たかが日々の暮らし、されど日々の暮らし

***

 

 間違いなくある町の福井8丁目に住んでいる「名無しの権兵衛(ごんべい)」の日々の生活です。

**

 

俺も行く  おしゃべり  匂いの話  柿盗人  草取り  口は災いの元 友人  あれ知らない  眼鏡  万歩計  オウム返し  ホームページ開設記  掲示板への書き込み  予定表  憧れのハワイ航路  本の山  「わしが」族  アリの行列  漢字の由来  労働かボランティアか  運転免許証取得  虫の知らせ  魚が好き  縫い針に糸が通せない  内なる自分との戦い  隠された十字架  どういう風に本を読むか  昔の暮らし  星空の話  昔の暮らし・その2  言葉遣い  昔の暮らし・その3    若い女の子  名前の呼び方 怒る妻  投稿日本人の心の故郷 島根旅行温泉津温泉 日和山城 田中梅治 後鳥羽伝説 西蓮寺 歴史民俗資料館 旧街道 二つ山城 胴鐸と古墳 吉川元春 旅行後記 田中梅治の文章 田中梅治の句碑建立のいきさつと祝辞 老人性せっかち症  これで大丈夫ですか  あとはおぼろ  そこまでやるか  

***

 

俺も行く

 最近特に、何事につけ妻の言うとおりに動くようになってきた。

「体育館へ行くのだけれど」

「俺も行く」

「本屋へ行くのだけれど」

「俺も行く」

「買い物へいくのだけれど」

「俺も行く」

「お風呂にお湯を入れるのだけれど」

「俺も入る」(別に一緒に入ろうというわけではありません)

 やることなすことすべてあなたまかせになってきた。

 

 私の親戚に「さやか」という名の二十歳代の娘さんがいる。この子が三、四歳のころはどこへ行くにも人と一緒に行きたがった。この子が昼寝をしているのをいいことに、私たち夫婦は、車でどこかへ出かけることにした。さあ出発しようということになったとき、この子が上着をしっかり抱えて、玄関に飛び出してきた。

「さやかも、さやかも」

と大声で今にも泣き出しそうな調子で叫んだ。私たちは仕方なく、さやかが着替えて出てくるのを待って、車に乗せた。

 

 私はこのごろだんだんあの頃のさやかに似てきたかなと思う。年を取ると小さい子供のように聞き分けが無くなってくる。どこへ行くにも人にくっついて行きたくなる。

 これから先、足腰も弱くなって車椅子生活になっても、寝たきりになっても、妻に邪険にされながらも「俺も行く」を繰り返すことになるのだろうか。

***

おしゃべり

 女という種族はいつも集まっては何かかにかしゃべっている。

 ある日体育館に入ったらロビーのテーブルを囲んで、二十人ほどの女性たちが飲み物を飲みお菓子を食べ、大声で笑いながらしゃべっていた。

 一時間ほど体育館のデッキを歩いて降りてきたらまだしゃべっている。

 その後、トレーニングルームに入り一時間ほどして出てきたら、まだしゃべっている。

 その後、さらにシャワー室に入って汗を流し、出てきたらまだしゃべっていた。よく話すことがあるものだと思う。

 

 私の妻もよくしゃべる。しゃべる相手のいないときには、窓から顔を出して、窓下の花に何か話しかけている。「窓際のトットちゃん」なみだなと思う。

「花もね、ほめられるときれいに咲くのよ。女もね、ほめられるときれいになるのよ」

 女についてはともかく、花もほめるときれいに咲くというのはほんとうかどうかよくわからない。

 

 あるとき高速道路を車を走らせていた。妻は助手席で、胡坐をくんで、缶ビールを飲みながら調子よくしゃべりかけてくる。

「あれ見て御覧なさい。あの山の桜きれいだわね」

「あの蕎麦屋、見て御覧なさい。まずそうだわね」

 私が生返事をしていると、だんだん機嫌が悪くなってくる。相槌をうつのが途切れると、私の顔を覗き込んで

「あなた、ちゃんと聞いているの。居眠りしているんじゃないでしょうね」

 しかたなく、妻の言う方向に視線をやると、車の進む方向が少しぶれる。すかさず妻の言葉が飛んでくる。

「ちゃんと前を見て運転しなさいよ。あなたと心中するのはいやですからね」

 私は妻とは違って、生まれつき、二つのことを同時にはできないしくみになっている。特にしゃべりながら何かをすると注意力が極端に落ちる。

***

匂いの話

 妻は匂いがよくわかる。花が咲いているとすぐにそばに近寄ってしげしげと眺めた後には必ず顔を近づけて匂いをかいでいる。

 季節の変わり目に、しまいこんでいた下着などを取り出すときには必ず顔を近づけて匂いをかぐ。わずかでも汗のにおいがするとただちに洗濯機に放り込む。

 私の体もよく顔を近づけて匂いをかがれている。少しでも汗臭いと下着ごと身ぐるみはがされることになる。

「パークゴルフで汗をかいてきたはずなのに汗臭くないね」

とか

「少し汗臭いよ。シャワーをあびたらどう」

「体調が少し悪いんじゃないの。歯磨きをしたらどう」

 妻の言う「少し」は「非常に」という意味で、「~したらどう」という提案は「~しなさい」という命令だと考えれば間違いはない。

 

 ある日サンプルで取り寄せた化粧水の匂いをかいて、ヨーグルトの上澄み液である「ホエー」が入っているという。電話をしたときに、そのことを会社の人に話すと

「よくおわかりになりましたね。実はそうなんです。でも今までそんなことをおっしゃったお客さんは一人もいらっしゃいませんでしたよ」

 といわれたと言っていた。

 知らない町を歩いていてもコーヒーの匂いを嗅ぎ当てて、コーヒー店にたどり着くことができる。

 その匂いを嗅ぐ力は訓練された警察犬並みだと思う。しかし本人は結構つらいものがあるとよくこぼしている。私について言えば、私のものを嗅ぎわける力は半ば壊れている。

***

 

柿盗人

 私たち夫婦は鳥取県の米子空港でレンタカーを借りた。出雲は蕎麦どころではあるし、そのうちどこか蕎麦屋を見つけて食べようということにして島根県の「八雲立つ風土記の丘」公園を目指して出発した。

 中の海に浮かぶ大根島に蕎麦屋はあったもののまだ昼時には早くて、準備中の看板が出ているばかりで入れなかった。公園へ行く途中にも、到着した公園の中にもこれといった食事をする場所もなく、見物を終えた後で、安来市にある足立美術館と尼子氏の富田城跡へ向かった。

 途中でそれまで調子よくしゃべっていた妻が急に怒り出した。

「私、死にそうよ。どこか自販機を見つけて止めて頂戴」

 ところが、城跡へ向かう道は山道が続いていてあいにく、コンビも自販機も何一つ見つからない。そのうち富田城のふもとまで来たとき、おいしそうな実をたくさんつけた柿の木に出会った。

「とめて頂戴」

 というと妻はさっさと車から降りて、一目散に柿の木に走りよった。

「やめなさい。みっともない。見つかったらどうする」

 私の制止も聞こえないかのように、柿の実をもぎ取ってかぶりついた。

 私には経験のないことだが、お腹がすいて低血糖になると目の前が暗くなって今にも倒れそうになるのだそうだ。

 あのときに食べた柿の実ほどおいしかったものはないとその後しばらくは思い出して時々言っていた。

***

 

草取り

  朝パソコンに向かっていると、妻が

「草が伸びてきましたよ。そろそろ草取りをしてください」

それでも黙って動かないでいると

「朝から結構な身分ですね。私はいろいろすることがあるんですからね。今日は午後から雨が降るそうですよ」

とやにわに掃除機をがたがた引っ張り出してきて掃除を始める。

 不承不承外に出て、雑草抜きを始める。私は花に詳しくないから、雑草と花の見分けがつかない。私は妻から日ごろ、

「あなたはタンポポと菊の違いもわからないんでしょう」

などというくらいのことはよくいわれている。

 しばらくして妻が私の仕事の成果を点検するために外に出てくる。抜いた雑草の中に妻の大切にしている花が紛れ込んでいるのを見つけると、

「あなた、この花はなかなか手に入らない珍しい花なのよ。なんということをしてくれたの。おおかわいそうに。代わりにあなたの首をひっこ抜いてやるから」

と花をせっせと植えなおす。

 私はあわてて自転車で近くのパークゴルフ場に出かけることになる。こうしたことが二、三回繰り返されて今では花壇の中の草は抜かなくてもいいことになった。というより抜いてはならないということになった。

***

 

口は災いの元

 ものは言いよう、言葉は使いようという。同じようなことを言っても言葉の使い方しだいで相手に与える印象は全く違ってくる。

 私たち夫婦の親戚に漁師のお嫁さんに行って今は一人で暮らしをしているおばあさんがいる。あるとき美容院に行ってセットも終わり鏡で後姿を映しながら美容師さんが、

「どうですか」

と聞いたところ

「ふん、こんなもんだべさ」

といったという。

 それ以後、その美容院へ行っても態度がどこかよそよそしくなり、肩をもむサービスもしてくれなくなったという。妻はこの話をおばあさん本人から直接聞き、私に教えてくれた。

 それを聞いて、私は思わずふ~んとうなってしまった。そしてその美容師さんに深く心から同情した。

「昔から照れやで、照れ隠しにとっさにこんな言葉が口をついて出でてきたんだろうが、それにしても言葉の使い方があるというものでしょう」

「あのおばあさんは昔は本の好きないい娘さんであったのに、まわりの漁師仲間のおかみさんたちと付き合っているうちに言葉遣いも変わって行ったのだろう」

などと私たちは話し合った。

 

 この話を聞いてから、私たちは夫婦二人っきりの時にはこのおばあさんの言葉を使わしてもらうことがある。

「これデパートの売り出しで買ってきたの。安かったのよ。どう似合うでしょう」

「ふん、そんなもんだべさ」

 夫婦二人っきりのときにしかこの言葉は使いません。

 先日このおばあさんから電話があっていろいろ話しているうちに

「わっちも言葉が悪いからね」

と言っていたと妻が言った。

***

 

友人

 昔の偉いお坊さんが友達にするのにふさわしい人の条件として三つを上げている。

1.ものをくれる人、2.医者、3.知恵のある人

 妻はけちではない。知っていて役立ちそうなことは、求められれば必ず教える。出し惜しみをしない。それに比べ私は生まれつき出し惜しみをするところがある。

 妻は医者ではないものの、昔の職業柄、薬や病気や体のことに詳しい。私や妻の友人たちが妻の適切な助言を得て助けられたことは数え切れないほどある。

 たとえば抗生剤と消炎剤の違い。抗生剤は病原菌を直接たたくのに対して、消炎剤は病原菌によってできた炎症を軽くする働きがあるという。

 まぁどうでもいいことだけれどこんな説明をこともなくしてくれる。

 妻は幅広い知識とそれ以上に生活する上での大切な知恵に恵まれている。私は限られ知識はあるかもしれないものの生きる上で大事な知恵が足りない。

 妻には友達にするにふさわしい条件がすべて備わっている。私はすべて不足している。妻は人を大事にするから人からも大事にされるし、友人も多い。私については言うまでもない。

 *

 二人の間にはまだまだたくさんの性格の違いがある。二人とも本が好きだという以外はほとんど共通点がないのに、よく今まで別れることもなく過ごせてきたものだと思う。たぶんだれもがみなそう思っていることだろう。

 私は妻に感謝し、妻を大切にしてもしすぎることはないはずなのに、私が妻にしていることといえば、時々台所で食器を洗うことぐらいのものだ。これはどう贔屓目に見ても不公平そのものだと思われるのだが、ありがたいことに妻はそんな風に考えている気配がない。

 私は妻に対して平身低頭して頭が上がらないはずなのに、妻をないがしろにすることがよくある。この世から去る前に「ありがとう」の一言ぐらい言っても罰は当たらないだろうが、私の性格からして、その一言がなかなか言えない。 

***

 

あれ知らない

 最近用事があって二階へあがったはずなのにその用事を忘れて、俺何をしに二階へ上がってきたんだろうと思うことがある。老化の第一段階の始まりといっていい。

 妻も一頃は私に「あれ知らない」とよく聞いてきた。「あれ」という代名詞で聞いてくるのが老化の第二段階かも知れない。

 「あれ」とは眼鏡であったり車や家の鍵であったり身近なものであることが多い。

「知らない」というと

「あなたは私のことを何でも知っていなくちゃだめじゃないの」

 と普段はあまり使うことのない妙な理屈を持ち出してくる。

 

 以前道東に旅行にでかけたとき、途中で私たちは私たちの「小屋」に泊まっていた。夜中になって急に妻が「あれ」がないといいだした。それがないと旅行は続けられないし、新しく買い求めなくてはならないという。

 もしかしたら札幌に忘れたかもしれないということで、急いで私たちは「あれ」を探して札幌に戻ることになった。ところが肝心の探しているものは札幌にも見つからず、夜道をまた「小屋」に引き返した。

 「小屋」に戻って念入りに探したところ、ベッドの隙間から「あれ」なるものが出てきた。結局札幌と「小屋」との間の片道60キロほどの夜道をおよそ二時間、眠気と戦いながら車を運転して往復したのは無駄だったということになった。

 *

 「あれ」なるものは身近なものが多いだけに、ちょっと何気なくおいてそのまま忘れることが騒動の原因になる。そこで最近は二人とも意識してものをおくようにしている。そのせいか妻は最近は探しものをして大騒ぎをするのが減ってきた。

 あるいは妻の場合、プールへ通って身体の筋力をつけているので、一緒に脳の方の筋力も鍛えられ、脳が活性化し忘れ物に強くなってきたためかもしれない。

***

 

眼鏡

 毎朝パークゴルフに出かけるのに必ず七つ道具のようなものを用意する。年が年だけに飲みものは欠かさずに用意するようにしている。

 先日、玄関を出るときになってから、薬を飲み忘れていることに気付いた。そこで手に持っていた飲み物を玄関の下駄箱の上において、室内へ引き返して薬を飲んだ。そのままパークゴルフ場へ着いて飲み物を飲もうとしたら持ってきたはずの肝心のその飲み物がない。

