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航空史初めて(NO1)物語2
航空史初めて(NO1)物語(解説と写真)

解説と写真で贈る、航空機、飛行船、気球、ハング・ライダー等、
大空に関係有るもののNo1を、紹介してみたい、
航空界で欠かすことの出来ない
最初に二宮忠八氏話と飛行神社作った話から始めるが、
後のサントス・デュモンやライト兄弟、徳川好敏大尉など航空史NO1は世界の航空史

太平洋戦争の記録は多く存在するが、この航空機開発等は1783年〜1930年代大空に憧れて、
初めて飛んだ、造った、それに記録
このNO1史は飛行知識を倍増する為の資料(歴史のお勉強)にしてもらいたいのだが!・・・・・・・・・・



参項資料 写真 文

1974年昭和49年9月1日号、1975年昭和50年7月1日号、9月1日号、10月1日号、
11月1日号1976年昭和51年7月1日号、1977年、昭和52年2月1日号
ヒコーキ野朗現在廃刊) (発行 社団法人日本飛行連盟
一部 文を参項、 潮書房  丸, 朝日ソノラマ写真連合艦隊昭和61年11月10日発行
 朝日ソノラマ零戦1997年10月10日発行

お断り75年〜77年発行の本で製作した為、
もし後に判明した新事実等あったら伝言板にて知らせくれたたすかります。
日本で最初に模型で
飛行機を飛ばせた
NO1












































手前に零戦のエンジンの
残骸がある



カラス号
































二宮忠八

簡単な説明
1866年に二宮忠八氏は愛媛県八幡浜市に生まれる、
1888年傘やふすまで浮上実験を行なう
1891年ゴム動力付きカラス型模型飛行機を作る
1903年ライト兄弟初飛行

子供の頃から凧作りや動くおもちゃ作りに興味を持ち、
特に風変わりな凧(忠八凧と呼ばれる)は、
よく飛び、よく売れていたらしい、

忠八氏は、成人を迎えると、軍隊に入り、
看護卒として、新しい生活に入り、その2年後、
明治22年11月19日山岳地帯で行われた、
演習において、その後の運命を変える大きな発見をする、
忠八たちが樅の木峠で昼食を取っていると、
捨てられた残飯めがけてカラスが集まってきた、
カラスは大きく翼を広げ滑空し、
谷間から吹き上げる気流を上手く使い飛んでいた、

その時、忠八氏はカラスの翼を原理を利用すれば、
鳥のように飛べる物が作れる機械が作れると思った、
この日から、研究が始まったのである、
研究にはトビウオ、トンボ、タマムシ、が選ばれた、
カラスをもとに模型飛行機制作に取りかかった、驚くことに、
模型は前輪三点式の車輪、プロペラ、動力であるゴム付きであった、
全身黒く塗られた模型は、カラス号と名付けられた、

初飛行は明治24年4月29日、
真夜中に苦心の結晶である愛機を大空へ放った、
カラス号は30メートルぐらいまで飛行した、

同じ年にリリエンタールの滑空機が成功している、彼の物に比べると、
忠八氏の模型は現在の飛行機に驚くほど似ていたらしい、
次に、タマムシをモデルに、時計のゼンマイを動力に使い、
2メートルの大きな模型を作り上げ、実験も成功している、

この成功で、忠八氏は人が乗って飛べる物を考え始めた、
そうしている矢先、戦争が始まった、
忠八氏も野戦病院付き調剤手として、出征していった、
そんな時も飛行機のことを考え続け、
その時の上官(大島義昌少将)に上申書を提出するが、
当時、人間が空を飛ぶことは、
夢のようだと考えられていたため、何度も上申書を提出するが、
提出のたびに却下されていた、

忠八氏の実際に飛行させた模型は固定翼式の
重航空機の飛行原理のほぼ全部を、
独自の着想により、適確に把握していた。
もし、上申が認められて、研究が進んでいたら、
歴史が変わっていたかも知れない、
設計図はライト兄弟が飛んだ日より16年前に完成していた、

