臨時軍用気球研究所
設計は技術担当者で徳川好敏陸軍工兵大尉、徳永熊雄陸軍工兵大尉、
小浜方彦海軍機関大尉、岩本周平技師、
山下誠一海軍機関大尉を始めとする当時の研究会の飛行船の歴史に触れてみよう、
忘れかけられそうな航空史、を振り返る。
| TOP | 航空機列伝TOP | Photo
BBS (映像談話室) 画像300KBまで |
メイン掲示板(BBS) 画像120KBまで |
![]() |
飛行船の歴史 臨時軍用気球研究所 明治42年設立〜廃止する昭和8年2月まで |
| 参項資料73年4月号 ヒコーキ野朗(現在廃刊) (発行 社団法人日本飛行連盟) |
| 飛行船 | 説明 |
| 臨時軍用気球研究所が参考にした飛行船から説明 | |
![]() デジリブル1号飛行船 |
イギリスの陸軍気球製作所で1907年に完成した、 イギリス陸軍制式第1号半硬式飛行船、 J.E.カパ大佐とS.F.カディ技師の協力でつくられ、 アントワネット50馬力エンジンで1対の2翅プロペラをまわした。 1907年10月5日、アルダーショットからクリスタル・パレスまで 80kmを3時間25分で飛行し、 翌年改造されて外形が大きく変わった、写真は改造後のもの 全長37.18m、直径7.92m、最大速度25.7km/h S・F・カディ技師はその後飛行船のエンジンを取り外して 陸軍第1号飛行機を製作した。 |
デジリブル2号飛行船 |
イギリス陸軍の制式第2号硬式飛行船でフランスのアストラ式構造を 用いている、1908年7月イギリスの陸軍気球製作所で完成し 船体は1号船よりわずかに大きいが動力は 同じアントワネット50馬力エンジンである。船体が流線型になったため、 最大速度は35.4km/hに向上した。 |
![]() デジリブル3号飛行船 |
イギリス陸軍の制式第3号硬式飛行船で前の1.2号船にくらべて、 はるかに小さく、別名ベビー飛行船といわれた 1909年5月に完成し、バセット8馬力で直径1.80mのプロペラをまわしたが、十分な性能を発揮できず、のちにR.E.P30馬力に換装され 1対のプロペラをまわすようにして性能をあげた、 ガス袋式の安定尾翼をもつが垂直尾翼は上側だけついており、 方向舵はゴンドラの後ろについた 全長25.60m、直径7.52m、最大速度32km/h |
![]() スペンサー飛行船 |
イギリスの民間飛行船乗りとして知られたスペンサー兄弟は 1902年から自作の小型硬式飛行船で、 イギリス各地を見せ物として巡業し 写真は1908年に飛んだ型で、30馬力石油エンジンで機首の プロペラをまわしていた。 これによく似たスペンサー型の硬式飛行船は 1909年(明治42年)4月に日本にも姿を現し米人ハミルトンの操縦で 東京と大阪で公開飛行を行なったことがある動力は 電気モーターであった。 |
![]() ディクソン人力飛行船 |
1906〜07年頃、アメリカでは冒険青年クロムウェル・ディクソンが 独特の人力飛行船で巡業飛行をしていた。 全長わずか8m足らずの小型軟式飛行船で、 自動車式のペダルを踏んで前のプロペラをまわすようになっていた。 通称ムーン(月)号で知られ、当時世界で最小の飛行船であった。 |
![]() メイヤー飛行船 |
同じ頃、アメリカでは、のちに曲技飛行士として有名になった リンカーン・ビーチが、メイヤー軟式飛行船で各地に巡業飛行をしていた。 全長16,76m、直径5,50m、容積212、 カーチス2気筒7馬力ガソリン・エンジンで前の 直径1.22mのプロペラをまわし、操縦士と バラストの合計90sの搭載力があった。 |
| 日本の臨時軍用気球研究所 | |
![]() 山田式第2飛行船 |
明治30年(1897年)以来、気球を製作していた日本における斯界の 先覚者山田猪三郎は、英人スペンサーが東京上野不忍池畔で 飛行船を公開したのに刺激され、その翌年、 明治43年(1910年)に初の国産軟式飛行船を完成した。 これが山田式第1号飛行船で同年9月8日に大崎から目黒まで 試験飛行に成功したが、さらに改設計した第2号飛行船は、 翌44年2月に重繋留試験中に風のため索が切れて上昇し、 大崎から青山車練兵場まで飛んで破損した。 50馬力のガソリン・エンジンをそなえ、全長33m、容積1,500であった。 続いて製作された山田式第3号飛行船は、 すぐれた性能をあげ、支那に輸出され、外国に売れた最初の国産船となった。 |