 家に帰ってみると飲み物はそのまま下駄箱の上に置いてあった。これに懲りてその次の日には飲み物だけは忘れないように心がけた。ところがいざ現場についてプレーを始めようとするときに、何か違和感を感じた。そしてすぐにその原因がわかった。眼鏡をかけていない。

 以前には眼鏡をしっかりかけているのに、

「眼鏡がない、眼鏡がない」

と探し回ったことが二、三回あった。それに比べればましには違いないものの、私の運転免許証には、眼鏡をかけないと車の運転はできないと明記されている。

 眼鏡がないと手探り状態になるというほどひどくはないものの、眼鏡をかけないと車の運転をしてはならないことには変わりはない。にもかかわらず、私は車を運転したことになる。

 家に帰って

「眼鏡を見なかったかい」

 と聞くと。

「どこかで見た記憶がある」

といってすぐに探し出してくれた。置いてあった場所を聞いてすぐにどうしてそこに置いたのかそのわけがわかった。昨日シャワーを浴びる時に置いて、そのままになっていたのに違いない。

 そうすると私は丸一日近く何一つ不自由を感じることもなく違和感もなく眼鏡をかけないで暮らしていたことになる。

 眼鏡に気をつけると、今度は万歩計を忘れたり、ハンカチを忘れたりして、何かかにか代わる代わる忘れている。この前も眼鏡がまた行方不明になった。四、五日見つからず、もうだめかとあきらめかけていたころ何気なく窓を開けようとしたら、机と窓の間に挟まっているのが見つかった。

***

 

万歩計

 私は軽い高血圧の症状があって薬も飲んでいる。医者には

「できるだけ歩くようにしなさい。できれば毎日一万歩歩ければいいのですがね」

といわれている。

 そこで万歩計を買うことにした。まずインターネットで万歩計を検索して、メーカー、値段、性能などを比較するためにプリントアウトした。

 安いのは五百円くらいから高いのは五千円程度のものまである。性能や電池の持ちもさまざまである。いろいろ検討して電池の持ちもよく、安くて、いろいろ性能も備わっているのに目星を付けた。

 今度は車であちこちの量販店に出かけて、一番安い店で購入することにした。わずか千円程度の品物なのに買い入れるまでに相当な時間と労力を使う。妻はあきれてみている。

「よくやるねえ」

 と口に出して言わないまでも、あの顔はそう思っていることをはっきり表している。

 私に比べて、妻は決めるのが早い。値段ももちろんだが、それよりもその品物が自分の気に入るかどうか。色や柄が自分の好みに合い、手持ちのものと組み合わせが合うかどうかなどで決める。

 いいということになれば、ためらわずに買い入れる。実際の値段はかなり安いのに手持ちのものと上手に組み合わせて着るので、

「どこで買ったの。高かったでしょう」

といわれたなどと機嫌よく話していることがある。

 妻は考え方が論理的で、決めるのが早く男性的なところがある。一方私は結論を出すのが非常に遅く、ああでもないこうでもないといろいろ迷った末に決める。決めた後でもこれでいいのかと思い悩む。非常に女々しいところがある。

 万歩計一つ買うにもたっぷり時間をかける。この性格は生まれて以来のものでなかなか直らない。

***

 

オウム返し

 年を取るとともに思考能力が衰えてきて、相手の言葉をそのまま繰り返すようになってきた。

「おはよう」

「おはよう」

「いい天気だね」

「うん、いい天気だ」

「調子はいいかい」

「うん、いい調子だ」

「この漬物おいしいね」

「うん、おいしい」

 こんなふうにエンドレスに続く。そのうち妻がキレて

「なんか、ほかに言うことはないの」

「うん、ない」

 *

 私たちの知人夫婦のところに妻が立ち寄ったときのその夫婦の会話。

「あいつ、本当にバッカだもんな」

「そうだ、本当にバッカだもん」

 妻はこのやりとりに激しく衝撃を受けたと帰ってから話してくれた。文章に表すとアクセントやニュアンスが省かれて単調などうということのない会話になってしまうのだが、妻はものの見事にこのやり取りを再現してくれた。

 それにしても、なんというわかりやすさ。なんという単純明快さ。なんという素朴さ。それ以来、このやり取りは私たち夫婦の間では形を変えながらひそかに流行っています。

「あの投手、また打たれたよ」

「バッカだもん」

(「バッ」の部分を特に強く力を入れて吐き出すように言ってみてください。すこし感じが出てきます)

***

 

ホームページ開設記

 数年ほど前、かなりの年になってから物好きにもインターネット上にホームページを開いた。まずホームページを開こうという気持が起ったのが偶然とも言っていいようなものだった。

 「石見国・邑智郷の民話と言葉」というタイトルでもわかるようにある一地方の民話と方言を集めたホームページなのだが、私自身それほど民話に興味があるわけでもなく、民話が身近な存在であるというわけでもなかった。

 私の手元にある多くの本の中からある日たまたま私の故郷の民話集を手に取ったことからことは始まった。しかもこの民話集が印刷されたのは三百部ほどであり、配布された場所も私の故郷の地に限られていた。この民話集が私の手元にあることそのものが偶然といってもいいようなものであった。

 さて、この本を読み出すとこれがまた面白い。特に故郷の言葉が耳に聞こえるような感じで懐かしく夢中になって読んだ。ところがその本はガリ版刷りで作られたもので相当読みづらい。そこで、

「面白い民話だから、自分で読むのに読みやすいものしてみたい」

 ということで、この民話をパソコンに入力しプリントアウトして、手製の小冊子に仕立てた。せっかく作ったことでもあるし、身近の人に読んでもらおうと考えて、出来上がったものをあちこちに配ったところ、私が予想していた以上に好評だった。そこで、今度はもっと多くの人々に読んでもらいたい、それにはこれをインターネット上に発表したらどうだろうと考えるようになった。おかげでさまざまな苦労を背負い込むことになった。

 まずホームページ作成にとりかかる前に、民話集作成にかかわられた方々の了解を取り付けた。その了解を得てからいよいよホームページ開設の仕事に入った。

 さて仕事を始めて、まずひっかかかったのが「HTML」とか「プログラミング言語」と呼ばれるものである。これは私にとって初めて聞く言葉であった。実は普段私たちがパソコンで作る文章をインターネット上で発表するのには、パソコンで作った日本文の上にさらに別の言語である「プログラミング言語」と呼ばれる言葉のルールを付け加えてやらないと、せっかく文章を作っても、作った文章をそのままインターネット上で発表できるようにはならない。そのことがわかっていなかった。

 そこでその「プログラミング言語」のルールを勉強することから始めようとしたのだがこれが実に難解極まりない。今でこそ少しはわかってきたものの「拡張子」「ウエブ」「リンク」などまったく意味の判らない言葉が次々と現れてくる。

 しかし世の中は捨てる神あれば拾う神あり。普通の日本文をインターネット上に発表できるような文章に自動的に書き換えてくれる自動翻訳機能を「ワード」というワープロソフトが持っていることに気づいた。そこでこれを使うことに決めた。

 その後プロバイダーとの折衝も行い、ホームページ作成作業をはじめてから開設までは二週間ほどで割と短期間だったものの、その後ほぼ一年間は、民話の中に出てくる方言を集めたり、イラストを入れたり、故郷を紹介する写真を集めたりして、延々とさまざまな手を加え続けた。まさに苦難の連続といって日々であった。話せば長い物語になるので省略。

 ただ元の民話集には民話の切れ端とも言うべき短い話もたくさん集められているのだが、それらはこのホームページでは取り上げなかった。

***

 

掲示板への書き込み

 自衛隊のイラク派遣に関して

「自衛隊が駐屯している場所が安全な場所なんです」

などの名ぜりふを残した有名な首相が在任中のころの話である。

 私はそのころ自衛隊のイラク派遣は正しいかどうか、首相の靖国神社参拝は憲法違反かどうか、A級戦犯は靖国神社に合祀されたのは正しいかどうか、第二次世界大戦はしないでもすんだかどうか、日本軍の中国侵略は正しかったかどうか、昭和天皇に戦争責任があるかどうか、南京事件はあったのかなかったのか、慰安婦問題を話題にすることは国益を損うことになるかならないか、沖縄戦での民間人の集団自決は強制されたものかどうか、当時の指導者達に戦争責任を問うことが出来るかどうかなどなどの問題についてインターネットの掲示板にさかんに書き込みをした。

 私がどのような立場に立って書き込みをしたのかその例を一つ取り上げると、私は「昭和天皇には戦争責任がある」と考える立場であった。このことについて皆さんはどうお考えでしょう。

 その他の問題に関して、私の立場がどうであったか、どんな書き込みをしたかはともかく、私にとってはそのころは灰色の脳細胞を刺激され続ける毎日だった。

 それに関連して新聞の切り抜きも盛んに行ったし、さまざまな資料も集めて、ノートもとった。おかげで第二次世界大戦時の日本軍の実情や靖国神社の歴史的な経過などの多くのことを知ることができた。岸元首相と統一教会の接触があったことがわかるなどの意外な事実も知ることができた。

 当時は今にも憲法九条は改正され自衛隊が晴れて軍隊として認知されるのも間近かだとかなりの評論家や学者がはしゃいでいたころである。「国民の歴史」「国民の道徳」などの書籍が店頭を飾っていた。

 そのころ張り切っていた人々は今はどうしているのだろう。最近はさっぱり名前を聞く機会がない。それに軍事にはどの程度金をつぎ込めば妥当な線だといえるのだろうということを今もって疑問に思う。

***

 

予定表

 私の予定表は最近は空白だらけでほとんど予定表の意味を成さない。それに反して妻の予定はカレンダーにびっしり隙間なく書き込まれている。私は妻の予定表など丹念に見ることほとんどしないから、

「私、今日は8時から車を使いますよ。パークゴルフ場へは自転車で行ってくださいね」

 などといわれて、内心、えっ、そんな予定あったのかな、と思うことがある。

「今日は、10時に車で送ってくださいね」

といわれて、実際に車を動かし始めてから、

「どこへ行くんだったけ」

などと聞き返すと、

「あなた行く先も知らないで車を動かしているの。前から頼んでいたでしょう。あなたぼけたんじゃないの。ちゃんと覚えておいてくださいよ。カレンダーにも書き込んであるでしょう」

 と言葉がとがってくる。

 あるいは行く先を聞くのがおっくうで適当に見当をつけて車を動かすと

「あなた行き先が違うでしょう。どこへ行くの」

「あ、そうだった。そうだった」

 などと話しながらそれとなく行き先に見当をつけたり思い出したりして、車の走る向きを変えなにごともなく目的地にたどり着いたりする。

***

 

憧れのハワイ航路

 憧れのハワイ航路という歌が戦後まもなくのころ大ヒットした。私にも無理なく歌えるので自転車に乗りながら口ずさむことがある。一番の歌詞は次のようになっている。

「晴れた空 そよぐ風 港出船のドラの音(ね)愉(たの)し

 別れテープを笑顔できれば 希望(のぞみ)はてない遥かな潮路

 ああ 憧れのハワイ航路」

 この歌が大流行したのが昭和二十三年で戦争の記憶がまだ生々しく残っているころだった。

 わずか三年前までは鬼畜米英ということで、日本国民は一億火の玉になって戦えと叱咤激励されていた。本土決戦に備えて、一般国民は戦うにも武器はなく、鉄砲の代わりに竹やりで立ち向かえということで竹やりを作った。わら人形を米英の兵隊に見立てて、それを竹やりで突き刺すという言ってみれば戦国時代さながらの訓練がなされていた。

 その日本で敗戦後わずか三年で、この「憧れのハワイ航路」が大流行するとはどういうことなのだろう。

 改めて一番の歌詞を見直してほしい。ハワイといえば日本軍がこの島にある真珠湾を攻撃して日米開戦のきっかけになった島である。よりによって、そのハワイへの船旅が「憧れ」であり、「希望はてない遥かな潮路」であるとはどういう心境なのだろう。

 昨日の敵は今日の友という言葉もあるものの、手のひらを返したようなこの変わり身の速さはなんとも説明しがたい。じっくり振り返って考えてみてどこに問題があったのか考え、それをもとに新しい進路を設計するという習慣が私たちにはもとからかけているのかもしれない。

 己の組織を守るために、仲間内には優しく、現場には厳しくし、国民を戦争に駆り立て、膨大な犠牲を自国民や他国民に強い、結局国を滅ぼしてしまった軍の上層部や為政者たちの責任がうやむやにされたことが納得できない。

 あるものは何事もなかったかのようにそ知らぬ顔をしていつの間にか政界に復帰し、あるいは高級官僚としてそのまま居座り、そのことが戦後の恥知らずな政治の伏流になっていった。昭和天皇は退位することで、自ら率先してけじめをつけるべきであった。

 このように考える人は当時たくさんいたのになぜその考え方は生かされなかったのだろう。

 天皇は敗戦後わずか一年で人間宣言をし、それまでは神であった天皇は一人の人間になってしまった。三島由紀夫は天皇のこのような行為は神である天皇のために死んでいったあまたの英霊に対する重大な裏切りであると考えていた。

 三島はこれこそ日本人のあいまいさの極みであると考え日本人に愛想が尽きて自殺したのかもしれない。

 *

 柳田國男は座談集「日本人」の中で次のように述べている。

「日本では島国でなければ起こらないような現象がいくつかあった。いつでもあの人たちにまかせておけば、われわれのために悪いようなことはしてくれないだろうということから出発して、それとなく世の中の大勢をながめておって、皆が進む方向についていきさえすれば安全だという考え方が非常に強かった。

 いってみれば、魚や渡り鳥のように、群れに従う性質が非常に強い国なのである。そのために相手が理解しようがすまいがむとんじゃくに、自分の偉大さを誇示するために難解なことばをもって、ややすぐれた者が、ややすぐれない者を率いる形になっておったのでは、真の民主政治がいつまでたってもできる気づかいはないのである」

