要約;1996年3月の英国政府の発表以来,新しい非定型的なクロイツフェルト・ヤコブ病 (nvCJD)が牛海綿状脳症 (BSE) の人間への感染の結果ではないかと懸念された.その後の精力的な研究により,BSEは極めてまれながら人間に感染し,nvCJDとして発症することがほぼ確実となった.2001年2月2日現在,83人のnvCJDが報告されているが,その潜伏期間,これから予想される患者数ともにわかっていない.一方,英国では,BSE自体は種々の防疫策が奏功し終焉の方向に向かっている.またBSEの病原体が食物の中に混ざらないようにする対策は,英国ではすでに1989年から始まっている.危険を完全になくすことはできないが,牛由来の製品をすべて拒否することは現実的ではない.2000年11月からの欧州でのBSE騒動は,BSEを英国特有の問題と決めつけ(エンガチョ扱い),対岸の火事視してきたEC諸国の問題点が表面化したものである.報道でパニックを煽ることは簡単であり,逆に報道がパニックを鎮めることは非常に困難かつ希である.報道のスピードを争う前に,報道がもたらす被害を顧みる姿勢がマスメディアには求められている.
はじめに
狂牛病って何でしょう?
狂牛病に似た人間の病気:クロイツフェルト・ヤコブ病
英国政府の対応の経緯
転換点:1996/3/20英国政府の発表の要旨とその問題点
何をどう食べて生活していけばいいのか:ゼロリスクの探究?
今後の見通しは?
2000年11月からの欧州を中心とする狂牛病騒ぎについて
より詳しく知りたい方のために
言葉の整理
狂牛病に関する簡単な年表
1996年3月20日,英国政府は,狂牛病(正式には牛海綿状脳症 BSE:Bovine Spongiform Encephalopathy)が,極めてまれに人間にうつり,クロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease:CJD)となって発病する可能性があることを認めました.この発表のあと,ヨーロッパを中心に大きな混乱が起こりました.日本でも英国の牛,羊を原料とした食品,医薬品の安全性を心配する声があがりました.
この文章の内容は,2000年12月の時点で,僕が集められる範囲内の情報に基づいています.BSE/CJDに関しては,まだまだわからないことも多いのです.ある時は正しいと思ったことが,あとになって間違いだったとわかることもあります.この文章を読む時は,そのことを忘れないでください.もちろん間違いがあれば僕に教えてください.この解説のおしまいに僕の連絡先が書いてあります.
1)狂牛病にかかった牛はどうなるの?:狂牛病(正式には牛海綿状脳症 BSE:Bovine Spongiform Encephalopathy)は,1986年に英国で発見されました.BSEにかかった牛は脳を冒され,歩くこともままならなくなり死亡します.BSEにかかった牛の脳を顕微鏡で見ると,非常に細かい穴がたくさんあいたように見えます.この様子がスポンジに似ているので,海綿状脳症と呼ばれるのです.
2) 狂牛病はどこにある?:BSEは圧倒的に英国に多く(BSE全体の98%以上),はっきりとBSEの症状が出ている牛だけでも15万頭見つかりました.その他のヨーロッパ諸国と,カナダなどでもBSEが見つかっていますが,英国に比べて頻度ははるかに低くなっています.
3)狂牛病の原因は?:プリオンとよばれる特殊な蛋白が病原体といわれています.プリオンは冷凍にも料理の熱にもびくともしない,たちの悪い病原体です.羊にはBSEとよく似たスクレイピーという脳の病気が200年以上も前からありました.このスクレイピーもプリオンが原因です.英国では,1970年代後半から1980 年代はじめまで,羊の死体を牛のえさにしていました.BSEは,スクレイピーにかかった羊の組織(骨と肉)が混じっていたえさ(ボウンミール: bone meal)を食べたために発生したする説がありますが,2000年10月の英国の報告書では,この説は採用されていません.スクレイピーとは全く別に突然変異で牛にBSE型のプリオンが生じたとする説もあります.プリオンは正常なものと異常なものがあり,異常なプリオンだけが感染性を持っているので,プリオン=病原体という言い方は厳密には正しくないのですが,とりあえず,そう理解しておいてください.プリオンについてより詳しく知りたい方は,後述の, ”より詳しく知りたい方のために”のBSE関連のホームページ http://ss.niah.affrc.go.jp/bse/bse-j.html をご覧下さい).
狂牛病が人間にうつるかどうかを考える前に,狂牛病に似た人間の病気のことを知らなくてはなりません.人間にも海綿状脳症があります.発見した人の名前をとってクロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease:CJD)と呼ばれています.CJDは50才代半ば以降に多く起こります。主な症状は痴呆で,病気が始まってから1年以内に死亡します。CJDもプリオンが原因で起こります.しかし,人間のCJDは動物の肉を食べて起こるものではありません.
