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アナバプテストの歴史的展開



アナバプテスト(再洗礼派)の始まりと発展の歴史



■      目次

第1章   はじめに

第2章   前史
フス急進派、エラスムス、ルター、ドイツ農民戦争、イスラム教の脅威


第3章   アナバプテスト運動の始まり
スイスの歴史、ツヴィングリ、マンツ、グレーベル、1525年の成人バプテスマの実施

第4章   スイスにおける運動の広がり
ブラウロック、マンツの殉教、ロイブリン

第5章   南ドイツにおける運動の広がり
ヴァルズフートのフープマイヤー、ザトラー、アウグスブルクのアナバプテストたち、デンク、フート、殉教者会議

第6章   モラビア、チロルのアナバプテスト
ニコルスブルクのフープマイヤー、ヴィーデマンと財産共有制、チロルのフッター派(フッタライト)の始まり、ブラウロック、フッター、フッター派のモラビア移住、その後のフッター派、歴史書の成立

第7章   ストラスブールのアナバプテスト
ストラスブールの宗教改革、ツェル、カピト、ブーツァー、ストラスブールでのアナバプテスト運動の始まり、マーペック、宗教改革急進派、アルザスのアナバプテスト、メルキオール・ホフマンの登場、カルバン

第8章   オランダのアナバプテスト
オランダの歴史、サクラメンティスト、ホフマンの弟子たち、ミュンスター事件、オランダ・アナバプテストの分裂、メンノー・シモンズとメノナイト派の成立

第9章   バプテストとメノナイトの微妙な関係

第10章  アーミッシュ (メノナイトの分派)








■      第1章   はじめに


アナバプテストの歴史的重要性については、一部の人は認めていますが、ほとんどの人は、その存在さえあまりよく知らないのではないでしょうか。その理由は、アナバプテストがその発生当初から、カトリックからもプロテスタントからも迫害され、おもな活動拠点であったドイツ語圏で軽く見られる傾向があったことです。今でもドイツ語のキリスト教史の本にはアナバプテストへの言及のないものが多数あります。日本はドイツ語文献を重視する傾向が昔からありましたので、日本語の歴史書も、アナバプテストを抜かして歴史を記述することになったのです。戦後、英語文献をも参考にしながらヨーロッパ史を学ぶことになり、ようやくアナバプテストの存在も広く知られるようになってきましたが、いまだに充分に広く知られているわけではありません。アナバプテストは近代精神の土台を作ったグループであり、信仰の自由、政教分離の主張の出発点ですから、この運動を知らずに近代を語る資格はありません。ここでは、私なりに纏めたアナバプテストの歴史を紹介し、多くの人にアナバプテスト運動への関心を持っていただきたいと願っています。

歴史というものは、纏め方によって様々な姿に描かれます。私の場合、バプテストという立場に立っているので、アナバプテストを支持するのは当然のことですが、絶賛しているわけではありません。アナバプテストの良いところ、悪いところをそのまま見るように努めているし、またそれが出来る立場です。アナバプテストの歴史的直系であるメノナイトの方々は、アナバプテストをメノナイトの立場から評価するのですが、それはそれで素晴らしいものであるにしても、一部、メノナイト的に記述しているところもあると思います。アナバプテスト運動は、幼児バプテスマの否定と成人バプテスマ(信仰者バプテスマ)という二つの原則以外は、多様な神学理解を持つ人々が入り込んできて、各地で多様で、複雑な運動を展開し、その大部分が消えていきました。今日まで存続しているのが平和主義的原則を持つメノナイトなのですが、かつては平和主義的でないグループもあったし、メノナイトとは別の立場のグループもあったことを明らかにしてみたいと考えています。歴史理解の違うところについては寛容な気持ちでお付き合いいただければと思います。

なお、ここに紹介する物語の半分以上は「メノナイト百科事典」に書かれていることのご紹介です。メノナイトは世界中で活動していますが、それほど大きな教派ではなく、どちらかというと少数派です。しかし、自らの歴史について詳細な記録を残しています。誰が、どこで、どのように殉教したかなどは、中世の裁判記録を調べ上げて、読めば判るように纏めています。これはとても素晴らしいことであり、学問への大きな貢献であると高く評価できます。これからアナバプテストを研究する人々も、この百科事典を研究の出発点とすることをお勧めしたいと思います。メノナイトの研究者の方々には心から感謝いたします。

なお、アナバプテストという用語は、英語の anabaptist の直訳で、日本語では「再洗礼派」と呼ばれることもあります。バプテストの立場では、バプテスマは浸める儀式であるべきだと主張しています。その理由は、ギリシャ語の「バプティゾー」が「浸す」という単語だからです。「洗礼」という訳は誤訳なので、使わないのが慣例となっています。それゆえ、「再洗礼派」という単語もよろしくないので「アナバプテスト」という訳語を使うことにします。ご了承ください。




■      第2章   前史


アナバプテストを理解するためには、その前提としてキリスト教史全体の流れを知っておく必要があります。しかし、ここではそのすべてを解説する余裕はないので、前史として位置づけられるフス派の活動、エラスムス、ルターを取り上げて、簡単に纏めておきます。

フスの存在は、宗教改革自体の前史として重要ですが、アナバプテストとしても避けて通ることはできません。それはフス派の急進派の中から幼児バプテスマ否定論が生まれたと思われるからです。フス個人についての解説は宗教改革関係の歴史に委ねますが、フス処刑のあとに起きたフス戦争は当時の社会に大きな影響を与えただけでなく、フス派の中の急進派の残党は宗教改革時代まで存続していて、ドイツ農民戦争、アナバプテスト運動に影響を与えています。ルター不在中のヴィッテンベルクに現れたツヴィカウの予言者たちと呼ばれる3人の人物はその残党であったと言われています。彼らはドイツ語による説教、二種聖餐、聖画像破壊を主張し、ヴィッテンブルクの宗教改革に大きな影響を与えました。彼らが幼児バプテスマの否定まで主張したかどうか定かではありませんが、この時代以降、幼児バプテスマ否定論が話題になりますので、もともとはフス急進派の主張であった可能性はかなりあると言えます。それは1518年のことです。アナバプテスト運動は大人のバプテスマ(成人バプテスマ、信仰者バプテスマ)を実践することですが、その前提には当時の人々が受けていた幼児バプテスマが間違いであったという理論が必要です。それを最初に主張したのがフス急進派(タボール派)であったということです。

フス戦争の始まりは、1415年7月6日、フスがコンスタンツ(スイス・ライン川沿いの町)で火刑に処せられたことです。この事件に腹を立てたフス派の人々はボヘミヤ王ヴァーツラフ4世と対立し、1419年、プラハ市庁舎を襲撃して、国王派の市長と市参事会員を市庁舎の窓から放り投げて殺害しました。ここからフス派と国王派の軍事衝突が始まりました。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝はボヘミヤ国王(チェコ国王)を支持し、フス派討伐の十字軍を送りましたが、ヤン・ジシュカ(Jan Zizka)率いるフス派軍の前に何度も打ち破られ、結局、軍事的勝利は最後まで得ることはできませんでした。

フス派の勝利の理由は、ヤン・ジシュカの軍事的才能という面もありますが、このとき、フス派が採用したマスケット銃にあるのではないかと思います。日本の火縄銃より100年ほど前のことになりますが、この銃がどこで誰の手によって発明されたかは明らかではありません。少なくとも、フス軍はこの銃を使っていて、国王軍は使っていなかったわけですから、ヤン・ジシュカ率いるフス軍の歴史的重要性は非常に大きいと言えるのではないでしょうか。

結局、1424年、ヤンがペストで死去すると、フス派内部に分裂が起こります。国王派との和解を目指す穏健派が急進派に勝利し、二種聖餐を許可するという条件のもとにボヘミヤはカトリックに復帰することになり、フス戦争は終わりとなりました。しかし、急進派がすべて滅ぼされたとは考えられません。各地に少数ながら聖書原理にもとづく教会を作ろうとする人々がいたのではないでしょうか。その流れの中からツヴィカウの予言者たちが現れてきたのでしょう。



エラスムスのアナバプテストに与えた影響について、従来見逃されてきた面もあるので、ここで強調しておきます。エラスムスはカトリック教会そのものを批判したのではなく、教会の健全化を願っていた人物で、彼のカトリック教会批判の書「痴愚神礼賛」は当時の社会で広く読まれ、教会批判のうねりを作り上げました。よく言われる言葉ですが「エラスムスの産んだ卵をルターが孵した」という面があるのは事実です。ルターを除いて、宗教改革者の大半はエラスムス主義者であったという事実を考えると、エラスムスの影響力の大きさが判ります。エラスムスの弟子の代表者はツヴィングリであると言っても間違いではないでしょう。しかし、ルターはエラスムスとはまったく違うタイプの人間でした。彼はカトリック批判など毛頭考えたこともなく、おそらく、エラスムスの著作など読むこともなく、修道院で熱心に祈りと苦行の生活をしていたと思われます。あまりに完全な修道生活を求めた結果、彼自身が自分の修行に満足できず、自分の不完全さと不信仰に悩んでいました。そういう中で新約聖書のパウロ書簡に出会い、悟りを開くことが出来ました。救いは修行ではなく、信仰のみによってもたらされると確信できたのです。ちょうど、その時、彼の住むヴィッテンベルクで免罪符(indulgence)の販売が始まりました。「免罪符は聖書の教えに反するので、当然教皇様はお認めにならない」と確信して、免罪符批判を始めました。彼の頭の中にはカトリック教会批判や教皇批判など少しもありませんでした。ところが、エックとの論争の中で、ルターの主張とフスの教えに同じところがあると指摘され、ようやく教皇制度の問題点に気付いてゆきます。ところが、ルターを支持する宗教改革者たちはエラスムスの教会批判をすでに学んでいたので、カトリック教会批判、修道院批判、修道士の独身制批判の運動を始めていて、ルターが気が付いたときは、すでにそのうねりを止めることはできないほどになっていたのです。

そのような宗教改革者の代表がツヴィングリです。宗教改革のうねりを作り上げたのは彼だけではありませんが、彼のようなエラスムス主義者が当時たくさんいたということです。ルターの不在中にヴィッテンベルクの宗教改革を主導したのはカールシュタットですが、各地にいるエラスムスの弟子たちが一斉にルター支持を打ち出したのです。

アナバプテストとの関連で重要なのは、アナバプテストが最終的にはルターのいう奴隷意思論を受け入れず、エラスムス同様の自由意思論の立場に立っていることです。アナバプテストたちはエラスムスから学んだつもりはないでしょうが、おそらくツヴィングリ経由での影響だろうと思われます。また、エラスムスの持っている平和思想、宗教的寛容についての教えも、ルターにはありませんが、アナバプテストたちの中で受け入れられています。そういう意味で、エラスムスはアナバプテストの先駆者としての面もあるということは知っておいて良いと思います。


ルターについては、アナバプテスト運動の敵対者としての位置づけられてきましたが、ヴィッテンベルクや北ドイツでアナバプテスト運動はあまり盛んにならなかったからであろうと思いますが、ルターの著作の中でアナバプテストに言及することはほとんどありません。・・・というか、今のところ見つかっていません。アナバプテスト側から見ると、ルターの起こした宗教改革が不徹底であり、アナバプテストを迫害するのがルター派牧師たちであったことから、ルターを敵対者と思うのも仕方のないことだと思われます。しかし、ルターの著作がアナバプテストに影響を与えただけでなく、彼の神学がアナバプテストの神学的土台を作っているという現実を認識しておくことも必要ではないかと思います。「ルターなしにアナバプテストはない」と言えるほどルターの存在は大きなものがあります。従来のアナバプテスト理解では、ツヴィングリの弟子たちが始めた運動なので、ルターの役割と影響についてはほとんど指摘されない傾向がありました。しかし、実際はチューリッヒの宗教改革自体がルターの影響を受けたものでしたし、アナバプテト運動もルター、およびドイツの宗教改革と切り離すことの出来ない構造になっていることは認識されなければなりません。とくに、ミュンツァーやカールシュタットなどの宗教改革左派との交流はアナバプテスト運動の初期において非常に重要な影響を与えていますし、ドイツ農民戦争に敗れた人々がアナバプテスト運動に流れて来るという構造になっていることも忘れることはできません。