 *

 最近原発事故のニュースが新聞を賑わわさない日はない。しかしその原発を安全だといい積極的に推し進めた人たちは今何を考えているのだろう。事故の経緯をしっかり検証しておかないと、わたしたちはこれから先また同じ間違いを繰り返すかもしれない。

***

 本の山

 私も妻も身辺にかなりたくさんの本の山がある。

 私は最近、昔読んだ本をもう一度読み直している。当然といえば当然だが自分の読みたい本がそろっているので、図書館で本を探すのと違い、すぐに読み直したいという本に出会うことができる。

 それに昔読んだ本を読み直すと必ず新しい発見がある。私は一応本をテーマごとに整理して並べ、本の背中の題字を眺めているだけで、あまり読んでいなくてもその本をすべて理解しているような錯覚に陥り、幸せな時間をすごすことができる。

 確か作家の大宅壮一も全集などを本棚に並べてその背中を眺めるのを楽しみにしていたという風なことを聞いた記憶がある。

 妻について言えば、本は身辺のあちらこちらに比較的乱雑に散らかっていたり、適当に積み重ねられていたりする。ところがその本の山の中から捜し求める本を見事に一発で選び出すことができる。

 しかも私と違って、読んだ本の内容をしっかりと覚えている。それに本を読むのが早い。若いころには内容が硬くない本であれば、一晩に四、五冊は読んでいた。

 *

 私は昨年古典の中から面白そうなものを選んで自己流に訳してみた。そのままにしておくのも残念な気がしてインターネット上に開設したホームページ「石見国・邑智郷の民話と言葉」に追加して掲載した。

 古典を訳す上で妻とあれこれ話し合ったことが大いに参考になった。特に紫式部が自分の日記の中であれほど清少納言のことを悪く書いたその背景がよくわかり大変助かった。

 その際、能の台本を読むことがあった。能は死霊を慰めるための舞であり舞楽から発展したものだとか能は幽玄の美を表しているなどといわれている。能には全くの素人である私にも能舞台の緊迫感はそれなりにわかる。

 しかし能の台本だけ読んでみると、だいたいは初めに旅の僧が出てきて、過去に恨みを抱いて死んだ人の亡霊に出会い、その亡霊が自分の過去の華やかな活躍を語り、盛り上がったところで突然のように掻き消えてゆくという風な筋書きになっている。始めちょろちょろ中ぱっぱでこれからかなと思うところですうっと終わってしまう。能の台本だけ読む限りでは能のよさがよく伝わらない。

 しかしこのことは他の劇にもいえることかもしれない。

***

 

「わしが」族

 私には九歳年上の兄が一人いる。九歳も離れていると小さいころに一緒に遊んだという記憶は全くない。

 物心がつくころは戦時中で兄は学徒動員で駆りだされて、家とは離れた場所で暮らしていた。敗戦後は家に帰って農業の手伝いをしてたが、そのころ私は本ばかり読んでいて、あまり農作業の手伝いには熱心ではなかったので、兄によく耳を引っ張られて手伝いをさせられた。

 小さい頃の兄の記憶といえばそれくらいのものである。

 その兄がしばらくぶりに電話をよこし、最近勲章をもらいに東京へ行ってきたと自慢した。私は何をするにも妻にくっついて歩きたい濡れ落ち葉の「わしも」族だとすれば、兄は何でも自分で仕切らないと気がすまない「わしが」族だといえる。

 兄は村の顔役でありよく相談されるし、何にでも「わしが、わしが」と顔を出す。県庁でもどこでも呼ばれてよく顔を出す。同じ村落の結婚式の仲人役は全部おれが頼まれたともいっていた。

 だからこそ勲章をもらいに東京まででかけるという栄誉も手に入れることができたのだろう。それくらいの心構えがないと家の財産を減らさないように努め、それなりの家の体面を保つことなどとうていできないのだろうと思う。

* 

 私の息子の結婚式で、私がのほほんと座っていると、兄に

「お前の息子の上司に挨拶に行け。今すぐ」

 とささやかれてあわてて立ち上がった。私は息子が栄進しようがしまいがそれほど興味はないのだが、兄にとっては私以上に私の息子の先行きが気になる様子だった。私が挨拶をし終わって席に戻ったとき兄は満足そうな顔をしていた。

 父親として息子の上司に挨拶をするのが当たり前のこととはいえ、私はどうもこうしたことを億劫に感じる。私は何事もやらなくても済むことはしないでおこうとする。特に面倒なことほど先送りにする傾向がある。そのことでよく妻にも注意されている。

 *

 私は父が亡くなる前に父の求めに応じて、父が亡くなっても財産分与を求めないという念書を書かされた。父が亡くなった後にも改めて法的に有効な書式にのっとって財産相続を放棄する旨の念書を書かされた。

 要するに私は「実家の財産を相続する権利を放棄します」という趣旨の書類を念入りに二度も書かされたことになる。仕方のないこととはいえ、そこまでするかという感じは持ったものの、それほど遺産相続に執着してもいなかったので、たいした思い入れもなく用意された書類に印を押した。

 私は今は実家から遠く離れた地で暮らしているのだが、なぜ実家を離れる決心をしたのかそれは今は言えない。

***

 

アリの行列

 今から数百年前鎌倉時代の末ごろ書かれた「徒然草」の中に、人間の営みをアリの行列に例えた話が出てくる。人はアリのように一日中東へ西へ、北へ南へ歩き回っているというのである。人間の営みをアリの行列に例えるのは昔も今も変わらない。

 今年の夏もアリが家の中を行列を作って歩き回る年中行事が始まった。例年のごとく妻は眼の色を変えて熱湯の入った薬缶や薬剤、洗剤などを片手にアリの撲滅に乗り出す。私が

「アリにも生存権があるんじゃないの」

といったら、

「何を寝ぼけたことを言っているの」

というような顔をされた。しかし、おいしいものを食べるときには

「アリさんに聞かれたら困るから黙って食べましょう」

などといっている。

 おしゃかさんの教えによれば、人間は六道を輪廻するからして、来世はあるいはアリに生まれ変わるかもしれない。今部屋の中を歩いているアリはあるいは私のご先祖様の生まれ変わりかも知れない。

 私たちは自分の都合により、ある生き物に対しては手厚い保護に乗り出し、ある生き物は育ててはかたっぱしから食用にしている。食べられるために飼育されている生き物にとってはいい迷惑だろう。かく言う私もかっては地上に生まれ生きていた生き物の肉をごく普通に食べている。ご先祖様の生まれ変わりを食べ物として頂いているのかもしれない。

 おしゃかさんは私のこの矛盾した言動をどうお考えになるだろう。間違いなく地獄へ行くのだろうか、それとも親鸞上人がおっしゃったように阿弥陀如来を心から信じさえすれば如来に救われて、死後は極楽浄土へ生まれ変わることに決まっているのだろうか。

***

 

漢字の由来

 最近ある漢字の語源に関する講演会に出席した。講演が終わって、司会者の何か質疑はありませんかの言葉に促されて次のような質問を三つほどした。

 *

1.今までの説では「口」は人の口を表し、声や言葉を表す意味に使われるようになったといわれている。ところが白川静説によれば「口」は人の口というよりも、神への祈り文(祝詞・のりと)を入れる器の形を表すということであるが、すべてそうであると言い切れるかどうか。

2.白川静の「口」の語源に関する説は本場中国ではどう受け止められているのか。

3.最近の漢字はあまりにも簡略化されて、偏や旁(つくり)がもとの漢字では違っていたにもかかわらず同じ形になったものがある。点一つ、線を一本増やすことで漢字本来の意味を取り戻すことができるのであればそのようにはできないのか。

 *

 答えは次のとおり

1.そうとも言い切れない。従来の説のほうが正しいと思われる場合がある。たとえば「名」

 白川説:「夕」は肉月の二つの「丶」の内の一つが省略されたもの。「口」は祝詞の入れ物。子供が生まれて一定期間が過ぎると、祖先を祭る廟(みたまや)に祭肉を供え、祝詞をあげて子供の成長を告げる儀式を行うが、そのとき名をつけたので「な、なづける」という意味になった。

 従来の説:「夕」は夜の意味。「口」は人の口を表し、「言う」を意味する。暗いときに自分の名前を告げる意味を表す。この説のほうが正しいと思われる。

2.白川説は本場中国では「敬して遠ざける」風に扱われている。要するに「なるほどそういう考え方もあるのか」程度の扱いしか受けていない。

3.確かに仰るとおりである。たとえば「器」。中央にある「大」はもともとは「犬」であったのが右上の点が省略されて「大」になってしまった。しかし、「犬」のほうが「器」の意味を正しく表す。しかし、文部省は元に戻さないでしょう。

私:元に戻すように働きかけてください。

講演者:そのようにがんばります。

***

 

労働かボランテアか

 最近ある団体に所属しその団体の斡旋で軽作業をすることになった。五時間ほど働いて私は五千円ほどの収入を得るはずであった。後日、手元に配達された支払い明細書を見て私は「ふぅ~ん」とうなってしまった。手取りが予想していた額の約半分ほどであった。妻は 

「いろいろ、経費がかかるのよ。ボランテアだと思えばいいのよ」

 とこともなげに言った。

 軽作業とはいえ結構足腰に来ていたので、少々がっかりすると同時に改めて世の中の仕組みに思い至り、私は感心した。確かにそうである、独立採算制をとる団体としては、組織を維持するにはそれなりの経費がかかる。宣伝も必要だろうし、専属の職員の給料も保証しなくてはならない。手取りが半額になるくらいで、驚いたり感心したりする筋合いはないのである。

 大学時代のアルバイトでは求人票に記載されている賃金はそのまま天引きされることなく支払われた。それもそうである。必要経費はほとんどかからないし、職員の給与も国家公務員として保障されている。

 たかが軽作業というなかれ。先輩に教えられながら一緒に仕事をしたのだが、やはり先輩の仕事ぶりは要領がいい。かゆいところに手が届く仕事ぶりで、お客との応接にも卒がない。私はなるほどと納得いくところが多かった。

 

 それにしても私は今年の冬は何を思ったのか、体力を維持するために、体育館に通うのを欠かさなかった。その効果がこの軽作業という思わぬところでも発揮されて私は喜んでいる。

 ***

運転免許取得

 妻は五十歳を過ぎてから運転免許を取得した。年の割にはといえば失礼だろうが、ともかく一発で受かって周りの人に感心された。免許を取得した後も市内の中心部の冬の凍った道を震えながら運転しながら職場に通った割には事故の一つも起こすことなく過ごしてきた。

 当初はちょっとしたカーブを通過するのも慣れなくて苦労したのに今ではすいすい運転している。私が当然のように車の列が途切れるのをゆっくりのんびり待って、おもむろに車を動かすような場合でも合間を見てさっと列の隙間に入ってゆく。

 私は妻の運転する車の助手席に座るのは抵抗がある。しかし妻はせっかちな割には事故を起こさないし、私はのんびりしているというよりもぼけーっとしているので昔は人並みに事故を起こした。

 車の運転にはせっかちのほうが向いているのかもしれない。ただ、バックで車庫に車を入れるのは大いに苦手にしていて、これだけは今も私の役目になっている。バックで車を動かすとハンドルを右に切っていいのか左に切っていいのかわからなくなるのだそうだ。

 

 その妻に昔ナビゲーターを頼んだときのこと、しきりに道路地図を逆さにしてみている。街角で車の向きが変わると持っている地図の向きも変わる。とてもナビゲーターを頼める様子ではなかった。

 ときどき妻から、今まで行ったことのない初めての場所へ車で行くにはどのように走ったらいいかその道筋教えてほしいと頼まれることがある。その際、地図で示すだけでなく、時には前もって実際に車を運転しながら走る道を教える。

 そのときの妻の道筋の覚え方はどうも地図として覚えるというよりも、要所要所の目印になる店や建物を覚えていてそこで車の方向をどちらに変えたらいいかという風に覚えているらしい。道に迷ったときでも妻は

「この道は一度走ったよ。あの店に見覚えがある」

などという。私は小さな店などにはあまり注意を払わないので驚くことがある。

 妻と私のというより男と女の思考回路の違いを感じることがある。

***

 

虫の知らせ

 遥か遠くに離れている人同士の気持ちが通じ合うことがある。意味がすこし違うけれども、虫の知らせとか胸騒ぎと言う言葉もある。共時性と言い表されることもある。

 今昔物語の中に次のような話が出ている。

 平安時代中期の学僧源信僧都は母親から学問に励みそれほどの用もないのに気軽に家に戻ってはならないと、きつく言われていた。しかしあるとき胸騒ぎを感じ、母親には止められているのに急いで修行先から故郷に戻ってみると母親は息を引き取ろうとするところであった。僧都は母親に極楽の有様を説いて聞かせ母親を心安らかにあの世へ送り出すことができたというのである。

 *

 昭和30年代頃の列車はまだ石炭を焚いていて列車がトンネルの中に入ると窓から黒い煙が中に入り込み、顔や衣服が黒くなった。座席も背もたれは硬い板に布を張っただけのもので、今、ローカル線を走っているジーゼルカーの座席によく似ていた。

 私が大学に通っていた頃は、夜の十時ごろに列車に乗り、この硬いいすに座ったまま仮眠を取りながら帰省した。ほとんどの人は寝台車を利用せずに、すしずめの状態で、三等の座席に座ったままで眠り、中には通路や網棚の上に寝ている人もいた。私はうとうとしながら夢を見た。

 私は実家に帰っていた。玄関を開けて

「ただいま」

 というと、迎えに出た父が

「おう、よく帰ったな」

 といったところで眼が覚めた。ただこれだけである。ただ、実際に自分が家に帰って玄関の戸を開けたような感じがした。自分の手に玄関の戸を開けた感触が残っていた。眼が覚めて列車のいすに座ってうたた寝をしているだけなのが信じられない気持ちだった。