スクレイピーは200年以上昔からありました.人間はそれよりずっと昔から羊の肉を食べてきました.でも羊の肉を食べてCJDになった人はいません.CJDの9割は原因不明です.あとの1割前後は遺伝性に起こります.スクレイピーがある国でも,ない国でも,BSEがある国でもない国でも,羊を食べようと,牛を食べようと,世界中どこでもCJDの発生率は同じでした.どこの国でもCJDは100万人に1人の割合で発生します.羊のスクレイピー,牛のBSE,人間のCJDは,すべてプリオンという特殊なたんぱく質を病原体としておこりますが,動物の種によって,プリオンは異なります.牛は羊を食べてBSEになったのですが,”種の壁 ”があるため,人が牛を食べても,CJDにはならないとされてきました.ちょうど人間が犬のジステンパーにかからないのと同じように.このように,人間のCJDは,羊や牛の病気が人間にうつってできたものではないとされてきました.ではなぜBSEが人間にうつるといって大騒ぎになったのでしょうか?
英国政府はBSEが人間にうつることはないと考えて,1986年にBSE が見つかったあともただちに厳しい対策はとりませんでした.もちろん,BSEの症状がはっきり出た牛はすぐ殺されて,食べ物にはならなかったのですが,BSEの潜伏期間(病原体が体に入ってから,病気の症状がはっきりするまでの期間)まで考えた対策はかなり遅れました.1988年7月になってはじめて,たとえ健康そうに見える牛でも,牛の組織を他の牛の餌にすることを禁止し,牛の間で食物連鎖を断ち切りました.そして,1989年末になってようやく,すべての牛に関して,脳,脊髄,舌,脾臓,胸腺,腸といった内臓を人間の食用にすることを禁じました.これらは,もしその牛がBSEにかかっているとすれば,プリオンがたくさんいる可能性のある内臓です.
ここで問題となるのはBSEの潜伏期間が長いことです.短く見積もっても数年以上あります.したがって,見た目は何ともなくても,実際には牛の体の中にプリオンがいて,その牛が食用になる可能性はあるのです.特に1989年末の,内臓肉食用全面禁止以前は,プリオンがたくさん潜んでいる内臓が人間の食物になっていた可能性があります.今回,英国政府が,BSEが人間にうつってCJDが発生した可能性を認めたのも,特に1989年末以前の食品についてです.
1996年3月20日の英国政府の発表の要旨は次の通りです.
ここ10カ月で10例の新しい型の非定型的CJD(nvCJD)が発生した.この10例のCJDはこれまでと非常に異なった症状や脳の変化を示しているので,これまでとは違った新たな原因でCJDが起こったのかもしれない.その新たな原因として,1989年末の牛の内臓食用禁止令以前に,BSEにかかった(潜伏期の)牛の内臓を食べたことによって, nvCJDになった可能性が否定できない.したがって,BSEの潜伏期の可能性のある,2歳半以上の牛を,特殊な施設で屠殺する.この対策により,英国牛肉はさらに安全となるので,牛肉を食べてCJD になる確率は極めて低いと考えられる.
このように,農業大臣が愛娘とともにハンバーガーをぱくつく写真まで新聞に掲載し,BSEは人間にうつらないと否定し続けてきた英国政府が,一転して人間への感染の可能性を認めたものですから世界中が大騒ぎになりました.
その後,nvCJD症例と動物実験の両面から研究が進みました.その結果,nvCJDはBSEが人に感染したものであることがほぼ確実になりました.原因として疑われているのは,1989 年末の牛の内臓食用禁止令以前の食べ物です.特に,禁止令以前のハンバーガーなどの肉製品への脳や脊髄の混入が問題視されています.1989 年以後も脊髄の混入についてはかなりルーズで,特に脊椎骨周辺の肉を取る時の操作に問題があり,1995年に至るまで脊髄の混入があった可能性が指摘されています.(*)
*Inquiry blames missed warnings for scale of Britain's BSE crisis. Nature 2000;408:3-5
まずはじめにはっきりさせておきたいことがあります.それは昔の危険性と,今の危険性をごちゃまぜにして考えないことです.1988年からの防疫対策の結果,BSEの数は94年(月2000頭)をピークとして確実に減っています.また,1989年以降は,プリオンをたくさん含んでいる可能性のある内臓肉を,人間の食べ物に使うことが禁止されました.現在EU諸国ではBSE監視態勢が厳しくなっていますから,欧州在住でも,あなたのいつも利用している肉屋にBSEに感染した肉が出回るという確率はゼロに近いという大前提を納得してください.一方,店先でBSEに感染した肉とそうでない肉を見分けることは不可能です.ですから,はるかに危険の少なくなった現在,牛肉,牛由来の製品を一切拒否するというのは現実的とは思えません.