忠八氏は赤痢にかかり本土で静養した、戦争も大勝利で終わり、
飛行機に対する熱意は病中でも揺るぐことはなかった、
その後、資力と地位を築くため製薬会社に入社し、
人一倍の努力と、研究、勉強して、忠八氏の作った薬品は優秀であり、
好評だった、確実にステップアップしていったが、
そんな時、航空機開発の夢を、根底からくつがえす出来事が、
明治36年12月18日、ライト兄弟の動力飛行のニュースが伝えられた、

その後、忠八氏は飛行機の発達の礎になった人々の霊を慰めることが、
航空界に尽くす道と考え、
忠八氏が親しみをもっていた木津川堤の八幡町に飛行神社を開き、
神官の資格をとり、
この飛行神社には大正元年より英霊がまつられ、
今では内外の航空機と共にこの世を去った人々が、まつられているという
4月29日には例祭が行なわれている。

<アクセス>
飛行神社の場所、京阪電車八幡市駅(旧八幡町駅)下車徒歩15分。
石清水八幡宮の方に降りる、京都方面に行く、川を渡る一つ目の信号を右折して、
100m程先の右手にあるそうです。



世界史すべてNO1 写真、画等 解説 1783年〜
最初の熱気球 モンゴルフィエ兄弟

熱気球を発明したといわれるフランスのモンゴルフィエ兄弟は、
空気より軽い水素ガスのあることは知っていたが、
ガスは洩れやすく危険だった為、
加熱した空気を利用して1783年6月4日、
アノネイの丘でたき火による、ホットバルーンの実験に成功した。

紙製で直径9mの人が乗らない実験気球で高さ140mまで、上昇した、
モンゴルフィエ兄弟は、空中で熱空気の補給ができれば、
長い時間滞空できると考え、大きな気球で人間が空中に昇れる、
可能性を予見した。

動物による飛行実験 羊、鶏、アヒル3匹の動物

最初に飛んだのは動物だった、1783年9月19日、
フランス化学院主催のモンゴルフィエ熱気球実験が、
ベルサイユ宮殿の広場で行なわれた、
つりかごのの中には、羊、鶏、アヒル3匹の動物が乗せられ高空での
動物実験が行なわれた。

このときはフランス国王、ルイ16世陛下、
皇后をはじめ多数の高官、軍人、学者、が参観、
広場には数万人の観衆が集まった。
直径12.5m、高さ12.5mで8分間、距離4km、高度500mを記録。


人類最初の空中上昇 ロジェとビレット侯爵、ダルラント侯爵

1783年10月15日、モンゴルフィエ熱気球よる
最初の人間搭乗の実験が成功、
乗ったのは、ピラトル・ド・ロジェという科学者で、
17日、19日日にも同乗者も乗せて
上昇したその同乗者は、
ジロー・ド・ビレットとフランソア・ローラン・ダルラント侯爵の2人が、
最初の乗客になった、ただしこのときは地上から
4本の索(なわ)で繋ぎ止められていた。

最高滞空時間は4分30秒でロジェとダルラント侯爵の2人が記録。

最初の空中旅行 ロジェとダルラント侯爵

1783年11月21日、モンゴルフィエ熱気球よる
最初の人間搭乗での空中旅行が成功、
ピラトル・ド・ロジェ科学者、とフランソア・ローラン・ダルラント侯爵の2人が、
滞空時間20分、飛行距離10km、最高高度900m記録、

気球は最大直径12.4m、全高24.8m、ゴンドラの直径7m、
飛行中バルーンの内の空気を暖める為、羊毛を混ぜた麦わらを燃やし続けた、
消火用の水バケツと水スポンジで、
火の勢いを調節し空中火災を防いでいた。、
水素ガス気球 アレキサンドル・セザール・シャルル

1783年12月1日、フランスでアレキサンドル・セザール・シャルルの
水素ガス気球が初飛行した、
乗っていたのはシャルルとロベールの2人で寒暖計と気圧計備え、
滞空時間1時間45分で距離43km飛んだ、