 家に帰ってこの話をすると、父は

「おれも、お前が帰ってきて、玄関を開けて『ただいま』と言う夢を見た」

 といった。私は驚きもし、なんとなくうれしく感じた。

***

 

魚がすき

 妻は魚が大好きである。小さい頃は猫と呼ばれていたといっていた。焼き魚を食べるのに骨と身をきれいにはがして食べることができる。数日魚を食べないでいると、無性に食べたくなるらしい。

 魚に対するよしあしの判断基準は、その魚が食べられるかどうかにかかっている。

 子供が小さい頃私たちは水族館に見学に出かけた。ある水槽の前に立ち止まり妻が

「あら、おいしそう」

 といった。しばらくして気がつくと子供たちがそばにいない。あたりを探すと離れた場所で私たちとは親子ではありませんという風な様子で立っていた。

***

 

縫い針に糸が通せない

 久しぶりに妻がぶつぶつ文句を言っている。近づいてみると縫い針に糸を通すのに悪戦苦闘している。私がその仕事を引き受けたものの簡単にはできない。第一針の穴がかすんで見えない。そこで老眼鏡をかけたもののうまくいかない。

 糸通しを針箱のそこから探し出したものの、そもそも糸通しの先が針の穴に通らない。老眼鏡をかけた上に天眼鏡をかざして何とかうまくいった。

 昨日はできたことが一つずつ今日はできなくなってゆく。昔はこともなくできたことがなかなかできない。わずか六十センチの段差を飛び降りるくらい分けなくできたのに、今では片手を突いて、掛け声をかけ、気合を入れてやっと飛び降りることができる。

 妻は

「昔すっとできたようなことがだんだんできなくなる。これが老いることなのね」

と感に堪えないという風に言った。

***

 

内なる自分との戦い

 ある新聞の日曜日の特集で国枝慎吾という車椅子のプロテニスプレーヤーについての記事を読んだ。彼の言葉を要約すると、

 曰く、競技に強くなるために次のようなことを自分に言い聞かせている。それは

1.俺は強いんだと自分に言い聞かせること。

2.ライバルは対戦相手ではない、内なる自分だ。

* 

 実は私はパークゴルフをやっている。実力は中の上というところである。たまに上位に顔を連ねることがある。パークゴルフは年寄りが体力維持のためにする遊びにすぎないというなかれ。記録会に参加すればすこしでもいい成績を残したいとがんばる。

 しかし今年は今ひとつ熱が入らない。自分の実力に限界を感じて、これからは記録にこだわるよりも楽しみながら体力維持のためにのんびりやるのが年にふさわしいと考えていた。

 そんなときに何気なくこの記事を読んだだけに、私は深く納得するものがあった。もう少しがんばってみよう、頑張れるかもしれないという気持ちになった。

 記録のよし悪しはメンタルな面が強く影響してくる。やるぞという前向きの気持ちを失わずになおかつ冷静でいられるかどうか、言い換えれば、どれだけ自分との戦いに勝てるかどうかがスコアに直接響いてくる。そこらあたりの気持ちの持ち方について的を得た言葉が書かれているのでその部分を引用してみたい。

 *

「スランプから抜け出せたのは発想の転換だった。米国での試合中に突然、対戦相手ではなく、内なる自分との戦いに目覚めた。まだ自分は未熟なんだ、もっと強くなれる。そう思うことで、練習でも一球打つごとに喜びを感じるようになった。精神面で殻を破った瞬間だったと思う」

「オレは最強だ。いまもラケットやマウスピースに、そう書いてある。世界一に導いてくれた呪文が、いつも眼に見えるところにある。さすがに人前で叫んだりすることはないが、勝負どころでは心の中で唱える」

「今日は昨日の自分より強くなる。今日の自分より、明日は強くなる。ライバルは一日前の自分だ」

 *

 最近車の中でラジオを聴いていたときつぎのような話が耳に入ってきた。

 近頃東京のある下町で街を活性化するためのイベントの一つとして日本手ぬぐいを作ったそうだ。その手ぬぐいの真ん中には「負けない」とプリントされているだけである。

 ただ普通の手ぬぐいと違って長さが半分しかない。ちょうど週刊誌を広げたくらいの長さしかない。いってみれば大き目のハンカチの横幅を少し広げたようなものである。

 これはいったいどういうことか。その心は頭にも「巻けない」、首にも「巻けない」。

 私はこの話に下町に住む人の江戸の昔から受け継がれてきた何事もしゃれのめす心意気を感じた。そしてがんばってみようという気にさせられた。

***

 

隠された十字架

 梅原猛の「葬られた王朝」と「隠された十字架」を読んだ。「葬られた王朝」は出雲大社について書かれたもので、「隠された十字架」は法隆寺について書かれたものである。

 その趣旨は出雲大社と法隆寺はどちらも怨霊を封じ込めるために造られた建物であるということにある。出雲大社にはオオクニヌシの霊が封じ込められ、法隆寺には聖徳太子一族の霊が封じ込められていると述べている。

 梅原猛は哲学者として出発し、もともと歴史学者ではないので、専門の歴史学者にはあまり言えないようなことを大胆に提案し、しかも説得力がある。歴史学者たちの間では梅原説は積極的には支持されていないように思える。

 しかし梅原説に疑問を抱いたり反対するのであれば、梅原さんが詳細に調べた資料や建物、仏像などについて、梅原さん以上に資料を読み込み建物や仏像を調べたうえで、一つ一つ反論していかなくてはならない。だがそれはたぶんできないだろう。

 *

「隠された十字架(法隆寺論)」(新潮社)で述べられている要旨は次のとおり。

 聖徳太子の子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)は天皇の位につく有力候補であったが、蘇我入鹿や巨勢徳太(こせのとこた)、大友長徳(ながとこ)らに攻められた。山背大兄はいったん立てこもっていた斑鳩宮(いかるがのみや)を焼いて生駒山に逃れたものの、戦いに利あらずと悟り父聖徳太子の建立した法隆寺に戻ってその中で一族ことごとく自害した。

 巨勢徳太や大友長徳は軽皇子(かるのみこ)の近臣であり、その他の理由もあり、事件の背後には軽皇子や藤原氏の祖先である中臣鎌足がいると考えられる。後に軽皇子は孝徳天皇として即位し、巨勢徳太は左大臣、大友長徳は右大臣、中臣鎌足は内臣の要職に就くことになる。

 この法隆寺はその後天智天皇の時代に全焼する。その後山背大兄を自害に追いやったものたちに不幸が続き、その原因は聖徳太子とその子山背大兄一族の怨霊の仕業と考えられた。そこでその怨霊を鎮めるために法隆寺(西院伽藍)が再建された。

 しかしその後も山背大兄一族の怨霊によると考えられる変事が相次いだために、さらに法隆寺に隣接している斑鳩宮の跡地に夢殿(東院伽藍)が建立されることになった。それらの建物自体およびその中に安置されている仏像などには普通考えられない異様な姿が見られる。

 *

 それらを列挙すると、

1.法隆寺の中門は四間で、中央に柱があり、人や霊魂が出入りするのを拒むような形になっている。

 このような造りは出雲大社にも見られる。出雲大社社殿は「田」の字の形をしており中央に柱がある。神様の出入り口がない。当時建てられた他の寺の門は三間か五間になっていて、中央に柱はなく、人や霊魂が自由に出入りできる。法隆寺の中門のような例は他にはない。

 他にも金堂の一階は五間であるのにもかかわらず、二階部分は造るときの不便を承知でわざわざ一間減らして四間にしている。五重塔の最上階の五層部分が二間なっている。偶数の間口を持つ建物はその建物からの出入りを禁止する造りだといえる。

2.再建当時の法隆寺では回廊が金堂と五重塔を取り囲んでおり、回廊の東側、北側、西側には僧坊があり、南側には中門があって固く閉ざされていた。霊魂が外に出ることを厳しく監視しているような造りになっていた。

3.講堂は僧侶が国家鎮護のために祈ったりお経を読んだりする重要な建物であり、普通講堂のない寺は考えられない。にもかかわらず、再建された法隆寺には当初講堂がなかった。それでは不便なので、後に平安時代になってから、それまでの食堂(じきどう)として使われていた建物を改造して講堂として使うことにした。

4.金堂の中央にある釈迦如来像は聖徳太子を模して作られたと考えられている。この釈迦如来像釈の眉間の中央にある白亳に小さな釘が打ち付けられている。如来像が作られた当初はこのことは白亳に隠されてわからなかったのだが、後に白亳が剥落したためにこのような異様な事実が明らかになった。

 仏像の眉間の中央に小さいとはいえ釘を打ち込むのは普通のことではない。

5.釈迦如来像の左右にある脇侍は銅の板で作られていて中空になっている。そして背中の部分には脇侍の頭部から膝下あたりまで達する、人の形をした木の板がはめ込まれており、下にずり落ちないように頭の部分、胸の部分、膝の部分の三箇所に鉄製の横板が張られ脇侍の体とつながれている。

 その人形の頭の部分に釘を打ち込み背後の光背を支えている。また人形の胸の部分にも釘が打ち込まれている。この木の板でできた人形は奈良時代に流行した呪いの人形を思わせる。(発掘された呪いの人形にも両眼と胸の部分には釘が打ち込まれた穴が開いている)脇侍のこのような仕掛けは、聖徳太子一族の怨霊が外に逃げ出さないようにするための細工だと思われる。

6.金堂の釈迦如来像の向かって右側には薬師如来像があり、左側には阿弥陀如来像があるがそれぞれの光背は直接釘でそれぞれの仏像の頭部に打ち付けられている。

7.五重塔の中には釈迦の臨終の場面、弥勒菩薩の浄土を表す場面、地獄の場面など五つの場面を表す土でできた塑像群が安置されており、これらの場面についても梅原さんは詳しい説明を加えているがここでは省略。

8.夢殿(東院伽藍)の中には救世観音が安置されている。

 救世観音の着衣は北魏様式にのっとって形どおりに彫られているもののその顔や手足は生々しく、生前の聖徳太子の姿を模して作られたと言われている。

 救世観音は普通左手に宝珠を持っているのだが、夢殿の救世観音は舎利瓶(骨壷)を持っている。観音の体は中空になっていて前面の人目に触れる部分のみが仏の姿に作られており、人目に触れない後ろの部分、後頭部、背中、尻、ふくらはぎなどの部分は作られていない。仏の姿とは思えない。むしろ怨霊の姿といってもいい。救世観音の光背や救世観音のかぶる宝冠には火焔模様が彫られていて救世観音というより怨霊の姿をした聖徳太子が一人燃え上がる炎の中に立っている姿を思わせる。

 普通、仏像の光背は支柱に取り付け、仏像の後ろに仏像とは少し離して置かれる。ところが夢殿の救世観音の光背は釘で直接救世観音の頭部に打ち付けられている。このような無礼なことは当たり前のことではない。

 明治時代までは救世観音の全身が白い布で巻いてありその布を取ると寺が崩れると恐れられ、人目に触れることはなかった。明治政府に雇われた美術史家であるフェノロサが、言い伝えを無視して初めて白い布を取り払いそれ以後人目に触れることになった。

 救世観音そのものが呪いの人形であり、怨霊が逃げ出さないように頭部に光背を釘で直接打ちつけ、全身を白い布でぐるぐる巻きにしたと考えられる。

 言い伝えではこの仏像を作った仏師は仏像を作ってまもなく亡くなったという。

9.737年(天平9年)天然痘の流行などにより藤原四兄弟が相次いで亡くなった。このことは聖徳太子一族の怨霊が再び祟りをなすようになったのだと考えられ、僧行信は光明皇后に聖徳太子一族の霊を慰め封じ込めるために、夢殿を造りその中に聖徳太子を模した救世観音を安置するようにすすめた。その行信の坐像が、太子の霊が逃げ出すのを監視するかのように夢殿の中に置かれている。

10.一年に一度聖霊を開放し慰める聖霊会が行われる。これは死者の葬礼の儀式であり、怨霊を鎮めるために行われる。みこしを担ぐ八部衆は冥土の住人である。

 この聖霊会では蘇莫者(そまくしゃ)と呼ばれる太子の怨霊の依代(よりしろ)が舞を舞う。蘇莫者の仮面はまさに亡霊の顔そのものである。蘇莫者とは「蘇我の莫(な)き者」の意味で蘇我一門(蘇我入鹿、蝦夷、聖徳太子、山背大兄一族)の亡霊を表すと考えられる。

 *

 これらのことから梅原さんは聖徳太子とその子山背大兄一族の怨霊を封じ込めるためにまず法隆寺(西院伽藍)が再建され、それでも足らず後に夢殿(東院伽藍)が建立されたと考えている。私は梅原説に賛同するものですが、皆さんはどうお考えでしょう。

 これは余談ですが、夏目漱石は鬱の症状がひどいときに、悪魔を払うのだといって玄関に釘を打ち付けたりしたそうだ。

 ***

どういう風に本を読むか

 私が本を読む時にはもちろん本の最初から丹念に一ページ一ページ読むことも多いのだが、そうではなくて先ず面白そうなところを詠み、だんだん本全体に及んでいくという風に読むことがある。つまりジグソーパズルのような読み方をし、最後に頭の中で一冊の本の形にまとめてゆく読み方もよくする。

 推理小説など結論の部分から読んで最初に戻ると言うようなこともする。もちろん本にもよる。

 読む本もさまざまな分野のものを同時進行で読むことがある。今、私の机の上には三島由紀夫の本から宇宙の始まりに関する本、柳田邦男の本、万葉集、日本書紀と古事記、帝国陸軍に関する本などが積み重ねられている。その中から適当に選び出して順繰りに読んでいって、最期に数冊の本をほぼ同時に読み終えることになる。書庫に入ると目に付いたものをあれもこれもという風に選び出すので、どうしてもこうした読み方になる。このようなことがよくある。