また、何といっても、幼児バプテスマの否定論の論理的根拠は信仰義認であるということは、今まであまり指摘されていなかったのではないでしょうか。信仰義認とは、「イエスを信じる人が義とされる」という論理です。ゆえに、イエスを信じ、告白することのできない幼児(infant 嬰児)はまだ救われてないことになります。そういう幼児にバプテスマを授けることはできないというのは、非常に自然な論理であると思われます。この論理について、カルヴァンは理解していた可能性があります。ゆえに、カルヴァンは信仰義認よりも予定説を重んじることになるわけですが、それは予定説ならば幼児バプテスマを肯定できるということです。どちらが正しいかは横に置いておきます。論理の構造としては、予定論からは幼児バプテスマの否定は生まれません。しかし、信仰義認論を徹底すると幼児バプテスマの否定になり、さらには、大人になって信仰を持ってから成人バプテスマを受けるべきであるという結論になるのです。そういう意味で、ルターなしにはアナバプテストは存在しなかったと言えるでしょう。





<ドイツ農民戦争との関係>


アナバプテスト運動とドイツ農民戦争の関係は実に微妙です。ドイツ農民戦争が勃発しているさなか、チューリッヒにてアナバプテスト運動が始まったのであり、のちにアナバプテスト運動に参加する多くの人々はドイツ農民戦争の支持者であり、農民戦争の敗北後アナバプテスト運動に加わってきました。しかし、両者にははっきりした違いがあります。農民戦争は武器をとって領主に抵抗・反抗する運動です。それに対して、アナバプテストの最初の指導者たちは「武器を取って戦ってはならない」と考えていました。

また、宗教改革急進派ともいわれるプロテスタント系神学者たちがいました。カールシュタット、のちにはセルベトスのような人物まで含めると、各地にいろいろな神学を持った人物がいたのですが、彼らとアナバプテストも微妙な関係にありました。

それからもうひとつ、アナバプテストが迫害された理由のひとつに当時のヨーロッパの政治情勢があります。当時の人々にとってイスラム教、つまり、オスマン帝国の脅威は今日、私たちにはあまりピンと来ないかもしれませんが、非常に大きなものがありました。1453年、オスマントルコはコンスタンチノープルを攻略し、東ローマ帝国を滅します。町は破壊され、教会は壊され、東方正教会の主だった人々はモスクワへと落ち延びました。その後、オスマン帝国はヨーロッパ侵略をはかり、1529年、宗教改革のさなか、ウィーンを攻撃して、ヨーロッパ中を震え上がらせました。しかし、幸いにも雪が降るなどの悪天候のため、イスラム軍は撤退し、ウィーンは守られました。その後、1683年にも二度目のウィーン攻略戦が繰り広げられることになります。

こういう世界情勢ですから、キリスト教会は結束してイスラム教と武器をとって戦う必要性に迫られていたのです。そういう状況の中で非武装無抵抗を掲げるアナバプテストたちは支配者たちからはもちろん、民衆からも反社会的勢力とみられたのです。もちろん、アナバプテストたちは聖書の教えを文字通り実践しようという信仰的情熱で行動していたのであり、イスラム教は、堕落した教会を罰する神の御手に見えたことでしょう。どちらが良いとか、正しいとか言う資格は今の私たちにはありません。しかし、そういう政治情勢であったことは知っておかなければなりません。





■      第3章   アナバプテスト運動の始まり


<スイスの歴史>


さて、以上を踏まえた上で、アナバプテスト運動の直接の始まりとなるスイス宗教改革について纏めておくことにします。そのためには、やや横道かもしれませんが、スイスの歴史とツヴィングリの生い立ちをご紹介します。

スイスは、今でもEUに入らず、通貨もユーロでなく、スイスフランを使うなど、ヨーロッパの中では特殊な国のひとつですが、そうなるにはスイスならではの歴史と理由があります。スイスはアルプスの山の中の国であって、もともと、貧しい山間の町や村にしかすぎませんでした。それがどうして神聖ローマ帝国(オーストリア)から独立して、ひとつの国になることができたのかというと、それはそれなりの経済力があったからでした。

どうして経済力があったかというと、それは・・・ドイツとローマを結ぶ交通の要所に当たっていたからです。アルプスの山々は4000メートルほどもあり、夏でも氷河に覆われていて、大昔には人がアルプスを超えて旅をすることは出来ませんでした。しかし、10世紀頃から峠越えの道が見つかり、また、装備も立派になってきて、夏の間、アルプス越えの旅人(商人)が増えてきて、スイス地方は彼らの宿場町として栄えるようになりました。旅人たちはヨーロッパ各地の物資を運ぶだけでなく、各地の情報をもたらし、スイス人の視野が広まりました。また、旅人たちが落としていくお金により、経済的にも豊かになりました。それにより、神聖ローマ帝国、つまり、オーストリアの高い税金に不満を感じ、独立への願いが生じたとき、それを可能にする軍事力を持つだけの資金力を持っていたのです。

スイスは1291年独立をはたし、スイス建国を達成しました。このときの話しがウィリアム・テル物語として伝えられています。この物語は史実であるとか、無いとか、歴史学としては議論されていますが、この物語にあるような反オーストリア感情は存在したわけで、また、物語の中に登場するクロスボウのような弓が使われていたのは事実であって、そういう武器があるから独立できたのです。

私がチューリッヒのレストランで、ワインを飲んでいるスイス人の言うことを耳にしたことがありますが、彼らはしきりにオーストリア人の悪口を言って盛り上がっていました。独立からすでに700年もたっているのですが、民族意識はあまり変化していないことが判ります。

スイス独立のときは3つの州(カントン)だけでした。カントンとは、アメリカの州のようなもので、かなりの自治権が与えられています。その後、ベルン、チューリッヒ、バーゼルなどが加わり、次第に大きくなってきました。ジュネーブがスイスに加盟したのは宗教改革よりずっとあとの1815年、ナポレオン戦争後のことです。

スイスは宿場町として栄え始めましたが、独立後、それだけでは充分な繁栄はできないと考えたのでしょうか、青年たちをヨーロッパ各地に傭兵として派遣し、その仕送りにより富みを築きました。ですから、スイスにはヨーロッパ中の貨幣があつまり、それを両替する必要から、銀行業が発達しました。

また、宗教については、早くからキリスト教化されていましたが、コンスタンツとバーゼルに司教座があり、チューリッヒはコンスタンツの司教座の支配下にありました。そして、スイス傭兵をローマ法王庁の防衛のために派遣していました。ローマ教皇は、スイス傭兵のまじめさと忠実さを大変喜び、大切にしていたとのことです。

イタリアの政治情勢を知っておくことも大切です。イタリアが統一されるのは1861年のことです。宗教改革当時は、イタリアは群雄割拠の状態で、イタリア各地の領主たちはローマ教皇を尊敬しているとはいえ、攻め込むこともあり、政治的には対立関係にありました。ですから、ローマ教皇は自分自身を守るためにスイス人傭兵が必要だったのです。ツヴィングリはルターと違って、ローマからなかなか破門されなかったのですが、その背景にはローマがスイス傭兵に頼っていたので、スイスに対する政治的配慮が働いたとも言われています。また、今でもバチカンに兵隊が立っていますが、そこで働いているのは今でもスイス人です。




<フルドリッヒ・ツヴィングリ>

さて、スイスに宗教改革をもたらし、その後の歴史に大きな影響を与えた人物はフルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldreich Zwingli)です。彼は、ルターに遅れること、わずか2カ月、1484年1月1日にサンクトガレン南方、ヴィルドハウスという山村に生まれました。彼はサンクトガレンの司祭である叔父の元で教育を受け、1498年からヴィーン大学で、1502からバーゼル大学で学びました。彼は学生時代、エラスムス主義者のヴィッテンバッハの影響を受けたと言われています。1506年、民主主義の発生地とも言われるグラールスの司祭となり、ここで10年ほど牧会経験を積みました。彼の雄弁な説教は人々の心を捉えました。1513年と1515年には、ローマ教皇に雇われたスイス傭兵部隊従軍司祭として、マリグナの戦いに参加し、戦争の悲惨さを目の当たりにしました。この頃、スイス傭兵を教皇のため以外には提供すべきでないと主張する論文を書き教皇を大変喜ばせたとのことです。1516年、彼はグラールスを離れ、アインジーデルンに移ります。この町は、この地方の中心地であり、常時多くの巡礼者が訪れる教会があります。ここで彼はエラスムスの出版したギリシャ語聖書を何度も読み返し、ついには暗記するほどになったと言われています。この聖書の学びは彼の信仰に転機をもたらしました。告解や巡礼に反対し、また贖宥状の販売にも反対しました。また、マンシュレックによると、この頃ツヴィングリは「教皇制度は聖書に根拠を持たない」と主張したとされています。このような過激な主張はアインジーデルンでは受け入れられず、1518年、彼はチューリッヒ市のグロスミュンスターの説教者となっています。

1519年1月第一聖日、ツヴィングリはマタイ福音書の連続講解説教を始めました。この伝統は、フープマイヤーも倣い、後にカルヴァンも倣ったものです。これはルターの場合の1517年と同様、このとき宗教改革が始まったわけではありません。しかし、連続講解説教が宗教改革への狼煙であったことは間違いありません。彼は、説教の中で、聖書に基づく教会改革を主張し、当時行われていたカトリックの慣行を偶像崇拝的として批判しました。この説教は町の青年たちに強くアピールし、また、市内のギルド職人にも強く支持されました。市内の修道院の一部はツヴィングリに反対しましたが、宗教改革への方向は動かしがたいものとなりました。しかし、市当局は他のスイス連邦諸州の動きや、ドイツでの動きを見ながら、慎重な姿勢を崩そうとはしませんでした。チューリッヒ市はスイス連邦の一員として政治的には独立していましたが、宗教的には、コンスタンツ大司教の管轄下にあったからです。その頃、宗教改革を支持するカントン(州)はまだなかったことを忘れてはなりません。

ツヴィングリは説教以外の教育手段として、聖書を学ぶグループを結成し、若者たちを集め、聖書に基づいた教会とは何であるかを示しました。この群れの中に若きマンツが入っていました。フェリックス・マンツは1498年頃、チューリッヒに生まれ育ちました。有能な青年で、ツヴィングリのもっとも熱心な支持者の一人となったのです。コンラート・グレーベルも、まもなくチューリッヒに帰ってきて、このグループに入りました。グレーベルは、メノナイトからは、アナバプテストの創始者とみなされています。彼は、1498年頃、チューリッヒの有力者ユンカー・ヤコブ・グレーベルの子として生まれました。グレーベル家は代々、町の有力者を輩出した家系で、その後もグレーベル名の市長、聖堂参事会員、牧師など数多く見いだすことができます。父ヤコブは1499年から、郊外のグリュニンゲン村で村長を勤め、コンラートも少年時代をここで過ごしました。ウィーン大学、パリ大学に学び、富裕な父の援助により、彼は当時としては最高の学問を積むことができました。しかし、パリ大学での学びは彼の意図したようにはならず、1520年、失意のうちにチューリッヒに帰り、まもなくツヴィングリ支持者となりました。妹の夫、ヴァディアンの勧めで、ルターの著作を読んだのもこの頃です。

ツヴィングリは、改革の第一歩として、他の10名の牧師と連名で、コンスタンツの大司教宛てに要望書を提出しました。その中で、彼は聖書の中に聖職者の独身がなんら強制されず、むしろ結婚が奨励されていることを指摘し、聖職者の結婚を許可するよう要求しました。これに対する司教の答えは、もちろん否でしたが、彼はこの頃、ひそかにアンナ・ラインハルトと結婚していたようです。聖職者の結婚問題はすでにヴィッテンベルクで論争されたことですが、ルター自身の結婚は後のことでしが、ルターの同僚・カールシュタットを始め、何人かの宗教改革者は結婚し始めていた時期です。

ツヴィングリは、また、レント(受難節、イースター前の40日間)は肉を食べないというカトリックの習慣を聖書的根拠がないと批判する説教をしました。この説教を聞いた若者たちは、フロッシャワーの家に集まり、レントにもかかわらず、肉であるソーセージを食べました。この行動は、市内のカトリック支持者たちを怒らせ、ソーセージ事件と呼ばれました。しかし、市当局はなんの行動も起こさず、結果として、宗教改革を支持しました。

チューリッヒが宗教改革を進めていると言うニュースは各地に広まり、スイス、南ドイツ各地から、宗教改革支持派の牧師たちがチューリッヒに集まり始めました。ミコニウスはすでに1520年、カトリックの強いルッツェルンからチューリッヒヘと移っていますが、その後、ロイブリン初めシュトゥンプフ、ヘッツァーなどが集まりました。