水素ガスは空気よりもはるかに軽く、バルーンの直径8.15mで
モンゴルフィエ熱気球より、かなり小さく、
長時間の滞空に成功した、又気のうはゴム引きの絹で作られ、
ゴンドラも船型になっていた、
この日の出発点に40万の観衆が集まったらしい。
気球の海峡横断 ジュアン・ピエール・ブランシャール

1785年1月7日、フランスのジュアン・ピエール・ブランシャールは、
水素ガス気球にアメリカ人科学者ジファール博士を、
同乗させて初めてドーバーからカレーまでの、英仏海峡横断に成功、

このときゴンドラのうしろに、垂直安定板を取り付け、
4本の羽根のようなオールで空気を漕いだ、
前に乗っているのは、ブランシャールで後方はジファール

人類最初の人力航空機か?・・・・
空中死亡事故 ピラートル・ド・ロジェとピエール・ロメール

1785年6月15日、フランスのピラートル・ド・ロジェとピエール・ロメールの2人は、
フランスからイギリスまでの英仏海峡逆横断飛行に、
挑戦、途中で空中火災になり、墜落、2人とも死亡した、
最初の空中事故、最初の犠牲者でもある、

この気球はコケシ型で上の丸い部分が直径10mの水素ガス気球、
下の円筒の部分が熱気球になっていた
飛行中は円筒の底でも羊毛を混ぜた麦わらを燃やしていた、
この火の粉が円筒の部分に燃え移り、
水素ガスが爆発したと、いわれてる。

戦争に参加した気球
1794年人間が乗った水素ガス気球が、初めて戦争に参加した、
ベルギーのフルーリュース戦闘で、
フランス陸軍が敵状視察と味方の砲弾が着地する地点観測の為、
索(なわ)で繋ぎ止められていた気球で
一人の将兵が望遠鏡ともう一人の通信兵手旗信号で連絡していた、
この2人乗り気球が最初である。

史上、最初の気球隊を編成し、
対地支援戦術を実行したのは、フランスのナポレオンである。

落下傘降下 ガルヌラン

落下傘を使って安全に地上に降りられることを科学的に証明したのは、
イタリアのレオナルド・ダビンチであると伝えられている、
これを高空で最初に実験し成功したのは、
1797年、フランスのガルヌランである、
彼は、水素ガス気球の下に吊り下がりかごをつけた落下傘を取り付け、
高さ1.000mに上昇し気球に結びつけてある、
綱を切り離し、無事に降下した。
1802年には、同じように、気球から降下を行い、
最初のパラシュート・ジャンパーとなる。

人力飛行船 造船技師ド・ローム

普仏戦争直後の1872年、フランス海軍の造船技師ド・ロームは、
直径9mのプロペラを8人の水兵協力して、
回転させ前進する、人力飛行船を制作し、
穏やかな天候の時は時速10kmのスピードで飛び、
最高高度1.000mまで昇った、
空のガレー・スレーブ(奴隷船)と名づけられ、
この人力飛行船は、全長36m、直径15m、全高29m、プロペラ4枚羽根で、
人力で回すクランク軸は、プロペラ軸と直結で、ゴンドラの前部には、
船長と数人の士官が乗った。

動力付き飛行船 アンリ・ジェファール

1852年9年24日、フランスのアンリ・ジェファールの
蒸気飛行船はパリ近郊から
トラッペまでの、25kmを、初めて機械動力で、
飛んだ、エンジンの重さは45キロで3馬力、ボイラー、水、燃料など、
加えた動力関係の重さは250kg、全長44m、直径12m、
時速8km、最高高度1500m、1人乗り

ボイラーから出る熱気が水素ガスにに引火する恐れがあるため、
長い索(なわ)でゴンドラに吊り下げて煙突は下向きに取り付け、
1855年には2人乗りの全長70mの飛行船を作ったが、
事故をおこし失敗に終わった
飛行船の周回遊覧 ルナール大尉とクレーブ技師

