏教排斥運
動が各地で展開され、仏堂、仏像、経文等手当たりしだい破壊された。これが世にいう廃仏毀釈で
ある。明治39年12月になると政府は「神社合祀令」を発布した。
「神社合祀令」とは、「古事記・日本書紀に記された神々を祀った神社、あるいは延喜式内社やそ
れに準ずる神社を除き、民衆の信仰厚き産土神を含むおびただしい数の神様が合祀の候補にな
った」とものの本に書かれている。基本的には、一町村一神社にしようという考えであった。
明治41年11月、諏訪神社も合祀令を受けて等々力の熊野神社(現玉川神社)に合祀された。この
時、熊野神社は、村内にあった天祖神社、諏訪神社、御獄社の三社を合祀した。名前も玉川神社と
改めている。このあと昭和の初めまで諏訪分からは神社がなくなるのである。大正8年9月発行の諏
訪分の地図には神社の存在を示す鳥居の記号がなくなっている。諏訪分に神社再興の動きが出て
きたのは、耕地整理事業が始まると同時進行の形で進められたと「東玉川神社誌」に記載されてい
る。
「昭和元年には諏訪神社再興の声が、期せずして
一斉に起り、かつては合祀した等々力より氏子総
代を除外されたることもあり、また、大震災により、
市民が安住の地を求めて、来住する人の数も次
第に増加する点からも神社の維持管理の上に勇
気が加わりました。そして、耕地整理中に地主7名
により、自発的に境内地399坪8合4勺が纏まり
ました」
とあり、さらに寄付した7名の地主さんが紹介され
ている。鈴木市太郎氏、早川伊助氏、小池鎌吉氏
鈴木定吉氏、早川新吉氏、森田弥市氏と本橋藤
太郎氏である。境内地を確保したあと社殿建設の
前に社務所の必要に迫られ、昭和3年に社務所として木造亜鉛葺の平屋の建物を建設した。さらに
翌昭和4年には社殿の建設に取り掛かっている。が当時は氏子も少なく社殿建設のための費用捻
出には苦労されたことが伝えられている。氏子62名からの拠出金が四千百七十円、52名の崇敬
者からの寄付金が九百弐拾円の合計五千九拾円で写真の社殿を作ったのである。出来上がったの
は昭和4年と伝えられている。
その後、渋谷の氷川神社が社殿の改修工事を行うについて、拝殿が取り払われるという話が、早川
伊助氏にあった。早川氏は、直ちに町会に拝殿譲受の諮問をした。当時の町会長伊藤辰也氏は、こ
の事を役員会に諮り、拝殿の譲受を決めた。しかし、社殿の譲受については、早川伊助氏個人の奉
納金で氷川神社側の承諾を得たと東玉川神社誌は伝えている。
昭和13年11月から棟梁原田武七氏、とび職浅見金次郎氏らの努力により、11月中に解体を終わ
り、引渡しを受けたのであった。翌14年、拝殿の組み立て工事に入り、10月中旬に完成したのであ
る。
昭和14年、渋谷の氷川神社から移築された拝殿。向かって左奥に耕地整理記念碑が見える。
拝殿移築が完成した直後、氷川神社関係者より、氷川神社に残っている幣殿、本殿も都合上払い
下げると言う情報がもたらされた。東玉川神社は、直ちに役員会を開き、残る社殿の譲渡を申し入れ
た。幸いな事に、申し入れた入札は、東玉川神社に落札された。昭和14年12月17日に譲渡契約を締
結して、直ちに解体工事に入り、年内に解体、受領を完了させた。受領を受けた本殿の移築、建築
についてはなかなか許可が下りず、工事着工が遅れていた。しかし、関係者の努力が実り、8月5日
に待望の許可が下りた。工事は順調に進み、昭和15年11月17日に完成、報告祭を早川源蔵造営委
員長名で行われている。ここに渋谷の氷川神社の社殿が完全な形で移築された。昭和4年に作られ
た旧本殿は、新本殿の隣に移築され、稲荷神社として新しい役目を担っている。
昭和15年11月17日に移築工事を終わり、完全な形で姿をあらわした東玉川神社
昭和17年10月の例大祭に参拝した奥沢小学校の生徒たち。このころは、10月1,2日に
例大祭が行われていた。