 高校時代は文学全集全盛の頃で世界文学全集や日本文学全集などが次々に刊行されたので、それを読み漁った。読書に関しては言ってみれば文学全集派といってよかった。

 そうした全集の中の一冊が今でも古本屋に一冊百円くらいで並べてあることがある。それを見つけると非常に懐かしい思いに駆られる。私が高校生の頃は一冊三百円くらいした。今の金額では多分一冊三千円くらいの価値があって、それを乏しい小遣いの中からやりくりして購入した。親や親戚から小遣いをもらう時にもあまり本ばかり買うなとよく言われていた。その頃苦労して購入した本が古本とはいえ今では一冊百円で買うことが出来る。私は本に対してなんとも申し訳ないような気がしてくる。

 最近読んで面白かった本に「はやぶさの大冒険」(山根一眞)がある。人工衛星「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」へ旅立ち、世界で初めて小惑星の微粒子を採取し、無事帰還するまでの七年間にわたる苦難の連続を描いたドキュメンタリーで、これを読むと日本の科学技術水準の高さが実によくわかる。

 たとえば文中に次のような記述がある。

 「『はやぶさ』は信じられないほど正確な軌道を通らなければ小惑星『イトカワ』にたどり着けない。ときには1秒間に30キロ進んだ場合に、予定コースから1センチのずれもないようにしなくてはいけない。東京駅から横浜駅に置いてある標的に向けて投げた石が、その的の中心の1センチ以内を通り抜けさせるようなことだ」

 「1秒間に30キロ進む」ということは1時間の間には地球の周りを約2週半するほどの猛スピードで進むことを意味している。しかも1秒間に30キロ進んでわずか1センチの軌道のずれも許されない。これほど正確に軌道をコントロールしないと、長さがわずか500メートルしかない『イトカワ』に到着し、着陸し、微粒子を採取しさらに地球へ帰還することなどとうていできない。

 これほど正確なコントロールは世界のほかのどの国でも絶対にまねできないことだろう。欧米のようにふんだんに金と人をつぎ込めばできるかもしれない。しかし日本のようにぎりぎりの予算の中で、ある限りのアイデアと工夫を凝らしてそれを成し遂げるのはまず不可能だろう。

 その成果のほどは世界的に権威のあるアメリカの科学雑誌「サイエンス」に二度にわたって特集を組まれたことでもよくわかる。次々に立ちはだかる苦難をどのように解決して無事帰還させることができたのかその一部始終には下手な推理小説を読むよりもよほどはらはらさせられる。ぜひ一度読まれることを薦める。

 ***

昔の暮らし

 今から六十年ほど前、戦争が終わった年に小学一年生になった。私の記憶では国語の教科書には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」というのがあった。それがしばらくして教科書のところどころを墨で黒く塗りつぶさせられた。それがなんとも理不尽なことに感じられた。

 次の年の教科書は質の悪い一枚の紙の裏表に印刷された教科書で、それをはさみで切り分けて自分で製本しなくてはならなくなった。小学校一年生のときに配られた教科書の紙質がよかったのに比べてあまりの変わりようを不思議に思った。

 その頃は今のように道路が整備されているわけでもなく、曲がりくねった細い土ぼこりの舞う田舎道を歩いて学校に通っていた。所々に地蔵さんを祀るほこらがあってその前を通るときには手を合わせてお辞儀をした。わらじを履きゲートルを巻いて通学したこともある。

 春先の夜晴れて冷え込んだ寒い朝には田畑の表面が凍り子供の軽い体重では田んぼの中に足が埋まることもないので、田舎道を歩かず田んぼの真ん中をまっすぐに歩いて学校へ通った。曲がりくねった田舎道を歩いて学校に行くのに比べて相当時間が短くてすんだ。

 家に帰る途中では友達のうちに入り込み、かばんを放り出して夕方遅くなるまで遊んでいた。父母が迎えに来たこともある。私の家の側から学校の近くまで川が流れていたので川の中をずっと歩いて帰ったこともある。小石を積んで流れをせき止めたり、めだかや小魚を捕まえた。川辺にはところどころ椿の木が自生していて、椿の花を取って蜜をすったこともある。

 今のように歩きながら飲み食いしたり、口の中に食べ物を入れてしゃべったりすることは非常にだらしないことに考えられていて誰もそのようなことをするものはいなかった。

 また小学生になると男の子と女の子が一緒に遊ぶこともなかった。女の子たちの中に男の子が混じっていると

「女の中に男が一人。や~ぃ、や~ぃ」

 とはやし立てられて非常に恥ずかしい思いをした。

 私の住んでいた田舎では、大人でも男と女が手をつなぐことは考えられず、並んで歩くこともはばかられた。髪を染たりピアスをはめたりするなどということはもちろんだれも考えもしなかった。高校生でタバコをすうものはいなかった。

 ***

星空の話

 私が図書館から借り出す本の中によく宇宙に関する本が含まれている。特に最近はハッブル宇宙望遠鏡やすばる望遠鏡によって撮影された写真集を見ることが多い。その美しい写真や解説には想像力をかき立てられる。

 私が高校まで育った実家は山の中にあって夜は星がよく見えた。特に冬の星座はオリオン座のペテルギウスやリゲル、大犬座のシリウス、ぎょしゃ座のカペラなどの明るい1等星が多く空気も澄んでいてきらびやかであった。特にシリウスは全天で一番明るい1等星であり、太陽系にも近く、ペテルギウスや小犬座のプロキオンとともに冬の大三角形を形作っている。

 今ではほとんど星空を見上げることはないものの、今でもかなりの星座の名前や一等星の名前を言うことができる。その頃はオリオン大星雲やアンドロメダ大星雲やスバルは肉眼でも見ることができたが今では目も霞んできて、たぶん探し当てることはできないだろう。

 対物レンズと接眼レンズをそれぞれ一枚ずつ購入して組み合わせ望遠鏡を作った。ボール紙を丸めて対物レンズ用と一回り小さい接眼レンズ用の鏡筒を作って中を墨で黒く塗り、先端にそれぞれ対物レンズと接眼レンズを取り付けた。接眼レンズ用の鏡筒を対物レンズ用の鏡筒の中にはめ込んで、手で出し入れをして焦点を合わせるという非常に単純な作りである。

 対物レンズの直径は四センチくらい、接眼レンズは一センチくらいのもので、硬質ガラス製の上質のレンズとはいえそれぞれ一枚だけのレンズを組み合わせて作った望遠鏡では色収差を抑えることができず、望遠鏡を通してみる星星は色がついてにじんで見えた。

 色収差を抑えるために反射望遠鏡を製作しようといろいろ資料を読んだのだが手間隙がかかりそうなことや小遣いの範囲を大きく外れそうなので断念した。

 その手製の望遠鏡を適当な柱で支えて星を覗くのはいいものの、せっかく探し当てた星もすぐに視野から逃げてしまうので、星を追いかけるのに非常に苦労した。月のクレーターを見た記憶がないのでたぶん性能が悪くてはっきりとは見えなかったのだと思う。今考えるとその性能は今ではおもちゃ屋で千円程度で売っている望遠鏡にも及ばないようなものであった。

 その後なぜ天文の道に進まなかったのか自分でも不思議に思う。

***

 

昔の暮らし その2

 昔は小学校高学年にもなると子供は立派な働き手であった。

 春、苗代で育てた苗を抜いて適当な大きさの苗束にして藁(わら)で縛り、これを天秤棒の前後につるした竹かごに入れて担ぎこれから田植えをする田んぼまで運んだ。水のぬるんだ田んぼの中ではおたまじゃくしがたくさんいたし、げんごろうやみずすましもいた。ひるがよくすねにくっついて血を吸った。しっかり食いついているので取るのが大変だった。

 子供なりに手甲と脚半を身につけ、子供の手の届く範囲の三列か四列の田植えを任された。大人に遅れないようにがんばったが、しゃがんでばかりの田植えは大変だった記憶がある。

 もっと小さいころ、小学校へ入る前には、着物を着、ぞうりを履いて近所の子供たちと朝から晩まで一面に田んぼに咲いている蓮華の花の中を走り回り転げまわって遊んでいた。あの頃の子供たちは今では立派なおじいさんおばあさんになって子供や孫もいるのだろうが、今思い出すのはあの頃の懐かしい記憶や笑い声、歓声、泣き声だけである。

 夏になると蛍が無数に飛び交った。水に浸してやわらかくした麦わらで蛍かごを作って蛍を入れた。蛍は簡単に手で捕まえることができた。

 家の近くに川が流れており、暑い日にはそこへ行って小石で水をせきとめ、めだかや小魚を捕まえた。

 秋には田植えのときのように二三列を任されて稲刈りをした。刈り取った稲は三株か四株まとめて稲藁で束ねて縛った。こうして出来上がった稲束を十束くらい背負子で背負い、はぜが立てられているところまで運んだ。がんばってできるだけ多く背負おうとした記憶がある。父母は夜遅くまで提灯の灯りを頼りに積み上げられた稲の束をはぜに掛け続けた。

 稲刈りの終わる頃、西条柿を取り皮をむいて干し柿を作った。柿の枝は折れやすく柿がなっている先のほうまで手を伸ばして柿を取ることができない。

 そこで竹ざおの先をピンセットのようにそいで、その割れ目に、柿のなっている小枝をはさんでぐるぐる回すと小枝が折れて柿を取ることができる。このような柿を取るための専用の竹ざおがどの家にも置いてあった。

 渋柿の皮をむくと柿の渋で指が黒くなりなかなか消えない。柿の皮を剥くための小さな小刀があり、柿の皮を途中で千切れさせずにどれだけ長く剥けるかを競った。

 高校生になると母屋とは別棟になっている納屋(なや・農作業をしたり農機具を置く建物)の二階を自分の部屋として使っていた。日当たりのいい南向きの庇の下に自分用に百個以上の干し柿をつくりつるしておいた。二十日ぐらい過ぎると赤く色づき食べごろになる。さらにそのままつるしておくと黒ずんできて甘みも更にましてくる。食べごろになった干し柿をガラス戸を開けては手を伸ばし一つずつ取って食べた。

 冬には雪だるまを作った。私が育った地方の雪は柔らかいので、小さな雪だまを作ってそれを雪の上で転がすとそれだけでその周りに雪がくっつきすぐに雪だるまを作れるくらいの大きさになる。履いている下駄の歯の間にも雪が堅くくっついて次第に下駄が高くなり歩きにくくなった。

 中学生のときに家は新築されて瓦葺きになったので雪はすぐに滑り落ちたが、その前は藁葺きで雪は滑り落ちることはなく屋根にそのまま残っていた。春先の日差しが暖かく感じられるころになると屋根の雪も柔らかくなり、藁葺きの屋根に雪だまを投げ上げると、転がり落ちるときに次第に大きくなり軒先から落ちるときには小さな雪だるまくらいの大きさになった。できるだけ大きな雪のかたまりを作りたくて何度も何度も雪だまを作っては屋根のできるだけ高いところまで投げ上げようとした。

 屋根のわらの中は下から囲炉裏の暖かさが上ってくるので居心地がよかったのだろう、その中にはくさい虫が住んでいて、下で食事をしている味噌汁や茶碗の中に落ちてくることがよくあった。知らずに食べると後々まで苦い味が口の中に残った。

 当時は今のように椅子に座って食卓で食事を取るのではなく、囲炉裏を囲んでお膳の上に味噌汁やご飯を並べ、正座をして食事を取った。茶碗や湯のみ箸などそれぞれ自分の使うものが決まっていて人のを使うようなことはしなかった。

 小さな子供たちが一軒の家の作業場に集まって稲わらをたたいて柔らかくしこれで「こも(むしろ)」や「わらじ」を編むことがよくあった。私の作る「こも」は向こう側が透けて見えるくらい網目が粗くて使い物にならないとよく笑われていた。

 今でも「わらじ」を作ったり「むしろ」を編んだりすることができる。

***

 

言葉遣い

 女の器量は言葉によるという。別に女性に限ったことではない。男でも同じである。言葉の使い方によってその人の人柄がわかるし人間関係が壊れることもある。

 妻の友人に声が大きくて言い回しが断定的でしかも時々語尾が上がる人がいる。その人と話していると普通に話していても何か怒られているように聞こえることがある。

 たとえば「今日はいい天気だね」というのに語尾の「だね」の部分の声の調子を上げて強めにいってみて下さい。どうです。今日天気がいいのがかえって都合が悪くて腹立たしいような感じになってきませんか。

 私の実家は中国地方の山の中にあり、妻と一緒に里帰りしたとき妻はその言葉の柔らかさに驚いていた。相手の間違いを正すときでも「~です」とか「~だ」というところを、相手の気分を害さないようにそれとなく「~ではないのかのう」という風な言い方をすることが多い。こういう遠まわしの言い回しは妻の育った北海道でもよく使う言葉遣いなのだが私の育った広島弁でしゃべるとそのイントネーションも変わり、ずいぶん受ける感じが違ってくる。

 同じことをしゃべっても北海道の人がしゃべると、その言葉はばきばきとしていて木の枝でも折るような感じがすると妻は言う。

 妻が私になにか「~してください」と頼むときに、私は冗談のようにして、「もっと語尾を上げて強く言わないと効き目がない」ということがある。皆さんも人に物を頼むときに語尾を上げしかも語気を強めて「~してください」といってみてください。人によっては気分を害する人がいるかもしれません。

 ***

昔の暮らし その3

 私が子供の頃大人のすることを見てこういうことが出来るのが本当の大人だと思ったことが二つほどある。

 その一つは煙草の吸い方である。

 当時は紙巻タバコは高級品であり、みな江戸時代さながらのキセルで煙草を吸っていた。タバコの葉を煙草入れから取り出し、小指の先ほどの大きさに丸めてキセルの先の雁首につめ、火打石で火をおこしながらスパスパやっているとタバコの葉に火がつく。

 次の一服を吸うときには雁首の中の煙草の火が消えないうちに雁首を手のひらでトントンと軽くたたくと、火のついた煙草の塊が手のひらに落ちてくる。すばやくもう一方の手で煙草入れの中から新しい煙草の葉を取り出し、小指の先ほどの大きさに丸めて雁首につめる。そうしてもう片方の手のひらに乗っている煙草の火をスパスパやりながら、雁首に詰まっている煙草にまた火をつけるのである。手品を見ているような見事さであった。当時私は煙草は苦いということがわかっていた。ということはたぶん私もキセルの吸い口をなめてみた経験があるのだろう。