1884年9月6日、フランスのルナール大尉とクレーブ技師が協力して作った、
フランス号飛行船、
電気モーターで前進する最初の飛行船で、シレ-ムードンを出発、
パリ上空を周回し出発点に自力に戻ってきた、
最初の航空機となった。
巡航距離7.6kmを23分で飛び平均時速20kmを記録し、
初めての女性乗客を乗せて遊覧飛行した、動力付き飛行船
8馬力の電気モーターは重さが96kg、他に電池400kgの電池を積んだ
全長50.4m、直径8.4m、最高時速23.4km。

エッフェル塔周回飛行 サントス・デュモン  
ブラジル生まれのサントス・デュモンは1898年から1907年までにフランスで
合計14隻のガソリンエンジン付きの
飛行船と数多い飛行機を作った、
中でも彼を英雄にしたのは、SD−6号飛行船で1901年10月19日、
初めて、エッフェル塔のまわりを(最高時速24km)周回飛行した、
そして賞金12万5千フランを獲得した、「デビッチ科学賞」
賞金の半分はパリの貧しい労働者の救済に寄付した。

この6号機もやがて暴風に飛ばされ地中海に
墜落したサントス・デュモン無事に救助される

爆弾投下
1905年フランスのルボーディ式パトリー号改良半硬式飛行船が、
初めて爆弾投下実験をおこなった、
世界ではじめて武装した飛行船で高度1000mから、爆弾投下を行なった。

同飛行船は乗員2名、 全長58m、直径9.8m、最高時速47km。
また1845年にオーストリアで無人の気球に爆弾を積み、
敵地上空で火縄時限装置付きで行なわれたが、
目標に向かって飛ばず失敗に終わっている。

最初の飛行機 ライト兄弟

1903年12月17日、ティホークの砂丘で人類初の動力付きの
飛行を達成したフライヤー
4回の飛行で1回目飛行時間はオービルが乗り約12秒で37m、
2回目ウィルバーが13秒で60m、3回目オービルが15秒で60m、
4回目ウィルバーが59秒で260m
エンジンは4気筒水平型12馬力、
風に向かってモノレールの上を滑走して離陸する方式であった。
パイロットはグライダー実験の時と同様に腹這いになって
操縦するタイプで、左手でフロントラダー(昇降舵)をコントロールし、
クレイドルに乗せた腰を動かすことにより、
撓み翼と方向舵を同時にコントロールすることが出来たらしい

ライト兄弟が飛ぶ以前ロシアのモジャイスキー、フランスのアデール、
イギリスのマキシムがそれぞれ蒸気エンジン付き
動力飛行に挑戦したがわずかに離陸したとされるが
、操縦できる飛行機の飛行継続が出来ない為最
初の動力飛行機とは、認められていない。
FAI公認の最初の
速度記録保持機

SD−14BIS号の飛行シーン

ブラジルに生まれたアルベルト・サントス−デュモンは、
18歳のときにパリに出た
子供の頃からの夢「空飛ぶこと」を実現するために、
やがて自作の気球や飛行船をあやつり、
1901年にはエッフェル塔を1周し、
その5年後には航空機による飛行にも成功する。

1906年 11月12日、SD−14BIS号(車輪付き)鴨型(カナード型 )
この機体は現在の飛行機を逆にした型で
昇降舵が前方に付いているが特徴で
乗員1名、アントワネット50馬力、全幅11.20m、全長9.70m、
翼面積52.0u全重量300kg、で、
ブローニュの森のバガテル広場で大勢の見物人の見守る中、
1回目の挑戦はジャンプしたが、
脚を破損して失敗に終るが2度目の逆方向飛行で、
距離220m、約21.2秒を飛んだのが公式に計測され、
スピード記録時速41.292kmが認められた。
FAI公認の最初の速度記録保持機だ。

空中発進機


最初のパラサイト・エアロプレーン

1905アメリカのグライダー研究家で有名な
モンゴメリーが串型グライダーを熱気球に吊り下げて
高度1,2気球0メートルまで昇り、グライダーの0高空離脱実験に成功、

