赤十字飛行隊・秘話昭和38年11月3日、秋晴れの藤沢飛行場で、源田実隊長、
島津日赤社長他おれきれきの主席を得て、華ばなしく発隊式をあげた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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ヒコーキ野郎感動史(私が選んだ感動史) |
| 参項資料 ヒコーキ野朗(現在廃刊) (発行 社団法人日本飛行連盟) |
制作にあたり一言・このページは、私が選んだ記事、特集を、当時まま再現したものですが、重くなる為写真等は除く場合あり。
当時このようなことがあったなど裏話、感動史などあのときの秘話がよみがえる。!
| 第1弾 | 1974年(昭和49年)9月号より 赤十字飛行隊・秘話 (昭和38年11月3日発隊)文・日本飛行連盟理事長 小林喜作氏 |
![]() 新潟空港の誘導路に 着陸した。 赤十字飛行隊の エアロンカ ![]() 出動準備をする 発足当時の 赤十字飛行隊 ![]() 鈍足に物をいわせて 活躍する赤十字飛行隊の エアロンカ ![]() 最近の活躍シーン エアロンカ451号 (機関紙) 2001.1.1発行 読売新聞の記事より |
昭和38年11月3日、秋晴れの藤沢飛行場で、源田実隊長、島津日赤社長他おれきれきの主席を得て、 華ばなしく発隊式をあげたものの、 当時の機体はエアロンカ 3機、L-5 2機、セスナ170 1機、パイパーペーサ 1機、 モランソルニエ885型 1機とお寒い態勢で、 口やかましい航空雀は「あんな機体で何ができるもんか」と大分悪口もいわれたものでした。 早いばかりが役に立つわけでもあるまい、と、われわれが先ず最初に手がけたのが湘南パトロール、 このパトロールは早すぎては全く役に立たない、遅いほど救助しやすく、 できれば大西さんのスバルプレーンのような機体がほしい位です。 巡航速度65哩のエアロンカが、最大の効果をあげたことは、申すまでもありません、 その後各地の災害に出動してきたのですが、 新聞に出てくるカッコ良い表側の話とはべつに、飛行隊の活躍のうら話などご披露申し上げてみたいと思います。 新潟地震!!出動命令下る! 昭和39年6月16日 11時40分頃飛行館の事務所に日赤救護課から電話がいりました、 「新潟で大地震があったらしい 総べての通信は途絶、状況が全く分からない、 飛行隊は直ちに出勤して、現地の実情を調査の上報告してください、なお、高木日赤社会部長が正式の 調査団長として高橋救護課長といっしょに同乗します。 地震といえば飛行場は亀裂が入ることもあり、早速新潟空港の様子を調査したが、皆目不明、 どうも飛行場は使えないような情報すらいりました、 しかし、行かなければならず「ままよ止む得なければ 海岸の砂地に降りてやれ」と覚悟をきめて 砂地に強いセスナ170を準備させ、時間も無いので、藤沢から東雲飛行場に回航させることを命じ、 東雲からご両氏とあまりぞっとした飛行ではないが、日赤のオエライさんを 乗せる責任上、私も同乗することにしました、 12時30分頃 セスナは東雲着、パイロットは根岸穣治君、 少し遅れて日赤高木社会部長と救護課長が、島津日赤社長におくられて到着、 早速出発前の打合わせをしました。 「新潟空港の状況が全く不明です、もし着陸できなければ、 海岸の砂地に強行着陸致しますと言うのですから、航空局と保険会社が聞いたら、 目を廻すような話です、「あのー海岸に降りて大丈夫ですか?脚位は折るかわかりませんが、 あなた方は無事におとどけ致します」、 いや悲壮なものでした、ご両氏初飛行、だというのにとんでもないものに乗るハメになったが そこは島津社長みずからお見送りに来られていらっしゃるので 引くにも引けず決死の覚悟をして乗り込みました、もちろん私も同様でまさか戦争が終わって以来 こんな飛行をしようとは・・・・・ そこへまた悪い情報が飛び込んだ、「三国峠の上空15,000呎位まで 強烈な積乱雲が発生しているセスナ170で越えられそうにありませんぜ」 当たり前だ、セスナ170に4人乗って15,000呎まで上がるわけはありません、 しかも、積乱雲じゃあ、オンボロセスナなど、飛び込んだが最後、あっという間にバラバラになるでしょう、 悪いときに積乱雲・・・・・と考えたがこの時期ならあっても不思議ではない、 しかし、何も15,000呎で壁のように並んでいるわけはないだろう、必ず雲の谷間はあるはずだ。 