「贖い」の翻訳問題
ーーー 贖罪論の混乱の原因
目次
1.序
2.何が問題か? ヘブル語とギリシャ語の「贖い」概念のズレ。
3.旧約における「贖い」という言葉。
KPR , PDH , GAL という3つの単語がある。
4.新約における「贖い」の用法 lutron (lutroosis) という単語
5.lutron は KPR と理解できるか?
6.贖い金
7.新約聖書では lutron 以外の単語で贖罪について教えている。
8.教父たちの贖罪論
9.付録 (その1) 和解と贖い
10.付録 (その2) 贖いの座(カポレット)という訳語
1.序
「贖い」、もしくは「贖罪」について、皆様どのくらい理解しておられるでしょうか。聖書の単語を日本語に訳すに際して、適切な日本語が見つからない場合は良くあることですが、その場合は、漢字(中国語)をそのまま使うというのが普通のやり方です。ところがこの「贖い」という言葉は大和言葉です。古事記にも登場する本物の日本語です。(訂正 古事記ではなく、日本書紀・神代上第7段 でした。お詫びして訂正します。日本書紀は漢文なので論理が成り立たなくなりますが、読み下し文で「贖う」となっています。)つまり、この言葉、および、概念は古くからの日本にあったということです。ですから、理解されて当然なのですが、この1500年の歴史の中で、死語(普通に使われない単語)になってしまいました。今日、普通の日本人にとって、「贖い」という単語を使う機会はほとんどないのではないでしょうか。意味も理解しにくい単語になってしまいました。
そういう現状ですから、贖罪論が判らないという日本人が出てくるのも仕方ないことです。しかし、これは日本文化に「贖い」概念がないということではなく、日本人が現代化して日本の文化伝統が判らなくなっているからなのです。日本の文化伝統が生きている時代の日本人なら「贖い」を理解できたということは知っておく必要があります。
ただ、古代の「贖い」と聖書の「贖い」が同じ意味であった保証はありません。概念というものは各民族ごとに、それぞれの文化伝統を踏まえて成り立っていて、同じ単語に訳せるからと言って、同じ意味である保証はありません。せいぜい、似ているという程度のことです。
これについては、欧米言語も同じことです。ヨーロッパ文明のもともとの本質はヘレニズムであり、言葉はインド・ヨーロッパ語族に分類されます。ところが、キリスト教のもとになったユダヤ・イスラエルはヘブライズムであり、言葉はヘブル語でセム語族に分類されます。セム語とインド・ヨーロッパ語族では、語族が異なるので、文法が異なりますし、言語の概念構造も異なります。ちょうど、日本語と英語の違いと同じ問題があるのです。ですから、翻訳といっても大変な作業で、言葉を置き換えるだけでは翻訳できない文章が出てきます。
ですから、聖書翻訳者たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。翻訳しきれなかったところや、一部に誤訳も発生しています。しかし、それを非難する資格のある人はひとりもいません。私たちがこれからなすべきことは、原文が手に入るのですから、自分でヘブル語、ギリシャ語の原典を調べて、翻訳の間違いを直し、自分なりに概念のズレを修正して理解する努力をしなければなりません。
「贖い」という言葉は、日本語に翻訳される場合の問題と言うより、ヨーロッパ言語に翻訳される際にすでに、ズレが生じているように思います。このズレの背景には、旧約と新約の「贖い」理解のズレという大問題があるのですが、この点を今日の発題の中で明らかにしてみたいと考えています。
贖罪論はキリスト教にとって根本的とも言えるほど、重要な教理ですから、この教えが混乱していては困るのですが、今のところ、ヨーロッパ神学では混乱しているという自覚そのものがなさそうに見えます。それゆえ、この混乱を解決しようと言う努力もなされていないように見えるのですが、どうでしょうか。私のような一介の牧師がそのような言い方をすることが許されるかどうか、判りませんが、寛容な気持ちで聞いていただき、誤りがあるなら訂正しつつ、今後さらに考察を深めてゆきたいと思います。
■ 旧約における「贖い」という単語の使われ方
まずは、「贖い」という訳語が、日本語聖書の中のどこに登場するかを見てみましょう。そして、その箇所がヘブル語、そしてギリシャ語(LXX)でどうなっているかを確認してみます。
1)レビ記1:4
「贖い」という単語がよく使われているのはレビ記です。その中のひとつだけを取り上げますが、レビ記1章4節を新共同訳は次のように訳出しています。
(新共同訳)
手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
「贖う」という単語のヘブル語は「KPR」(カーパル)です。この単語のもともとの意味は「覆う」ということで、おそらく「罪を覆う」というニュアンスから「贖罪」の意味を持つようになったと思われます。
このKPRをLXXはeksilaskomai と訳出しています。英訳(KJV)ではmake atonement となっています。
この単語はモーセ五書を中心に、旧約全体では84回使われていますが、祭壇において神に対して動物犠牲が捧げられることにより、罪の赦し、および、清めが実現するという意味で使われています。
2)出エジプト記13章13節
(新共同訳)
ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。
この場合のヘブル語はPDH(パーダー)となっています。LXXはlutroosisで、英語はredeemです。
