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航空史初めて(NO1)物語2(解説と写真)

解説と写真で贈る、航空機、飛行船、気球、ハング・ライダー等、
大空に関係有るもののNo1を、紹介してみたい、
航空界で欠かすことの出来ない
最初に二宮忠八氏話と飛行神社作った話から始めるが、
後のサントス・デュモンやライト兄弟、徳川好敏大尉など航空史NO1は世界の航空史

太平洋戦争の記録は多く存在するが、この航空機開発等は1783年〜1930年代大空に憧れて、
初めて飛んだ、造った、それに記録
このNO1史は飛行知識を倍増する為の資料(歴史のお勉強)にしてもらいたいのだが!・・・・・・・・・・



参項資料 写真 文

1974年昭和49年9月1日号、1975年昭和50年7月1日号、9月1日号、10月1日号、
11月1日号1976年昭和51年7月1日号、1977年、昭和52年2月1日号
ヒコーキ野朗現在廃刊) (発行 社団法人日本飛行連盟
一部 文を参項、 潮書房  丸, 朝日ソノラマ写真連合艦隊昭和61年11月10日発行
 朝日ソノラマ零戦1997年10月10日発行

お断り75年〜77年発行の本で製作した為、
もし後に判明した新事実等あったら伝言板にて知らせくれたたすかります。
米大陸横断飛行 マクレディ、オークレー両中尉

1923年5月2〜3日アメリカ陸軍のマクレディ、オークレー両中尉はフォッカーT−2長距離機で、
ニューヨークのルーズベルト飛行場から、
サンジェゴのロックウエル飛行場まで、4.032kmの米大陸横断飛行に成功した。

T-2はオランダのフォッカー社が制作した長距離輸送機で記録機は主翼と胴体に
燃料タンクを増設した特殊改造機
乗員2名、リバティ400馬力、全幅22.00m、全長13.00m、翼面積89.0u、
全重量4.900kg(内燃料が2.100s)、最高速度155km

空中給油機
DH4B偵察機




フオッカーF./3m
クエッション・マーク号




十四式水上偵察機



日本陸軍八八式偵察機
による空中給油
スミス大尉、リヒター中尉

1923年8月27〜28アメリカ陸軍スミス大尉、リヒター中尉の搭乗した
デイトン・ライトDH4B偵察機が
同じ型の僚機である世界最初の「空中タンカー」から、ゴムホースで給油を受けながら
サンジェゴ付近を37時間15分40秒飛びづづけた。

当時の飛行機としては、最高の滞空記録であるが、世界記録とはならず、
のちにFAI公認空中給油による国際滞空記録第1号となる、
給油方法は上から下にホースを垂らし重力によって自然に流し移した原始的なもの。


同じ、DH4B偵察機による滞空記録飛行は1928年6月4〜5日ベルギー空軍の
グローイ、シュロネン両中尉による
ブラッセル周辺上空でおこなわれ滞空60時間7分32秒と新記録つくった。

翌年1月1〜7日アメリカ陸軍は大型機による実用的な空中給油実験に
取り組みついに1週間飛び続けて、
世界をアッと言わせた
フオッカーF./3mクエッション・マーク号(陸軍C-2型3発輸送機)で、
給油機はダグラスC-1複葉輸送機(ダグラスDWC世界1周機同系列)で大型単発機、
数回の給油で合計5,205ガロン、滑油202ガロンを送った。
フオッカーF./3mクエッション・マーク号は113kmで17,700kmを1週間かけて飛んだ
正式滞空記録は150時間40分15秒、
乗っていたのは機長スパッツ少佐、イーカー大尉、ハルバーソン、
クイサダ両中尉、ハウ軍曹5名、
ロスアンゼルス上空周辺を飛んだ。


日本海軍最初の空中給油機
十四式水上偵察機(海軍航空廠)1925年、大正15年1月に1号2号が採用され、
1931年昭和6年1月採用の3号があり、伝統をを誇った
日本海軍の3座水偵の元祖で実用性の高い傑作機、
戦艦、水上機母艦に搭載され艦隊の目として活躍、基地航空隊で使用され、
初めて空中給油機に成功した機体
空中給油は日付不明