「レッツ ゴー」われわれ4人を乗せた、セスナ170JA3014 (このJAナンバーにご注目あれ、昭和27年航空再開当時日本に入った小型機の中で14番目に 入った古い古い機体です) は、東雲の飛行場を島津日赤社長他、本当に無事、新潟に着くかな?と 疑心暗鬼に見送る人達の背に勇躍一路北へ・・・・、 新潟空港は水びたし 熊谷を越え、高度をじょじょにとりながら三国峠へ、すごいすごい15,000呎はおろか 18,000呎もあるような巨大な積乱雲の壁、 セスナ170はパワー全開、残念なことに145馬力では昇るものではない 10,000呎越えた頃からアップアップと始める騒ぎでした、 根岸パイロットは懸命に雲の谷間をさがす、突然根岸君が奇妙キテレツの歌をうたい出しました、 「いい娘ちゃんだよー、お前さんは、上がってくれよー可愛い子ちゃんだよ、昇ってくれよ」 前の計器盤の上を軽くたたきながら、どこかで聞いたことのあるような節で、オマジナイノようにうたいました。 と不思議や不思議、アップアップとしていた昇降計の針がジワジワと上昇に向かっているではありませんか、 「昇る昇る」とわれわれ操縦席の二人は大喜こびご利益テキメン飛行機は生きものであり、 女性であることを再確認した次第でした (注、アマパイロット諸君、これはまれに見る現象でであって、 けして超能力不足の一般人には適応しないこと書き加えておきます) 12,000〜13,000とオンボロセスナは、ガタガタしながら、馬力をふり絞って上昇していった、 その時 ゴツン、ゴツンと後部座席で物をたたくような振動がおきました、何事か? と振り返ると後部の両氏が目を閉じてげんこつで自分の膝を、力いっぱいたたいているではありませんか、 「しまった、出発時緊張のあまりすますべきなものを すませておくようすすめるのを忘れた!!外気温度はマイナスに近い、ご年配のご両氏にとって当然のこと、 膀胱の強度にも限界があるはず、何とかしなければ、と座席中探しまくったが、 こんな時にかぎってあいにくビニール袋もない、 やむを得ず、燃料補給用の鹿皮のついたロートを使用するほかにはありませんでした、 航空燃料と塩分については、勉強不足で 十分な知識はないのですが、その後このロートを使った飛行機が事故をおこしたという、報告も聞かないから、 若干の塩分のまざりは差支えないらしいということでしょう、 話が下に飛んでしまいましたが13,000呎の上空での雲の谷間をさがす努力は、 その間も根岸パイロットよって懸命に続けられやっと、13,500呎で積乱雲の谷間をみつけて、 すり抜けホットひと息つきました、後はエンジンをじょじょに絞りながら 信濃川沿いに十日町、小千谷、長岡、三条と新潟に近ずくにしたがって、 だんだん地震の被害が目につきだしてきました。 落ちた橋、決壊した道路など、しかし良く見ないと全く平和な農村風景と変わりません、 特に家屋などは、新潟の市内に入っても、 上空から見る限り何の変化も無い、後で聞いた話ですが 海岸に近い団地の4階建ビルが傾いたものがあったそうですが、 少なくとも家屋の被害を上空から調査することは、新潟地震程度では、不可能に近いようでした。 「なんだ、たいしたことはないな」と機上で一応安心したんですが、 これがとんでもない間違いであったことは、 新潟空港上空に入って始めて気がつきました、たいしたことどころではないのです、 新潟空港はそれまで何回となく来たところですが、全く違う空港に見えるのです、狭い、非常に小さな空港が、 入江のような水の中に浮んでいるといった状態でした。 