この箇所の「贖い」の意味を明らかにすることは容易ではありません。PDHの本来の意味は「買い戻す」です。しかし、文脈では、お金が支払われる状況ではなく、「小羊をもって贖う」ですから、貨幣経済以前の社会状況を前提にこの単語が使われているものと思われます。
ついでに雑談レベルの話になりますが、「小羊の首を折る」というのはどうやって実行するのでしょうか。小羊と言ってもイヌくらいの大きさでしょうから、首の骨を折るにはものすごい力が必要です。しかも、何頭もの小羊の首を折ってゆくとなると、どんな大男でもすぐに疲れてしまうし、しかも現実的ではありません。
今のユダヤ人は小羊を捧げないので、この規定の意味はないのですが、今でもサマリヤ人は過ぎ越しの祭りにおいて小羊を捧げています。その場合の屠殺方法は、首を折るのではなく、首の頸動脈を切るというやり方をしています。これはもっとも合理的な方法です。おそらく、「首を折る」というヘブル語は、本当に首を折るというのではなく、別のニュアンスの意味があったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
日本語にも同じ問題があります。昔、日本の労働者が首切りにあって、路頭にまよったときに、アメリカで「日本では労働者が首を切られている。」と報道されたと言うことです。「首を切る」を cut his head と訳したのか、cut his neck なのか知りませんが、とにかく、直訳して報道したので、アメリカ人の多くが「日本人は何と野蛮なのか」と思ったとのことです。
「骨を折る」もそうですが、直訳してはならない単語はたくさんあります。同じことがヘブル語にもあるはずです。ヘブル語は実質的に一度は死語になった言葉で、イエス・キリストの時代でさえ、ヘブル語は日常会話の言葉としては使われていませんでした。その後、ヘブル語は旧約聖書、およびタルムードの言葉としてだけ伝わってきました。ですから、現代ユダヤ人でさえも、古代ヘブル語に精通しているとは言えません。なぜなら、現代ヘブル語は20世紀になって作られた人造語だからです。
現在、ユダヤ人が英語に翻訳したヘブル語正典( Complete Jewish Bible )が出版されていますが、そこにも明らかな誤訳が存在しています。現代ユダヤ人は古代イスラエル人を起源としていますが、古代イスラエル文化をそのまま継承しているのではありません。すでに発展をとげ、多くの変更を加え、現代社会に適合した宗教になっています。ですから、彼らが旧約聖書の正しい継承者であるわけがありません。
さて、それはそれとして、本題にもどりますが、「初子を贖う」という部分ですが、ここは、概念そのものが日本にはないので、どう訳しても意味が通じません。ですから、この訳は仕方がないかなと思います。
3)イザヤ書44章24節
さて、もうひとつの箇所も挙げておきます。イザヤ書44章24節を新共同訳は以下のように訳しています。
(新共同訳)
あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。
この箇所のヘブル語はGAL(ガーアル)です。LXXは lutroumenos としています。英訳(KJV)は your Redeemer です。
このGAL の意味は、辞書によると redeem となっていて、PDHとの意味の違いが見えてきません。使い方から推測すると、奴隷を解放することという意味合いが強いようなので、一応、区別のために「助け出す」、もしくは「解放」と訳しておくことにします。
このように、ヘブル語には「贖い」と訳せる単語が3つもあります。そして、それらが同じ意味ならば問題ないのですが、どうも別の意味を持っているように思われます。なぜなら、英語で訳し分けられているだけでなく、LXX(ギリシャ語聖書)で訳し分けられているし、ラテン語聖書でも訳し分けられているからです。特に、KPRとあとのふたつ、PDHとGAL とは明確に訳し分けられています。ですから、もともと別の意味であったことは間違いありません。
ではなぜ、日本語で訳し分けないのか・・・、その原因は中国語聖書にあります。
もっとも、その前に、日本語訳が訳し分けていないかというと、訳し分けてないわけではありません。というのは、ある箇所で「贖い」とし、ある箇所は「贖罪」となっていからです。もしくは、口語訳の場合は「あがない」とひらかなになっています。これらの表記の違いで訳し分けていると言い張ることも出来ます。それも、翻訳の難しさを考えるとやむを得ないことでしょう。しかし、概念的な訳仕分けが出来ていないことは明らかです。
さて、元に戻りますが、日本語の訳語の混乱の原因は中国語訳聖書です。いわゆる漢訳聖書です。この翻訳は、ブリッジマン・カルバートソン訳と言われる翻訳でモリソン訳の改訂版として1862年に出版されました。この翻訳にはアメリカ人宣教師であるブリッジマンとカルバートソンが係わっていたので、この名前となりましたが、この訳が日本語訳に決定的な影響を与えました。おそらく、日本語聖書の翻訳に携わったヘボン、ブラウンなどがアメリカ人宣教師だったということと、日本語としてはブリッジマン・カルバートソン訳のほうが日本語に置き換えやすかったことが理由でしょう。結果的に、日本語聖書(元訳)はブリッジマン・カルバートソン訳の改訂版のような内容になっていて、この漢文の読み下し文を手直ししただけの形になっています。ですから、中国語聖書に「贖い」となっているところは、日本語でも「贖い」となっていて、「贖い」の背後にあるヘブル語の違いを検討したようすはありません。