1911年にはドイツのツェッペリンLZ10シュパーベン硬式飛行船に
吊り下げられたエトリッヒ・タウベ単葉機が初めて動力付き、
飛行機の空中発進に成功、しかし離脱だけで飛行しながらの
帰着懸吊は行なわれなかった
最初のパラサイト・エアロプレーン(寄生虫飛行機)である。

軽飛行機
SD-20単葉機ドモアゼルは1908年春に完成したスポーツ機、
機体の骨組みは竹と鋼管、
プロペラはマボガニ製で翼と舵は日本製絹世界で1番軽い飛行機になる、
操縦士は主翼と車輪の間に乗り操縦する、
エルロンが無い為穏やかな天気の日しか飛べなかった

1909年3月6日、イッシーで初飛行し4月には2km飛び、
9月には18km飛んだ、
その後パリのグランパレスに展示され世界的に有名となる、
乗員1名、シャメール50馬力、全幅5.10m、全長8.00m、
翼面積10.2u全重量143kg、最大時速90km

水上飛行機 アンリー・ファーブル(有名な昆虫学者と同姓同名)

1910にフランスのアンリー・ファーブル(有名な昆虫学者と同姓同名)が、
世界最初の水上飛行機を完成させる
昇降舵を前に主翼と安定板を後ろに配置し、
胴体は上下のブームを組み合わせエンジンは一番最後に付いている、
浮船は三日月断面の平らな物を前に1つ、
後ろに2つを配置しこれで水上の安定を保っていた、
いわゆる鴨型水上機。
操縦席は上のブームの中頃にあり、写真のように、
操縦士は操縦桿にしがみついて乗った、

1910年3月28日ファーブルの操縦で高度約2mで
距離500mの初飛行に成功、
翌日には6kmの距離を飛んで、
大いに注目された、しかし5月18日の試験飛行で墜落、大破、
その後ファーブルは他の水上機の浮船の制作に専念した。
乗員1名、ノーム50馬力、全幅14.00m、全長8.50m、
翼面積17.0u全重量475kg、最大時速89km

日本の初飛行
アンリ・ファルマン複葉機

グラデー単葉機

カ式水上機
(カーチス1912年型水上機)


日本の初飛行は陸軍が先で、ライト兄弟、初飛行から7年後の(1910年)
明治43年12月19日代々木練兵場に、2機飛行機
1機目は、徳川大尉(のちの中将、航空兵団長、航空士官学校長)は、
アンリ・ファルマン複葉機、2人乗り、空冷式回転式星型七気筒ノーム50馬力エンジン、
通常木製プロペラ最高速度65km
日野大尉は、グラデー単葉機、1人乗り、グラーデ24馬力エンジン、
最高速度57キロメートル、直径1,60m
フランスから、輸入し、操縦した。まずは外国機を輸入し操縦方法を学ぶことから、
始まった

明治44年6月3日に、徳川大尉操縦、山瀬中尉同乗で所沢〜川越間39.3km、
高度150m、滞空32分45秒の
初の野外飛行に成功した。

この機は戦後アメリカに持ち去られ、
ライトパターソンのアメリカ空軍博物館に収められていたが、
昭和35年日米修好100年、日本航空50年を記念して再び日本の帰った。
東京万世橋の交通博物館に保管展示された。

海軍は2年後大正元年11月12日神奈川・追浜を飛び立った
金子養三大尉(海兵30期、のちの佐世保航空隊司令、海大教官、少将)
の操縦するフォルマン水上機と横浜を飛び立った河野三吉大尉(のちに中佐)の
カーチス水上機が横浜沖の観艦式にいろどりを、
そえたこれが海軍機公式初飛行

11月2日に練習飛行をそれぞれ行なっているが、
金子のフォルマン水上機は15分間飛んでいる
又、河野のカーチス水上機は海面滑走中に転覆している、しかし、
海軍は観艦式での飛行を初飛行としている。
円盤翼飛行機




円盤翼を最初に研究し模型で実験したのは、カナダの有名な電話の発明でも知られる
アレキサンダー・グラハム・ベル博士
である




人の乗る実機を制作したのは、1911年イギリスのセドリック・リー
機械技術者チルグマン・リチャードと協力し
リー・リチャード円環翼機は、テストでかろうじて離陸する程度の飛行をした。
1913〜14年には、単葉スピードレーサーを試作する。