シモン・シュトゥンプフ(Simon Stumpf)はフランコニアのベーディグハイムの出身ですが、1522年、チューリッヒ市郊外のヘングの牧師に任命されました。彼は、ツヴィングリのブレーンとして、コンスタンツ大司教への要望書に署名した牧師の一人です。ルードヴィッヒ・ヘッツァー(Ludwig Haetzer)は、スイス・トゥルガウ出身で、ルードヴィッヒ・ケラーと言う同時代の歴史家の説明ですと、ヴァルドー派の家系であると言われています。バーゼル大学で哲学を学んだ後、司祭になり、1522年頃、おそらくツヴィングリの推薦でしょう、チューッヒ湖西岸のヴェーデンスヴィルという町の牧師に任命されています。

1522年暮れ、ツヴィングリは司祭を辞任し、福音的説教者として新たに市に雇われるという形で改革を不動のものとしました。そして、67箇条の信仰告白を公にし、これについての討論会に出席するよう、コンスタンツの司教代理ヨハネス・ファーベルに呼びかけました。しかしファーベルは、そのような違法な討論会には出席しないとの返事を返しました。市内の一部のカトリック支持者たちは、コンスタンツ大司教の応援を求め、ツヴィングリ追放を策動しますが、元々反コンスタンツ的であるチューリッヒ市民の大多数はツヴィングリを支持し続けました。1523年1月29日、この公開討論会にはツヴィングリ支持者のみが集まり改革派の大勝利に終りました。しかし、市議会は慎重な姿勢を崩そうとはしませんでした。ツヴィングリは再度討論会を開くように要求し、議会の理解と支持を得られることを目標に粘り強く説教を続けたのです。

この頃から、ツヴィングリと急進派との間に溝が生じ始めます。ツヴィングリの態度は余りに生温いと感じたのでしょう。グレーベル、マンツなどの青年たちは、「聖書に基づかない礼拝をいくら続けても神の祝福は得られない。」と考え「市議会の権威より、聖書の権威に従うべきである。今直ちにミサを廃止し、偶像(聖画像)を取り払うべし。」と主張しました。しかし、ツヴィングリは「市議会の賛同が獲られるまでは行動を起こさない。」と答えました。

1523年の第2回討論会以降、ツヴィングリと急進派の対立は決定的なものとなりました。シュトゥンプフは、ミサの廃止を主張し「決定はすでに神により下されている」と叫びました。また、クラウス・ホッティンガーは、市内のシュターデルホフにあるキリスト像を破壊し11月4日追放されました。

1524年、ヴィティコンの牧師となっていたロイブリンは幼児バプテスマを否定する説教をし、村人の中に幼児バプテスマを拒否する者たちが現れました。市当局はこの事態を重く見て、ロイブリンを逮捕しました。幼児バプテスマの問題は、ある友人からグレーベルに宛てた手紙の中で言及されているので、すでに1523年7月21日に話題となっていたことが判ります。しかし、深刻な問題となるのはロイブリン投獄以降です。グレーベルはこの問題についての真理を知るために、カールシュタットとミュンツァーに手紙を出すことにしました。カステルベルガーがカールシュタット宛の手紙を書きました。カールシュタットはこの頃ヴィッテンベルクを追放され、オルラミュンデにいましたが、手紙は届いたようです。彼から8冊の小冊子が送られてきたので、マンツはこれをバーゼルで出版しています。ミュンツァーへの手紙はグレーベル自身が書きました。返事はきませんでしたので、おそらくミュンツァーには届かなかったのでしょう。

事態は切迫してきました。急進派の群れは、市議会に抗議と弁明の文書を送りつけ、自らの主張がいかに聖書的であるかを明らかにしようとしました。この文書は無名のものですが、マンツが書いたものといわれています。この文書は幼児バプテスマを公に批判した最初の文献であり、信仰の自由を求める切々とした気持ちが伝わってきます。これに対する市当局の答えは、公開討論会を開くことでした。




<成人バプテスマの実施>


1524年暮れ、グレーベルの家庭に女の子が誕生しました。この子供にバプテスマを授けるかどうかが問われた時、彼ははっきり拒否したのです。1525年1月の公開討論会(後に第一回アナバプテスト討論会と呼ばれるものです。)において、ツヴィングリの幼児バプテスマ肯定論が市議会により公式に支持され、幼児バプテスマを拒否するものは市から追放されることが決議されました。

このような情勢の中で、1月21日、グレーベル、マンツ、ブラウロック、カステルベルガー、ヴィンクラーなど総勢15名ほどがグロスミュンスター近くのマンツの家に集まり、真剣な祈りを捧げていました。そのとき、ブラウロックは聖霊に満たされ、グレーベルに信仰告白にもとづくバプテスマを授けて貰いたいと申し出ました。グレーベルはしばらく祈り考えた後、ブラウロックにバプテスマを授けました。そのあとで、ブラウロックが出席者全員にバプテスマを施したと記録されています。

これはフッター派の残した歴史書に記録されている物語です。フッタライト歴史書は唯一とも言える記録文書なので、大変貴重な資料となっています。ただし、ブラウロックは後のフッター派の基礎を築いた人物であり、書物ではバプテスマの執行者という重要な役割が与えられてはいますが、1525年の時点で、はたして群れの中心人物であったかどうか疑問が残ります。ロイブリンが釈放され、この集会に出席していたはずです。おそらくロイブリンがバプテスマを施したのではないでしょうか。ロイブリンは後にフッター派との関係が悪くなるので、フッター派の歴史書から彼の名が削られることは大いにありえることです。

これがアナバプテストの始まりです。彼らは、新しいグループを作ったと言う意識はありませんでした。名称や規約など、なにも決めませんでした。ただ、学者たちは、後のいろいろなアナバプテストと区別するために、彼らをスイス兄弟団と呼んでいます。アナバプテストたちは、幼児バプテスマを批判し、信仰者バプテスマ(成人バプテスマ)を行うために、各地へと散っていったのです。後に彼らは多くの精神的、肉体的苦しみを経験します。ある者は殉教し、ある者は病死し、ある者は転向しました。しかし、この運動が近代社会の基礎となったわけですから、彼らの労苦は報われたと言えるのではないでしょうか。






■      第4章   スイスにおける運動の広がり


ブラウロック(Georg Blaurock 1492-1529)と言う人物は、この成人バプテスマ以前の資料には名前が出てきませんので、おそらく、1525年の初めにチューリッヒに到着したのでしょう。彼は、1492年頃、スイス・ボナドゥーツで生まれました。ライプツィッヒ大学で一時期学び、クールで聖ルカ修道院の修道士となりました。彼の名はユルクで、姓字はありません。他のユルクと区別するために、通称として、「青い服」という意味からブラウロックと呼ばれるようになりました。

マンツ、ブラウロックらはプレトリ、ロイブリンらの牧会していたツォリコンへ出かけて行きました。ツォリコンはチューリッヒ湖北東岸にある小村で、ここで、プレトリ、ロイブリンなどの急進派牧師たちが説教していたので、アナバプテストに好意的な人が多かったのでしょう。彼らは、ツヴィングリ派の牧師の説教する礼拝に出席し、講壇に向かって歩く牧師に対し「あなたは何をしようとしているのか。」と問いかけました。驚いた牧師が「神の言葉を説くためである。」と答えたのを受けて、「あなたではない、私がここで説教するように遣わされているのだ。」と叫んだそうです。礼拝は大混乱に陥ったことでしょう。マンツ、ブラウロックらは、アベリの家に集まりここでパンを裂いて主の晩餐式を行いました。主の晩餐式をパン裂きと呼ぶのがアナバプテストの言い方です。2月26日のことです。

グレーベルはシャファウゼンに出かけて行きました。途中、友人のウルリマンに出会い、信仰者バプテスマを受けることを勧めたところ、ウルリマンは、ぜひ浸める形での式で受けさせて貰いたいと申し出ました。そこで、ライン川に入り、厳粛な面もちで浸めのバプテスマを施したのです。信仰者バプテスマとして、浸礼のやり方が採用された最初の例と思われます。ウルリマンはさっそく、この新しい運動をサンクトガレンに広めるために帰って行きました。

グレーベルはまもなく、シャファウゼンに到着しました。彼はさっそくホフマイスターと会い、新しいバプテスマを受けるよう勧めました。しかし、ホフマイスターは、幼児バプテスマには批判的でしたが、アナバプテスト運動には加わらなかったようです。3月には、グレーベルはチューリッヒに帰り、しばらくするとサンクトガレンへ行き、ウルリマンと合流しました。彼らは受難週聖日に、市外のシュッター川で数百人にバプテスマを施したと言われています。

その後、1525年10月に仲間と共に逮捕され、1526年3月に脱獄に成功しますが、その後、グリソンのマイエンフェルトにて病死したと言われています。28歳の若さでした。

マンツもブラウロックとともに、クールやその他の地域に伝道に出かけてゆきました。しかし、ほどなくして逮捕され、チューリッヒに引き渡され、尋問を受けました。その尋問は討論会と呼ばれていて、1525年3月20日に開かれています。尋問の中で、マンツは「自分は無政府主義者ではない」と弁明し、「ただ、平和的に聖書の教えを実践したいのだ」と訴えましたが聞き入れられませんでした。アナバプテストたち21名は魔女の塔に幽閉され、パンと水だけで養われることになりました。4月5日、彼らは魔女の塔から脱走し、その後、マンツとブラウロックはグリュニンゲン、アインジーデルン、クールなどを転々としながら彼らの福音を述べ伝えて歩きました。

グリュニンゲンの北の山の中に、今でも、「アナバプテストの洞穴」という場所が残っています。文献での確認はできませんでしたが、もしかすると迫害されたマンツたちが、一時期この洞穴で生活していたのかも知れません。7月18日、マンツはクールで逮捕され、チューリッヒに護送されました。この時、リマト川の中に新しくヴェレントゥルム(波の塔)という牢屋が作られ、ここに幽閉されています。しかし、なぜか10月7日、釈放されました。彼は直ちにグレーベルと合流し、各地で伝道活動を展開します。しかし、10月30日には、グレーベルが逮捕され、まもなくマンツも逮捕されたようです。1525年11月6日、8日、第3回アナバプテスト討論会が計画されました。この討論会に、アナバプテストを弁護するためにフープマイヤーが来ることになっていましたが、「来れなかった」と文献には書かれています。しかし、他の文献には「フープマイヤーはチューリッヒで逮捕された。」と書かれているので、「来なかったのではなく、逮捕されたので参加できなかった」と考えるべきではないかと思います。討論会の結果、マンツたちは有罪とされ、より厳しい監禁状態に置かれることになりました。ヴェレントゥルムと呼ばれる塔の中で、彼らはパンと水だけで寒い冬を過ごしたのです。グレーベルが間もなく病死するのは、この時の厳しい投獄が原因だったのではないでしょうか。1526年3月7日、彼らは無期懲役刑を宣告され、再度バプテスマを施すものは溺死刑に処すると宣告されました。しかし、わずか14日後、彼らは牢獄を抜け出し、グリソンやアッペンツェルで、以前にもまして熱心に活動し始めました。チューリッヒ市当局は、もはや厳罰以外に彼らを止めることができないと判断したようです。1526年11月3日、またもやマンツとブラウロックは逮捕されました。これがマンツの最後となります。市議会は、彼に死刑を宣告し、両手足を縛り、リマト川に沈められることになったのです。1527年1月5日、マンツは小舟に乗せられ、見物人に囲まれて死刑執行の場所である川の深みに連れて行かれました。彼は、道すがら、大声で叫び、神を賛美し、「私は真理のために命を捧げます」と証ししたそうです。遺体は、聖ヤコブ教会の墓地に埋葬されたと言われています。ブラウロックは鞭打たれた後、再度チューリッヒ市に戻ってきたときは死刑に処するとの脅しと共に、追放となりました。

マンツの殉教は、アナバプテストたちに大きな緊張と興奮を呼び起こしました。ブラウロックは秘密裏にベルン、ビール、グリソンなどを旅しながら各地の群れを指導し、1529年4月、アッペンツェルで逮捕され、21日に死刑の脅しと共に追放されています。この後、彼はチロルへ行き、フッター派の基礎を築くという大きな業績を残して殉教しています。



<ヴィルヘルム ロイブリン> (Wilhelm Reublin 1480-1559)

