
玉川村の最東端に位置する諏訪分は、昭和2年10月25日に分区役員選挙 を行い、次のような役員を選任している。
区長 早川伊助 区会議員 大平太七 本橋島吉 高井庄吉 森田弥市 山部佐吉
区副長 安藤久兵衛 鈴木信治 早川銘吉 大平武蔵 落合銛行 内田正彦
々 鈴木定吉 野口惣太郎 小池久吉 小林菊次郎 宮原旭 森田弥 三郎 鈴木倉吉 鈴木兼吉
このうち安藤久兵衛、落合銛行、内田正彦、小林菊次郎、宮原旭、山辺佐吉の 各氏は、田園都市株式会社による調布村の土地買収の際、居住地と所有地を買 収され、今の環8沿いに換地を取得して移住、さらに諏訪分の一部をも取得し ていた。その結果、この耕地整理事業に参加したものであり、住居は調布村に あった。諏訪分工区は、他の工区に先駆けて昭和3年6月1日に着工している。 昭和大不況の中、工事費の捻出に苦労する他の工区に先駆けて、諏訪分工区が 最初に工事に着手できたのには理由があった。
昭和3年6月に五反田―蒲田間を開通させた池上電気鉄道には、次のような 大きな事業計画があった。それは、雪ヶ谷駅から中央線国分寺駅までの約21キロ に及ぶ新線計画であった。この計画の免許申請は昭和2年6月に行われ、同年12月 に免許が下りている。昭和3年3月には雪ヶ谷―新奥沢間の工事施工認可申請が行われ、 10月5日に開通・営業を開始した。この新奥沢線は、諏訪分の西端を縦断するように計 画されていた。
池上電気鉄道は、新線計画を進めるため諏訪分区耕地整理組合に、線路用地の土地 買収を申し込み、同耕地整理組合もこの要求を受け入れた。受け入れた耕地整理組合は、 組合員に用地提供をお願いし、提供された用地を組合地として売却して、7万2千円を 取得した。(「整地竣工碑」)この線路用地売却費が耕地整理事業に回されたため、諏訪 分工区は、17工区中で最初に工事にかかることができたのである。他の各工区とも工事 費の捻出には苦労し、用賀地区では組合用地を社団法人帝国競馬協会(現中央競馬会)に 売却したという話も残っている。それが現在の馬事公園である。小学校用地として世田谷 区に用地売却して工事費を調達した工区は、等々力南区(尾山台小)、用賀中区(京西小) がある。また耕地整理組合によっては、組合独自の起債をして事業費を捻出した所もあった といわれている。
諏訪分工区の工事を請け負ったのは田中鉄五郎で、第1期工事の請負金額は1万1千 586円77銭と記録され、最終工事費は8万6千142円と記録されている。昭和6年4月 14日、東京府より諏訪分区、奥沢東区、奥澤西区、尾山区、下野毛区、上野毛区、等々力 南区の工事に対する補助金として1万4百11円が交付されたという記録も残っている。
諏訪分工区の道路幅員は、側溝を含めて3間であったが、諏訪分工区のあと行った地区は、 3間4分になっている。現在、東玉川で道路幅員が3間(5.4b)以下のところは、耕地整 理が完成したあと、区画の大きいところを細分化した際に道路幅員を9尺(2.7b)6尺 (1.8b)にして分譲した名残である。また、提供した用地の減歩率は、諏訪分工区では 1割であったが、等々力地区では1割5分、野良田地区(中町)では2割3分の減歩率であった。
諏訪分工区の耕地整理事業は、昭和6年10月31日に竣工式を迎え、昭和9年12月 20日には、諏訪分工区の耕地整理登記も完了した。昭和12年には、高さ3.3b、 幅1.25b、厚さ20aの「整地竣工碑」を神社社殿の東隣りの境内地に建立して、 その完成を祝った。

大正8年の耕地整理が行われる前の諏訪分の地図。諏訪分には鳥居の記号がなく、 神社 がなくなっている事がわかる。

昭和8年耕地整理後の諏訪分の地図。新奥沢線も走っているが、地名は 昭和7年10月1日から東京市 世田谷区東玉川町に変わっている。