飛行機が水をかぶっていることに気がつくには若干の時間がかかりました、 だいいち地震はあったが、津波はなかったはずなのです、 それがなぜ水をかぶっているのだろうか、滑走路はなんというひどさなのだろうか、 地震で亀裂が入っていることは覚悟してきたが、 地すべりで滑走路がS字状に曲がっているのは想像もつきませんでした、 あの大きな滑走路がS字状に曲がっている飛行場を、 見た時、なにかとんでもない世界に飛び込んできたような感じがしました、 「新潟の空港ビルは平屋だったかな」と根岸君がポツと聞いた「イや2階建てだったよ」と空港ビルを見ると、 どう見ても平屋にしか見えないが、 何の変化も無く立派に建っているので「俺の記憶違いかな」とあまり気にしないで着陸場をさがしました、 ところが主滑走路は2本とも水と亀裂とS字状で使用不能、 どうにか誘導路の一部400メートル位が着陸可能と判断しました、 どうやらこれで砂浜に下りずに済むわいとアプローチ、 普段藤沢の狭い飛行場で訓練しているから、こんな時曲技着陸には強い、 ドンピシャリと無事着陸、しかし誘導路も一部を除いて冠水している為 「水しぶきあげてちょっと水上機の気分を味合いました」 (と今ならさりなく書けますが当時は決死の覚悟でしたよ) クロロマイセチン30万人分の空輸 着陸して驚きました、飛行機から降りても水の中を通らなければ、どこにもいけないのです、 その誘導路だけ独立した陸地だったのです、 空港ビルは2階建てであった、ただ1階部分はそのまま地中に潜り、2階部分だけが、地上にあった、 「なぜ冠水したのだろうか?」 その疑問はすぐ解けました、空港のペトン以外の芝地に1平方米にだいたい1個、 10cm位のさながら月のアバタのような噴水穴が、 一面にボツボツとあいておりそこから海水を吹き上げたものだったのです、 地震で海水が吹き上げるとは、全く予想すらできないことでした。 早速、高木日赤社会部長と高橋救護課長は、ヘソより、深い水をかきわけて県庁に向かいました、 あとで聞いたことですが、県庁でご両氏が地震の当日に早くも東京から ついたことでびっくりしたということでした 鉄道は止まり、道路は駄目、飛行場は使用不能なので、どうやって来たのかと、 どこに行っても不思議そうに聞かれ 「ちょっとした天狗さま扱いだったよ」と後日高木部長はよくその話をされた。 さて使命は果たしたものの、われわれは今夜はどうするか、飲み水も無くもちろん弁当などもっていない、 無事に着いたとたん腹がへってきました、考え込んでいるうちに、ポツリ、ポツリ新聞社の飛行機が到着、 着陸できるところはここしかないので誘導路の半分を駐機場に使い、残った翼幅一杯の部分に着陸する 当時は尾輪式が多かったのですが、皆パーフェクトランデング、 こんな時には真の技量が出るものとあらためて感心しました、 数日後「サンデー毎日」に「新聞社機が新潟に着いたら、 すでに赤十字マークをつけた機体がマスコミよりも早く到着していたのには驚いた」と、 おほめ戴いたのを、つい昨日のことのように覚えています、 幸いなことに新潟空港の隣りに日赤のソ連からの引揚げセンターがあったので、 早速ころがり込んで飯と水にありついたのですが、 あとで聞くと水道が止まったため、風呂の水を使用したそうでゲンナリでした。 翌日任務を果たしたご両氏を乗せて無事帰ったが飲料水が止まったため、 新潟市内に汚れによる赤痢患者が発生「直ちにクロロマイセチン30万人分運べ」と命令が出た、 今度は勝手知ったる現地と、モランソルニエ885で無事任務達成、 また風呂の水飲まされたら、今度は東京に赤痢がでるよ、ちょっと足を伸ばして佐渡空港へ向かいました、 佐渡おけさではありませんが、佐渡と新潟は竿さしゃとどく距離、離陸すると佐渡は目と鼻の先だが、 佐渡に着いてみると、驚いたことに地震の被害は全く無いのです、こんな近い距離でなぜだろうかと考えながら、 宿をさがしに両津へ向かった 両津に着いてさらに驚きは倍増、シーズンだというのに両津の町に観光客の姿は 全く無く旅館街は火が消えたよう、 早速大手旅館に飛び込んだのですが、全部私達だけで貸切、否、全旅館貸切の程、 聞くところによると地震さわぎで観光客はびっくりして全員船で引揚げ、 予約されたお客も新潟が通れないでオールキャンセルだったのです、 「こんな時に良く来なすった、赤十字のお仕事で・・・・」とまあモテタことモテタこと、 旅館の女中はおろか両津の芸者衆が家にいてもつまらない、と オール無料出演「酒はウマイしねーちゃんはキレイ」と世の中のモテナイ奴の顔がみたいような1日でした。 