ここでロイブリンという重要人物をご紹介します。

ロイブリンは、私の分析からするとアナバプテスト運動の創始者と目される人物です。また、非常に早い段階から宗教改革を支持し、修道院を飛び出し、各地で宗教改革運動を推進し、ドイツ農民戦争にも係わったので、彼の生涯(伝記)を調べると、それがそのまま宗教改革史になるような、ともて興味深い人物です。

ヴィルヘルム・ロイブリンは1480年頃、南ドイツ・ネッカー川沿いのローテンブルクで生まれました。フライブルク大学で学んだ後、シャファウゼン近くのグリーセンという町で司祭となり、1510年頃までその地にいました。その後の数年間、彼の足跡は明かではありませんが、1521年にはバーゼルの聖アルバン教会の説教者となっています。バーゼルはライン川の交通の要所にあたり、ローマ帝国時代から名の知られる大都会で、司教座を持つ独立都市でした。しかし、市民勢力が強くなるにしたがい、司教の実権が弱まり、さらに近隣諸候との争いをきっかけにスイス連邦に加盟することになりました。1501年のことです。宗教改革を受け入れる下地があるにもかかわらず、司教の権威も残っていたので、プロテスタントとカトリック勢力が長い間きっこうし、エコランパディウスの活躍でようやく宗教改革派が多数を占め、エラスムスやカールシュタットを受け入れるなど、重要な役回りを演じることになります。バーゼルの宗教改革自体が一つの研究対象としての価値があるでしょう。このバーゼルで、最初に宗教改革の狼煙をあげた人物がこのロイブリンでした。彼は、説教檀からミサや断食などカトリックの慣行を批判し、聖書の権威のみを認めなければならないと過激な発言を続け、聖書を掲げて町を行進したりもしました。市民の中には彼を支持する者たちが数多くいましたが、バーゼル司教との対立は決定的なものとなり、1522年6月22日、市から追放となりました。

ロイブリンは1523年4月18日に結婚し、独身を捨てることにより、修道士、カトリック司祭であることと決別しました。司祭が公に結婚したのは、南ドイツでは彼が最初だと思われます。

彼は、ライン川ぞいのラウフェンブルクで説教者となりますが、そこは、オーストリアの支配下にあり、宗教改革を説き続けることができず、1523年秋にはチューリッヒ市へとやってきます。おそらく、ツヴィングリの保護と支持があったものと思われます。しばしば、フラウミュンスター教会で説教し、この頃、グレーベル、マンツらの若者たちと知合いになります。そして、郊外のヴィティコン村とツォリコン村の説教者となりました。

ロイブリンは、晩年転向し、アナバプテスト運動から身を引きます。それ故、アナバプテスト内での評価は低く、彼の最初期における役割が不当に低く評価されてきた嫌いがあります。一般に、グレーベルがアナバプテストの創始者とされていますが、理論的指導者はこのロイブリンであったと思われます。グレーベルの手紙に登場するウィリアム(ヴィルヘルム)はロイブリンのことであることはほぼ間違いないし、グレーベル・グループの主張のほとんどは、ロイブリンが早くから主張してきたことでした。また、フープマイヤーにバプテスマを施したのも彼ですし、おそらくザトラーを導いたのも彼だったのではないでしょうか。

アナバプテスト運動の始まりについて、ひとつだけ修正が必要なのが1月21日に誰が信仰者バプテスマを施したかという問題です。資料では「グレーベル、ブラウロック」となっていますが、先にも言いましたように、これはロイブリンである可能性が大であると言っておきます。なぜなら、ロイブリンは早くから幼児バプテスマを批判し、そのため投獄されるほどだったからです。ロイブリンはその頃すでに急進派の指導者のひとりになっていましたし、彼がその集まりにいたとすると、彼が信仰者バプテスマ(成人バプテスマ)を主張することはおおいにあり得ることであり、司祭であった彼が全員にバプテスマを施すことは自然な流れです。彼は、この頃、すでに逮捕されて牢屋に入れられていたとの説もありますが、その後、ロイブリンが各地に伝道に出かけているところを見ると、入獄していた可能性はほとんどありません。アナバプテスト運動の創始者はロイブリンなのです。

信仰者バプテスマというアイデアは、フス派、ツヴィカウの預言者たちも含めて、まだ急進派の誰も主張したことのない教えです。そういう意味で過激な教えなのですが、幼児バプテスマが無効であるとするなら、その時代の大人たちはみなバプテスマを受けていないことになります。この論理は誰でも思いつくもので、特に過激とは言えません。しかし、カトリックの教会法で、「再度バプテスマを授ける者は死刑に処す」という規定があったことを、おそらく当時の人々は知っていたのではないでしょうか。それゆえ、幼児へのバプテスマの拒否が直ちに大人のバプテスマへとは結びつかなかったのです。しかし、ロイブリンにとってはそのようなことは問題ではなかったのです。「大人のバプテスマが必要ならそれを実践しよう」と思いついたロイブリンは、それを青年たちに提案しました。そして、それは受け入れられ、直ちに実践されました。そして、この大人のバプテスマ運動は、ロイブリンと青年たちの思惑を超えて、野火のように各地へと広がってゆくことになったのです。

1525年1月初旬、ロイブリンは、ただちにハレに出かけて行き、そこで、村人全員にバプテスマを授けました。また、南ドイツのヴァルズフート( Waldshut)に行き、フープマイヤーを説得し、信仰者バプテスマを授けました。ここからアナバプテスト運動は南ドイツへと広がってゆきます。




■      第5章   南ドイツにおける運動の広がり



南ドイツとは、ミュンヘンを含むドナウ川沿いの町々からシュヴァルツバルト地方(黒い森地方)までの地域を指しています。

ドイツを流れている大きな川は3つありまして、ひとつは有名なライン川です。もうひとつがドナウ川、もうひとつが数年前、私が旅行したエルベ川です。エルベ川沿いにハンブルクがあり、ヴィッテンベルクがあり、支流の傍にはプラハもあります。ベルリンもそばにあります。

ドナウ川は、ギリシャ時代における北ヨーロッパとギリシャを結ぶ交通の要であり、この川沿いにヨーロッパ最初の町々が作られました。ウィーンなどはもっとも古い町のひとつです。水源のひとつはシュヴァルツヴァルドにあり、ウルムを通ってレーゲンスブルク、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、そして、ブカレストの南を通って黒海に注ぎます。南ドイツでは、シュワルツヴァルド付近が宗教改革の動きにいち早く共鳴し、また、その後のドイツ農民戦争の舞台となりました。同じ土壌がアナバプテスト運動に継承されています。

ロイブリンについては、すでに述べた通りですが、彼が南ドイツのローテンブルク出身で、シュヴァルツヴァルドの宗教改革とアナバプテスト運動に大きな影響を与えています。



<バルタザール・フープマイヤー>
hupmaier の図
南ドイツのアナバプテスト運動の最初の指導者のひとりがバルタザール・フープマイヤー(Balthasar Hubmaier)です。ロイブリンは、おそらく、ドイツ農民戦争に関わっていた時にフープマイヤーと知り合ったのでしょう。フープマイヤーはすでに公然と幼児バプテスマを批判していたので、彼なら成人バプテスマを受け入れると思ったのですが、ロイブリンの期待は裏切られませんでした。そして、フープマイヤーはその後、アナバプテストの指導者のひとりとして非常に重要な役割を果すことになります。

農民や平民の多いアナバプテストの中で、フープマイヤーは博士号を持つ数少ない神学者のひとりです。彼のアナバプテストへの貢献は、多くの著作を残すなどの理論面だけでなく、アウグスブルグ伝道、モラビヤへの最初の移住など、伝道、実践面でも大きなものがあります。しかし、剣と政治の問題について、彼と他のアナバプテストとは立場を異にしていました。グレーベルたちは剣を否定し、聖書は非武装無抵抗を教えていると解釈し、クリスチャンはそれを実践すべきだと教えました。しかし、フープマイヤーはドイツ農民戦争の渦中にあり、剣を否定するわけにいかず、また、村や町の共同体全体をキリスト教化することを考えていたので世俗的権力にも肯定的でした。そのため、フープマイヤーへの評価はアナバプテスト内では、高いものではありません。むしろ批判されてきたと言えます。しかし、アメリカでのアナバプテスト研究が盛んになるにつれ、フープマイヤーはバプテストなどのアメリカ自由教会の立場に近いところがあるので、近年高く評価されるようになっています。

バルタザール・フープマイヤーは、1480年頃、アウグスブルク近くのフリードベルクに生まれました。1503年、フライブルク大学に入学しましたが、学費が払えず、一時期シャファウゼンで教師となっていました。1507年、再び大学に戻り、ヨハン・エックに師事し、1510年秋にエックに付いてインゴルシュタット大学へ移ります。おそらくエックの愛弟子のひとりだったのでしょう。1512年、エックの推薦で博士号を取得しています。この愛弟子が、後にルターよりもさらに過激な宗教改革者になったのは歴史の皮肉としか言いようがありません。

1516年1月、彼はドナウ河畔の町レーゲンスブルクのドーム教会説教者として招かれます。このとき彼は、町のユダヤ人追放運動の旗手となりました。これは、ユダヤ人迫害の古い記録になるのでしょうか。フープマイヤーにとって名誉なことではありませんが、当時の人々の精神状況を知るためには記録すべき事件だと思います。彼はユダヤ教会堂(シナゴーグ)を没収して、跡地にマリヤ様の御堂という礼拝堂を建て、その説教者となりました。彼の説教は人々の心を捉え、近隣の町や村から多数の人々が詰めかけ、彼自身が驚くほどであったそうです。また、熱狂した巡礼者たちは、教会の庭に建てられたマリヤ像の回りで踊りだし、失神するものも現れ、奇跡も起こったと言われています。町の有力者たちはこの巡礼の群れにより、町の財政が潤うので、大喜びし、フープマイヤーは町の人々にも高く評価されました。しかし、1521年、彼は、ライン河畔の小都市ヴァルズフートの招聘を受け、レーゲンスブルクを後にします。何故、レーゲンスブルクを去ったのか、よく判りませんが、少なくとも、このとき彼はまだ、宗教改革者にはなってはいなかったようです。

いつごろ、フープマイヤーが宗教改革に関心を持つようになったかは明かでありません。おそらく、エックの弟子ですから、初めはルターに批判的であったはずです。しかし、1521年以降の、ヴァルヅフートでの牧会生活の中で、彼は、カトリック司祭から、プロテスタント牧師へと急速に変身を遂げます。ヴァルズフートはライン川の対岸からスイスの自由な雰囲気と情報が常に流れ込んでくる町でした。1522年6月には、バーゼルを訪れ、当時、バーゼルにいたエラスムスに会っています。ちょうどこの頃、バーゼルでは、宗教改革を支持するロイブリンを追放処分にしています。フープマイヤーがロイブリンとここで出会った可能性は残ります。少なくとも、ロイブリンの次の牧会地である、ラウフェンブルクはヴァルズフートの隣り町ですから、交流があったとみて差し支えないでしょう。

さて、フープマイヤーを送り出した後、レーゲンスブルクの巡礼運動は下火となりました。巡礼客を相手に商売していた町の人々はがっかりしました。市の有力者たちは、彼を呼び戻し、もう一度町の活気を取り戻そうと計画します。1522年、招聘に答えフープマイヤーはレーゲンスブルクへ戻りました。しかし、このとき、彼はもはや以前の彼ではなかったのです。ツヴィングリに倣い、ルカによる福音書の連続公開説教を始め、宗教改革の必要性を説教壇から訴えたのです。この説教は、カトリック勢力の強いレーゲンスブルクでは全く受け入れられなかったようです。1523年3月には、彼はヴァルズフートへ舞い戻っています。そして、1523年10月、チューリッヒの第2回宗教改革討論会に出席し、ツヴィングリの有力な支持者であることを内外に明らかにしたのです。

そして、1524年、彼とヴァルズフートはドイツ農民戦争を支持し、オーストリア軍と戦い始めていました。ロイブリンがヴァルズフートを訪れたのは、ちょうど農民戦争の渦中であったと思われます。1525年春、ロイブリンからバプテスマを施されたフープマイヤーは、次にヴァルヅフートの町民たちの大半にバプテスマを施しました。このニュースは、ツヴィングリたちを驚かし、アナバプテストたちを喜ばせたことでしょう。しかし、初めから、フープマイヤーと、他のアナバプテストの立場の違いは気づかれていました。彼とヴァルズフートは、町を挙げては、武器を持ってドイツ農民戦争を戦っていたからです。