 キセルの胴が煙草のヤニで詰まってくると、針金を火で焼いてキセルの吸い口から差し込むのである。そうすると煙が出てきて、なんともいえないくさい匂いがあたりに立ち込める。私はキセルを見事に扱いながら煙草を吸うことができるのが大人の印だと考えていた。

 ただ私の父親は煙草は吸わなかった。その理由は煙草のみと酒飲みには賢い子供が生まれないということであった。今なら医学的にそのことはよくわかっていることなのだが、たぶん父は経験的にそのことを知っていたのだろう。

 もう一つのことは、実は、小用をする時のその時間の長さなのである。

 当時は学校の男子用のトイレには、一人一人用足しができるように陶磁器製の用具が設置されているということはなかった。個人の家では板を四角く組んで男用のものを作っていたが、学校にはそれもなかった。ただ、目の前のコンクリート製の溝に向かって一列に並んで用を足すだけである。大人と一緒に用を足していると決まって子供のほうが早く終わってしまう。なんとか長く持たせようとしても必ず先に終わる。 

 今では私も一人前の年寄りになり、年を取ってくると用を足す時間が長くなるのは医学的にも当然のことであることがよくわかる。しかし当時は、用を足す時間が長いということは、そのことがそのまま大人であるということの証明だと、子供たちの間で真面目に信じられていた。いまどきの子供たちはそんなことは考えたこともないだろう。

 *

 私が小学生の頃は低学年の頃はそれほどでもなかったのに学年が進むにつれて成績がよくなってきた。小学校六年の頃学校から帰る途中で友達と石を投げる競争をしていた。その当時村では珍しくところどころに街灯が設置されていたが、たまたま私の投げた小石が設置されたばかりの街灯の丸いほやに当たってガラスが割れてしまった。

 ちょうど同じ頃もう一人成績がよい男の子がいて、その子は墓石を倒して歩くという事件を起こした。翌日学校に行くとクラスの全員の前で二人一緒に担任の先生から怒られた。私はクラスの皆から頭のいいやつでも馬鹿な真似をするんだというふうな尊敬のまなざしでみつめられなんとも気恥ずかしいながら、ちょっとした英雄になったような気分を味わった。ずいぶん早くばれたものだとも思った。

***

若い女の子

 外で庭木の手入れをしていたら中学生の制服を着た女の子に

「こんにちは」

 と声をかけられた。

「こんにちは」

 と挨拶を返しながらよく見るとついこの間まで家の前の通りを元気よく三輪車を乗り回していたあの女の子であった。あの子がこんなに大きくなるということはそれだけ自分が気づかないうちに年を取ってしまったということだと妙に感心した。

 しばらくして、外でまた庭木の手入れをしていると若い女の人に

「こんにちは」

 と声をかけられた。

「こんにちは」

 と挨拶を返しながらよく見るとつい二、三日前、中学生の制服を着て家の前を通りかかったあの女の子であった。私服になるとすっかり大人びて見えて、その変わりように改めて驚かされた。

 私が中学生の頃は女の子と話したり付き合うというようなことはほとんどなかった。そういう時代でもあった。

 兄が一人いるだけの男だけの兄弟の中で育った私には、女の子はなんとなく近寄りがたく遠い存在にもなっていった。私はだんだんとなんとなく一人で本を読んでいることが多くなっていった。農作業の手伝いもおろそかになり、兄にはよく耳を引っ張られた記憶がある。

 ところで最近高橋和己の「わが解体」を読み直す機会があった。改めて読み直してみるとその当時大学紛争の中心部近くにいた高橋がどのように考えていたのか改めてよくわかった。

 だが、私がここで述べたいのはそういうことではなく、彼の妻の立場に立ってみるとどういう風に思われるだろうかということである。和己自身は自分の思想なり行動をひたすら深く掘り下げていけばいいのだろうが、たぶん高橋の妻はそういう夫を客観的に外から眺めやりきれない思いに引き込まれたのではないかと思う。

 女性は家事とか育児に追い回されてどうしても考えることが現実的にならざるを得ない。それに比べ男性はそうした日常茶飯事から離れ、自分の学問や思想や研究などをとことん追求し、あるいは天下国家を論じて暮らすことが出来る。そのせいか古今東西の思想や自然科学などの学問の領域で活躍しているのは圧倒的に男性が多い。立花隆はそのような違いは男性と女性の脳の大きさの違いによるものだと述べている。だがそればかりでもないだろう。

 同じ高橋克己の文を読んでも昔とは全く違った面から物事を感じるようになったのはそれだけ年を取ったということでもあるのだろう。そして私自身妻に迷惑ばかりかけていたことに改めて思い至り申し訳ない念にとらわれる。

***

名前の呼び方

 私は妻を呼ぶのにたいてい

「・・・さん」とか「・・・さ~ん」と呼ぶ。

「おい」とか「お前」などとはまず言わない。

 妻が私を呼ぶときにはいろいろなバリエーションがあって、機嫌のいいときには

「・・・さ~ん」とか「・・・ちゃ~ん」などと呼ぶ。

 家の中で私を探すときには「ひろ~、ひろ、ひろ」とか、それがなまって「ぺろ~、ぺろ、ぺろ」と小犬でも呼ぶような調子呼ばれることもある。

 名前の前に「おい」がつくと怖い。

「おい、・・・。あれやっておいたか」

「おい、・・・。ちゃんとやっておかなきゃぁだめじゃないか」

 何も知らないで私達の会話を聞く人はどちらが男か、どちらが亭主か、分からないだろう。

 昔はこんなんじゃなかったのにナァ。と思う。

 私は内心むっとしながらも柳に風と言う風に聞き流すようにはしている。

(文中の・・・の部分にはお互いの名前が入ります)

***

怒る妻

 妻は私にとってはどうでもいいようなことでどなり散らすことがある。

 以前確か同じようなことしても何も言わなかったのにと思うことでも虫の居所が悪いとどなる。そうなると「おかしいじゃないの前には何も言わなかったのに」と異議を唱えてみたくなるのだが、火に油を注ぐようなことになるので、自然と黙り込んでしまうことになる。

 妻はその態度が気に入らないと言いながら、さらに怒りまくる。

 最近年を取ったせいかしゃがみこむことがおっくうになってきた。

 この前食卓の下にビンの蓋を落とした。また怒るかなと思いながら足のつま先でその蓋をそっと引き寄せおもむろに拾い上げた。ところが私の動作を一部始終見ていたはずの妻が何も言わない。うつむいたまま黙って新聞を読み続けている。

 よく観ると背中が小刻みに揺れている。妻が声を立てずに笑っている。

 私は驚いた。ふ~ん世の中変われば変わるもんだなと思った。

「あなたの振る舞いには長い間慣らされたのよ。今更怒ってみてもね」

 しかし、そうは言っても時には怒る。怒りまくることがある。

***

投稿

 私は退職後、元職員で構成するある団体に所属している。構成員は全国にわたる相当大きな団体である。もちろん反社会的集団の構成員ではない。

 そこでは年に四回「友の会だより」を発行している。私はその「友の会だより」の投書欄に投稿した。もしかするとそれが採用されてその次の号に掲載されるかもしれないとひそかに期待していたのだが、全く音沙汰が無い。没になったのだなと諦めた。

 最近また最新号が郵送されてきた。よく読みもせずに、そのまま雑紙(ざつがみ)を入れる袋に放り込み、次の回収日にごみ収集所に持っていく積りにしていた。

 いよいよ明日は収集所に出すという日になって、「友の会だより」を発行している編集室からなにやら封書が届いた。これを封も切らず棚の上にあげておいた。

 パソコンに向かっていると妻がけたたましく叫びながら部屋に入ってきた。みると手に図書券と紙切れを持っている。

「あなた、あなたの投稿が採用されたよ」

 妻は棚の上にのせたままにしておいた封書を、封を切って中身を確かめてくれたのだ。確かに紙切れには私の投稿を掲載することになったのでその礼として図書券を同封して送ると書いてある。

 あわてて私たちは送られてきたはずの「友の会だより」を探した。古新聞入れを念入りに探したが出てこない。あちらこちら探したものの姿が見えない。その内、妻は私の雑紙入れから「友の会だより」を探し出してきてくれた。

 私自身は雑紙入れの中に入れたことすらすっかり忘れていた。

 それにしても妻が封書の中身を確かめてくれてありがたかった。雑紙入れの中から「友の会だより」を探し出してくれたのもありがたかった。私の投稿が採用されたことがわかったのが雑紙回収日の前日だったのはほんとうによかった。

 おかげで無事図書券は私の手元に残ることになった。

**

 次の文章は投稿して採用された文章です。

**

日本人の心の故郷

 *

『故郷の言葉で語られる民話を読むと、誰でも、幼い頃息を殺して昔話に聞き入った懐かしいい出が蘇って来ます。夜は蛍が飛び交い、小川ではメダカや小魚がいっぱい泳ぎ、生き物で溢れていた故郷の昔の田園風景が目の前に浮かんできます。

 数年前たまたま書庫で故郷の民話集を手にして私は同じ想いに囚われました。この想いを伝えたいと考えた私はインターネット上に「石見国・邑智郷の民話と言葉」というホームページを開設した。収録した民話は八十話ほど、その後「たかが日々の暮らし、されど日々の暮らし」というブログなども入れた。

 一年間ほど延々と手を加え続けたましたが、それはまさに苦難の連続であり、私の灰色の脳細胞が著しく活性化された楽しい日々でもありました。

 民話は長い間人々の間で語り継がれてきた貴重な財産であり、人々に元気を与える不思議な力を持っています。日本人の心の故郷です。しかし今では民話を支えていた日本の原風景がすっかり失われ、それとともに民話そのものが人々の記憶のかなたへ消え去ろうとしています。

 それはあまりにも残念なことであり、何とか民話を残すすべはないかと蟷螂の斧のようなことを考えています。日本のあちこちに日本の原風景そのものの集落を再現し、そこで民話を故郷の言葉で語ったら素晴らしいことでしょう。民話は日本の元気を取り戻すきっかけになると信じています』

***

島根旅行

 最近五年ぶりで十日ばかり島根の実家に帰省した。墓参りが主な目的で兄が脳卒中で倒れたのでその見舞いも兼ねていた。ついでに農作業用の軽トラを借りてあちこちいろいろ見て廻った。

 ある人を訪ねたら「これで北海道から来たんですか」と驚かれた。軽トラはスイッチ一つで四輪駆動にもなるから田んぼや狭い山道などでは威力を発揮する。田舎道をのんびり走るのにはちょうどいい。後ろからスピードの速い車が追いついてくると大抵は車を道の左に寄せてやり過ごした。

 普段から軽トラに乗りなれている地元の人は一時停止の標識も信号も何もない狭い田舎道を普通の乗用車並みにぶっ飛ばし、車を寄せるなんて丁寧なことは絶対にしない。

 軽トラは高速道を走るようには出来ていない。高速道だけは走りたくないと思っていたのだが、秋の日は短いので、やむを得ず走らなくてはならない羽目になった。私がたまたま走った高速道は片側一車線しかなくて、ところどころに後ろの車をやり過ごす退避場所があった。ときどきバックミラーを見ながら、内心「(後ろから追いついて)来るんじゃないぞ、来るな、来るな」と念じて走った。

 それでも追いつかれると退避場所まで必死の思いで車を走らせた。だいたい時速六十キロ位で走ったのだが、追いつかれると八十キロ位までスピードを上げる。そうすると車のエンジン音が高くなり、車が分解するんではないという恐怖に襲われる。さすが高速道を走るという物好きな軽トラには一台も出会わなかった。

***

温泉津の浅原才市

 私の実家は浄土真宗で、浄土真宗では「極楽往生をするには、ただひたすら南無阿弥陀仏を称えなさい」ということを云う。この教えを心から信じて、ひたすら南無阿弥陀仏を称え、極楽浄土を願う人を「妙好人(みょうこうにん)」と呼ぶ。

 温泉津(ゆのつ)は明治大正の時代を生きた浅原才市(さいち)という妙好人を生んだ土地でもある。鈴木大拙という仏教学者が浅原才市のことをとりあげたので全国にその名が知られることになった。この旅行の目的の一つに浅原才市ゆかりの寺や実家を訪ねるということがあった。

 温泉津に着いてまず観光案内所に行った。ただ単に簡単な情報を仕入れるつもりであった。すると「無料で案内してくれる人がいますよ」という。これは便利だと思いお願いすることにした。しかしこの数分後には激しく後悔することになる。

 まず四、五人乗りのワゴン車くらいの大きさのバスが迎えに来た。それに乗り込むと町外れに連れて行かれ、約一キロほどの道を歩きながら出発地点まで戻るのだという。その間にあまり聞いても仕様のない町の歴史や神社仏閣、町並みの説明を受けることになった。肝心の浅原才市ゆかりの寺や実家にはなかなか行き着かない。

 適当に相槌を打ちながら私の日頃の薀蓄をそれとなく披露していたら、説明のし甲斐があると見込まれたのだろう、説明のルートにはない遠くの場所を案内するから、私の乗ってきた軽トラを走らせろということになった。行き掛かり上、無下に断るのも憚られたので、この人を助手席に乗せてその場所へ往復して、また時間を余計に食ってしまった。最後にやっと浅原才市ゆかりの寺と才市が住んでいた家の説明を受けて温泉津観光が終わった。

 予定外の時間を使ってしまったので次の目的地である世界遺産で有名な石見銀山へ急いだ。ところが石見銀山へ着いていざ写真を撮りまくろうと思ったら、たった一枚撮っただけで、デジカメの画面に「電池の残量が少なくなりました。充電してください」というメッセージが現れ、それっきり写真が撮れなくなってしまった。温泉津で調子に乗って写真を撮りすぎた報いが現れた。結局「石見銀山の観光は以前に一度やったことがるし、しょうがないか」と自分に納得させながら簡単に切り上げることになった。

