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『1Q84』を読んで--数の呪縛の物語2009年6月 村上春樹の『1Q84』は、不思議な力をもった小説だ。『1Q84』というタイトル自体が、アルファベットと数字だけからなる。数字だけからなる物には、例えば本の頁がある。『1Q84』は、この本の頁がきれいな値になった時、本作にとって重要なことが語られるのだ。 Book 2の123頁(2-123)。そこでは本作の全体像が簡単に語られる。 「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。」(2-123) 村上春樹自身が、本作の長所と欠点を簡単に語る。前もって批判に準備しておくかのように。作者は『1Q84』が爆発的に売れることも予想している。1-50頁で。 「世の中の大半の人間は、小説の値打ちなんてほとんどわからん。しかし世の中の流れから取り残されたくないと思っている。だから賞を取って話題になった本があれば、買って読む」(1-50) 本作の全体像は1-22頁から1-23頁にかけてでも予言される。 「運転手は言葉を選びながら言った。『つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そうですよね? …で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。』」(1-22〜1-23) このあと、主人公の1人青豆は、タクシーを出て高速道路の非常階段を下りる。その「普通でないこと」をしたとたん、彼女は警官の制服が一新され、月が二つ浮かぶ「1Q84」の世界に迷い込む。青豆はこの世界をこう呼ぼうと決心する。 「1Q84年――私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。Qはquestion markのQだ」(1-202) もう1人の主人公、天吾が初めて登場するのが1-30頁だ。 「天吾の最初の記憶は1歳半のときのものだ。彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。ベビーベッドには1人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった」(1-30) これは今の天吾自身を示す文章でもある。人妻である安田恭子と天吾は週に1回、逢瀬を重ねているからだ。天吾は小さいころ数学の神童といわれ、現在は予備校で数学の講師をしている。(ここでも数に呪縛されている)。この天吾がもう1人の重要人物「ふかえり」(深田絵里子)の不思議な魅力を述べるのが、1-100頁だ。 「ここには何かしら奇妙なものがあります。普通ではないものです。…ふかえりはたぶん本物だと思います。…ただ彼女は僕らの見ていないものを、実際に見ているのかもしれない…」(1-100) ふかえりは17歳の高校生で、『空気さなぎ』の原作を書く。彼女自身、古い土蔵の中で死んだ山羊の口から出てきたリトル・ピープルに会い、空気中に浮かぶ糸を使って「空気さなぎ」を作る経験をする。 本作は天吾と青豆の物語が交互に語られていく。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように。青豆はスポーツインストラクターの仕事をしているが、プロの殺し屋でもある。頭が禿かかった中年の男性とゆきずりのセックスもする。そこで知り合ったのが女性警察官のあゆみだ。あゆみはしかし誰かによって殺される。死んだあゆみを青豆が思うシーンが、2-100頁だ。 「この世界にはもうあゆみはいない。…簡単な葬儀があり、そのあとで火葬場に運ばれ、焼かれてしまう。煙となって空に立ち上がり、雲に混じる。そして雨となって地表に降り、どこかの草を育てる」(2-100) 非常に乾いた文章だが、人と物質、環境と自然の本質的な関係を語っている。『源氏物語』にも似た箇所がある。亡き夕顔を光源氏が思い出すシーンである。 「恋しい人を葬った煙があの雲になったと思うと、夕方の空も親しく思えてくる」(角田光代、現代語訳、130頁)。 青豆は、かつてふかえりが所属していた宗教団体「さきがけ」のリーダーを暗殺する仕事を請け負う。リーダーは何人もの少女をレイプしているとされるからだ。青豆はホテルの一室でリーダーと会う。Book 2の第9章、184頁、すなわち1(9)84頁で。 「ベッドの上には小山のような黒々とした物体があった。その不定形の輪郭が、そこに横たわった人間の体躯を表しているとわかるまでに、更にまた時間を要した」(2-1(9)84)
そこでリーダーは、彼女が自分を安楽死させてくれれば、天吾の命を保証すると述べる。青豆は迷う。もしリーダーを殺害すれば、「さきがけ」が青豆を放っておくはずはないからだ。ここで青豆は自分の命と引き替えに、天吾の命を守る決心をする。2-444頁だ。 「私が去ったあとも、天吾はそこにとどまる。天吾にとってそれがどのような世界になるのか、私にはもちろんわからない。見届けるすべもない。でもそれでもかまわない。私は彼のために死んでいこうとしている」(2-444) でも青豆は簡単に死ねるわけではない。天吾への強い思いは消えない。2-290頁の次の文章は、本作でも胸を打つ部分ではないだろうか。 青豆はこうして物語が始まった場所、高速道路の非常階段に向かう。しかしそこでは非常階段が消えている。今は1Q84年であり、元の1984年ではないからだ。元の世界に帰ることができないことを悟ったとき、青豆は死を決意する。拳銃を取り出し、口に当てる。 「『天吾くん』と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた」(2-474) 青豆の物語はこれで終わる。我々は彼女が本当に死んだのかどうかの情報が与えられない。『ねじまき鳥クロニクル』がそうであったように、『1Q84』もBook3が用意されているのかもしれない。 そのとき天吾は、父の臨終の場に立ち会うため、千葉の病院にいる。父の亡骸が運ばれた後のベッドに天吾は不思議な物体を見る。それは1.5メートルほどの落花生の殻に似た形をしており、白い羽毛のようなもので覆われている。部屋が暗くなるにつれ、その物体は淡い青の光で包まれる。その“青い”「空気さなぎ」の中に天吾は、少女時代の“青豆”を見いだす。それが2-500頁だ。 「これまでの20年間、天吾はその少女の手が残していった感触の記憶とともに生きてきた。これからも同じように、この新たな温もりとともに生きていくことができるはずだ」(2-500) 天吾はこの少女を見て、現在の青豆その人を探す決意をする。しかし青豆はすでに死んでいる(…らしい)。そこで物語が終わる。不思議な世界を我々に見せてくれる『1Q84』。数字が不思議な力を持ち、きれいな数字が並んだ頁で物語の重要な場面が語られていくのだ。 |