1934年にはアメリカのマイアミ大学工学部が2人乗りのフライング・ソーサー
「空飛ぶ円盤」を試作したが性能は発表されなかった。

旅客用飛行船 フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵

ドイツのフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵は1909年12月、
世界最初の航空輸送組織を設立し
ツェッペリン飛行船輸送会社と名ずけた。

この会社は1910年〜第1次世界大戦が始まった1914年夏までに、
合計6隻硬式旅客飛行船を使い、
1,587回の飛行で合計34,228人を乗客を運んだ。
飛行基地はベルリン、バーデン、ジュッセルドルフ、
フランクフルト、ライプチヒ、ハンブルク、ドレスデンに設け
各都市間旅客飛行および遊覧飛行を行なった。

最初の飛行船 ツェッペリン L Z 7ドイッチュラント号は、1910年完成
乗客20人、エンジン120馬力X3発、全長148m、直径14m、最高速度60km。

日本機初攻撃参加
と初着艦

モーリス・ファルマン水上機









空母鳳翔に着艦する
ウイリアム・ジョルダン
海軍大尉




10式1号艦上戦闘機

吉良俊一大尉

モーリス・ファルマン水上機

モーリス・ファルマン水上機、ルノー空冷70馬力エンジン、
最高時速83kmが初攻撃参加

1914年大正3年に第1次世界大戦が起こり、
日本は連合国に加わりイギリス軍と共にドイツ基地の
チンタオ(青島)攻撃に、陸海軍機が参加し攻略した。
最初に陸軍が臨時派遣航空隊を編成、飛行機5機、操縦者8名、
偵察者3人で偵察や爆撃を行なった、
爆撃とは言っても砲弾改造爆弾で機体につるして
吊索(つりなわ)をナイフで切るという原始的なもの
低性能のモーリス・ファルマン水上機は、
たった1機のドイツ機(ルンプラー単葉機)に追いまわされた。

海軍は水上機4機を載せた臨時飛行母艦の
運送船若宮丸を派遣そ操縦者、偵察者13人が活躍した。

この戦争における飛行機の力があらためて注目を集めた、
陸海軍は航空隊の編成を始めた

陸軍は1918年大正7年所沢航空大隊を始めに6個飛行大隊を増強

海軍はでは1916年大正5年に横須賀海軍航空隊がつくられ、
航空隊がはじめて海軍に組み込まれた。
その後霞ヶ浦航空隊、1922年大正11年には大村航空隊がつくられ、
この年の12月27日空母鳳翔完成し航空が実用段階にはいる。
空母鳳翔は小型空母で飛行甲板の長さ158m、幅22m、
排水量7千470トン、25ノット、
飛行機常用16機、補助用6機、昭和22年5月1日解体

1923年大正12年2月日本人は航空母艦の発着の経験者は1人もいない為、
三菱のスミス技師と一緒に同行してきた
ウイリアム・ジョルダン海軍大尉(第1次世界大戦で着艦経験を持つ)が
10式1号艦上戦闘機で日本空母初着艦に成功
内外を問わず着艦した人には賞金1万円約束されていた、
ウイリアム・ジョルダン海軍大尉は,
三菱の契約金を含む1万5千円を獲得した。

ちなみに日本海軍の最初に着艦したのは、
同年3月吉良俊一大尉
(海兵40期のちに中将、経歴、龍驤副長、艦長、を
はじめ水上母艦香久丸艦長、空廠部長、12空司令、空技部長、
第12連合航空司令、22,51、横須賀、第三航空艦隊司令を歴任し戦後まもなく病死)
10式1号艦上戦闘機で1回目はオーバーランして海中へ墜落失敗するが、
すぐ飛行機で飛び立ち2回目で成功した