日本陸軍機八八式偵察機の空中給油は日付不明

飛行船母艦
アメリカ海軍は1924年ツェッペリン L Z 126/ZR3 
ロサンゼルス号大型硬式飛行船採用した。
この飛行船は海上パトロール主任務とする為、洋上補給船として、
飛行船母艦を作ることになった、

アメリカ海軍は1925年に給油船パトカを
初の飛行船母艦に改装、後部上甲板の上に飛行船繋留塔を設け、
その上端に繋留装置を取り付けた、乗組員はそこから出入りできるようになり、
また燃料、兵器、食料などの補給も
洋上で出来るようになる。
世界1週飛行 マーチン少佐、ネルソン、ウエード、スミス中尉

飛行機による世界一周計画を真っ先に実行したのは、アメリカ陸軍航空隊で、
使用機はダグラスDT-2雷撃機を基礎として
長距離用に改造したDWC型水陸交替式4機を使用した。

陸上使用時は車輪を取り付け、
水上飛行場に降りる時には、浮舟を取り替える仕組みで
日本では湊、霞ヶ浦、串本、鹿児島などすべて
水上滑走路使用したので水上機で飛来した、

アメリカ陸軍のマーチン少佐、ネルソン、ウエード、スミス中尉4操縦士のほか、
4機関士合計8人が4機に分乗、
1924年3月17日サンタモニカを出発、途中マーチン少佐機は大破したが、
残りの3機は、44,330kmを176日間
実飛行時間351時間11分で翔破、9月28日最初の世界一周飛行を完成した。

コースはシアトル、アラスカ、日本、マレー、インド、アラビア、バルカン、
フランス、イギリス、アイスランド、グリーンランド、カナダ、
シアトルであった。

DWC型水上機使用は乗員2名 リバチー420馬力、全幅12.25m、
全長11.12m、翼面積65.5u、全重量3.492kg、
最高速度161km、最高高度2130m、航続距離2,660km。

大西洋無着陸横断
ライアンNYP スピリット・
オブ・セントルイス号




ロッキード・シリウス号
(ワシントン航空宇宙博物館)



1931年(昭和6年)
8月26日リンドバーグ氏
霞ヶ浦にて


アメリカに帰ったNYP
チャールズ・リンドバーグ
(アメリカ人で、1902年に生れ、二十歳のときウィスコンシン大学を中退して
ネプラスカ州飛行機学校に入り、
卒業後はシカゴとセントルイス間の郵便飛行士になる)。

第一次世界大戦が終わって間もない1919年フランスの
大富豪レイモンド・オルティグ氏が
ニューヨーク〜パリ間無着陸で初飛行した物に
2万5000ドル賞金をかけた、その後世界の著名な飛行士9名応募して、
だれが1番のりをするか、注目されていた。
数名のベテランパイロットが次々に失敗した後、
1927年(昭和2年)5月20日早朝、
無名の青年チャールズ・リンドバーグ郵便飛行士が
小型機がサンドウィッチ5食分と水筒2本不時着用に缶詰5個持って
乗り込みニューヨーク近郊のルーズベルト飛行場を出発した。

若い郵便飛行士だった彼がこの大飛行に成功するなどとは
誰も思っていなかったが、
パリ市郊外のル・ブルジェ飛行場まで、
5.809kmを33時間30分で飛行(平均速度174km)、
リンドバーグ飛行士はその瞬間、世界最高の「空の英雄」賞讃された。
史上、わずか1日半足らずの仕事で彼ほど有名になった人気者はいない。

わずか25歳で陸軍大佐、パン・アメリカンとトランスコンチネンタル
(のちのTWA)両航空会社の顧問、
セントルイス市の名誉市民、
フランス、アメリカ大統領、イギリス国王からの勲章を授与され
全世界からのファン・レター5万通以上、結婚の申し込みが、
多いことでも世界新記録だったという。