地震にまつわるとんだヨロクでした、しかも30万人分運んだクロロマイセチンのお陰げで、 新潟市内の赤痢患者はピタリと止まり大成功、二重の喜びを胸に又の指令を待って帰った次第です。 (了) 私がこの作品を一番にしたのには訳があるこの作品は思い出があるのである、 まず第一に大空のサムライ製作=東宝映画 1976(S51)、10、02 の初めのシーンで坂井三郎(藤岡弘)が気象状況悪いのに血清を届に行くシーンとにているからです。 赤十字飛行隊とかいてある飛行機 (セスナかな?3羽プロペラ6人乗り?タイヤカバーなし 私の推測)とエンジンを切るシーンから始まる 映画公開より少し前の話ですが、私の学校で昭和50年か51年、中学2〜3年の頃200字詰原稿用紙に 作文を書いてくるという宿題があった、友達は学校の図書館にある本を借りていた、 私だけはこの作品と決めていたため、借りていない。もう何度も繰り返して読んでいたため、 作文なんてすぐできると思っていたがそう甘くは無かった、何とかその夜に書き上げた、 学校に参考にした本と作文を持っていったら 先生がその本はなんかー(熊本ベン)と怒って雑誌を持ってきていかんと言って取り上げられた、 4時間目だったと記憶するが、作文を読む番が来た、 この話を上手くはかけていない作文なのに皆がいい作文ダーと言ってくれたので 「先生がどんな本に書いてあったんだ」と聞いた、朝取り上げた本です、答えたら先生は、 顔を真っ赤にしてすまんと言ってくれた。 そのあと校長先生にもほめられた、いい記事を作文にしたナーとほめられたが、 コンクールには出してもらえなかった、 文がへただった、・・・・・・そしてその本が私の手元に帰ってきたのは、 約1ヵ月後だった先生たちが読んでいたのである。 人間は自分中心の考えることが多いが、たまには逆を考えたらいい自分が被害者(患者)だったら このような飛行隊がいてくれると、心強いだろう、災害時は皆困っている、 いち早く着てくれたら助かる命が多いだろう、 1人1人勇気をもって赤十字飛行隊は今日も飛んでいるかも知れない。 話を戻すが、最近の赤十字飛行隊は日本飛行連盟(機関紙) エアロンカ451号2001.1.1発行の中から 読売新聞の記事がある、翼に誇りの赤十字(2000年12月18日)災害時に医療品や血液輸送などを行なう ボランティア団体赤十字飛行隊(山本滋隊長) 出勤実績が述べ2300機を越えたらしい普賢岳では現地に入ることが出来ない住民を搭乗させて 自宅の被害状況を確認させたり、 奥尻島では救護医師十人を緊急搬送、阪神大震災では医療品緊急輸送・・・ 飛行隊では現在高年齢化がすすんでいて平均60歳、 隊員が多いときには500人だったが、 現在200人経済的余裕がある人しかなれないのが現状と(山本滋隊長)は話す。 現在は出動回数も減りこのごろは自治体の防災訓練が増えている、 ただ日赤の要求受けたときだけつけることが出来る 「レッドクロスは」隊員たちの誇りである、詳しいことは社団法人日本飛行連盟へ聞いてね。(制作者) 赤十字(レッドクロス)このマークとは、 赤十字の創始者アンリーデュナンの祖国スイスに敬意を表しスイスの旗を逆にした物で ジュネーブ条約および国内法により使用範囲が制限されている。 日本赤十字は敵味方関係なく負傷者を救護する団体「博愛社」として熊本で誕生する、 明治10年5月1日(日赤の広報誌より) |
| このような話をこれからも続けてさがして見たい、続いては何の話にしようかなー・・・・・・・・ |