飛行船もこの頃から昭和初期まで航空廠が研究している、
(第4代航空廠長には、花島孝一中将、海機16期 明治42年卒)
宙返り飛行

アドロフ・ぺグ飛行士

世界で初めて宙返りに成功したのは、
フランスのアドロフ・ぺグ飛行士が乗った
ブレリオ11bis単葉機で宙返り飛行に成功、
一躍「大空のスター」として世界の注目をあつめた。

日本での最初のの宙返り飛行は、1915年12月11日に、
アメリカ人チャールス・ナイルス飛行士が、
東京青山外苑の上空で公開したのがはじめてである、
その後、日本でも陸海軍で宙返り飛行が実験されるようになる


尚、ロシアの陸軍のネステロフ中尉は
1913年ニューポール単葉機でぺグよりも、一足先に宙返り飛行に成功したと、
いわれている。

世界高度記録 ユーベル・ラタム

1909年8月22〜29日フランスのランスで開催された
第1回国際飛行競技大会の最終日に、
フランスのユーベル・ラタム操縦のアントアネット7単葉機が、
高度155m昇り最初のFAI公認世界高度記録となった。

この機体は全木製骨組、羽布張りであるが
この競技に参加した飛行機の中ではもっとも進化した、優雅な単葉機で、
その後も改造型がの制作が続けられた。

姉妹機アントアネット4は1909年8月26日に154.6kmの
世界航続距離記録を樹立した。
乗員1名、アントワネット50馬力、全幅12.19m、全長10.67m、
翼面積34.0u、全重量650kg、最高速度75km/時。

改造型は1909年456m、1910年に1.000mの世界高度記録を樹立、
すべてユーベル・ラタム操縦
初めて高度1.000mに達した飛行機として記念すべき機体である。

最初の4発機 イーゴル・シコルスキー技師

1913年3月に完成した、ロシアのイーゴル・シコルスキー技師設計の
ボリショイ・バルチスキー「別名、翼付き電車」は、
双発機であったが馬力が不足なため、
左右のエンジンの後ろに串型に追加し、4発機に改造した。

これが最初の4発機で機名はボリショイ・バルチスキーBとなり、
またこの4基のエンジンを左右1列に配置換えしたのは
ルウスキー・ビチャージで、アルグス100馬力4基、
全幅28.20m、全長20.00m、全重量4200kg、最高速度90km

全金属製飛行機 フーゴ・ユンカース博士

1915年12月12日ドイツのフーゴ・ユンカース博士が設計した、
世界最初の全金属製飛行機が完成した。
このユンカースJ1は片持式(カンチレバー)構造の翼を採用したことでも、
当時最も斬新な飛行機とみられた、材料は0.2mmの鋼板を主として、
重要な個所には鋼鉄製の部品や鋼管を使った。
J1は 乗員2名、メルセデス120馬力、全幅12.95m、全長8.60m、
全重量1080kg、最高速度170km。


ジュラルミン材を使ったのは1917年ユンカースJ4一葉半攻撃機からである。

寄生虫戦闘機
BE2C複葉機とSS飛行船




TC3硬式飛行船

航続距離の短い戦闘機や偵察機を遠くまで運んだり、
又飛行船や大型飛行艇の護衛の為、
パラサイト・ファイターを同行させる実験は、
ドイツ、イギリス両国で行なわれていた。

1916年2月イギリス海軍のBE2C複葉機がSS飛行船の下から、
離脱実験をしたが、3本の吊索(つりなわ)が、
平均に離れず機体が急に傾き操縦士が投げ出され死亡する。

1917年ドイツ海軍でツェッペリン L 37硬式飛行船から、
1918年にはL35硬式飛行船からそれぞれ戦闘機を発進させた。

一方イギリス海軍でも1918年にR23硬式飛行船から
ソッピース・キャメル戦闘機を発進させ、
又、カーチスH4双発飛行艇の上翼に積んだ
ブリストン・ベビーから戦闘機を発進させた、しかし離脱のみ