「フープマイヤー伝」を書いたベルグステンは、この戦いに市民や、下級貴族も加わっていた事実を指摘し、農民戦争という名称は不適切であると語っています。傾聴に値する指摘だと思われます。

この農民戦争と、アナバプテスト運動とは、組織上の関係はありませんが、実質的に双子の兄弟のようなものです。一般に、エンゲルスの影響で、農民戦争は、階級闘争であり、指導者はミュンツァーであるとの理解が広まっているようですが、ミュンツァーはミュールハウゼン地方の農民戦争の指導者であって、南ドイツの農民戦争では、指導的役割はなにも果していません。各地の農民戦争は、別々の戦いであり、それぞれを区別して理解しなければ、農民戦争の全体像は見えてこないのではないでしょうか。

ドイツ農民戦争については、今後個人的には研究を続けたいテーマで、まだ研究途上なので、ここで発表するほどの知識はありませんが、一応、アナバプテストとの関係は微妙に存在しているとだけ言っておきます。

オーストリア(神聖ローマ帝国)はヴァルヅフートの動きに神経をいらだたせました。そして、まもなく軍隊が差し向けられ、ヴァルズフートの町は、軍隊に囲まれました。アナバプテストに転向した故に、チューリッヒ市の応援は得られませんでした。フープマイヤーは1525年11月5日、町を脱出し、チューリッヒに逃げ込みました。なぜ、彼が関係の悪くなっているチューリッヒへとやってきたのか、理由はよくわかりません。ちょうど第一回アナバプテスト公開討論会が開かれる予定になっていたので、それに出席するつもりだったのではないでしょうか。しかし、彼は直ちにチューリッヒ市当局に逮捕されてしまいました。リマト川の流れの中に建てられた波の塔の中で彼は拷問を受け、アナバプテストを捨てるように要求されますが、拒み通しました。そして、その塔の中で寒い冬を過ごしたのです。ついに4月15日、彼は、自分の信念を曲げて転向書に署名し、追放されました。アナバプテストの歴史家たちは、「人間的弱さ故に」と表現していますが、はたして、我々にその言葉を使う資格があるかどうか問題です。彼は、やっとの思いでコンスタンツへと向かいました。そして、そこから、アウグスブルク、モラビヤへと旅立ったのです。(1528年、ウィーンにて火あぶりの刑で殉教)



<ミハエル・ザトラー(Michael Sattler)>

ザトラーは、南ドイツ、フライブルク近くのシュタウフェンで生まれました。1490年頃と思われます。彼の生い立ちについてはなにもわかっていません。ザトラーはフライブルク近くのサンクトペーター修道院副院長となり、修道士たちの指導に当たっていましたが、ルターの宗教改革の波は南ドイツ・ブレスガウ地方にも及んで来ました。彼はパウロの手紙を読み直し、信仰義認を悟り、修道院での独身制は聖書に反すると考えて修道院を飛び出しました。その後の彼の動きは知られていません。オーストリアのハプスブルグ家の支配下にあるこの地域で宗教改革を説き続けることは困難だったのでしょう。彼は、やがて、チューリッヒに姿を現します。いつ、誰によってバプテスマを授けられたかは記録されていませんが、1525年11月、チューリイヒ市はザトラーをアナバプテストとして追放しています。おそらく、ロイブリンが同じ地域の出身ですので、ロイブリンからバプテスマを受けたのであろうと推測されます。チューリッヒを追放された後、まもなくストラスブールへ行き、カピトの家の客となります。ここでカピトと大変親しい関係となり、高く評価されています。そして、ブーツァー、カピトとの討論会が開かれた際、彼らは友好的に討論したとのことです。しかし、一致点は見つかりませんでした。やがて、ザトラーはロイブリンの求めに応じてロッテンブルクへと出かけて行きます。ここで多くの人にバプテスマを施しました。また、1527年2月24日、スイスとドイツの国境地帯にある、シュライトハイムにおいて、スイス、南ドイツのアナバプテストたちが秘密裏に集まり、そこでアナバプテストの立場を鮮明にした文書を作成しました。それが後にシュライトハイム信仰告白と呼ばれるものです。この文書は、ツヴィングリやカルヴァンが反論した故に有名となり、内容的にも正統的アナバプテストの立場を表明していますので、アナバプテストを理解する上で最も貴重な資料のひとつとなっています。この告白には署名はありませんが、従来からザトラーのものと考えられています。

シュライトハイム信仰告白の中に、「偽兄弟たち」という言葉が登場します。この言葉が誰を意味するかは本文には書かれていませんが、アナバプテスト内にこの頃すでに問題が生じていたことがわかります。幼児バプテスマの否定という点では一致していても、フープマイヤーは剣の使用を認めていましたし、フートは強い終末論的説教を繰り返していました。また、ヘッツァーなどは非倫理的生活態度により他のアナバプテストたちから批判されていました。批判の対象が、どの人物のことなのかはわかりませんが、このような文章の中で、アナバプテストたちは7つの点に関して一致することが出来ました。第一は、バプテスマについてです。「バプテスマは、悔い改め、罪赦され、キリストと共に生きることを望む人に授けられる」と告白されています。また、はっきりと、幼児バプテスマは否定されています。第二は、破門についてです。アナバプテスト内に誤りと罪とに落ちいっている者がいるときは、パン裂き(主の晩餐式)の前に破門・追放されると告白されています。つまり、法律的処分ではなく、グループ内の処分となるべきであるということです。厳格と言うよりは、信仰の自由を打ち出した文書であると理解すべきだと思います。第3は、パン裂きについてです。これについては、ツヴィングリと同じく、「記念」という言葉が強調されています。第4は、この世との関わりを拒否することについてです。具体的には、カトリック、プロテスタントであれ、国教会の礼拝には出席しないこと、居酒屋へは行かないこと、などです。ここではまだ、「いっさいの公職につかない」とは告白されていません。第5は、牧師についてです。牧師の職責を述べる中で、牧師が教会によって選ばれると明言している点は重要です。また、牧師の資格を特に要求せず、牧師亡き後は、直ちに他の者があてられるべきであるとの表現は、迫害の中にあるとしても、大変興味深いものです。第6は、剣についてです。少し曖昧な表現になっているのは、この会議の中に剣の使用を認めるアナバプテストがいたということでしょうか。為政者になることも、剣を取ることも、遠回しに否定されています。第7は、誓いをしないことについてです。これらのことは、今のメノナイトの立場と完全に一致するものです。ザトラーの貢献は大きなものがあるといえるでしょう。

彼はシュライトハイムからロッテンブルクに帰るとまもなく捕らわれの身となります。そして、死刑の脅しと共に転向を迫られますが、堅く立ち、最後まで信仰を全うしました。尋問の後、罵倒の言葉が投げかかられました。「おまえのような奴は、死刑執行人が相手になってくれるだろう。彼があんたの話し相手だ。異端の親玉め。」1527年3月20日、彼は舌を抜かれ、身体を焼け火箸でえぐられ、惨い拷問にあったすえ火刑に処せられました。数人の同僚たちも殺され、彼の妻は友人の転向の勧めを断わり、数日後ネッカー川に沈められました。おそらく、彼は南ドイツでの最初の殉教者ではないでしょうか。




<アウグスブルクのアナバプテストたち>


アウグルブルグ(Augusburg)は、バイエルン州の古くからの大都市で、神聖ローマ帝国国会が開かれた場所として有名です。当時の大金持ち・フッガーはこの町の出身ですし、1518年、ルターが教皇特使カヤタンと会談したのもこの町です。司教座があり、自由都市でもあり、バーゼルと似たところがあります。

ルターの宗教改革は、この町にも大きな影響を与え、フープマイヤーを始め、多くのルター支持者を生み出しました。南ドイツに属するので、紆余曲折を経た上、今日カトリック教徒の多い町になっていますが、プロテスタントも20%ほどいるとのことです。



アウグスブルクでのアナバプテスト運動の始まりはフープマイヤーが故郷に帰ってきたことに始まります。1526年のことです。彼がこの町に何日間滞在し、何をしたかはわかりませんが、あまり長い滞在ではなかったようです。彼は両親に会ったのち、まもなくこの町を離れ、モラビアのニコルスブルクへと向かいました。おそらく、この滞在中、デンクにバプテスマを施したのではないかと推測されます。というのは、デンクとフープマイヤーは同じインゴルシュタット大学の同窓であり、デンクはこの早い時期にアナバプテストになっているのですが、この頃この町にいたアナバプテストはフープマイヤーだけだからです。そして、デンクは5月26日にこの町でハンス・フートにバプテスマを施しています。



<ハンス・デンク>

デンク(Hans Denk)は1500年ごろ、上ババリアのヒュグリフィング近くのハイバッハで生まれました。17歳でインゴルシュタット大学に入学し、その後、バーゼル大学で学んでいます。彼は製本屋で働きながら、大学の授業にかよい、エコランパディウスの授業にも出席したとのことですが、特に影響を受けた様子はありません。彼が影響を受けたのは、ルターの出版した「ドイツ神学」(著者不明)でした。この著作から神秘主義的傾向を受け取り、ミュンツァーからも影響を受けたと言われています。彼は23歳でニュルンベルクの教師になりますが、健全な考えの持ち主でないという嫌疑で町を追放されます。おそらく、ルターの義認論に対する反対を唱えたのだろうと思います。デンクは「真の信仰者はその生活においてイエスに従うものである。」と唱えて、信仰のみで義とされるという考えに反対したのです。デンクの反対者はその町の牧師オジアンダーでした。追放後一時期、彼はサンクトガレンに滞在したとき、アナバプテストの集会に出席したとのことです。このとき、彼はアナバプテストたちに受け入れられませんでした。その後、彼はアウグスブルクに行き、ラテン語とギリシャ語の教師となりました。ここでフープマイヤーからバプテスマを受け、フープマイヤーがモラビアへ去ったのち、群れの指導者となり、フートを始め、その他の人物にバプテスマを施したとのことです。しかし、町の当局者、ルター派の牧師ウルバン・レギウスの知るところとなり、アナバプテストへの弾圧が始まりました。第一回討論会、そして、第二回は公開で行われる予定でしたが、デンクはそれに出席することなく、1526年秋にはストラスブールに逃れています。しかし、デンクの存在はそこでもすぐに知られるようになり、すぐに追放されました。彼は各地を伝道して回りましたが、ヴォルムスではヘツァーを助けて予言書の翻訳を完成させ、1527年春に出版しています。おそらく、これはルターの翻訳やツヴィングリ聖書の翻訳の際に利用されたのではないかと考えられています。1527年8月にはアウグスブルクでの殉教者会議を主催し、彼自身はスイス地方への伝道者として任命され、スイスに出かけることになりました。そして、バーゼルに来たとき病気となり、エコランパディウスに滞在許可を懇願する手紙を書いています。そして、エコランパディウスとの会話の中で、彼はこれ以上成人バプテスマは施さないとの約束をしました。これにより、バーゼルに滞在することは許されたのですが、しかし1527年11月、疫病のため天に召されました。

彼はアナバプテスト内ではあまり評価されませんでしたが、反対者からは「アナバプテストの指導者」とみなされていました。それは、彼がギリシャ語も、ヘブル語もできる学識者であって、著作の数が多かったからだと考えられます。


<ハンス・フート>

フートは1526年5月にデンクからバプテスマを受けました。その後、南ドイツにおいて目覚ましい活躍をすることになります。実質的に南ドイツのアナバプテストはほとんどがフートの弟子と言えるほどです。

フートの重要性は、アナバプテストになる前から宗教改革、およびドイツ農民戦争で重要な活躍をしていることにあります。彼が生まれたのは1490年ごろ、ヴュルツブルク北方のハイナ村でした。彼は、マイニンゲン近くのビブラ村で製本業、及び本の行商を営んでいました。彼は早くからルターに共鳴し、宗教改革文書を各地に売り歩いていました。書物の重要性は今日の比ではなかったことは踏まえておかなければなりません。グーテンベルクの製本術のおかげで、書物の印刷が可能となり、テレビ、ラジオ、新聞の無い時代にあって、書物は時代の最先端の重要な情報源だったのです。1524年頃、彼はある旅人から幼児バプテスマの否定論を教えられました。そこで彼がビブラ村に戻ったとき、新しく生まれた彼の子供にバプテスマを施すことを拒否したといわれています。彼は妻子ともに、村を追放され、ニュルンベルグにやってきました。ここでデンクと会い、またおそらく、ミュンツァーとも会っていたものと思われます。デンクは1524年1月に追放され、ミュンツァーは11月にここを去ってシュヴァルツヴァルドに向かっています。1525年、フートはヴィッテンベルクやエアフルトなどで行商して歩いているうち、ドイツ農民戦争に巻き込まれ、ヘッセン軍に捕まってしまいました。しかし、彼は戦争に直接携わっていなかったので釈放され、ビブラ村に戻ることができました。しかし、村に長く留まることはできず、1526年5月、アウグスブルグに現れます。ここでデンクと再会し、成人バプテスマを勧められます。長い間迷ったすえ、彼はついに5月26日、成人バプテスマを受け、アナバプテストになったのです。