2000年11月にはフランスではわずかな数が出回った可能性を政府が認めました.しかし,フランスにいる1100万頭のうち,2000年11月現在BSEに感染している牛はわずか100頭でした.あなたがそれを食べる確率を考えたことがありますか?そしてBSEに感染した牛の肉を食べれば,確実にCJDになるわけでもありません.
BSEが心配だから牛関連の製品を拒否するかどうかは,損害保険にいくら加入するかと同様に,ごく希に起こるかもしれない事件の確率をどう考えるかにかかってきます.そしてその判断は自己判断,自己責任です.政府や”専門家”が如何にあてにならないかは,BSEの歴史そのものが雄弁に物語っています.(ちなみに私は素人ウオッチャーですから,専門家よりもっとあてにならない)
何事にもゼロリスクは期待できません.例えばあなたが英国留学を考えているが,狂牛病が怖くて行くべきかどうか迷っているとします.しかし,英国にたどり着く前に飛行機が落ちて死ぬかもしれませんし,英国に目出度くたどり着いて,現地の甘すぎるお菓子の食べ過ぎで心筋梗塞で死ぬかもしれませんし,あるいは期待通りに狂牛病にかかって死ぬかも知れません.そういうことです.
ちなみに,27例のnvCJDの病前の食生活で,特に変わった点はありませんでした.また,患者の職業にも特別のリスクありませんでした.つまり,牧場で働いているとか,肉屋だったとかいうことはありませんでした.英国でのnvCJDの発生を受けて1996-97年に厚生省が全国的にCJDの調査を行っていますが,英国在住経験と密接に関連したCJDの発生は確認されていません.
1997年の一連の研究により,nvCJDはBSEが人間に感染した病気であることはほぼ確実になりました.原因となった食品が1989 年末の牛の内臓食用禁止令以前の食べ物だとすると,潜伏期間は10年以上と推定されます.1996年3月での患者数が10人で,それから4年半たった2000年10月の時点で77人ですが,この増加率が何を意味しているのかよくわからないのです.というのは,平均潜伏期間がわからないので,患者数の爆発的増加があるのかどうか,あるとしたらいつなのかがわからないのです.
この疑問に答えるための大がかりな調査が98年9月より英国ではじまっています.CJD患者ではプリオンは脳ばかりではなく,虫垂でも見つかることがわかったので,英国全土の病院で保存してある切除虫垂の標本からプリオンを検出する作業が始まったのです.この作業が完了すれが,いつの時期にどの程度のプリオン保因者がいたのかわかりますから,nvCJDの患者総数,平均潜伏期間も推定できるのではないかと期待されましたが,その後発表された結果では,4000例を検索したけれども,異常プリオン陽性者は一人もいなかったとのことで,保因者の頻度は未だ不明のままです.
2000年11月からの欧州を中心とする狂牛病騒ぎについて:今回の騒動は,11月はじめに,フランス国内のいくつかのスーパーマーケットで,誤って狂牛病(以下BSEと略:Bovine Spongiform Encephalopathy 牛海綿状脳症)に感染した牛の肉が売られたことをフランス政府が認めたことが発端となっています.この事件だけでもフランス国民の間にパニックが広がり,牛肉の販売量が6割も減りました.
また,11月7日には,フランスのジロー保健相が,これまで確定診断2例,疑い1例の合計3例とされてきたフランス国内の異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD: variant Creutzfeldt-Jakob disease.BSEの病原体が人間に感染した病気と考えられている.下記参照)の症例数が,今後10まで増加する可能性を示唆しました.その上,フランス国内のBSE牛の数が,1999年は31頭だったのに,2000年はすでに89頭に達していることが明らかになりました.これを受けて,シラク大統領は,人間の食用に供する動物の飼料に,肉とボーンミール(肉と骨の混合物)を使用することを差し止めました.11/17日には,異型クロイツフェルトヤコブ病患者のフランス人の家族が,英、仏、欧州連合(EU)の当局者を相手取って訴訟を起こしました.
これらの事件の影響は当然フランス国内にとどまらず,周辺国にも波及しました.ロシアとイタリアはフランスからの牛肉輸入を停止,スペインとハンガリーは,フランスとアイルランドからの牛肉の輸入を停止しました.こういった動きはEU全体の問題に発展して,動物性飼料の暫定的な禁止にまで至りました.2001年1月には,ドイツで混乱の責任をとって閣僚が二人も辞任し,肉牛40万頭を処分することになりました.