ですから、訳し分けない理由は中国語聖書が訳し分けていないからです。なぜ、中国語聖書が訳し分けをしていないかというと、それはアメリカ人が翻訳したからなのです。もっとも、アメリカ人でなくても、同じことなので、ヨーロッパ人が翻訳しても同じ結果になったでしょうが、とにかく、ヨーロッパ人は、KPRとPDA、GAL を区別して理解する発想がありません。
これについては、確認のため、私の友人の宣教師に質問したことがあります。「make atonement 」と「redeem」はどう違うのですか? すると、その宣教師が答えました。「同じ意味ですよ。」
英語聖書でこのふたつは区別して訳されています。ですから、違いはあるはずなのですが、その宣教師にとっては何ら違いは無いようです。そして、この理解の仕方は、彼ひとりのものでなく、かなり多くのアメリカ人の語感のように思われます。おそらく、聖書を中国語に翻訳したブリッジマン・カルバートソン宣教師も同じ感じ方をしていたのではないでしょうか。それで、KPR、PDH、GALを同じ単語で訳出することに躊躇を感じなかったのでしょう。
ですから、三つのヘブル語を訳し分けていない日本語聖書の問題は、日本語だけの問題ではなく、訳し分けているにもかかわらず意味の区別をしない英語の問題、さらには、ギリシャ語も含めたヨーロッパ語全体の問題でもあることに気が付かされます。
■ 新約での「贖い」
そこで、これを踏まえて、新約聖書で「贖い」がどの単語で表現されているかを見てみましょう。
1)マルコによる福音書10章45節
マルコ10:45がおそらく新約聖書の「贖い」を説明するときにもっとも良く引用される箇所だと思います。
(新共同訳)
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
(口語訳)
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。
ここで、あえて口語訳も並べておいたのは、新共同訳は問題ある訳語を使っているからです。新共同訳では「身代金」となっていますが、口語訳は「あがない」と平仮名で書かれています。
この訳の元になったギリシャ語は lutron です。英語は ransom です。これを新共同訳は「身代金」と訳しました。これは辞書レベルでは間違いではないのですが、文脈からすると誤訳とも言える不適切な訳です。
日本語で「身代金」と言う場合、誘拐事件の身代金という意味になってしまい、奴隷の解放金という意味にはなりません。この箇所は神学的に重要な御言葉なのですから、マルコの立場、および、聖書全体の流れの中で訳語を選ぶべきです。それをわざわざ誤解される言葉を選び出すとは、翻訳者のセンスを疑わざるを得ません。
2)ローマ人への手紙3章24節
(新共同訳)
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
(口語訳)
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
ギリシャ語では apolutroosis 、英語はredemption です。ここもマルコ同様、lutros と同系統の単語が使われています。
3)エペソ人への手紙1章7節
(新共同訳)
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
ここでは apolutroosis となっています。
4)ヘブル人への手紙2章17節
(新共同訳)
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
(口語訳)
そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
ここでは hilaskomai という単語が使われています。これはまさに「贖う」という単語ですが、新共同訳は「償う」と訳しています。これは lutronを「贖う」と訳したので、訳し分けるために hilaskomai を「償う」と訳したのですが、贖罪論の観点からするとまったく不適切な訳語選択となっています。なぜなら、hilaskomai こそが贖罪という意味を持つ単語だからです。
5)ヘブル人への手紙5章3節
(新共同訳)
また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。
(口語訳)
その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
ここで使われているのは prospheroo で、「献げる」という単語ですが、新共同訳は文脈から意訳して、原文にない「贖い」という単語を親切にも付け加えて訳してくれたのです。しかし、研究者にとっては邪魔な単語となっています。新共同訳にはこういうありがた迷惑訳がたくさんあるので、困ります。
6)ヘブル人への手紙9章12節
(新共同訳)
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ここでは、lutroosis で、lutron と同系統の単語です。
その他にも、多くの「贖い」の箇所がありますが、その大部分はlutron もしくは lutroosis 系の単語が使われています。ですから、新約を学ぶ人は、lutron こそが「贖い」であると理解して、ヘブル書2:17のようにせっかく hilasteerion という単語が登場するのに、こちらを「償い」と訳して、あたかもこれが贖罪ではないかのような印象を初心者に与えています。これは翻訳者がすでにボタンの掛け違いをしていることを示しています。これでは読者が混乱するのも当たり前です。
■ lutronはKPRと理解できるか?
