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昔、平磯は近隣のものから「平磯のあんぼへ」と呼ばれ、蔑まされていました。
当時、平磯は大変貧乏で立派な建物はほとんど見当たらず、
家には戸や障子も無くむしろ一枚を軒に下げて家の仕切りとした掘立小屋の様な民家が並んでいたそうです。
<むしろとは、わらを編んだ一畳ほどの大きさのもので貧しい家では畳の替わりに使われたり物を包むのに使われた> |
| 大正時代の那珂川べりに建つ漁民の家 |
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何故それほど平磯が貧乏だったかと言うと、
この地域の産土の神である酒列磯前神社が子供を間引く事を許さず、
いわゆる「貧乏人の子沢山」だったからです。
江戸時代、貧しい家では沢山子供が産まれると養ってゆく事が出来ずに
間引きといって産まれた子供を親が殺す事が普通に行われていました。
<現在の育児放棄による子殺しとは全く異なる、そうしないと親や先に産まれた子供が生きてゆく事が出来なかった>
平磯は間引きを行わなかったので暮らしは困窮を極めていました。
他の地域の者はそれを見て、生活が出来ないほど貧乏なのに子供を間引かない平磯は
「あんぼへ」だと呼んだのでした。
三浜地区の古い諺に
「義理の平磯、情けの湊、人情知らずの磯の浜」と言われました。
この「義理の平磯」とは間引きをしないと言う意味が含まれているのです。
現在の平磯の町の中にお地蔵さんはどのくらいあるでしょうか?
古い町の割にはお地蔵さんはとても少なく感じませんか?
お地蔵さんは亡くなった子供の供養に建てる事が多く、
お地蔵さんの数の多い地域はそれだけ沢山の子供を間引いていた地域なのかも知れません。
ちなみに平磯でお地蔵さんと呼ばれている石仏の半数は本当のお地蔵さん<地蔵菩薩>ではなく
二十三夜講の本尊の勢至菩薩と十九夜講の本尊の如意輪観音です。
残る本当のお地蔵さんも子供の供養のためではなく
海難者や溺死者を祀る物のようです。
<琴平神社の階段脇の石仏>
かなり磨耗が激しいが、地蔵菩薩の様に立ち姿ではなく
座している事がわかると思います。
すなわちこの石仏は如意輪観音ということです。
夜講<月待供養塔>
十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすることをいいます。毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月、11月の一定の月を祀る所が多くあります。月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまであります。講の組織になっていることが多くあります
十九夜様は女性に篤い信仰を集め
安産・子育ての神と崇められました。
月待供養塔の詳細は「平磯の石仏」に記載します |
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