昭和九年町会創立

昭和7年、東京市は市域を拡大した。今までの15区(麹町地区、神田区、日本橋区、京橋区、
麻布区、赤坂区、芝区、牛込区、四谷区、本郷区、小石川区、下谷区、浅草区、本所区、深
川区)から新たに20区(淀橋区、向島区、城東区、品川区、荏原区、大森区、蒲田区、目黒
区、世田谷区、王子区、滝野川区、足立区、荒川区、板橋区、葛飾区、江戸川区)をつくり合
計35区とした。このように5郡部を市域に編入したことにより東京市の面積は7倍に、昭和7
年10月1日現在の人口は566万人に達して、ニューヨーク市に次ぐ世界第2位の人口を持
った大都市になったのである。
 この時、東京府荏原郡は、世田谷区、品川区、大森区、荏原区、蒲田区、目黒区の六つの
区に分かれ、東京市に編入され、われわれが住む玉川村は、世田谷町、松沢村、駒沢町と
ともに世田谷区に編入されたのである。明治22年から昭和7年9月30日まで諏訪分は、東
京府荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分と呼ばれていたが、市域編入と同時に世田谷区東

玉川町に町名変更をしている。昭和7年10月1日世田谷区成立時の人口数は正確にはわ
からないが、世田谷区成立直前の昭和5年の国勢調査によれば、世田谷区の総人口は、
13万3249人で、世田谷町が7万3110人、駒沢町が3万1043人、松沢村が1万2337人、
玉川村は1万6759人であったと記録されている。東玉川の人口については資料を見つける
ことができない。昭和9年4月の東玉川町会の会員数が287と区史に記録されていることか
ら類推しても今では想像もできないような少ない数であったろうと思われる。
 大正12年9月1日関東地方を大地震が襲う。火災による被害、9万人を超える死者、交通・
通信機関の途・断絶による情報不足、「朝鮮人暴動」という流言蜚語等により市民生活は、極
度の不安状態に陥っていった。このとき、「自らの生命、財産は自らの手で守らねば・・」と各
地に自警団組織が生まれた。この自警団組織を受け継ぐ形で町会が、市部を中心に急速に
組織され始めた。しかし、震災の被害の警備であった郡部に於ける町会の組織化は鈍かった。

     関東大震災の被害

  町村名 
  
家屋被害 被害者
 全壊  半壊   計  死亡 負傷者 行方不明  計 
瀬世田谷町   17  16  33   1      3   4  
松沢村   1   3   4    2   2
玉川村   7         7       6   6 
駒沢村   1   7   8   2    1   3


 郡部における町会の組織化の動きが活発になったのは、昭和7年10月1日の東京市への
編入後であった。旧市部に比べ面積で5倍、人口で2倍と世界第2位の大都市に変身した東
京市が効率的に組織作りをするためには、行政の手となり足となって機能する自治的組織と
しての「町会」が必要になったのである。東京市は、町会組織を地方自治の最小単位としてと
らえ、町会育成に積極的に取り組んだのである。市が町会に求めた仕事は、慶弔、衛生、

、自警等の善隣事業を中心にして、さらに東京市や世田谷区あるいは警察、消防等官公署
の行政上の補助機関としての役割を求められていたのである。次表に見るごとく昭和8年まで
の世田谷区内には31町会しかなかったものが、1年後の昭和9年には72町会と倍増するの
である。東京市および世田谷区が、町会結成に如何に力を入れていたかが窺い知れる。
 昭和9年4月、町名も東玉川町と変えた諏訪分にも「東玉川町会」が結成された。初代町会
長には、173番地(現1−41−20)の森田弥市氏が就任している。区に残されている記録に
よると結成時の会員数は287と報告されている。この時、町会事務所は東玉川神社の平屋建
ての社務所内に置かれたように聞いているが、詳しい記録は残っていない。

世田谷区の創立年次別町会数
自大正2年

至大正6年

自大正7年

至大正11年

自大正12年

至昭和2年

自昭和3年

至昭和8年
 合 計 
0
  10町会     4町会    17町会  31町会


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世田谷町

松沢村

玉川村

駒沢村

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