以上の訳語の分析から、旧約では3つの単語(3つの系統の単語)が使われていて、その翻訳であるLXX、および、新約では2つの単語(系統)の単語が使われていることが判ります。訳語の対応関係は、KPRがeksilaskomai, hilasteerion, make atonement、 PDHとGALが lutroosis, redeem となります。PDHとGALは概念的に似ているので、同じ単語で訳されてもそれほど問題ありませんが、KPRとは意味が異なります。ですから、ギリシャ語(LXX)で訳し分けられていることは妥当であると言えます。
そして、KPRが犠牲を伴う祭儀での贖いであるのに対し、PDH、もしくは、GALは買い戻す、もしくは解放するという意味ですから、贖罪論でいうところの贖罪とはKPRのことであって、PDHやGALではないと判断しなければなりません。つまり、eksilaskomai, hisasteerion が贖いであり、lutronは別の意味なのです。
ところが、新約聖書では、lutronがもっぱら「贖い」の意味に使われていて、KPRの訳語であるekslilaskomai とか hilasteerion などは事例が少ないことから、「贖い」の主流では無くなっています。ここにボタンの掛け違いがあります。
もっとも、新約聖書におけるlutroosisの意味を検討してゆくと、その意味がギリシャ語本来の意味でのlutoroosisiではなく、eksilaskomai の意味で使われていると思われる箇所がいくつも見つかります。
マルコはlutronという単語を使っていますが、マルコ自身の意図は「贖い金」ではなく、「贖罪」と理解していたと思われます。その根拠は、マルコ福音書全体の強調点がイエスの受難であるということです。そして、この受難がイザヤ書53章の苦難の下僕を連想させるかたちになっていることです。
マルコ10:45にはlutronという言葉の続きに「多くの人のため」という文章があります。この表現はイザヤ書53:12を踏まえているように思えます。ですから、イエスの死は苦難の下僕同様、多くの人の咎を負ったケン祭(AShM 贖いの献げ物)と理解できるのです。
イザヤ書53章はキリスト教の贖罪論の出発点とも言える箇所で、ここにおいて展開されている神学こそが贖罪論として理解されなければなりません。そして、ここで説かれている考え方は、苦難の下僕が「贖い金」となったということではなく、53:10の表現によると、「咎の供え物」(AShM a tresspass offering レビ記6章のケン祭)となったということであり、民の罪を担って苦難にあって死んだということです。動物が死んだのではなく、苦難の下僕が死んだことが贖いであると主張されています。
この考え方がイエス・キリストの十字架に投影されたのが贖罪論なのであって、それ以外の教えを贖罪論というのは非常に問題であると言えます。また、この点を明らかにしない贖罪論と称する書物は、「贖い金神学」とは言えるでしょうが、贖罪論ではありません。
「贖い金」という場合、それを支払う側の人間に、支払うという苦痛はありますが、それが受難であるわけではありません。また、支払った人間が死ぬわけではありません。しかし、「贖罪」という場合、贖罪を担う人間が苦難を負わなければなりませんし、その人物が死を経験することにより贖罪が完成されます。ですから、マルコ福音書、および、その他の福音書でイエスの受難が強調されていますが、それが、「贖い金」としての死であるはずはありません。マルコはlutronという単語を使っていますが、そこに込められた神学は贖罪論であって、KPRとしての犠牲としてイエスは十字架で死につかれたのです。
マルコだけではありません。マタイ、ルカになると、イザヤ書53章を直接引用する箇所が登場します。マタイ8:17では「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」と書いています。ルカ22:37では「その人は犯罪人の一人に数えられた。」とイザヤ書53:12が引用されています。このイエスの死を「贖い金」lutronと表現することは相応しくありません。これこそケン祭であり、咎の供え物(hilasteerion)なのです。
エペソ1:7では、「御子の血による贖い」という表現がありますが、この「贖い」がapolutroosisで、ヘブル語ではPDHにあたる単語です。英語ではredeemになっています。しかし、「血による贖い」ですから、「買い戻す」という意味でのredeemではなく、犠牲による贖い atonement であることを強く示唆しています。
また、ヘブル書9:12では、「ご自身の血によって贖いを成就した」となっています。この「贖い」はlutroosis ですから、ヘブル語ではPDH, GAL系統の単語です。しかし、「血による」とは、「犠牲の血」ということですから、KPRの意味でなければなりません。
■ 贖い金
このように、新約聖書のlutronは「贖い金」ではなく、KPR「犠牲の献げ物」と理解すべきですが、ギリシャ人がlutronとKPRを混同する理由がないわけではありません。この点は、実に微妙なところなのですが、ギリシャ語訳聖書(LXX)において、「犠牲を献げる」と「奴隷の解放する」という動詞については明確に訳し分けられています。しかし、「贖い金」(奴隷の解放金)という名詞については、ヘブル語自体にふたつの単語があって、意味内容に区別がなされているようには見えません。
ひとつは KPRの名詞形で KPRという子音形は同じですが、コペルと発音します。もうひとつは PDYWM (PDYN)(パドヨーン)です。
