大正中頃までの玉川村は、都市近郊の純農村であり、東京市部への農産物の供給地
であった。しかし、大正中期以降の交通機関の発達は遠隔地からの安い農産物の供給
を可能にした。加えて都市への人口集中の影響で近郊農村の住宅地化が急速に進み、
近郊農村としての生き残りに不安を抱く人たちが多く出始めていた。玉川村は、近郊
農地の住宅地化の波と大正7年に設立された田園都市株式会社の都市開発のための農
地買収の両方の影響を大きく受け、その変貌を余儀なくされようとしていた。
このような状況の中、近隣町村の都市化に遅れをとらず、また田園都市株式会社に
よる土地買収からも村を守るために、当時の玉川村村長豊田正治は、大正12年1月
15日の村会で自分たちの手による土地開発事業を提案したのである。提案を受けた
村会では、真摯な議論が交わされた。この村会での豊田村長の主張するところは、大
資本による自社の営利追及のための宅地開発でなく、農民自らの手による、自分たち
のための耕地整理を行い、農地として使うところは農地に、住宅地として使うところ
は住宅地に転用するというものであり、この耕地整理事業を達成させるために、農民
自らが耕地整理組合を結成し、ことに当たると言うものであった。
しかし、自分たちの生活手段の農地を住宅地にした場合の生産手段(農地)の喪失
による生活不安、土地はいったん組合に渡し、耕地整理後に道路等の公共用部分が減
歩されて戻る土地の減歩率(諏訪分工区は1割)の問題、玉川村を17の甲区に分け
て、各地区が独立採算制で行うための工事費用捻出の問題等が村内の一部農家に、こ
の事業に対して反対する動きが出てきたのである。反対派の動きは、日増しに大きく
なり、村を二分するまでになった。村は反対、賛成の両派に別れ、刃傷沙汰や一族間
の仲違い等にまで発展し、村内はもめにもめたのである。しかし、紆余曲折ののち反
対派・賛成派の妥協が図られ、大正15年3月7日玉川小学校で、耕地整理組合の創立総
会が開かれ、この事業が賛成多数で承認されたのである。同耕地整理組合は、
組合長 豊田正治
組合副長 早川伊助 原新五郎 毛利博一 落合勝吉 鈴木庄平 原理蔵
小池久右エ門 荒井寿平 粕谷富吉 田中筑 長崎行重 渡辺
慶道 西尾亥三郎 飯田茂証 小黒鎗七 片山熊太郎 金子為
太郎
の人事を決め、さらに耕地整理事業は17の工区に分けて、それぞれ分区組合を
作り、独立採算制で事業を行うことも決められている。ここに、現在の世田谷区
の面積の四分の一にあたる玉川村全域にわたる耕地整理事業がようやく始まった
のである。