無線通信器も方向探知機も無い小型機で、
しかも単独操縦で洋上を33時間30分を飛び続けるという、
超人的な記録は、永久に航空史に記録されるであろう、
この間の多くのエピソードは映画「翼よ、あれがパリの灯だ」で、
戦後再現され話題をよんだ。

ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス号
乗員1名 ライトJ-5Cホワールウインドー225馬力、全幅14.28m、
全長11.58m、翼面積29.63u、
全重量2.500kg、最高速度193km、航続距離2,510km。

1931年(昭和6年)、航空路調査のため、リンドバーグは
結婚まもないアン夫人(無線通信士、メキシコ大使ドワイト・モロー氏の娘)を、
同行させ北太平洋を経由で来日。
8月24日に根室、8月26日霞ヶ浦、東京、大阪、福岡をへて
中国の南京から漢口へ行き、調査飛行は終る。
使用機、ロッキード・シリウス号 乗員 2人、
全幅13.07m、全長8.38m、航続距離1、700Km、

飛行船の
世界一周飛行
1929年8月8日〜29日ドイツのツェッペリン
L Z 127グラーフ・ツェッペリン号硬式飛行船は
エッケナー博士ら乗員40名、乗客20名を乗せて初めて世界一周旅行に成功する。

アメリカのレークハーストを出発、途中ドイツのフリードリッヒスハーフェン、
日本の霞ヶ浦、アメリカのロスアンゼルス、
レークハーストに帰還するまでの、
全航程32.790km通算21日7時間34分、実飛行時間286時間26分、
平均速度114km
この間フリードリッヒスハーフェン、
日本の霞ヶ浦までの、第2航程には海軍の藤吉少佐、大阪朝日新聞の北野特派員、
大阪毎日新聞の円地特派員、の日本人3名が乗客として同乗、
又霞ヶ浦からロスアンゼルスまでの第3航程には、
海軍の草鹿少佐、陸軍の柴田少佐、電通の白井特派員、の3人が乗客として同乗した。

ツェッペリン L Z 127グラーフ・ツェッペリン号硬式飛行船は当時世界最大で
全金属製骨組に羽布張り、船体は28角形の断面で全長235m、最大直径30.5m、
全重量111.000kg
(このうち乗員、乗客、貨物15.000kg、食料、その他合計30.000kg)

マイバッハ550馬力X5、最大速度128km、
巡航速度117km航続距離、最大航続距離15.000km

100人以上乗せた
飛行機
DoX飛行艇

初めて100人以上を乗せて飛んだ飛行機は、
1929年にスイスのドルニエー社で完成したDoX飛行艇、7月25日初飛行
10月21日に招待客150人を乗せてデモストレーション飛行を行なった、
しかしこのとき9人の密航者がいたことが着水後判明
結局、乗員10名、乗客159名載せて飛んだことになる。
DoX飛行艇(完成時のデーター)  
乗員10名、乗客72名、シーメンス・ジュピター500馬力X12、
全幅48.00m、全長40.05m、翼面積485u、
全重量48.000kg、最高速度211km、航続距離2,500km。

エベレスト上空飛行
エベレストとP.V.3複葉機


P.V.3複葉機
ダグラスス・クリデスデイル侯爵の指揮、L.V.ブラッカー中佐英空軍操縦士

世界最高峰ヒマラヤ山脈エベレスト(8.848m)の上空を最初に飛行し、
写真撮影に成功したのは、
イギリスのウエストランドP.V.3複葉機、通称ヒューストン・ウエストランドである。

1933年4月3日ダグラスス・クリデスデイル侯爵の指揮、
L.V.ブラッカー中佐英空軍操縦士ら4名が2機に分乗
高度9.000〜10.000mの上空からエベレスト頂上を観測撮影に成功し、
精密写真撮影に成功

P.V.3複葉機のデーターは 乗員2名 ブリストルペガサスS・3 670馬力、
全幅14.20m、全長10.40m、翼面積46.5u、
全重量2.252kg、最高速度高度4.575mで278.4km、
上昇時間4.575mまで27分18秒、最大高度10.450m。