KPR(コペル)という単語は、まさに「贖い金」という意味で使われています。
出エジプト記30章12節
(新共同訳)
あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。(人口登録費用として半シェケルを支払う。)
ここで「代償」と訳されているのがKPR(コペル)です。
出エジプト記21:30は以下のようになっています。
(新共同訳)
もし、賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。(牛が暴れて、角で人を突いて殺したとき、牛の所有者は賠償金を支払わなければならない。)
ここで「生命の代償」と訳されているのが PDYN(パドヨン)です。同じ日本語なのに、ヘブル語は異なります。ただし、意味はだいたい同じで、英語(KJ)ではどちらもransom と訳しています。
民数記3:46では、「初子の贖い」についての規定があります。
(新共同訳)
イスラエルの人々の長子の数は、レビ人の数を二百七十三人超過している。この人数分の贖い金が必要である。(ひとりあたり5シェケル)
こちらの用語はPDWYM(パドゥイーム)で、PDH系の単語が使われています。人口調査の時はKPR系の単語が使われていますが、似たような状況で、似たような金銭が神殿に支払われるのですが、意味は異なるのでしょうか。
このように、まだよく判らないところもあるのですが、「贖い金」については、すでにヘブル語の段階でふたつの単語が似たような使われ方をしていると思われます。
これらの箇所をLXXは、すべてlutron と訳しています。これがギリシャ語の贖い概念の混乱の原因になったのではないでしょうか。
もっとも、微妙な問題なので、確実な結論というわけにはいきません。はっきりしていることは、新約のlutronの本来の言葉の意味がヘブル語のPDHであるにも係わらず、KPRの意味で使われている箇所が多いと言うことです。そして、このような混乱した概念を持つlutron という言葉から学んだ教父や神学者たちは、言葉としてのlutronを贖罪論の中心概念として受け入れたが故に、PDHこそが「贖い」の中心テーマであると誤解し、その誤解の上に贖罪論を理解してしまったのです。この誤解は訂正しなければなりません。
■ lutron以外の単語で贖罪が教えられている
lutronという単語は、直訳すると「贖い金」となるのですが、イエスの十字架の意味は「贖い金」ではなく、「贖い」です。コペルやパドィームではなく、罪祭やケン祭の犠牲の献げ物です。そして、新約聖書のlutronは、「贖い金」という意味で使われている箇所もありますが、そこでは同時に「犠牲の献げ物」という意味も含んでいる箇所がたくさんあります。これについては、すでに指摘したとおりです。
新約聖書のヨハネ文書にも、また、ペテロ書簡にも「贖い」についての教えは繰り返し語られています。ところがこちらの文書については、贖罪論の教科書ではしばしば無視されています。その原因はこれらの文書ではlutronという単語が使われていないからです。おそらく、多くの神学者は、lutronが贖罪だと思いこんでいるので、「犠牲の献げ物」こそが贖罪であうという発想がないのではないでしょうか。ヘブル語から考えないからそのような過ちに陥ってしまうのですが、正しい贖罪論は lutron ではなく、KPRで考えなければなりません。
そこで、ヨハネ文書とペテロ書簡で「贖い」がどのように教えられているかを見てみましょう。
ヨハネにおいて、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」とされています。これは非常に明確な贖罪論です。なぜなら、小羊は「贖い金」ではなく、「犠牲の献げ物」だからです。
ヨハネ第一の手紙4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ここでヨハネは hilasmos という単語を使っています。これを新共同訳は「罪を償ういけにえ」と訳しています。「いけにえ」には別のギリシャ語もあるので、ここは意訳ですが、この意訳は間違っていません。また、hilasmosという単語もlutron系ではなく、KPR atonement系の単語ですから、レビ記的贖罪が教えられていることになります。
おそらく、ヨハネはlutron系の単語の曖昧さに気が付いていたのではないでしょうか。それゆえ、贖罪論を展開するのに、lutronを使わずに、罪の赦しと、キリストの犠牲について教えてきました。これは正しい贖罪理解であると言えます。
ペテロ書簡から2カ所取り上げてみます。
ペテロ第一の手紙1:18,19
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
ここで使われているのは、lutroosis ですが、「小羊のようなキリストの血」と言う表現もあるので、レビ記的贖罪であることが判ります。しかも、「金や銀によるものではない」と書くことにより、「贖い金」ではなことが明示されています。
まさに「金や銀のような朽ち果てるものではない」のですから、「贖い金」という表現はいくらなんでもキリストの十字架理解に相応しくありません。
ペテロ第一の手紙2:24
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
この箇所には「贖い」という単語は使われていません。それゆえ、従来、この箇所が贖罪論として引用されることはあまりなかったと思います。しかし、これこそ贖罪論という内容ですから、ここを省いて贖罪論を議論すべきではありません。
