![]() |
平磯と殿山の境、清水町沢メキ交差点の角に建っているこの石碑を平磯町の住民の方なら必ず目にしたことがあると思う。 ただ、くじらの大ちゃんの影に隠れていて石碑に刻まれた文字を読まれた方は極、少数だと思われる。 碑文は「中村彝静養之地」と刻まれ、書は「自治大臣 梶山静六」とある。 この碑は結核を患い殿山の地での静養中に彼の代表作「平磯海岸」を描いた事を、彼の門弟たちが昭和63年、縁の地に建立したものなのです。 <中村彝の経歴> テレビ東京「美の巨人たち」でも取り上げられていますが、 私が説明するよりも詳細なHPが存在しますので、下記を参照してください。 ●中村彝 - Wikipedia ●中村彝アトリエ保存会 ●ぶらり重兵衛の歴史探訪 <注釈> 杓子定規に考えれば平磯町ではなく当時の湊町東塚原に静養されていた訳ですが、当時、東塚原(殿山)は「平磯口」とも呼ばれ美術書等では中村彝は平磯町に静養したと記述される。 碑文の名の読み方は「中村彝(つね)」 |
![]() |
![]() |
| 水戸市五軒町小学校に建立された「中村彝誕生之地」の石碑 毎年門弟たちで構成された「中村彝会」が顕彰を行なって来た が会員の高齢化の為に2007年10月10日を以って中村彝会は 解散した。 |
沢メキの石碑の脇に立つ建立の趣意書きの碑 黒御影石が鏡面に仕上げられているために太陽が反射し、肉眼で判読 し難いが、早朝の斜光が差し込む時間を見計らって撮影して、ようやく碑 文が判読できた。 |
| 平磯町静養先「広瀬惣八家別荘」 | |
![]() 昭和61年刊行 那珂湊市刊 「那珂湊の地名」より TOP頁へ 次頁へ |
<中村彝が静養をする経緯> 明治40(1907)年、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。 この頃、彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退し、軍人を挫折したが幼い頃から興味のあった画家への道を志した。 しかし結核は終生「中村彝」を蝕み各地を療養と作品制作の為に転々とし、大正八年(1919年)に水戸下市のたばこ製造業者「広瀬惣八」家別荘で療養するために平磯町を訪れたのである。 静養中に「平磯海岸/愛知県今治市玉川近代美術館蔵」や「平磯/新潟県柏崎市蔵」など数点を描き上げた。約4ヶ月の滞在中に数点しか描き上げられなかったと言うのは、其の期間よほど病状が芳しくなかったことを物語っている。 大正10年(1921)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。 大正10年から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。 大正13年(1924)、死去。満37歳 一部ウィキペディア(Wikipedia)より引用 |
| <広瀬惣八家別荘の位置> 那珂湊市発刊「那珂湊の地名」に僅かながらの記述と地図が掲載されている。 「那珂湊の地名」より 市営東塚原住宅、老人ホーム跡地一帯は明治後期頃から水戸下市たばこ製造業者「広瀬惣八」家の別荘であり大正八年彫刻家中村彝療養した。 その母屋に道を隔てて国木田独歩の療養した「青一蘆/せいいちろ」が残る 左の地図が「那珂湊の地名」に掲載されているものである。 当時の地形図とあわせてみると東塚原住宅の一帯とニューグリーン・マンション付近も含まれていたと思われる。 |
|
| <広瀬惣八家とは?> 江戸時代より那珂川流域は有数の煙草の産地で「水府煙草」として全国に其の名を馳せていた。「広瀬惣八」家は数軒あった水府煙草製造業者の中でも有力家で創業の地は常陸太田市付近と思われる。 ![]() 有力銘柄は「雲井」であったが、当時は「雲井」を名乗る煙草が数点存在していた。 「雲井」と言う銘柄の由来は、江戸時代の祝町(現・大洗町)の遊郭の人気の遊女「雲井」から来ている。 「雲井」は自分で葉タバコを吟味して常連のお客に配っていた。人気一番の「雲井」から煙草を戴けるお客はそれが自慢の種であり、またその煙草の味も最高の物であったという。 そこから水府煙草の製造業者は挙って「雲井」の名を自社銘柄にしていた。 伊藤純郎著「三浜漁民生活誌」によれば実際に文久年間の祝町遊郭の常盤屋に雲井と言う名が認められる。 ●何故、常陸太田付近発祥の広瀬惣八家が平磯に別荘を構えたのか? それは江戸時代からの習慣で、栃木、群馬、北茨城の煙草耕作業者は夏になると平磯へ煙草の脂毒を洗い落とすために潮湯治に訪れていた縁の地であるからと考えられる。明治三十七年(1904)煙草専売局設置による国営化が始まり、民営の煙草製造業は衰退し、やがて広瀬惣八家も別荘を手放す事になる。 |
|