又同系列のペガサスS・3をつけたブイッカースベスパ複葉機は
1932年に13.404mの世界高度記録を樹立した。

太平洋無着陸横断
日本からアメリカまで一気に飛ぶ太平洋無着陸横断は1931年
アメリカのヒュー・ハードン、クライド・パングボーン両飛行士の
ベランガ「ミス・ビードル」号によって成し遂げられた。

同機ははじめ世界1周早回り飛行を企画、ニューヨークを出発、
ロンドン、ベルリン、モスコー、オムスク、チタ、を経て
ハバロフスクに到着したが、悪天候で2回着陸した為、
新記録樹立の見込みがなくなったため、
太平洋横断1番乗りに計画を変更、立川飛行場に飛来した。

立川で整備し、車輪を離陸後投下式に改造、
増加燃料タンクを取り付け機体を青森県淋代に移す、
10月4日午前7時1分出発
滑走距離1.800m、滑空時間60秒、離陸後エンジンの好調を確かめてから車輪を投下、
6日の午前零時11分ワシントン州ウエナッチ飛行場に胴体着陸を敢行して、
太平洋無着陸横断1番乗りに成功、

同機はベランカスカイロケット旅客機を改造した長距離機で、無線通信装置、
方向探知機などの装備が無く、羅針盤だけが航法計器であった。

ミス・ビードルは乗員2名、全備重量4.082kg、燃量905ガロン、
滑油45ガロン、燃料消費量20ガロン/時
航続距離45時間の計算だった、
実際青森県淋代〜ワシントン州ウエナッチ飛行場まで、7.910km
41時間12分で飛行、平均時速192kmであった。

又、ベランカスカイロケット旅客機は乗員2名、
乗客5名、ワスプ425馬力、全幅14.10m、全長8.50m、翼面積28.7u、
全重量2.090kg、最高速度240km、。

ハング・グライダー



オットー・リリエン・タール

だれでも1度は鳥のように大空を飛んで見たいもの、
手取り早く実現してくれるのはハング・グライダー(懸吊滑空機)
最初に成功させた史実は明らかではない。

ハング・グライダーの実験者としては、メールバイン(1784年フランス)、
デゲン(1808年ウィーン)、
ミラー(1843年イギリス)その他にも古い記録は多く残っている。

ドイツのオットー・リリエン・タールが弟ガスタブを助手にして、
鳥類飛行の研究を始めたのは、
1870年22歳の時、実は最初にハング・グライダーを制作したのは、14歳の時だった、
2人は工科大学に入り兄は機械科、弟は建築家卒、
その一生をハング・グライダーの研究で終始した。

成功した最初の発表した機体は1891年翼面積10u、重量18kgの単葉機だが、
1893年には、翼面積14u、重量20kgの単葉機なり、
1896年には翼面積18.5u、重量25kgの複葉機に進化した。

実験のため作った滑走台」は、始めは15m、
斜面の長さは50mだったがのちにさらに高くなり、
場所はベルリン郊外リノーで滑空実験回数は
合計2千100回、通常100m以上飛び、
最大飛行距離約1分で275mとなっている、

機体は竹と藤の骨組みで、木綿布を張ったもので、
重さは1人で持ち運びが出来る25kgに制限し、
特別の操縦装置つまり舵が無く、操縦者自身が体を動かして
重心位置を調節し安定を取る方法である。

1896年8月11日、オットー・リリエン・タールがヘルメットに索(なわ)をつけて
舵を動かす操縦装置を実験中、
突風に合い失速、墜落、重傷を負って数日後死亡、48歳
のちに、リノーの丘にリリエンタールの功績をたたえて 
「グライダーの父」記念日が立てられた。

世界航続距離記録
1906年11月12日最初の公式飛行に成功したアルベルト・サントス・デュモン
午後4時30分、離陸し、不安定な飛行ながらも高度約5mくらいで飛行を続け、着陸で脚が破損したが、
時間21.1/5秒、距離220mを見事に飛行し、スピード記録時速41.292kmが認められた。
飛行クラブによって世界最初の公認記録として認定され、1500フランの賞金を獲得した。
英仏海峡を
横断した飛行機
ルイ・ブレリオ