***

日和山城

 実家から峠を越えた向こう側に日和(ひわ)山があってその頂上には昔、砦が築かれ、今でもその遺構が残っている。その山の写真を一、二枚撮りたいと思い、先ず日和の公民館を訪ねてその場所を聞くことにした。公民館は閑散としていて若い女の職員が二人、丁寧に対応してくれた。

 私がやってきた目的を話すと、なにやら電話し始めた。日和城についてよく知っている人がいるのでその人に電話したら、その人が私を案内してあげますと言っていると言う。なんだか様子がおかしくなったぞと思いながら、職員の書いてくれた地図を頼りにその案内人の家を訪ねることにした。

 道に迷いながら、ようやくその案内人の家を訪ねると、その人はなにやら書類らしきものを小脇に抱えて、道端に立って私を出迎えてくれた。その書類を広げ説明しながら、これからその城跡に行こうという。私は内心「ずいぶん親切だなぁ。まぁそんなに遠くはないだろう」と思いながらその言葉に従うことにした。

 案内人を軽トラの助手席に乗せて少し走ると、猪よけだというフェンスに突き当たった。このフェンスは高さが百五十センチ位で、太さ一センチくらいの鉄筋を格子状に組んだものであった。私の家の近くにもあったので、聞くと広い町内全域にくまなく張り巡らされているのだそうだ。

 このフェンスの入り口を開けて百メートルくらい走ったところで車を止めたほうがいいという。普段なら頂上まで車で行けるのだが、この前の大雨で道が崩れてどこまで走れるかわからないからだという説明だった。せいぜい二百メートルも歩けば目的の場所に着くだろうから、それもいいでしょうと軽く考えていたら実際は違った。

 歩いても歩いても道は続く。いい加減歩きつかれたところで、見るとはるか遠くに山の頂が見える、「あれですか」と聞くと「そうだ」と言う。私はがっかりした。今更引き返すわけにも行かず、そのまま付いていくことにした。

 それからの道は今までにもまして険しいものになった。道の真ん中に石がごろごろしていて歩きにくいことこの上もない。不安定な石に不用意に乗ってしまうと道路下の険しい谷底に転げ落ちてとても助かるとは思えなかった。

 やっとの思いで頂上にたどり着いた。そこは平らにならされていて、以前発掘した跡だという。神社があったので、下り道の無事安全を心から祈った。頂上からの見晴らしは非常によく、なるほどここに砦を築いたわけがよくわかった。案内人の説明では昔は頂上周辺の木が切られていて、もっと見晴らしがよかったということだった。

 悪路に悪戦苦闘しながらやっと軽トラに戻ると、今度はせっかく来たのだから、家によってコーヒーを一杯飲んでいきなさいといわれた。ここまで付き合っていながら今更断るのもなんだと思ったのでこれも付き合うことにした。クリームにステックシュガーもついた本格的なコーヒーだった。私がこれから行く場所を聞いて親切にその道筋も教えてもらった。

 翌日、私は菓子折りを持参してその案内人の家を訪ね深くお礼の言葉を述べた。

 島根の人は実に親切である。

***

田中梅治の話

 私の兄嫁のおじいさんに当たる人は田中梅治という。明治大正と昭和の初めを生きた人で今の農協の前身とも言える「村農会」やその当時島根県内では二番目という信用組合を立ち上げたりして、ただひたすら貧しい農民のために尽くした。一方正岡子規に俳句を学び、ホトトギスに投稿したり子規の添削を受けたりした。ホトトギスの最初の頃の冊子が残っていたのだが、事情があって今では古本屋の店頭に並ぶことになってしまった。方言を集めた分厚い著作も残された。それは今私の実家にあるが、兄嫁は公民館で引き取ってもらうようにしたいと言っている。

 民俗学者の宮本常一は昭和十四年頃、田中梅治のもとを訪ねて話しを聞き「忘れられた日本人」の中で取り上げた。最近出版された『「忘れられた日本人」の舞台を旅する。宮本常一の軌跡』(木村哲也 河出書房)の中でも取り上げられている。田中梅治の著作である米作行事を取り扱った「粒々辛苦」、畑作行事を取り扱った「流汗一滴」が昭和十四年頃渋沢敬三の運営する出版社から出版された。

 私の兄嫁の実兄に当たる人はもう亡くなり、その人の八十半ばになる奥さんが今は一人で兄嫁の実家を守っている。田中梅治は昭和十年頃「柚味噌会」という俳句会を作った。その仲間が建ててくれたという俳句の句碑が庭先に残っているのでその写真を撮りに行った。

 その実家のあり場所を聞きに近くの家に行ったら、たまたまその実家のおばあさんが茶飲み話をしに来ていて、家に帰るついでに私を案内しましょうということになった。

「どっからきんさったんか」と言われたので、

「中野の方からです。梅治さんの句碑があるそうですね。写真を撮らせてください」とだけ言った。私の兄嫁がこの家で育ったとは話さなかった。

 私はそのおばあさんの様子から「ふぅんそうかい。まぁ好きなように写真を撮っていきんさい」と口に出して言わないまでも、そういうふうな感じを受けた。田中梅治の業績にも関心がなさそうだった。兄嫁が実家にはもう行きたくないと思う気持ちがよく分る気がした。

 梅治の句碑はもちろん、住んでいた家の写真をあちらこちら撮って帰った。私がそのおばあさんから受けた印象を兄嫁に話したら、「そうそうそうなのよ」といわんばかりの様子で笑った。

 句碑は近くの川から運びあげた何の変哲もない普通の石で、高さは一メートルくらいの三角形をしている。句そのものは風化が進んで読み取りにくくなっているものの子規が選んだ句で

 「馬追や 岡の小家の 角提灯」  薄墨

 という句である。薄墨は田中梅治の俳号である。

 

 梅治が残した書籍類は昔は専用の蔵に一杯あって、その重みで蔵が倒れたそうだが、そうした貴重な資料は今は何も残っていない。兄嫁の妹に当たる人が大阪に住んでいるが、そうした資料の一部が古本屋の店頭に並んでいて一万六千円で買い戻したことがあるそうだと兄嫁が話していた。

 ある人から次のような話を聞かされた。

 町の町長が鳥取県知事に会ったとき、知事から「あなたの町の先輩で、田中梅治と言う人がいますね」と言われて、町長は何も答えられなかったというのである。案外そんなものかもしれない。

***

後鳥羽伝説殺人事件 

 後鳥羽伝説殺人事件という内田康夫の推理小説がある。テレビドラマでは浅見光彦役を中村俊介、刑事役を火野正平がやっていたと思う。陽一郎役は榎木孝明、母親役が野際陽子であった。その舞台になっている隣の広島県の功徳寺(くどくじ)を訪れた。

 例によって軽トラをのんびり走らせていると、後ろから追いついてきた車がある。軽トラを道端に寄せて道を譲ったのだが、相手の車も私の車に並んでぴたっと止まった。変だなと思いながら運転手側の窓を開けて「どうぞお先に」というつもりで手を挙げたら、向こうの車の女の運転手も手を上げる。ますます変なおばさんだなと思ったら、「ア・タ・シ」と言う。何でこんな田舎道で知った人に出会ったんだろうとよく見ると、変なおばさんに見えたのは私の実家の跡取り息子の嫁だった。

「何で今頃こんなところを走っているんだ」と聞くと、

「出勤途中」という。

 そうかそういえば彼女の職場は確か私が今日訪ねる予定の寺へ行く途中にあるんだなということにやっと気づいた。嫁の車はあっという間に視界から消えた。

**

西蓮寺と浄泉寺

 功徳寺へ行く途中で、阿須那(あすな)の西蓮寺に立ち寄った。この寺は毛利元就の有力家臣である口羽通良が永禄三年(1560年)に建立した寺で、江戸時代には石見、安芸、備後に多くの門徒を持っていた。その山門は石見の三大山門といわれる山門のうちの一つである。町内にはもう一つ市木の浄泉寺の山門がある。残りの一つは浜田市内の寺にある。

 西蓮寺は険しい山道を登った峠近くにある。何でこんなところにと思うのだが当時は交通の要所になっていたんだろう。昔は主要な街道であったのに今は草に埋もれてしまった道が町内にはたくさんある。市木では昔の街道に沿って今でも町並みが時代に取り残されたように続いている。市木の浄泉寺も昔の街道のそばにある。二つの山門ともにその彫刻は見事なものであった。

***

後鳥羽伝説殺人事件

 西蓮寺を出て功徳寺へ向かう途中で、やむを得ず、フリーウエイという高速料金を取らない高速道路を走った。無料だけに多種多様な車がたくさん走る。大は大型輸送車やトラックから小は軽乗用車まで何でも走っている。しかしここでも軽トラには一台も出会わなかった。片側一車線なのでところどころにある退避場所に車を寄せて追いついてくる車をやり過ごしながら何とか無事走りきって功徳寺に着いた。

 功徳寺は言い伝えでは後鳥羽上皇が隠岐に流される途中、半年ほど滞在された寺であると言う。後鳥羽上皇が通られたという言い伝えは広島県側にはあちらこちらに広く残っているのだが、出雲に入るととたんにそんな話しはなくなるという。その寺の住職に運よく会って話を聞くことが出来た。しかし私が知っている以上の話しはたいして聞けなかった。そのお坊さんは「実は私もそのテレビドラマに出演したんですよ」と煙草をふかしながら話してくれた。ただ寺は少し高い丘の上にあって、そこの縁側から眺める広々とした田園風景はテレビで見たのと同じだなぁと感じた。

**

三次市の歴史民俗資料館

 その帰り道に三次(みよし)市の歴史民俗資料館に立ち寄った。この旅行の大きな目的の一つだったので期待していたが、休館日だった。せっかく来たのになんでだよと思ったがその日は月曜日で全国各地ともこうした施設が休みになる事をすっかり忘れていた。気を取り直して周囲の古墳や移築された古民家を見学して帰ろうと考えた。私と同じように曜日を間違えて見物にやってきた人がいたので聞くと、古墳はほとんど円墳だが中に一つだけ前方後円墳があるという。大いに期待して小高い山を登ったり下ったりして探し回ったのに見当たらない。もと来た場所に戻って改めて案内板を見ると、私が歩き回った場所のすぐ近くにその前方後円墳があった。普通前方後円墳といえば小さくても長さが百メートル近くはあるのを思い浮かべる。あれだけ歩き回っても見つからなかったのだから、よほど規模の小さいものだったのだろう。疲れていたのと時間も遅くなりそうなのでそのまま帰ることにした。

**

石畳で舗装された旧街道

 町内の外れにある山の中を、昔、日本海側の浜田藩と瀬戸内海側の安芸の国とを結んでいた街道が通っている。石畳で舗装されていて、当時は幅が三メートル近い立派な道だったそうだ。

 街道の近くに住んでいる人に聞くと、石畳が立派に残っていた部分があったのに、その部分を特に選んでその上にコンクリートを流して固めてしまったそうだ。基礎はしっかりできているのだから、さぞかしコンクリートを流すのは易しかったことだろう。コンクリートを流して固めた部分の終わりのほうに給水施設があるので、そこへ行く道を通りやすくするためにやったんだろうと話していた。その給水施設に行くのにはほんの少し遠回りだけれども立派な道が既に付いているので、別にわざわざ石畳の道をご丁寧にコンクリートで固めて新しい道を作らなくてもいいだろうにとも話していた。

 コンクリートで固めた街道の先にも道は続いていて、ところどころ石畳が地表に出ていた。更にその先は百メートルほどで道は笹薮の中に消えていた。少しでも文化遺産を残すように金を使えばいいものを、誰もありがたく思わないような使い方を何でわざわざ選んでするんだろうと感じた。

**

二つ山城

 町内の鱒渕という集落の近くに二つ山という山があり、その頂上に砦の跡がある。頂上近くまで道がついており、日和山に登ったときとは違って、車で行くことが出来た。恐る恐るその道へ乗り入れたら、ところどころ先の大雨で道がえぐられて狭くなっている。こんなところで車が谷底に落ちて遭難しても、まず一ヶ月以上は誰にも気づかれることなくそのまま放っておかれるだろうなぁと思いながら最徐行で軽トラを走らせた。頂上付近に車が五台くらい止められる駐車場があった。そこからは細い急な坂道を登っていった。頂上には鉄製の見晴台があったが今は朽ち果てて横倒しになっている。頂上からの見晴らしはよく、街道を往来する人を監視するには最適の場所だと思われた。戦国時代の有力国人であった高橋氏の城であったが一五三十年に毛利軍に攻め落とされた。その後元の城主である出羽氏に返され、一五九一年に廃城になった。

**

仮屋胴鐸出土地と割田古墳

 仮屋(かりや)胴鐸出土地と割田古墳も訪れた。

 町内に仮屋と言う部落がある。その部落にある高さが三十メートルほどの山林の頂上部を畑にしようと、地元の人が掘り返していたときに胴鐸が二個見つかった。大正の初め頃である。その銅鐸は今では東京国立博物館に収蔵されている。地元の郷土館にはそのレプリカが展示されている。島根の胴鐸といえば、最近になって賀茂岩倉遺跡から三十九個、荒神谷遺跡から六個発掘され有名になった。それ以前では県内で見つかったものはわずか七個。そのうちの二個がこの仮屋遺跡から見つかったもので貴重なものではある。

 割田古墳は個人の家の敷地内にあって、その持ち主に断って見学した。古墳は円墳で周囲は芝で覆われている。石室の入り口は露出していて外から石室の内部を覗くことが出来る。当然のことながら中は石組みが見えるだけで空っぽである。町の教育委員会の調べだと七世紀ごろに作られたものだという。近くには郡山(こうりやま)と言う名の部落が今も残っている。昔近くに郡(こうり)の役所があったのではないか、この古墳もそれと関連があるのではないかと思われている。