フートの神学はアナバプテストとの出会い以前にすでに完成していたとも言えます。すでに終末論的教えを説いていて、幼児バプテスマも否定していました。ただ、最後の成人バプテスマと言う点を越えたのがアウグスブルクだったということです。彼の理論的問題点は多々あるでしょうが、彼がアナバプテスト最大の伝道者であることに変わりはありません。デンクよりバプテスマを受けたと言われる割には、デンクの影響は皆無に近く、むしろ、グレーベルなどのスイス兄弟団に近いものでした。このフートによって、南ドイツ一帯にアナバプテスト運動は爆発的な広がりを見せることになります。




<殉教者会議>


さて、1526年、アウグスブルクのアナバプテスト運動は始まりましたが、フープマイヤー、デンク、フートなどは間もなく町を離れます。3人の重要人物の去ったのち、ヤコブ・ダクセル(Jacob dachser)とシグムンド・サルミンジャー(Siegmunnd Salminger)が群れの指導者となりました。

ダクセルは、インゴルシュタットで生まれ、ウィーンで司祭となっていましたが、ルターの著作に触れ、宗教改革の支持者となります。それで町を追放され、一時期インゴルシュタットで学んだ後、1526年、アウグスブルクにやってきました。ここでフートに出会い、1527年バプテスマを受けました。彼は、フートの不在中にもバプテスマを授け、群れを養いました。


この頃、すでに各地で殉教者が現れ始めています。ヴォルフガング・フォーゲル(Wolfgang Vogel)は、ニュルンベルグで宗教改革を勧める活動に従事していましたが、攻撃的内容のパンフレットを書き、逮捕されました。尋問の過程でアナバプテストであることがわかり、1527年3月26日に処刑されました。このケースは、フートのバプテスマが1526年5月であることを考えるとやや早すぎるように思います。本当にアナバプテストであったのか、もしくは、むりやり、アナバプテストであると自白させられたのかもしれません。

1527年8月20日、アウグスブルクにおいて、アナバプテスト会議が開かれました。後に出席者のほとんどが、殉教しているので通称「殉教者会議」と呼ばれています。この会議は、デンクにより主催されたとされていますが、出席者の大半はフートの弟子たちであり、フートの役割の大きさを示しています。およそ60名ほどが、南ドイツ、スイス、オーストリヤから集まりました。デンク(Hans Denk)、フート(Hans Hut)、ビンダー(Eucharius Binder)、ダクセル(Jacob Dackser)、ドルフブルンネル(Leonhard Dorfbrunner)、グロス(Jacob Gross)、カウツ(Jakob Kautz)、ランゲンマンテル(Eitelhans Langenmantel)、レオポルド(Hans Leupold)、メルツ(Joachim Maerz)、ミッテルマイエル(Hans Mittermaier)、ネスピツェル(Georg Nespitzer)、ヴァルドハウザー(Thomas Waldhauser)、ヴィーデマン(Jacob Wideman)、シェパック(PeterScheppack)、サルミンジャー(Sigmund Salminger)、シーマー(Leopold Schiemer)、シュラーファー(Hans Schlaffer)、シュペルレ(Leonhard Spoerle)などです。ここで、おそらく、シュライトハイムで作成されたような信仰告白が確認されたと思われますが、文献としては何も残っていません。彼らは、伝道の重要性を確認し、みないずれかの土地を示され、伝道へと遣わされていきました。


ダクセルは、1527年8月25日、殉教者会義の5日後、仲間のアナバプテストと共に逮捕されました。町のルター派の牧師レギウスによって尋問され、転向を勧められましたが、信仰を貫きました。彼は、3年間ほど牢獄生活を続けましたが、体調を崩し、また、諸々の思いから、アナバプテストをやめる決心をしたようです。ダクセルは、おそらく、悔しさと無念さの中で転向したのでしょう。その後、彼はアナバプテスト運動に加わりませんでした。もう一人の指導者サルミンジャーは、ミュンヘンの修道士でしたが、宗教改革の影響で、修道院を出て結婚し、アウグスブルクに住んでいましたが、1527年3月にフートから夫婦揃ってバプテスマを受けました。彼らも、ダクセルと同じように逮捕され、3年ほど獄中生活を続けたのち転向しました。同じグループのアイテルハンス・ランゲンマンテルの運命は異なっていました。彼は、やはり3月にフートからバプテスマを授けられ、9月に逮捕されましたが、10月には転向し、アナバプテストから脱落します。まもなく、町を追放されゲッチンゲン近くのロイテルスホファーに住み着きます。ところが、1528年4月24日、アナバプテストの嫌疑でしょうか、カトリック軍に逮捕され、妻、子供と共に斬首されてしまいます。

フートは、会議後まもなく9月16日に捕らえられます。そして、拷問と、尋問に耐えた後、12月6日、獄屋が原因不明の火事になり、判決を待たずに死亡しました。彼の娘はすでに、1527年1月25日、バンベルクにおいて川に沈められたといわれています。息子は逃れて、モラビヤで信仰を全うしたようです。



ヤコブ・グロス(Jacob Gross)はグレーベルの友人で、ヴァルズフートの毛皮商人でした。ヴァルズフート出身であるにもかかわらず、フープマイヤーの弟子ではなかったようで、ドイツ農民戦争の時、グロスは、武器を取ることを拒否し、町を追放されています。彼は、グレーベル亡き後、スイス各地に出かけ、多くのアナバプテストを獲得したようです。また、ストラスブールへ最初に出かけたのも彼のようです。(1526年夏)彼は、殉教者会議の後9月15日、アウグスブルクで逮捕され、1531年7月22日、転向し釈放されています。

ヤコブ・カウツは、ヴォルムスの司祭でしたが、ルターに共鳴し、町に宗教改革を導入するために活動していました。しかし、1526年、おそらくデンクにより、バプテスマを授けられ、アナバプテストになりました。ヘッツァー、デンク、ヒラリウスの預言書翻訳に彼がどれだけ協力したのかはっきりしませんが、場所がヴォルムスであることは、何等かのカウツの協力があったものと思われます。殉教者会議の後、彼はストラスブールへ出かけます。そして、1528年10月22日、ロイブリンと共に捕まります。彼は獄中で病気となり、転向を申し出て釈放され、追放となりました。1529年、彼は全聖書のドイツ語訳を出版しました。ツヴィングリのチューリッヒ聖書より1年早く、また、ルターの聖書より5年ほど早いものでした。おそらく、彼は間もなく病死したものと思われます。

このアナバプテスト訳聖書は、今日、あまり注目されていないので、研究書もなく、聖書そのものがどこにあるかさえ情報がありません。しかし、ルターよりも早いドイツ語訳ですから、今後おおいに注目され、研究される価値はあると思われます。




■      第6章   モラビア、チロルのアナバプテスト



  モラビアでのアナバプテスト運動の始まりはニコルスブルクにあります。モラビアは現在のチェコ東部の名前で、ドイツ語ではメーレン(Mahren)と呼ばれます。ニコルスブルクは、現在、ミクロフ(Mikulov)という名前になっていて、オーストリアに接するチェコ国境沿いにある町です。ウィーンの北70キロほどのところにあります。ブルノからは南に40キロほどのところです。

フープマイヤーがニコルスブルクに着いたのは1526年7月のことです。この町に宗教改革が導入されたのは、フープマイヤーが来る2年前のことでした。この町の牧師スピタルマイヤー(Hans Spittelmaier)とフープマイヤーはおそらく以前からの知り合いだったのではないでしょうか。そして、文通などの交流により、スピタルマイヤーはすでにフープマイヤーに賛同していた可能性があります。そうでなければ、フープマイヤーはニコルスブルクに来なかったでしょうし、また、短期間に全市をあげて成人バプテスマを受け入れることもなかったでしょう。領主のリヒテンシュタインもこのことを了解していたようです。

ニコルスブルクが宗教改革を受け入れただけでなく、アナバプテストになったことは多くの人々を驚かせ、また、アナバプテストたちを喜ばせました。そして、多くのアナバプテストたちが迫害を逃れてニコルスブルクに集まってきました。町の人口は膨れ上がり、経済は活性化したので、領主は喜んだことでしょう。しかし、ここにふたつの問題が生じました。ひとつは、フープマイヤーがこの世の統治機構を尊重し、剣を取って戦うことを是認するのに対し、集まってきたアナバプテストたちが町の防衛について協力せず、また、対トルコ戦争にも協力しなかったことです。もうひとつの問題は、アナバプテストが宗教改革派から異端視され、嫌われていることを、領主が知らなかった可能性があることです。当時、オスマン・トルコは神聖ローマ帝国の首都ウィーンに迫っていて、1529年9月から10月にかけてウィーンはトルコ軍に囲まれ、攻撃される事態となっていました。これが第一次ウィーン包囲戦です。幸い、なんとかトルコ軍を撃退できましたが、その後もトルコはヨーロッパの脅威となり、これは第一次大戦まで続くことになります。幸い、オーストリアはトルコとの闘いに忙しく、ニコルスブルクへの軍事的圧力はありませんでしたが、やがてオーストリア軍と戦火を交えることになることは必至です。その際、住民の協力とドイツ宗教改革派諸侯の軍事的支援はぜひとも必要なことです。軍事力に反対するアナバプテストたちは町にとって困った存在となる危険性がありました。

まもなくこの問題が明らかになってきました。ハンス・フートは1526年暮れ、ニコルスブルクにやってきました。そして、フープマイヤーが対トルコ軍事協力税に賛成していることを批判し、剣を持つことは聖書で禁じられていると主張しました。おそらく、世の終わりが近いので戦う必要はないと考えたのでしょう。フートを支持するアナバプテストは多数派ですからどのように対処するかは難しいところです。討論会が開かれましたが、決着はつきませんでした。結局、2回目の討論会の後、フートとその支持者たちはその会場である城の中に幽閉され、市民から隔離されてしまいました。まもなく協力者の手引きでフートはそこを脱出し、グライトと共にヴィーンに行きます。さらにオーストリヤ、南ドイツの各地を旅して、多くの人々にバプテスマを施しました。この頃すでに、当局の厳しい監視の目が光っていましたので、常に細心の注意をもって、秘密裏に行動しなければなりませんでした。そして、1527年8月にアウグスブルクに戻り、殉教者会議に出席したことはすでに述べています。


ニコルスブルクにおける討論会ではフープマイヤー派が勝利しました。しかし、これをきっかけにアナバプテストと宗教改革派が別のグループであることが認識され、フープマイヤーを批判する勢力も明確になったのではないでしょうか。結局、1527年、秋にフープマイヤーが秘密裏にウィーンに出かけた際、彼と妻はオーストリア官憲に逮捕され、ウィーン郊外のクロイツェンシュタイン城に幽閉されました。反フープマイヤー派がオーストリア官憲に情報を流したのではないでしょうか。彼に対する罪状はアナバプテストであることだけでなく、ヴァルズフートでのドイツ農民戦争を扇動した罪も含まれていました。そして、1528年3月10日、ウィーンにて火あぶりの刑に処せられました。彼の妻は、フープマイヤーが転向しないように励まし、自らも3日後に橋の上からドナウ川に投げこまれて処刑されたとのことです。



<ヴィーデマンと財産共有制>

フープマイヤー亡き後のニコルスブルクは、しばらくの間アナバプテストの町であり続けましたが、剣に反対するグループは町から追放となり、多くのアナバプテストたちは町を後にすることになりました。