ヘブル書と並んで、この箇所はイエスの死をイザヤ書53章と関連づけていて、キリスト教の贖罪論の根幹を形成する御言葉となっています。これほど重要な箇所に「贖い」という単語が使われていないことが贖罪論の秘密ともいえることです。つまりは、lutron系の「贖い」という単語が、キリスト教の贖罪論に相応しくないとペテロは感じていたのではないでしょうか。この点、ヨハネと同じ発想です。
ヘブル書の贖罪論については、すでに触れていますが、再度ここでその内容を検討してみます。
ヘブル書は贖罪論のために書かれた書物なので、深い贖罪理解が展開されているのですが、ヘブル書の著者はlutronとhilasteelion を区別していません。それは、lutronが本来の「贖い金」ではなく、レビ記的贖罪の意味であると理解されていて、「贖い金」というニュアンスはまったくありません。
ヘブル書内での贖罪への言及箇所を検討してみましょう。
1)2:14
「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし」
ここには贖罪という言葉は使われていませんが、グスタフ・アウレン的な勝利者キリスト的贖罪論ならば引用される箇所になるでしょう。ですから、内容として、「悪魔に勝利する」という神学が聖書に無いわけではなく、また間違っているわけではありません。しかし、それが贖罪論と呼べるのかどうか、そして、それが贖罪論の中心かどうかです。ヘブル書は贖罪論について深い理解をしているので、悪魔への勝利という神学を否定はしませんが、それを贖罪論としては理解していないことをここで述べているのです。
2)2:17
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
ここで使われている単語は、hilaskomai で、KPR系の単語です。キリストの犠牲による贖いであることが明らかな単語を使っている点で、ヘブル書の贖罪論の深さが判ります。
3)7:27
「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」
ここにも「贖罪」という単語はありません。しかし、それ以上に正確な単語である「生け贄」、「犠牲」という単語が使われています。ギリシャ語は thusia という単語です。この単語こそ贖罪論の中核を表現するということを認識しなければなりません。
ここでは、十字架が神への生け贄であることが明言されています。この生け贄の内容は罪の赦しを求める罪祭、もしくは、同じ意味を持つ、ケン祭です。単なる燔祭ではなく、酬恩祭でもなく、罪祭であることを認めなければ贖罪論が成り立ちません。7:27はこの点を明言しているので非常に重要な箇所といえるでしょう。
4)9:12
「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
この箇所で使われているのは lutroosis で、eksilaskomai や hilaskomai でないのは残念です。しかし、意味は明瞭です。つまり、「ご自身の血という犠牲による罪祭」が捧げられたと言うことであって、「贖い金」が支払われたのではないのです。それゆえ、「永遠の価値がある」と認められるので、この贖いは「永遠の贖い」と表現されたのです。
5)9:26,28
26節
「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」
28節
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」
この箇所も贖罪論として非常に重要ですが、「贖い」という単語は使われていません。しかし、「生け贄」という単語は登場します。また、「多くの人の罪を負う」という表現がイザヤ書53:12とまったく同じであることは認識されなければなりません。
■ 教父・神学者たちの贖罪理解
教父・神学者たちの贖罪理解を纏めることは有意義ですが、多くの著作がありすぎて、今のところ、それらすべてを検討する時間はありませんでしたので、ここでは、解説書を孫引きして、一部の教父たちの理解を取り上げて、それらがいかにKPRを基本とする贖罪論からずれているかを確認しておくことにします。
キリスト教文書資料集(ベッテンソン編集、聖書図書刊行会)という書物があります。この中で「贖罪論」についての資料も集められています。それを自分なりに補足して纏めてみました。
エイレナイオスの贖罪論異端駁論5巻1:1が引用され、「贖罪をサタンに支払われた身代金であるとする最初の記述」と解説がなされています。
オリゲネスも「贖い金は支払われたか、神に支払われたか?」という議論を展開しているはずですが、この資料集には取り上げられていません。
アタナシウスは「受肉について」という書物の中で、「神の子が人類の身代わりとなった」と表現し、「ご自身の身体を父なる神に捧げられた」と論じています。これは妥当な贖罪論で悪魔との関連には言及されていません。
「イエスの死が悪魔をおびき寄せる餌であった」という表現はニッサのグレゴリウスの「大教理問答」に書かれているそうですが、400年頃の教父であるアクイレアのルフィヌス著「使徒信条注解」という書物にも書かれています。
ナジアンゾスのグレゴリウスは、悪魔との関連で贖いを説明することに批判的ですが、それ以外の教父たちの多くは、「悪魔をだます」というモチーフが気に入ったようで、アウグスチヌスまでもが似たような譬を用いています。