***

吉川元春の館跡と小倉山城

 毛利元就には歴史に名を残した三人の息子があり、そのうちの一人が吉川家に婿に入った吉川元春である。その居館の跡を訪ねた。広大な敷地で、前面に築かれた石垣も見事なものだった。もっと広い場所もあるだろうに何でこんな山の中にと感じるのは今の世に住むわれわれが受ける感じであって当時はここが交通の要害であり、ここに館が建てられるのにはそれなりの訳があったのだろう。

  毛利元就の妻が生まれ育った小倉山城にも登った。この城は今でも交通の激しい幹線道路の側にあった。しかし十月の日暮れ近くこの城跡を訪れる物好きは私一人しかなく、車が百台以上も止められそうな広い駐車場には私の軽トラ一台しかなかった。城といっても立派な石垣があるわけではなく、砦といってもいいものである。石垣に囲まれた天守を持つ私たちが思い描くような城は戦国時代の終わりのわずかな期間に作られたものにすぎない。

 頂上は割りと低くてそう長い時間歩かなくて済んだ。そうは言っても頂上までは細くて険しい道が続く。頂上からの眺めはよく、城が築かれた理由がよくわかる。駐車場まで下りて案内板を見ていたら、軽トラが一台やってくる。おぉこの時間に物好きがまた一人やってきたと思ったら、側を通り過ぎて城跡のあった山の中に消えた。地元の人が農作業にやってきただけだった。

***

旅行後記

 旅行中に田中梅治の書いた直筆の著作の後書きや前書きをコピーした。今それをパソコンに入れている。中々読めない字が多く、辞書や草書体辞典などを参考にしながら作業をしている。

 梅治の文章を読んでみて、もちろん私は業績も心がけもとうてい梅治に及ぶべくも無いものの一つ共通点があるのではないかと感じた。

 私は一つの文章を書き終わった後でも、あの所はこう直した方がいいのではないか、このような言葉を付け足したほうがいいのではないなど頭に浮かんでくると、非常に落ち着かない気持ちになって、直ちにその部分を直す。したがって初めに人に渡した文章と最後の人に渡した文章とではかなり表現や内容が違ったものになることがある。これを納得のいくまで繰り返す。

 梅治の書いた後書きなどを読むと全く同じようなことが感じ取られる。梅治も直したり付け足したりしたい部分が後から出てくると、落ち着かない気持ちになったのではないかと感じた。ただ今の時代に生きる私にはパソコンがあるからすぐに消したり足したり簡単に出来るけれども、梅治の時代は毛筆と和紙の時代だから、ことはそう簡単にはいかない。彼の著作である「俚諺の泉」にしても数年がかりで改訂版を書き、まとめている。それを細筆一本でやり遂げた梅治の知的好奇心に心から敬意を表する。

 この本はただ一冊のみでそれが今まであまり人目に触れることも無く、今は私の実家でひっそりと眠っている。

***

田中梅治の文章・「粒々辛苦」の前書き

 次の文章は昭和十四年に出版された「粒々辛苦」の前書きですが、戦前の文章の雰囲気が窺えます。

 『序言

 アル動機ニ拠ッテ米ニ就テ一切ノコトヲ書イテ見様カト思ヒ付イテソレ以来毎日野ニ出テ鍬ヲ採リ、畑ノ草ヲ取リナドシツツ常ニ懐中シテ居ル手帳ニツケテ見タ。大凡ツケタト思ッテ、内ニ居ル時半紙ニ説明ヲ書イテ見タ。ソレヲ書イテ行ク内ニ前ニ手帳ニツケ残シタコトヲ想ヒ出シタリ、又新ニアレモアル、コレモアル、之モ米ニ関係ガアルナド、考ヘ出シテハ書キ書キ、其内ニハ愚見モ書キ添ヘテ見タシ、不平モ不満モ書イテ見タシ、其ノ手柄咄モ云フテ見タシト云フ様ナコトデ、随分長イモノニナッタ。見テ呉レハ人ガ飽キ飽キスルデアロウト思フガ、マーマー昭和十三年ノ七十一歳ノ老人ノ其時ノ心境ヲ書イテ置イタモノダトモ思フテ予ノ死后ニ見テ歴史ノ参考ニデモナラントクドイコトヲ書イタノガ即チ是デアル。

 昭和十三年八月十五日盂蘭盆ノ二日目ニ書キ終ッタ。

         田中梅治 

 附言

此書ハ予ガ子孫ニ書キ残シテ、米作ノ変遷ヲ知ルニ参考トスベキ様、書イタモノデハアルガ誰人ニテモ見テ呉レル人ガアレバ喜ンデ用立ツ積リデアルガ、余ガ粒々辛苦デ書イタ是ガタダ一冊デアルカラ御用立チシタラ早ク見テ必ズ早ク返シテ下サルコトヲ懇願シテ置ク。

 又是ガクドクドシク下手長イコトヲ書イテアルカラ央バニシテ見厭キ下サルコトガアルカモ知ラヌガ、中ニハ是非見テモライタイ部分モアルカラ、ドウカイヤニナル様デモ終リ迄見テ下サル様、懇願シテ置ク。

 只此一冊デアルカラ途中紛失シテモ遺憾ダカラ小包ニテ送ルニモ書留小包トシテ出スコトニスルカラ御返シ下サルニモ其御積リニ願イタイ。

 又甚(はなはだ)御迷惑乍ラ小包ガ着シタラ葉書ヲ一本着シタト御通知ヲ願イタイ。

 此書ヲ東京ノ渋沢子爵ノ所ニ送ッタ。同家ニ居ラレル藤木喜久麿ト云フ人ガ活版ノ原本ニ書キ添ヘラレタ』     

***

田中梅治の句碑建立のいきさつと祝辞

 田中梅治の句碑建立のいきさつについて、梅治自身が書いた文章がありますので引用してみます。

『昭和十三年ノ春田所敏斎主人前政市氏ハ予ノ為メニ句碑ヲ建テテヤルト云ワレテ、斡旋大ニ勤メラレ、役場組合学校其他有志ラ奔走シ寄付金ヲ募集セラレ、一方下亀谷ニ於テ句碑トナルベキ石ヲ捜シ求メラレ之ヲ揚ケテ、下亀谷松田裕道君ニ彫刻ヲナサシメ、昭和十四年十二月十日、予ノ庭ニ石ヲ曳キ帰リ、仝月十三日其建碑式ヲ仝氏斡旋ノ下ニ盛大ニ挙行シ下サリタリ。其際土佐氏ハ実ニ予ニ取リテ過分極マル開会ノ挨拶ヲナシ下サレ、前氏ハ左ノ祝辞ヲ朗読ナシ下サッタ』

*

『祝詞

 時今ヤ初冬ノ候ト云、陽光燦々トシテ肌ヲ照ス今日ノ吉日ヲトシテ田中薄墨氏ノ句碑ノ序幕式ヲ挙行セラルルニ当リ、此処ニ列スルヲ得タルハ余ノ欣快トスル処ナリ。

 思フニ氏ハ青春ノ頃ヨリ村政ノ事務ニ携ハリ、明治以来本村自治ノ発展ニ貢献セラレ、特ニ産業組合ノ創立進展ニ向ッテハ其心血ヲ傾注セラレタルガ如キ大事業完成ノ中ニ、忙中閑ヲ得テ氏ノ文学的才能ハ益々発達シ、俳句ニ到ッテハ明治革新俳句ノ草分ケトシテノ功労者ト称スベク中央著名ノ俳士諸先生ノ選ニ入リシモノ其数ヲ知ラズ。嘗(かっ)テハ柚味噌会ヲ創立セラレ其指導ノ任ニ当ラレ、今ヤ五星霜ニ及ビ句会益隆盛ノ域ニ達シツツアルハ全ク氏ノ指導ヨロシキニヨルノ賜ナリト感謝ス。茲ニ柚味噌会同人相計リテ句碑ノ建設ヲ企画シ大方諸彦ノ賛同ト支持ヲ得テ漸ク今日句碑ヲ見ル。眼前ニ仰ギ見レバ髣髴トシテ恰モ氏ノ立テルガ如ク語ルガ如ク、氏ノ徳イヨイヨ現ハレテ、山茶花ノ下後日此父祖ヲ偲ビ江湖ノ俳人杖ヲ曳キテ碑前ニ追慕セン。

 氏ヨ願ハクハ自愛余命ヲ保タレ、益句作ニ精進セラレンコトヲ。氏ノ名ハ句碑ト共ニ永久ニ朽チザルベシ。

聊カ蕪辞(ぶじ・整わない乱雑な言葉)ヲ述ベテ祝詞トス

 昭和十四年十二月十三日    柚味噌会同人総代  前政市』

***

老人性せっかち症

 年を取るとさまざまな症状が重くなったり軽くなったりする。妻は友達や仲間が軒並み「老人性自己中症」や「老人性(精神)硬化症」にかかってきたと嘆いている。私の場合昔は「自己中症」が相当重かったのが年を取るにつれて和らいできた。妻の場合は最近「老人性せっかち症」がかなり進んできた。これは今に始まったものではないともいえる。本人も「ほんのちょっと待てばいいのよね」といつもいっているのだが、それがなかなか出来ない。

*

 先日妻が預金の払い戻しと振込みのために銀行に出掛けた。すぐ出てくるものと思っていたが、入ったきり中々出てこない。後から入っていった人が出てくるのに妻は中々出てこない。心配になってキャッシュコーナーに行ってみると、払い戻し機の前でなにやらやっている。

 預金の払い戻しの方はうまくいったのに、振込みがうまくいかないという。結局「この機械ではカードを使った振込みは出来ません」と言うメッセージがでた。もう一度やってみようということで、次は場所を変えて、別の建物の中に設けられているキャッシュコーナーに行った。これも中々出てこない。結局諦めて車に戻ってきた。カードが使えなくなってしまったのか、コンピューターが故障したのかどっちかだといっていた。

 もしかしたら私ぼけてきたのかもしれないと落ち込んでいた。

*

 次の日気持ちを切り替えて三度目の挑戦をした。今度はにこやかな顔をしてすぐに出てきた。一発でうまくいったという。聞くと、前日の場合は何回やっても「もう一度初めからやり直してください」というメッセージが出てきたそうだ。メッセージにしたがってボタンを押すのはいいのだが、一呼吸する間ほんのちょっと待っていれば自然に画面が変わるものを、それが待ちきれなくて、何度も何度もボタンを押すものだから、コンピューターが混乱したのだろうということになった。

 コンピューターがいくら早いといっても妻のせっかちさにはとても付いてゆけない。

 妻が老人性ぼけ症状を発症したのではなくて本当によかった。

***

これで大丈夫ですか

 先日コンビに入ってプリカを買った。店員がプリカを渡しながら「これで大丈夫ですか」と聞いてきた。

 私はなんのことだかわからず「何が」と聞き返した。

 よく説明を聞くと、「品物を袋に入れずに直接手渡ししますが、それでもいいですか」ということであった。察しのいい人はすぐにわかるのだろうが、あまりに省略されすぎていて、私には理解不能な一言であった。

 品物の代金として例えば千円手渡すと、「千円からお預かりします」とか「千円からでいいですか」と言われることがよくある。この言葉を聞くとなんとも言えず居心地の悪い感じがしてくる。「千円預かります」でいいじゃないかと思う。

 「から」ってどういう意味なのとつっこみをいれたくなる。

*

 年を取ると葬式のことも気になってくる。葬儀会社に出掛けていろいろ手続きをしようとしたときのこと、支店長らしき男性から、「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」と聞かれた。

 その言葉を聞いて、私はう~んと考え込んでしまった。すくなくとも一つの店を任せられている男である。しかもサービスを提供する店である。お客に対してそういう言い方は無いでしょうと思った。

 そこで私はおもむろに一言「いやだ」と言った。

 聞くほうも聞くほうなら、答えるほうも答えるほうである。

 気になる言葉に他には「私的には」とか「こじゃれた店」と言う言い方もある。皆さんはどう思われるでしょう。

***

後はおぼろ

 青江三奈の「恍惚のブルース」の中に

「あとはおぼろ あとはおぼろ

あゝ今宵また しのびよる 恍惚のブルースよ」

という歌詞がある。

 先日買い物に行くとき車が動き始めてから、妻が

「あなた、買い物袋をトランクに積み込みましたよね」

と聞いてきた。私は

「積み込んだような気がする」

 それに対して妻は

「私もあなたが積み込むのを見たような気がする」

と応えてきた。二人の意見が一致したので、間違いなく積み込んだのだろうという結論に達した。

*

 これが朝ごはんを食べたのに

「おれ朝ごはん食べなかったような気がする」

それに対して妻が

「私もあなたは朝ごはん食べなかったような気がする」

 二人の意見が一致したということで、朝ごはんの食べなおしをするようになったら、「あとはおぼろ あとはおぼろ」の恍惚の年頃に入ってゆく。

 こうなると二人とも先行き短いかもしれない。そして周りは大変だろうが二人とも幸せになれるだろう。 

***

そこまでやるか

 先日車の中で妻を待ちながらラジオを聴いていたら、次のような話をしていた。

その1

 地下鉄の中で女子高生が恥ずかしげも無く堂々と、制服を脱いで私服に着替えていた。

その2

 バス停の近くの交差点で信号待ちのために車を止めたら、車の窓を叩くおばあさんがいた。窓を開けて話を聞くと

「私、バスに乗り遅れたの。病院まで送ってくださらないかしら」

 車に乗せて病院まで送り届けて、なんだかいいことをした気がしていた。

 ところが別の日に同じ場所で車を止めて信号待ちをしていたら、先日車に乗せたそのおばあさんが、今度は別の車の窓を叩いていたそうだ。

 そのおばあさんはヒッチハイクをして、バス代をうかせていたのだろう。このせちがらい世の中はこうでなくては生きてはゆけない。

 妻は時々体育館のプールの中を歩いている。そのときに聞いた話です。

 最近プールの水面に人のお尻から出たものが浮いていたそうです。もちろん大騒ぎになってプールの使用は丸一日全面禁止になり、水は全部入れ替えたそうです。

 ことを起こした本人にはそれなりの切羽詰った事情があったんでしょうがそれにしても何を考えていたんでしょう。