このとき、町から出ることになった群れの指導者はヤコブ・ヴィーデマン(Jokob Wideman)でした。彼は農民戦争で有名なメミンゲンの出身です。1527年、おそらくアウグスブルクでフートからバプテストを受け、フートと一緒にニコルスブルクへとやってきたものと思われます。彼は絶対平和主義を守るために町を出る決心をしました。彼のもとには総勢200名ほどの平和主義アナバプテストが集まりました。彼は、ニコルスブルクの城壁の外で、出発に先立ち、大きなコートを地面に広げました。すると群れの全員が、何等の強制もなく持ち物全てをその上に置いたと伝えられています。ここから、彼らの財産共有制が始まりました。ヴィーデマンは、アウステルリッツ(現在のブルノの郊外 スラフコフ・ウ・ブルナ)に土地を借り、そこで彼らの共同体を形成することにしました。この新しい試みの噂は南ドイツ、スイス、チロルの各地のアナバプテストたちの知るところとなり、群れに加わろうとする者たちが現れました。アウステルリッツはアナバプテスト運動の新しい拠点となったのです。


このアウステルリッツは小さな村ですが、のちに第一次世界大戦での激戦地になったので、名前は良く知られています。



<チロルでのフッター派の始まり>

 

さて、チロルでのアナバプテスト運動の始まりについてみておきましょう。

チロル (英語 Tyrol)とは南オーストリアから北イタリア一帯の地方を指しています。古くからドイツ系の民族が住み着いていて、言語もドイツ語(南ドイツ方言)となっています。お隣のスイスと文化的には近い関係にあります。オーストリアの中心地ウィーンに近いこともあり、スイス独立には加わりませんでしたが、どちらもゲルマン・ドイツ系の民族で、南ドイツ方言を話しています。峠を通る街道沿いに町が発展したことも同じで、インスブルックからブレンネル峠を超えるとボルツァーノに出ます。ボルツァーノもイタリア側のチロルの町のひとつです。今日ではイタリア領となっていますが、言葉はドイツ語であるのは面白いことです。

この地域はチロル伯爵が支配していたことからチロルと呼ばれることになったように、オーストリア(神聖ローマ帝国)本体とは別の地域です。独立心が強く、1525年のドイツ農民戦争に呼応し、農民の一部が反乱を起こしたところを見ると、南ドイツと政治的にも状況が良く似ていることが分かります。この地域にもアナバプテスト運動は広まりますが、おそらく、農民戦争に敗れた人々がアナバプテスト運動に流れてきたのでしょう。


チロル(Tirol)でのアナバプテスト運動はラッテンベルク(Rattenberg)、キッツビューエル(Kitzbuhel)、シュヴァーツ(Schwaz)で始まりました。1527年8月、アウグスブルクで開かれた殉教者会議において、レオンハルト・シーマー(Leonhard Schiemer)とハンス・シュラーファー(Hans Schlaffer)がチロル地方に派遣されました。シーマーはラッテンベルクで伝道を開始しましたが、ほどなく逮捕され、1528年1月に早くも火あぶりの刑で殉教しました。キッツビューエルでは、1527年、11月28日、アナバプテスト取締り令が出ているので、シーマーの伝道もある程度は成功していたのでしょう。シュラーファーはシュヴァツで伝道し、大成功をおさめたようですが、2月には同じく処刑されています。あまりにもすぐに処刑されてしまいましたが、群れは存続し、南チロルへと広がってゆきます。

南チロルでのアナバプテスト運動の指導者はツァウンリング(Georg Zaunring)と言う人物でした。彼はラッテンベルク出身なので、おそらくシーマーからバプテスマを授けられたのではないでしょうか。1528年6月、キュルシュナー(Michael Kurschner)にバプテスマを授け、彼と一緒に今日の北イタリア、ボルツァノ近辺で伝道活動に従事しました。この地方は、ドイツ農民戦争の影響もあり、また、フス派の考え方も広く知られていてアナバプテストを受け入れる土壌(素地)があったものと思われます。二人の伝道はかなりの成功を納め、それぞれのもとに群れが形成されたようです。しかし、キュルシュナーは1529年4月25日、北チロルのキュツビューエルで集会中に逮捕され、拷問に耐え、信仰をまっとうして、1529年6月2日インスブルックにおいて殉教しました。指導者を失った群れはスイスの兄弟たちに手紙を出し、援助を要請しました。これに答えたのがブラウロックでした。彼は危険を承知の上、チロルにむけて旅立ちました。その後、フッターと共に、群れの指導者として重要な役割を果たします。

1529年5月ブロウロックがチロルに到着します。彼はクラウセンからヴェルス、ブライテンベルクまでの、かなり広い地域で活動し、小集会において説教し、バプテスマを施していました。しかし、まもなく、彼も同僚のハンス・ランゲガー(Hans Langegger)も捕まり、9月6日クラウセン(Clausen)にて生きたまま火あぶりになりました。ランゲガーと言う人物についてはリッテン出身の織物職人であることしかわかっていません。このような無名の人物によってアナバプテストは担われていたのです。歴史書は常に名の知られている人々しか扱いませんが、その背後に記録に残らない多くの人物がいたことを忘れてはなりません。

ブラウロックもわずか3カ月ほどで殉教しました。チロルアナバプテストは何人もの指導者を失い、身動きできない状態に追い込まれたのでした。その後、群れを指導できるのはツアウンリングとフッターしかいませんでした。

フッターがチロルに来たのは1529年のことでした。フッター(Jacob Hutter)はチロル・プステル渓谷のモース村の生まれで、家族や幼年時代のことについてはほとんどわっていません。プラハで帽子職人となり、各地を旅した後、クラーゲンフルト(Klagenfurt)でアナバプテストになったとされています。いつ、誰からバプテスマを受けたのかわかっていません。1529年以前であることは間違いありません。彼はブラウロック亡き後の群れを指導しました。




<フッター派のモラビア移住>


チロルのアナバプテストたちは相次いで指導者を失い、群れとしての存続に多くの困難を感じていました。そこで群れの指導者ツァウニングはモラビアのアウステルリッツへの移住に強い関心を抱きました。そこで、シグムント・シュッツィンガーを送って調査させたところ、大変よい情報を得ました。そこで、彼らはアウステルリッツ行きを決意しました。1529年のことです。この時、ヤコブ・フッターはチロルに残ったようです。アウステルリッツの村は各地からの移住者たちで大変栄えました。

1530年の夏には、ロイブリン家族もやってきました。共産生活は迫害に苦しむ多くのアナバプテスト達にバラ色の夢を与えたようです。しかし、現実の共産生活は彼らの理想から程遠いものでした。ロイブリンのマーペックへの手紙や、フッター派の歴史書によると、ヴィーデマンは群れの独裁者であり、個人の自由はほとんどなく、また、批判者の表現によれば、群れの指導者の霊性は低く、説教も福音の真理を解きあかしていないとのことでした。また、ロイブリンはアナバプテストの使徒とも、創始者とも言える重要人物であるにもかかわらず、群れでの説教を一度も頼まれなかったようです。これらの不満の声は次第に大きくなり、1531年1月8日、ロイブリンとツァウンリングの指導により、不満分子は近くのアウスピッツへ移住し、ヴィーデマンとは、別の財産共有の生活共同体を結成しました。ところが、この群れも内部問題を起こし、ロイブリンも、ツァウンリングも、立て続けに群れから追放されてしまいました。ロイブリンは資金を隠し持っていた件により、ツァウンリングは姦淫を犯した妻を安易に赦した件によるとされています。このような混乱の中で1533年8月11日、チロルからフッターがやってきました。

ロイブリンのその後は、良く判っていません。噂によると、カトリックへ転向したとの事です。ロイブリンは、短絡的とも思えるほど過激に論理を突き詰める性格の人物のようです。しかし、この突き詰め方は一貫しています。おそらく、長いアナバプテスト運動の経験から、最終的にアウステルリッツやアウスピッツのような混乱しか生まれないアナバプテスト運動に嫌気がさしたのではないでしょうか。アナバプテストにとって、また、バプテストにとってもひと事ではありませんが、ロイブリンの態度は大変考えさせられます。せっかくの自由を使いきれない救いとはなんでしょうか。信仰の自由を自分たちのうちで実現できないアナバプテストとはなんでしょうか。


フッターは1533年にアウスピッツの群れに合流し、指導者となりました。しかし、彼が群れを指導したのはわずか2年でした。彼が伝道のためオーストリア、キッツビューエル近くのクラウセンにいたときに逮捕されてしまいます。そして、インスブルックに移送され、1536年2月25日、火あぶりの刑となりました。その後、モラビアの群れはフッター派(フッタライト)と呼ばれるようになりましたが、混乱した群れをまとめ上げたフッターの手腕を彼の後継者たちが高く評価したことによるのでしょう。その後、モラビアの群れは、30年戦争やトルコの侵略などにより移住を余儀なくされ、トランシルヴァニア(現在のルーマニア)に拠点を移しました。さらにその後、南ロシアに移住する群れがあり、19世紀になって最終的にアメリカに移住して、今日に至っています。

16世紀末、モラビアのフッター派の長老カスパー・ブライトミッシェル(Kaspar Braitmichel)の書き残した歴史書をもとに1908年、ウィーンで「歴史書」(Geschicht-Buch)という名前のフッター派の歴史書が出版されました。これはフッター派だけでなく、初期のアナバプテストの歴史を知る上での第一級の史料となる貴重な書物です。名前が「歴史書」では、他の歴史書との区別がつかないので、「フッター派の歴史書」とか、何とか別の名前にしてもらいたいところです。また、第一級の史料であるがゆえに、この書物の編集や出版の過程もまた研究対象となるほどの重要性があると思います。この後の研究に期待しています。




■      第7章   ストラスブールのアナバプテスト



<ストラスブールの宗教改革>

ストラスブールは、一時期、アナバプテストの一大中心地となり、数多くのアナバプテストの指導者がこの地を訪れ、南ドイツから北ドイツ、オランダへと運動を中継する重要な役割を果たしました。また、宗教的寛容を実現した都市であり、アナバプテストを禁圧はしましたが、一人も処刑しなかったことは特筆に値します。これはブーツァーはじめ、カピト、ツェルなど、宗教改革穏健派がこの町に揃っていたからだと思われます。

ストラスブールという名前は、おそらくフランス語読みだと思いますが、もともと、この地域はドイツ語地域で、シュトラスブルク(Strassburg)というドイツ語のスペルを見ると判るように、「街道の町」という意味を持っています。現在はフランス領ですが、この地方はアルザス・ロレーヌ(アルザス・ロートリンゲン)地方と言い、時代によってドイツに支配されたり、フランス領になったり、移動の激しい土地です。


ストラスブールはローマ帝国時代からの古い町で、中世では自由都市として繁栄しました。自由都市という伝統があったからでしょうか、この町は早くからルターの宗教改革に共鳴し、宗教改革の拠点のひとつとなりました。この町で最初にルターの支持者となったのは、マテウス・ツェル(Matthaus Zell)という人物です。彼は1471年、アルザス、カイザーベルク(1471年)に生まれました。マインツ大学とエアフルト大学での学びの後、しばらく、イタリアに行き、1517年にはフライブルク大学の学長に就任しています。その後、ストラスブールで、ドイツ語説教と二種聖餐(パンとぶどう酒での聖餐式)を実践しました。カトリック教会はツェルを許すことができず、1524年、彼を破門しました。しかし、市当局は彼を追放することなく、市はプロテスタントへと急傾斜して行きます。彼はストラスブールの指導者の中でも寛容を強く主張した人物で、説教壇から「政府は信仰の事柄において暴力をもちいるべきではない。」と語り掛けています。また、聖餐論においても、ルターと異なり、ツヴィングリに近い考え方を持っていたようです。ツェルの妻カタリナ(Katharina Zell)は信仰面で特に寛容な精神を持っていました。シュヴェンクフェルド派や、ヴァルドー派、アナバプテスト派などを歓迎し、宿を提供するなどの抱擁力がありました。彼女は名称にこだわることなく、「誰であれ、愛と奉仕の精神と哀れみを示すことが私たちの勤めです。私たちの教師であるキリスト様がそのように教えられました。」と語っています。ツェルは死の床で妻に対して、「余生を貧しい人々と迫害されている人々のために捧げなさい」と命じました。彼女はその遺言を守り抜いたのです。彼女はある殺されたアナバプテストの妻のために、市の職員としての仕事を斡旋してあげました。しかし、まもなく、そのことに気づいたツェルの後継者、ラブス牧師はアナバプテストの妻である故に彼女を免職すべしと主張しカタリナを悲しませました。このとき、カタリナのラプス牧師へ書いた手紙が現存しています。彼女は「信仰のゆえに迫害することは政府のすることではない。」と書いて、信仰の自由を雄弁に主張しています。1557年のことですので、大変重要な文献となるでしょう。