最初に飛行船へ帰着懸吊を行なったのは、
アメリカ陸軍で1923年9月TC3硬式飛行船のトラピーズに、
スペリー・メッセンジャ小型複葉機が帰着した。

イギリスでは、1925年12月にR33硬式飛行船に
DH53ハミングバード小型単葉機が帰着したのが、最初である。

第1次世界大戦で
最大の飛行機

第一次世界大戦中に作られた最大の飛行機は、
ドイツのジーメンスシュケルトR8爆撃機
終戦時に完成、終戦後のテストで故障の為飛ばなかったが6機の
エンジンは全部胴体体内に置き延長軸と減速歯車で、
胴体両側の各串型1対の4翅プロペラを回転した。

機体の寸法と重量は当時世界最大で
バセーセルブBuS4 300馬力エンジン、全幅48.00m、
全長21.70m、翼面積440u、全重量15.900kg、
最高速度125km/時、実用高度4.000m、航続距離8時間。
ただしこの性能は計算値

引き込み脚飛行機









第一次世界大戦中の1917年頃にアメリカのマーチン飛行機製作所
(有名なマーチン飛行機会社とは
別の個人経営の工場で社長はJ・V・マーチン大尉)が、
制作したマーチンK3は離陸後、主車輪が胴体下部両側にある、
車輪ケースに半分だけ引き込むようになっていた。
手動式で下半分を引き込めなかったのは、
引き込み装置が故障しても安全に不時着する為
A.B.C.ナット45馬力エンジン、全幅5.46m、全長4.05m、
翼面積9.3u、全重量254kg、
最高速度217km/時、で小型複葉機



主車輪を初めて完全に引込めた最初の飛行機は、
1920年ゴードン・ベネット・スピードレースに参加する為に、
アメリカのデイトン・ライト社が制作したRB-1スピードレーサーで
車輪は手動式で胴体の両側に引込むようになっていた、
テストでは好成績を示したが、
いざ本番で方向舵のワイヤーが切れて棄権その実力を示すチャンスをうしなう。



実用機で引込脚機は1930年アメリカのボーイング社が
モノメール郵便機で同型機は窓付きの旅客機に改造され
ダグラスDC-2などが、本格的双発引込脚エアーライナーとして、登場した。

乗員1名、ホーネット575馬力、全幅18.00m、全長12.50m、
翼面積49.6u、全重量3633kg、最高速度253km
航続距離960km、車輪は半引込み式で尾輪は固定式。

大西洋無着陸横断(1)
1919年6月14〜15日、イギリス空軍の
ジョン・オルコック大尉アーサー・ホイツテン・ブラウン中尉は、
ビミ-長距離機でニューファウンドランドのセントジョンスから
アイルランドのクリフデンまで3.040kmの
大西洋無着陸横断飛行を16時間12分で成功。

乗員2名、R・R・イーグル360馬力2基、全幅20.73m、
全長13.27m、翼面積123.56u、最高速度166km
航続距離3.927km、機首の車輪は取り除いていた。

さらに同年11月12日〜12月10日、
スミス大尉
ら3人により英濠間16.528kmの連絡飛行に成功する。
大西洋横断した飛行船
1919年7月英海軍のR34硬式飛行船が、
初めて大西洋横断の目的地往復飛行に成功した。
往路はスコットランドのイースト・フォーチューンから
ニューヨークのルーズベルト・フィールドまで、
5.100kmを108時間12分、
復路は英本土プルハムまで5.150km、を74時間56分で飛んだ。
乗員22名、乗客8名が乗った。

リンドバーグによるニューヨーク〜パリ間大西洋横断飛行よりも
8年も前のことで、当時は飛行機より飛行船が、
安全で実用的であることを証明した。
日本の国産1号機
Y-125号機

Y−148号機
横廠式ロ号甲型水上偵察機

横廠式水上偵察機(横廠式ロ号甲型水上偵察機)

1917年大正6年国産1号機は、イスパノスイザ二百馬力エンジン搭載の、
馬越大尉、中島機関大尉
(のちの、中島飛行機)
協同設計の、横廠式ロ号甲型水上偵察機、のち、
大正7年11月日本初の海軍制式機となる。
多くの外国機をまねた飛行機が作られる。
大正8年1919年には、佐世保〜追浜間を
32分無着陸で飛びその性能の良さを証明した。