世界で初めて海を越えて外国に渡った飛行機は、フランスのブレリオ11単葉機、
1909年にロンドン新聞が1.000ポンドの懸賞金をかけた
英仏海峡を横断飛行の一番乗りの競争に挑戦して、
ルイ・ブレリオが制作し操縦した、当時の高速機である。

1909年7月25日フランスのカレー〜イギリスのドーブァーまで
38キロを37分で飛行、高度80〜150m、平均速度62キロ、

同機は木製骨組みで羽布張り補助翼は無く主翼の両側は、
撓翼式になっていて昇降舵は水平安定板に付いていた、
英仏海峡を横断飛行の時は、操縦席のうしろに非常用浮き袋を取り付け、
羅針盤を付けていなかったので、
途中までフランス海軍の駆逐艦が全力で誘導した、

ブレリオ11単葉機、乗員1名 アンザニ22〜25馬力、全幅8.00m、
全長7.80m、翼面積14.0u、
全重量300kg、最高速度72.4km、航続時間1時間30分。
初の大西洋横断
挑戦者


大西洋を気球または飛行船で横断しようと夢を見た人は多いが、
その可能性がある飛行船で挑戦したのは、
アメリカのウエルマンである、ウエルマンら6人が乗った
アメリカ号硬式飛行船は1910年アメリカを出発したが、
1.625km飛んだところで不時着水、乗組員は商船に助けられた、第1次世界大戦の4年前のことだ。

ウエルマン飛行船は 75馬力と80馬力双発動力、全長69.5m、直径15.85m、
全重量12.192kg。

定期航空旅客機
飛行機に乗客を乗せたのは、ライト兄弟の複葉機以降である、有料で同乗者を乗せた記録は不明だが、
1914年1月1日世界で最初の定期商業飛行機便が、アメリカ・フロリダ州タンパ港をはさんで35km離れた
タンパとセント・ピータースバーグの間に開かれた。

使用機は、ベノイスト飛行艇で操縦士1名、乗客1名を乗せ、搭乗料金は体重91kgまで1人付き5ドルで
体重が重い人から割増料金を取った、
この飛行艇はエンジンが胴体の中にありチェーン駆動で上部のプッシャープロペラを回転させた
ロバート75馬力、全幅13.72m、全長7.92m、翼面積38.65u、
全重量750kg、最高速度103km。
無人飛行機
スペリー・カーチス飛行爆弾



スペリー・デルコ製Bug
飛行機が実用の兵器となった第1次世界大戦の初めから興味のある課題は
無人飛行機の開発である。
人が乗らなくて爆撃が出来る飛行機があれば有利な兵器はない。

世界で初めて、このアイデアを実現したのはアメリカのスペリー・ジャイロスコープ会社だが、
これを最初に指導し予算を出したのはアメリカ海軍である。

1917年4月この実験のために5万ドルを支出、スペリー社の
自動操縦装置をつけたカーチス製の飛行爆弾実験機は、
1917年11月ロング・アイランドのスペリー社の飛行場で完成、
これはカーチスN9の機体部品を利用して制作した。

同機は翌年3月にレール上を滑走する台車から発進し約900mを飛行、
同年10月には新しいカタパルトから発射して、
高度1.200mの上空を焼く13kmの直線コースを飛ぶことが出来た、
このスペリー・カーチス飛行爆弾は
最大1.000ポンド(454kg)の爆弾を積むことができ、最大速度は145km、
距離80km飛ぶ計画だったが、
開発の途中で終戦となり、実線では使用されなかった。

一方、アメリカ陸軍でもこの機体とは別に1917年無人飛行爆弾を計画、
1918年春に実験した。スペリー・デルコ製この機体は
スペリー・カーチス飛行爆弾の機体より
小型で爆弾は300ポンド(136kg)の
爆弾を積むことができ、エンジンはヘンリー・フォード社2サイクル40馬力、
飛行速度80km
この機体は通称「Bug」と呼ばれテスト飛行で成功をおさめた。