このような「悪魔への支払い」を否定したのがアンセルムスです。彼は「神はなぜ人となられたか」とうい書物の中で、「悪魔への支払い」を批判して、「贖い金は神に支払われた」と論じました。これは贖罪論解説書で、満足説と呼ばれることがありますが、アンセルムス自身が著書の中で「満足」という単語を中心に置いているわけではないし、この単語で彼の立場を理解することは不充分だと思います。
アンセルムスは「贖い金を払う」という理解を残した点で、やや問題があるとは思いますが、「神がその贖い金で満足した」という理解に留まるのでなく、犠牲の重要性を説いている点で、正しい贖罪論への方向性を持っていることは認めなければなりません。
カルバンは「キリスト教綱要」第2巻17章で贖罪について教えています。「イエスの死は身代わりの刑罰であって、その犠牲によって和解が完成し、神への宥め(placatio)の供え物として受け入れらた。」と論じています。
新約聖書と一致する贖罪論であることは素晴らしいと思います。ただ、ここで使われている単語は Promeritum であって、「贖い」ではないというところにヨーロッパ言語の限界というか、難しさが現れています。また、「贖いの価はキリストの死によって支払われた。」と表現して、「支払う」という概念への批判は見られません。
おそらく、日本と同様に、ヨーロッパの教会の説教では贖罪論は正しく教えられていたのではないでしょうか。なぜならヨーロッパで出来た賛美歌を見る限り、そこには非常に正しい贖罪論が歌われていて、悪魔への支払いとか、神の満足などの表現は見あたらないからです。イエスの十字架が贖いの犠牲であることはヨーロッパ人庶民にとっては明確だったのです。ただ、神学者だけが混乱していたと言うことは、皮肉な話しです。
しかし、神学が混乱していては困るのです。今後、atonementと redeemの区別を念頭に置きながら、旧約のKPRを継承する意味での贖罪論を神学の教科書レベルでも常識にしていただけないかと思います。ヘブル語の「贖罪」を分析することなく、レビ記の贖罪を紹介することなく、ギリシャ語で「贖罪」を議論するかぎり、再び「買い戻す」とか、「悪魔に支払う」という概念の贖罪論が広まる危険性があります。そうならないためにも、旧約の伝統の上で、贖罪論を教えていただきたいと強く願っています。
■ 和解と贖い
「贖い」の翻訳問題で、もうひとつ注目すべき言葉は「和解」です。「和解」はギリシャ語で katallassoo ですが、この単語はローマ人の手紙5章の重要な箇所で使われています。日本語で考えると、「和解」とは「仲直り」ですから、重要ではあるにしても、「和解」と「贖い」の関連性は見えてきません。
ところが、ヨーロッパ語への聖書翻訳を調べていくと、「和解」と「贖い」がヨーロッパ人にとって同じニュアンスの言葉として受け取られているらしいことが判ります。この点、日本人にはなかなか理解できないことで、私も充分に解説できないので、ここでは、「和解」と「贖い」が関連しているという事実だけを指摘し、あとは、ヨーロッパ語がニュアンスや語感まで判る人に研究して貰い、いろいろ教えていただきたい願っています。
「和解」にあたるヘブル語もあるはずですが、旧約の中で神との関係を意味する単語としては使われていません。その点は日本語と同じです。おそらく、ヨーロッパ語に特有の概念なのでしょうが、私が気が付いたのは英語とドイツ語についてです。その他のヨーロッパ語でどうなているかは、どなたかに研究して貰いたいところです。
さて、有名なのは、ローマ書5章11節の「和解」katallageeがKJVでは atonement と訳されていることです。素人的に考えると、「ここは誤訳だ」と思ってしまうのですが、atonement という単語の古い意味は「和解」であるとオックスフォード英語辞典に載っています。ですから、間違いとは言えないのです。
atonement の語源は at one ment で「ひとつになる」と言うことなので、「贖い」よりも「和解」のほうに近い意味のように感じられます。そして、おそらく、キリスト教が入る以前のゲルマン社会で行われていた動物犠牲の行為が「atonement」と言われていたのではないでしょうか。その意味は「和解」でした。それがキリスト教の「贖い」の訳語として用いられることにより、atonementが「贖い」という意味内容まで持つようになったと考えられないでしょうか。
ドイツ語の場合は、古い用法がいまでの残っているように思われます。ルターのドイツ語聖書翻訳を見てみると、旧約のKPR「贖い」にあたる単語はSuehneで訳されています。PDH, GALに当たる単語はErloesen で訳されています。新約のlutronはErloesung と訳される場合が多いようです。そして、katallagee「和解」は Versohnung と訳されています。ですから、一応訳し分けられているのですが、何と、ヨハネ第一の手紙4:10 にある hilasmos 「贖い」という重要な単語が Versoehnung で訳されています。
Versoehnen を辞書で引いてみると、「宥め、和解、贖い」と出ています。ですから、ルターが間違っていたわけではありませんが、それでは katallasso と lutroosis の区別が出来なくなってしまいます。また、Erloesen とVersoehnen の概念的違いを説明することも難しくなります。
これ以上の分析はドイツ語の力がないので出来ませんが、今後の研究課題であることは見えてくるのではないでしょうか。ドイツ語では「贖い」概念の分析はかなり複雑だということです。
そういう知識を前提に思いつくことは、バルトの「教会教義学」に「和解論」という項目がありますが、この「和解論」とはドイツ語では、おそらく「贖罪論」というニュアンスがあるのではないでしょうか。ドイツ人に、「和解論と贖罪論はどう違うのですか?」と尋ねてみたいところです。