![]() イ号飛行船 |
日本で最初の公的な航空機研究機関は、 明治42年に設立された臨時軍用気球研究会であるが、 明治44年にこの研究会が、初めて1隻の飛行船を建造した。 設計は研究会の技術担当者である徳永熊雄陸軍工兵大尉、 小浜方彦海軍機関大尉、 岩本周平技師、山下誠一海軍機関大尉、徳川好敏陸軍工兵大尉らの 協力により、バルーンは前記の 山田猪三郎氏の気球製作所で、また吊舟は平岡鉄工所で分担して製作され、 同年10月、所沢飛行場で総組立てを終わった。 エンジン以外は全部国産である。 このイ号飛行船は、中島知久平海軍機関大尉(のちの中島飛行機の創立者)、 伊藤総赳陸軍工兵中尉ほか助手1名が乗って、 所沢飛行場を中心に滞空1時間41分で距離32kmを飛び、 その優秀な性能が実証されたが、バルーンの 破損が早く、寿命は短かった。乗員3名、ウーズレイ4気筒60馬力、 全長48,34m容積2,930、全備重量3,220s、巡航速度 18km/h、航続力5時間。 |
![]() ドイツから輸入した パルセヴァル飛行船 |
臨時軍用気球研究会がドイツあら購入した、 当時最新型飛行船で、明治45年6月に舶着、同年12月12日の 横浜沖の観艦式には、 山下誠一海軍機関大尉、石本祥吉陸軍大尉、岩本周平技師らの搭乗で参加し、海軍のファルマン、カーチス両水上飛行機とともに、 初めて観艦式空を飾った。大正2年には、所沢〜青山練兵場間の 帝都訪問飛行に成功し、その後、所沢〜横浜間の往復145kmを 2時間53分で飛び、飛行機よりも余裕ある安定感をあたえていた。 乗員4〜12名、マイバッハ150馬力2基、全長76,67m、容積 8,800、全備重量8,000s、最大速度66km/h、航続力20時間。 |
![]() 雄飛号飛行船とモ式4型複葉機 |
前記のパウセバァル飛行船をもとにして、臨時軍用気球研究会が 新しく建造した国産飛行船で、大正4年に所沢で完成し、雄飛号と 命名された。製作は、益田済陸軍工兵少佐の監督のもとで 岩本周平技師の主務でおこなわれ、 全体としてはパウセバァル飛行船よりも、 さらに美しい流線型に改修され、スピードもわずかに速くなった。 対照年に東京〜大阪間の長距離飛行がおこなわれ、所沢〜豊橋間を 4時間、豊橋〜大阪間を5時間10分で飛んだが、 復航はエンジン不調のため分解して陸送された。 その前年、モーリス・ファルマン 複葉機による東京〜大阪間飛行では、往航に5日、 復航に3日を要したのであるから、実用の航空機としては、 まだ、飛行機よりは 飛行船の方がすぐれていたことになる。乗員4〜12名、 マイバッハ150馬力2基、全長85,00m、容積10,000、 全備重量8,100s、 最大速度68,4kg/h、航続力10時間。 |
![]() 大正13年に空中爆発した SS3号飛行船 |
臨時軍用気球研究会は、陸海軍および民間の合同研究機関で、 前記の雄飛号も趣旨としては三者共有の飛行船ではあったが、 実際には 所沢飛行場を基地として、ほとんど陸軍の飛行将校によって研究され、 その活用も消極的であった。そこで海軍では、 第1次世界大戦後、独自の立場で海軍用の飛行船を研究するこになり、 イギリス海軍から海洋哨戒用飛行船購入ことになった。 この飛行船は、イギリスでSubmarine Scout−typeと称していたもので、 日本ではこの名称を略して、SS飛行船と呼んでいた。 SS飛行船は、大正10年秋に舶着し、 大西滝次郎海軍大尉の主務で組み立てられたが、 翌11年5月に自然爆発事故を起こして破壊した。これをもとにして、 横須賀長浦の造兵部で 新しく建造したものが、海軍1号型飛行船、通称SS3号飛行船で、 翌12年6月には、横須賀〜大阪間往復飛行に成功した。 しかし、13年3月19日、横須賀から霞ヶ浦に向かったSS3号は、 茨城県稲戸井村の上空で爆発し、 高橋道夫海軍大尉ら搭乗の5名全員が 殉職した。日本で死者を出した唯一の飛行船事故である。 乗員5名、ロールス・ロイス90馬力2基、全長52,00m、 容積2,830、全備重量 2,300s、最大速度96km/h、機関銃2搭または軽砲1門、 5,5s小型爆弾4発。 |