ドイツの重要施設を爆破する目的で、さらに優れた無線装置を研究中に終戦となる。

ターボ過給機付き
飛行機


第1次世界大戦末期 フランス人ルペール技師の設計で
アメリカのパッカード社が生産を開始した
LUSAC-11(Lはルペール、USACはアメリカ陸軍航空隊の略)は
終戦直後優秀な複座戦闘機とみとめられた。

エンジンは当時アメリカで最も信頼されていたリバティ400馬力だが、
その1機にターボスーパーチャジャーを組み合わせて、
高空での出力低下を防いだ特殊高空用エンジンを取り付け
1918年8月20日シュローダー少佐の操縦で高度8.810mを記録した、
またこのときシュローダー少佐は新提案の酸素吸入装置を携え特殊防寒服を着ていた。

1920年2月27日にはさらに改良されシュローダー少佐操縦して
高度10.093m記録

1921年マックレディー大尉により10.518mを記録した。

高度1万メートルを超えた最初の飛行機であるが同時に
ターボスーパーチャジャーの威力が認められた
画期的な高度記録機、
複座機のデータ-は リバティ425馬力、全幅11.85m、全長7.74m、翼面積38.5u、
全重量1.700kg、最高速度214km。

全金属製飛行船 1929年米海軍のZMC−2は理想的な流線型全金属製硬式飛行船で
小型だが丈夫で長持ち、悪天候に強いのが特徴で、
外側も全部アルミニューム合金のアルクラッド板で出来ており、
一般にはメタル・クラッド飛行船と呼ばれた
焼く10年活躍した
乗員4名、220馬力X2、全長45.54m、直径16m、搭載量340kg、最大時速100km
ロケット飛行機








ロケットは誰が発明したかは不明で、史説では紀元前ギリシァでロケットを動力とした、
鳥の模型が玩具の一種として現れており、
中国でも北宋時代(紀元960〜1126年)にロケット兵器が使われ、
中には鳥のように翼を付け飛行するロケット爆弾もあって、
その現物は天安門広場の前の中国歴史博物館に展示されているという。
はっきり記録が残されているものでは、宋の王富(ワン・フウ)という科学者が作った
黒色火薬を竹に詰めたロケット兵器が最初といわれロケットは中国で誕生したことになる。

ドイツにおけるロケットの父、フリッツ・フォン・オペル教授はドイツ・ロケット協会会長をつとめ、
1928年4月ロケット自動車を完成し、最大速度90kmを記録
さらに1929年9月30日にフランクフルト近郊でグライダーにロケットエンジンを取り付け、
平均136km速度で2km飛行に成功した。
ロケット動力のよる最初の人間飛行に成功した、
この後、オペル多管ロケット式(胴体や翼に多数のロケット付けリレー式に点火する方式)
旅客機を設計したが模型だけで終わる。

この頃のロケット研究家はイタリアのダーイン・ライオン博士、
オーストリアのギンドー・フォン・プルク教授、
フランスのエスノー・ペルトリ-技師、ソビエトのニコラス・レーニン教授などが知られていた。

又翼が無くロケット飛翔体だけの、弾道ロケットに人が乗り成功したのは、
ドイツの秘密実験で、
英紙サンデー・レファラーの記事によるとブルーノ・フイッシャー技師の制作で
全長7.30mのロケットに
弟のオットー・フイッシャーが乗り高度9.000mに上昇、落下傘で無事に降下、
滞空時間は10分26秒と報告される。

1937年3月ドイツはその後有名なハインケルHe112戦闘機にロケットを追加し
飛行中エンジンを点火し100kmの加速を記録し
のちに飛行機だけで離陸できるようになる。
蒸気飛行機