■ 「贖いの座」という翻訳の是非
なお、付録として「贖いの座」という言葉の翻訳問題についても触れておきます。この単語の翻訳は神学問題ではないので、それほど重要とは言えませんが、LXXから引き継ぐ、かなり根深い誤解のように思いますので、皆様のご意見を伺いたいと思っているテーマです。
この翻訳問題は、LXX時代から、長い歴史の中で引き継がれてきた問題で、すべての翻訳者たちが間違いを犯し続けてきたのかという問題ですが、「そんなことはない」と主張する人もいるでしょうから、もし私が間違っているなら、寛容な気持ちで教えていただければと思います。
さて、「贖いの座」の翻訳問題はたいして複雑ではありません。モーセ五書に KPRTh (kapporeth カポレット) という単語が出てきます。全部で27カ所に使われています。これをどう訳すかという問題です。
口語訳は「贖罪所」とし、新共同訳は「贖罪の座」としています。これはLXX(70人訳ギリシャ語聖書)以来の伝統に則った訳ですから、私などが誤訳だなどというとお叱りを受けることになるだろうと思いますが、あえて指摘しておきたいと思います。
Holladayのヘブル語辞書を開けて「カポレット」の意味を調べると、「 performance of reconciliation / atonement 」 となっています。ですから、辞書からすると「贖罪の行為」ということで、「贖罪所」という訳がまったくの誤訳であるとは言えません。しかし、このような辞書も含めて、従来の翻訳全体がはたして妥当なのかという疑問を持つことは可能です。
どうして、これが誤訳であるかを論じる前に、まずは、LXXの訳がどうなっているかを確認しておきます。
LXXは前3世紀頃に訳された文書ですから、権威はあります。「カポレット」はその中で hilasteerion となっています。この単語の意味は that which expiates or propitiates であり、語幹である hilasmos は贖罪という意味です。これはKPRが贖罪を意味する単語なので、それに対応する訳語を選んだ結果で、別に問題ないようにも思えます。
これがラテン語に翻訳されると propitiatorium となります。ドイツ語は Gnaden thron 、英語 (KJV) は a mercy seat という面白い訳になっているのですが、これは別のテーマになるので、今回は触れません。
文語訳は、中国語(ブリッジマン・カルバートソン訳)を踏まえて、これを「贖罪所」と訳しました。口語訳はこれを踏襲し、新共同訳は、英訳が mercy seat となっていることを考慮して、「贖罪の座」と訳したのです。
翻訳は、過去の伝統にも考慮しなければなりませんから、日本語訳が不当であると主張するつもりはありませんし、今後もこの訳で翻訳して貰いたいと思いますが、はたして、出エジプト記を書いた著者は、本当にこの単語(カポレット)を贖罪の場所という意味で使ったのでしょうか。出エジプト記の当該箇所を厳密に読んでゆくと、そのような疑問をぬぐい去ることは出来ません。
検討すべき箇所は出エジプト記の25章です。ここには、契約の箱の作り方が書かれていて、17節で、「純金の贖罪所」、もしくは、「純金の贖いの座」を作りなさい、と命じられています。この訳では、カポレットが座か、部屋のようなものと理解されてしまいますが、「寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。」と大きさが指定されていて、平らな物であることが判ります。いったいこれは何なのでしょうか。
このカポレットの上には2体のケルビムがあって、契約の箱を権威付け、「神はこのケルビムの間からイスラエルに語りかける」となっています。
当初、私はこの場所で動物犠牲が捧げられるのだとばかり思っていましたが、考えてみると、契約の箱はアカシヤの木で出来ているので、ここで動物を献げると、箱が燃えてしまいます。しかも、祭壇は契約の箱の横に置かれているので、ここで動物犠牲が捧げられることはあり得ません。ですから、「贖罪の場所」ではないのです。
レビ記16章13節、14節によると、動物の血がこの場所に振りかけられ、香の煙がこの場所を覆うようにせよと命じられています。贖いと関係がないわけではありませんが、この場所が贖いの場所とか、贖いの座というのは誤解を招く翻訳ではないでしょうか。
そこで、再度、カポレットというヘブル語を眺めたのですが、これはなんのことはない、もともと「箱の蓋」という意味なのです。KPRのもともとの意味は「覆う」ということであり、カポレットは「覆う物」から「蓋」という意味で使われていると考えると文脈が自然になります。
そこで、再度、出エジプト記の記述を調べ、「贖罪の座」の代わりに「蓋」と訳して読み直してみると、何ら問題ない文章が出来上がりました。著者は、この蓋を美化したり、権威付けたりする意図はまったくなさそうで、実に淡々と契約の箱と蓋についての記述を進めています。「贖い」との関連を示唆する文脈はまったくありません。ですから、これは「蓋」と訳すべき単語ではないでしょうか。
LXXは、カポレットがKPRの派生語であることから、hilasteerion と訳したのですが、これは誤訳というか、勘違いであると考えて間違いありません。
その後、ラテン語訳を始め、ほとんどすべての翻訳がLXXを踏襲して、誤訳された単語を訳してきたということになりますが、こういう歴史があるというのも面白いことだと思います。
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