![]() フランスから輸入し所沢で 組立てられたアストラ・トウレ飛行船 アストラ・トウレ飛行船を改修を 加えたAT2号飛行船 |
SS飛行船を組み立て中に、海軍では引き続いてフランスの ニューボール・アストラ飛行船会社にトウレ大型飛行船1隻を発注した。 この略称AT飛行船は、大正12年5月に舶着したが、 海軍には大型飛行船を組み立てる格納庫がないため、 所沢の雄飛号格納庫で組み立て られ、同年7月には帝都訪問をおこない、 10月には霞ヶ浦飛行場に新しく建てられたドイツから押収した ツエッペリン大格納庫に移された。 のちに改修を加えた新装の同型船を、AT2号飛行船と呼んだ。 乗員7〜12名、サンビーム300馬力2基、全長80,00m、容積10,700、 全備重量7,560s、最大速度78km/h、75mm速射砲1門、 機関銃1挺、爆弾65s4個と90s2個、航続力14時間。 |
1号型改4号飛行船 ![]() 十五式5号(手前)と 9号飛行船(奥) |
爆発事故で墜落したSS3号の代替船として大正15年2月に完成した 1号型改造飛行船は、昭和2年に海軍制式名称一五式飛行船と なった。この純国産飛行船からは、霞ヶ浦飛行場の大格納庫で組立てられ、 バルーン外装は空電から水素ガスを遮蔽する構造になり 褐色に仕上げられ、空中爆発の危険性が少なくなった。 この十五式飛行船は、取り扱いが簡単なため好評で、 1号改4号に続いて5号、7号、9号の3隻が建造され 海軍航空船隊主力となった。 日本ではこの十五式9号が最後の海軍飛行船となったが、 昭和6年2月には耐寒30時間連続飛行に成功している 乗員5名、瓦斯電ベンツ130馬力2基、全長53,00m、容積3,670、 全備重量4,000s、最大速度82,8km/h、機関銃2挺、 爆弾45s2個、航続力12時間。 |
![]() イタリアから輸入したN3飛行船 |
大正15年(1926年)、ノルウェーの探検家ノビレ、 エルスワースらとともにN1ノルゲ号飛行船で北極探検飛行をおこない、 飛行船の実用価値が再確認され、日本海軍でも、 同型船を1隻をイタリアから購入することになった。 同船は、これまでの硬式飛行船とは違い、 船体の主要部を軽金属製骨組みで整形し、 吊舟を船体に密着させた半硬式飛行船で ノビレ設計の3号船であるため、N3号飛行船と名付けられた。 昭和2年10月の海軍大演習に参加し、藤吉直四郎大尉ら7名が乗って 哨戒任務中、風が強くなって流され伊豆七島の神津島に 強行着陸して、乗員は避難したが、その直後に爆発した。 このため、海軍内部でも飛行船の実用価値が議論されるようになった。 乗員7名、マイバッハ245馬力2基、全長80,10m、容積7,500、 全備重量8,552s、最大速度104km/h、機関銃2挺、 航続力20時間。 |
60時間の滞空記録を作った 三式8号飛行船 |
上記のN3号の代替船として昭和3年9月に完成した半硬式飛行船で、 純国産の材料を使って好成績を示した。 昭和6年3月14〜17日、藤吉直四郎少佐ら9名の搭乗で 60時間01分の滞空記録をつくって注目されたが、その頃から 海洋哨戒としては大型の飛行船が著しい進歩を遂げたので、 飛行船はこの三式8号船と一五式9号船をもって終わりを 告げることになった。乗員9名、瓦斯電三式150馬力2基、 全長82,00m、容積7,500、最大速度100km/h、 航続力20時間。 |
| 結び | 以上、戦前日本にあった飛行船は、明治末期の山田式から、 海軍が航空船隊を廃止する昭和8年2月までの約25年間に 合計15隻が存在したことになる。 もう一度、船名を挙げてみると、山田式1号、同2号、同3号、イ号、 パルセバァル号、雄飛号、SS1号、アストラ・トウレ2号、 SS3号(1号型)、1号型改4号、一五式5号、同7号、同9号、 N3号型6号、三式8号である。 なお、日本海軍におけるAir ShipまたはDirigibleに対する制式名称は、 雄飛号いらい「航空船」というのが正しく、 昭和3年3月29日に、あらためて制式名を「飛行船」と改称した。 したがって三式飛行船から正式に「飛行船」となるわけであるが 世間一般では、山田式以来始終「飛行船」と呼ばれていた。 |