ライト・フライヤー複葉機成功以前にロシアのモジャイスキー、フランスのアデール、
イギリスのマキシム飛行機は
すべて蒸気エンジンをつけていたが、どれも操縦できる安定した飛行機は出来なかった。
ところがライト兄弟の初飛行から30年後の
1933年にはアメリカのベスラー社は軽量で、強力な蒸気エンジンを開発に成功、
これをトラベルエアー4000複葉機に取り付けて飛行に成功した、
V型4気筒、うち高圧2、低圧2気筒、公称出力150馬力/1.625r.p.m.
エンジン重量81.8kgボイラーその他の部品、
水、燃料、油など合わせて、220kg、1馬力あたり重量1.46kg
当時のディーゼルエンジンに近いところまで漕ぎつけた、

機首の下にはラジエータ-式複水器がついておりこれでピストンから排出された
蒸気を99%まで複水できることができ、
予備水タンクは10ガロン入りで充分だった、
燃料消費率は距離16kmで1ガロン1時間を巡航速度160kmで飛行して
10ガロンと言うことになる

この蒸気飛行機は1933年4月21日オークランドで7分間飛行に成功
その後アメリカだけで10名の航空用蒸気エンジン研究者が続いたという

ガソリンエンジンに比べ蒸気エンジンは爆音、騒音も少なく使用燃料が
灯油間に合い、維持費が安く、
危険性が少なく、キャブレターやマグネットは必要なく構造が簡単で
故障も少なく部品が少ないそのため整備がしやすい
量産すれば価格が安く、また高空でガソリンエンジンほど出力が低下しないこと、
気象状況に変化が少ないない
さらにプロペラを逆回転もできる、着陸時滑走距離短縮が出来る、
同機の実験では約15mで停止したという。


最初の雷撃機
世界最初の雷撃機で主翼の
折りたたみを採用された
ソッピ‐ス・クック



商船改造空母アーガス


ブラックバーン・スイフト


1934年4月初飛行
イギリスのフェアリー
スウォードフィッシュ
時代遅れと言われながらも

大活躍
1912年飛行機に魚雷を抱かせて敵艦船に洋上低く肉薄して投下しれば、
効果的に撃破する発想が生まれていた。

これを最初に具体化したのはイギリス海軍で
1914年シューター中佐が水上機ショート・フォルダーの双浮舟のあいだに
14インチ艦用魚雷をつるし、海上面十数bから投下することに成功、
しかし、テスト中に落下のショックで雷体が壊れたり内部機器、舵の故障が多かった。

撃沈第1号はショート184水上機がダーダネルス海峡を航行中の
トルコ汽船に電撃をおこない、見事撃沈
これが最初の雷撃機による初戦果である。

これに勢い付いてシューター中佐はソッーピース社と協力して
建造中の商船改造空母アーガスに搭載する
陸上偵察、爆撃機改造の雷撃機ソッピ‐ス・クックの開発をおこなったが、あくまでも練習機、
雷撃機ソッピ‐ス・クック 乗員1名 
水冷式イスパノ・パイパー200馬力、全幅14.23m、全長8.64m、全重量1.750kg、
最高速度163km。また狭いスペースの空母の甲板搭載を考えて、
中央翼かを支点に左右後方へ折りたたみを採用
魚雷は16インチ使用した、また練習専用魚雷18インチがあった。

18年10月十数機アーガスに搭載されたが第1次世界大戦はまもなく終戦をむかえた。

雷撃機ソッピ‐ス・クックに続いて開発された18インチ魚雷を懸吊することができる
ブラックバーン・スイフト(ネピアライオン450馬力)共に日本にもたらされた、
日英同盟のよしみで日本海軍に航空技術を指南にやってきた
イギリス海軍航空教官団(センピル大佐以下28名)
陸軍へは、フォール大佐以下フランス陸軍航空教官団がたずさえてきた機体
この機が来た日から日本の雷撃機の歴史が始まった

他のページでも紹介している三菱飛行機(当時三菱内燃機)がよんだソッーピース社の
ハロルド・スミス技師もこのとき来日して10式雷撃機を完成させる

ついでに第2次世界大戦で活躍したフェアリースウォードフィッシュはマルタ島、タラント奇襲、
ドイツ戦艦ビスマルク撃沈など大活躍した