しかし欧州全体でこの時期に特に狂牛病のリスクが増大しているわけではありません.フランスには成牛が1100万頭いるそうです.そうなると,1999年は31頭の感染が2000年に100頭に達したとしても,今後本当に増え続けるのかどうか,時間をかけないと判断できません.フランスの騒動をきっかけに,これまで見逃されていた狂牛病が,明るみに出てきた可能性もあります.牧畜農家としては,自分の牧場から一匹狂牛病の牛が出れば,自分の牛が全て屠殺されてしまうのですから,隠したくなるのも当然です.
欧州在住の方々へ:現在EU諸国ではBSE監視態勢が厳しくなっていますから,欧州在住のあなたのいつも利用している肉屋にBSEに感染した肉が出回るという確率は非常に低いという大前提を納得してください.確かにフランスではわずかな数が出回った可能性を政府が認めました.しかし,フランスにいる1100万頭のうち,BSEに感染している牛は多く見積もっても200頭以下です.あなたがそれを食べる確率を考えたことがありますか?そしてBSEに感染した牛の肉を食べたすべての人がvCJDになるわけでもありません.もしそうならば1990-92年に英国に滞在した私を含めて,数万人以上の日本人がvCJDを発症しているでしょう.まず,以上のことをわかってください.それでもゼロリスクを求める人は,上記をご覧下さい.
2000年末からの欧州各国の反応は,それまで,BSEを徹底的に対岸の火事と決め込んでいた政府の姿勢の反動が強く現れた結果です.典型例は,二人の大臣が更迭されたドイツでした.96年3月,英国でパニックが勃発した時,ドイツはEC内でも英国牛肉全面禁輸の急先鋒だったのです.
その時,謙虚になって,他山の石と考え,単に英国の牛を拒否するだけでなく,防疫処置を学び,国内での検疫体制を整えていれば,これほどの大騒ぎにはならなかったでしょう.というのは,BSEの原因が,羊のbone mealを牛に使っていたという,英国固有の事情だけではない可能性があるからです.つまり,動物性飼料を使っている国ならば,どこでも起こる可能性があると考えべきなのです.
BSEのような感染症の問題はセンセーショナルな反応につながりがちです.報道被害も大きくなります.今回も多くの畜産業者が資産も商品の販路も失う結果となっています.96年の第一次BSEパニックの時,アメリカでは,ビーフバーガーはもう食べないと言ったラジオのアナウンサーが畜産業者から訴えられて敗訴しています.
報道被害一般に関しては,同志社大学,浅野健一教授のゼミを参考のこと.
生物学的に詳しいことを知りたい方は”BSE/CJDに関する最近の知見”をご覧下さい
http://ss.niah.affrc.go.jp/bse/bse-j.html
牛由来の製品やヒトの血液製剤の安全性に関するWHOの見解(英語)
BSE inquiry (BSEスキャンダルの報告書)(英語)
BSE (Bovine Spongiform Encephalopathy) 牛海綿状脳症.狂牛病の正式名称
bone
meal 羊の骨を含む牛のえさ.BSEの原因となった
carcasses (動物の)屍骸
CJD (Creutzfeldt-Jakob
Disease) クロイツフェルト・ヤコブ病.人間の海綿状脳症.
CMO (Chief Medical Officer)
日本で言えば厚生省医療局長のようなもの
MAFF (Ministry of agriculture, fishery and food)
農水食糧省
prion プリオン(プライオン).海綿状脳症の病原体
ruminants 牛,羊,やぎなどの四つ足の家畜の総称
SBOs
(Specified Bovine Offals) 脳,脊髄,リンパ節組織など,BSEの感染の危険性の高い牛の内臓肉の総称
scrapie
スクレイピー.羊の海綿状脳症
SEAC (Spongiform Encephalopathy Advisory Committee)
(英国)海綿状脳症調査委員会
200年ほど前:スクレイピーの発見
1920:クロイツフェルト・ヤコブ病の発見
1970年代後半:英国で牛の餌に羊の内臓,骨を使い始めた
1980年代はじめ:
海綿状脳症の原因がプリオンではないかと提唱された
1986: BSEの初めての報告
1988.7 :
牛の内臓を牛の飼料にすることを禁止
1989.11:
特定の牛の内臓(SBOs)を人間の食物の材料に使うことを禁止
1990:第一次BSEパニック.英国政府はBSEの人への感染の可能性を真っ向から否定.
1994:
BSEの発生数が月2000頭とピークになった.それ以後減少.
1996.3.20:英国政府がBSEが人間にうつる可能性をはじめて公式に認めた.この時のnvCJDの患者数は10人
1997.9:nvCJDはBSEが人間に感染した結果であることがほぼ確定的になった.
1998.9.nvCJDの患者数が27人となった.切除虫垂保存標本におけるプリオンの検索が英国全土で始まる.(その後4000例調べても陽性例はなかったと報告有り)
2000/10/26.BSEスキャンダルの最終報告書がまとまった.→解説
2000/11/3:vCJDによる死亡者数77人にのぼる.