《東玉川の歴史》 この町に人が住み始めたのは・・・
平成17年10月1日の住民基本台帳によると、この町には3598世帯で男性が3644名、 女性が4129名の合計7773名が住んでいる。往昔、この町に人が住み始めたのはいつ頃 からなのか。残された古文書や記録等から推測してみよう。
一番手短に残されている参考資料としては、元町会長・神社総代の早川源蔵氏の著書 「東玉川神社誌」がある。同誌の中で早川氏は『はっきりしたことはわからないが、早川家 に残されている過去帳から類推すると1650年頃には、人が住んでいたと思われる。』 と推測されている。
等々力の大平家に残る古文書によると「天文20年(1551年)12月、大平清九郎、 領主吉良左兵衛佐頼康より等々力村、小山郷(現尾山町)を下し置かれる」とあり、同時に 開発のため、「円城寺氏召し抱えの百姓を附与される」ともある。更に、翌天文21年 (1552年)3月には、吉良頼康は、大平氏の所領小山・等々力の周辺山野を検分させ、 百姓を入植させて開発することをゆるしている。この時、われわれの先祖は、大平清九郎に 従い、開発に従事して定住したものと思われる。大平家に残された古文書から類推すると 天文年間(1550年代)から開発がはじまり、それにともない定住化もはじまったと 考えられる。
1550年代、この地に定住化が始まった時、日本の国はどのような状態だったのか。平成18年 1月8日にNHKの大河ドラマ「功名が辻」が始まった。司馬遼太郎の小説の書き出しは、
「織田信長が、尾張清洲城から岐阜に本拠をうつしたのは、永禄十(1567)年九月 十八日のことである。」
と始まっている。この地の開発と殆んど時を同じくしていることが窺い知れる。諏訪分で土地 の開発に人々が汗しているとき、尾張、美濃、三河、近江、若狭、敦賀、越前、の各地で織田 信長による天下平定のための戦が繰り広げられていたのである。30年後の天文十(1582年) 年6月2日本能寺の変で信長は、明智光秀に討たれ、討った光秀は豊臣秀吉により打ち滅ぼされる。 戦国の世の真っ只中であった。
「大平山塁」と定住化
更に、「世田谷の地名」下巻第6章「旧玉川村の区域」の第3節「東玉川」の中の「うめくさ・ 東玉川にあったという砦について」には、「大平山塁」について次のような記述がある。
「一方諏訪分にあったという砦説であるが、この付近は、今の東玉川1丁目15番から西方 東玉川神社裏にかけて東西約600b、平均幅凡そ50bの浅い谷地があるほかは、東西約800b、 南北約1200bのほぼ平坦な台地で、砦を設ける適当な地形ではない。
砦があったというのは、大平氏が諏訪分を開発する際に、多分前記の浅い谷の上手にあった 湧水をたよりとして、その付近に開墾の根拠地として、用心のために柵をめぐらせて作った根小屋 が置かれていたのをいったものであろう。因みに、砦のことを古くは柵城ともいい、また、上代の 城のことを「柵」といったことはよく知られているところである。」と記述され、大平山塁を外敵 からの備えの砦というより、湧水を利用しての開発の拠点としてとらえている。今は暗渠になって わからなくなっているが、2丁目25番から“自由通り”を越え、東玉川地区会館の前を東に進み、 呑川に至る幅1bくらいの小流れがかつてあった。この流れの元は、湧水のようであり、この湧水 を頼りにこの地の開発の拠点にし、人の定住化がはじまったたと思われる。その時が大平家の古文 書によれば天文年間・1550年代か。
大平家古文書 (「新編武藏風土記稿」による)
世田谷領之内とゝろき村同小山郷共に為給分下置者也開役以下於何年他人之綺不可有之山野等 并相任依為後日證状如件天文20年辛亥12月7日
左兵衛佐頼康(花押)
小山とゝろきに近年円城寺めしつかいのもの何も下置者也具松原常陸介同佐渡守口上可有之依為 後日證状旨趣如件天文20年辛亥12月7日
吉良左兵衛佐頼康(花押)
小山とゝろき山野地さかい余郷之入ましる處 此度たんたいさせ人お越置可為開発者也如件 天文21年壬子3月27日
大平清九郎殿(花押)