ヴォルフガング・カピト(Wolfgang Capito)も重要な役割を果たしています。1478年にハゲナウに生まれました。インゴルシュタット大学、フライブルク大学,バーゼル大学で、医学、法学、後に神学をおさめ、1512年、ブルクサルの説教者となりました。ここで、メランヒトンと知り合い、1519年にはマインツの説教者となり、1523年、聖トマス教会の説教者としてストラスブールにやってきました。ここで、彼は宗教改革を支持し、ツェル、ブーツァーらと共に、プロテスタント進展のために大いに働きました。

マルティン・ブーツァー(Martin Bucer 1491ー1551)は、ツェル、カピトとともに、ストラスブールの宗教改革を指導した中心人物で、ルター、ツヴィングリの両者とも良好な関係を持ち続け、ルター派とツヴィングリ派との決定的分裂を回避させる努力をし、カルヴァンの先駆者のような仕事をしましたが、アナバプテストには批判的でした。

彼は15才で、ドミニコ会修道院に入り、1517年、ハイデルベルク大学で学んでいる時、ルターの95箇条の堤題を知り、ルターと文通を始めました。最も初期からのルターの支持者の一人です。1520年、修道院を出たブーツァーはシュパイエルに滞在した後、ジッキンゲンで宗教改革運動を始めています。1522年、フッッテンの推薦で、ラントシュトゥールの牧師となり、ここで結婚しています。しかし、騎士の乱に巻き込まれます。彼は、ヴァイセンブルクに逃れ、そこで宗教改革を導入しました。1523年、4月ストラスブールの宗教改革運動に身を投じ、市の宗教改革を指導し、ドイツ全土で名の知られる存在となりました。1549年市当局はフランスの圧力で、カトリックへの復帰を決めると、ブーツァーはイングランドへ逃れ、イングランドのプロテスタント化に貢献します。ブーツァーについて特筆するべきことは、彼が堅信礼の創設者であることです。

ケラリウス(Martin Cellarius)が一時期、この町で活動したことも覚えておいてよいでしょう。彼は最初期のルター支持者で、ルター不在中のヴィッテンベルグ宗教改革の際、急進派として頭角を現し、ルターの帰還後、ルターと対立し、ストラスブールにやってきます。ここで一時期、ブーツァーらの宗教改革に協力しますが、何らかのトラブルがあったようで、ストラスブールを離れ、バーゼル大学で教鞭をとり、ここで最期を迎えています。バーゼルは、エコランパディウスにより宗教改革が完成しますが、エラスムスやカールシュタット、デンクまでも追放されることなく、ここで最期を迎えています。そういう意味では、バーゼルはストラスブールとともに宗教的寛容を実践した都市として注目すべき場所となっています。

ジャック・ルフェーブル・デタープル(Jacques Lefevre d'Etaples)もストラスブールに関係しています。彼は1521年ごろからパリ近郊のモー(Meaux)で教会改革運動を始めた人物で、フランス語聖書翻訳を最初に手掛け、出版しました。(1530年)フランス宗教改革運動の草分けのひとりと言えるでしょう。1525年、迫害を逃れてストラスブールにやってきています。その後、宗教改革運動から身を引いたようで、フランスに戻っています。彼はカルヴァンにギリシャ語を教えた人物ともいわれています。

カルバンも一時期、この町に滞在していますが、それについてはあとで述べることにしましょう。



<ストラスブールでのアナバプテスト運動の始まり>

この町には多くのアナバプテストたちが訪れています。最初期にやってきたのはザトラーです。彼は1525年11月、チューリッヒを追放されたのち、直ちにストラスブールへ行き、カピトの家の客となっています。1526年3月にはロイブリンもやってきました。デンクは、まだアナバプテストになる前のことですが、この町に一時期滞在しています。フートもおそらく旅の途中に立ち寄っているはずです。

1528年10月にマーペックが到着します。ロイブリンは1529年、追放されています。1929年6月にはホフマンが来て、1530年4月に追放されるまでの間にアナバプテストになっています。1532年1月マーペックが追放されます。この頃、まだアナバプテストにはなっていませんが、ロートマンも1531年頃この町にしばらく滞在しています。また、アナバプテストではありませんが、セバスチアン・フランク(Sebastian Franck)はここでシュヴェンクフェルド(Caspar Schwenckfeld)、セルヴェトス(Michael Servetus)、ビンダーリン(hans Buenderlin)と知り合いましたが、1531年12月30日に追放されています。また、のちのことですが、1538年から41年まで、カルヴァン(John Calvin)がこの町に滞在しています。


その他、実に多くの人物がこの町で活躍しています。

ハンス・ヴォルフ(Hans Wolf)については、アナバプテストの多様性を知る上で、触れておく価値はあると思います。彼はストラスブール近郊のベンフェルド(Benfeld もしくは Beufeld)の織物職人でしたが、1526年にストラスブールでアナバプテスト伝道を展開し、市の宗教改革者たちを激しく攻撃し、1533年に世界は滅ぼされると預言しました。彼はまもなく逮捕され、カピトに尋問された上、1526年7月30日に追放されています。彼のその後は知られていませんが、のちのホフマンとの類似が気になるところです。




<ピルグラム・マーペック>


1528年10月にはマーペックがストラスブールに到着しました。マーペックは南ドイツ一帯で活躍した重要なアナバプテスト指導者のひとりであり、のちのメノナイト派と非常に近い人物ですので、少し詳しく彼の生涯を辿ってみましょう。

ピルグラム・マーペック(Pilgram Marpeck)の幼年、青年時代についてはよくわかっていません。おそらく、1500年頃、チロルのラッテンベルクで生まれたと推定されます。市の歴史文書にマーペック姓の人物を何人も見つけることが出来ます。彼らは議員であったり、裁判官であったり、市長であったりします。おそらく、ピルグラムもこの家系に生まれたものと考えられます。彼はラッテンベルクで育ち、ここで結婚し、1523年に市議会議員となっています。1525年以降は鉱区担当判事に任命され、鉱山の機械設備にも詳しいとされています。

マーペックがどのようにしてアナバプテストになったか、確実な記録はありません。1527年にチロル地方でのアナバプテスト伝道が始まっているで、この年の11月頃にバプテスマを受けたと言われています。1528年1月28日にアナバプテストの嫌疑で判事の職を解かれています。
彼の信仰告白を要約すると次のようになります。「信心深い両親のもとでカトリック信者として教育されましたが、ヴィッテンベルク福音(宗教改革)の支持者になりました。しかし、ルター派の説教には肉の自由があることに気づき、ルターに失望しました。ルーテル教会の中に魂の平安を見いだせなかったのです。そのような時、神の言葉のみを見上げるという信仰を告白して成人バプテスマを受けました。」

ラッテンベルクを追放されたマーペックはアウグスブルクを経由して1528年5月にはストラスブールに到着しています。彼はここで森林管理の仕事に就き、大変高い評価を得ています。彼は材木を運ぶための水流工事計画を立て、町のために大いに貢献したからです。

しかし、まもなくマーペックがアナバプテストであることが発覚し、彼は逮捕、投獄されます。しかし、カピトの取りなしと、また、おそらく彼なしには水利計画が挫折するからでしょう、彼は釈放されています。


1531年11月、マーペックは市内の牧師たちと公開討論会を開くことを市議会に要請しています。議会は非公開の委員会での討論を承認し、12月9日、討論会が開かれました。この時の討論の相手はブーツァーでした。マーペックは幼児バプテスマの不当性を強く主張しましたが、議会は彼の主張を退け、彼は町から立ち去るよう要求されました。その後、数回討論会が開かれましたが、市議会の結論は変わりませんでした。そこで、1532年1月末日、彼は町を後にしました。

その後の彼の足取りは明らかではありません。各地を旅して、各地のアナバプテストの群を指導したのでしょう。この頃、スイス、南ドイツのアナバプテストたちの多くはモラビヤへの集団移住を決意しましたが、マーペックはこの群に加わることはありませんでした。この頃、ロイブリンがマーペックに手紙を書いて、モラビヤ・アナバプテストの群で経験している悩みをうち明けているので、マーペックは慎重になったのでしょう。

彼は、おそらく、スイス・グラウビュンデン(Graubuenden、Grisonsとも言う)にしばらく滞在したものと思われます。その後、1544年にはアウグスブルクに移りました。彼はこの町でも森林と水利関係の仕事に就いています。アナバプテストであることを秘密にしたわけではなく、彼はたびたび市から警告を受けていますが、逮捕されることなく、また追放も免れ、1556年、天寿を全うしています。

初期のアナバプテスト指導者の中で長生きしたのは、彼とロイブリンぐらいでしょうか。メノーも長生きしたと言えるかもしれません。



<宗教改革急進派>


アナバプテストではありませんが、シュヴェンクフェルト(Caspar von Schwenckfeld)がしばらくストラスブールに滞在しています。彼は1489年、北東ドイツ・リューベン近くのオッシヒで生まれました。彼は貴族の出で、シレジア(シュレジア)の宮廷でフレデリック2世に仕えていましたが、宗教改革の知らせを聞くと、直ちにルター支持者となり、1522年、侯爵に宗教改革を受け入れるよう説得します。しかし、その提案が退けられたので、彼は故郷に帰り、平信徒として宗教改革に協力しました。彼は、シレジアでのアナバプテスト迫害に反対し、寛容な政策を主張し続けました。彼は追放され、1529年ストラスブールへやってきます。1533年に、各地を旅しながら、彼の教えを説き続けます。彼は特定の教会組織にこだわることは意味がないと考え、既成教会から内面的に離脱すればそれで良いとしました。この彼の立場は、命がけでバプテスマを受けるアナバプテストとは異なりますが、考え方の方向性は同じなので、アナバプテストからシュヴェンクフェルト派へ転向する者たちがのちに現れています。彼の支持者は後に、シュヴェンクフェルト派の教会を設立し、迫害を逃れてアメリカに渡っています。彼はウルムやエスリンゲンに留まり、1561年12月10日に病死しました。


セバスチァン・フランク(Sebastian Franck)は1499年、ババリアのドナウヴェルトで生まれました。ニュルンベルク近くのグステンフェルデン村で司祭として働いているとき、熱心なルター支持者に変身し、1528年、ニュルンベルクにて宗教改革急進派へと変貌を遂げました。彼は聖餐やバプテスマなどの礼典を無意味と考え、見えざる教会こそが真の教会であると主張しました。シュヴェンクヴェルトと一脈通じるところがある考え方です。しかし、組織や礼典を重んじるアナバプテストとそりが合わず、彼独自の方向に進みました。彼がストラスブールで出版した「クロニカ」(Chronica Zeytbuch vnd geshcychtbibel)という書物は、キリスト教の歴史を反体制派の立場から纏めたもので、当時のベストセラーとなり、アナバプテストたちの情報源となったようです。1543年頃、バーゼルで亡くなっています。

セルベトゥス(Michael Serbetus)は宗教改革急進派の中で唯一殉教しているので、名前はよく知られています。彼はスペイン出身ゆえにでしょうか、三位一体論を聖書的根拠がないと批判し、「三位一体論の誤り」という本をストラスブール近くの村で出版しています。それゆえ、カトリック、プロテスタント両陣営から危険視され、命を狙われたので、偽名を使って医師として働きました。しかし、1553年、ジュネーブで逮捕され、火あぶりの刑に処せられています。


<アルザスのアナバプテスト>

 この後、アナバプテストはストラスブールでは活動を続けることが出来ず、中心はアルザスの町や村に移って行きます。指導者はシグムンド・ボッシュ(Siegmund Bosch)でした。おそらく、この地域での迫害はそれほど激しくなかったのでしょう。この地でのアナバプテスト運動は長続きして、その後、ここでアーミシュ派が台頭し、この地の正統派のメノナイトと対立し、分派してアメリカ大陸に渡るという歴史になります。




<メルキオール・ホフマンの登場>


メルキオール・ホフマン(Melchior Hofmann)はアナバプテストの歴史において重要な人物ですが、宗教改革者としても興味深い足跡を残しています。

一般に、宗教改革史として取り上げられるのはルターとカルヴァン、そして、せいぜいツヴィングリまでであって、メランヒトン、エコランパディウスまで取り上げられることはまれです。ましてや、アナバプテストや宗教改革急進派について触れられることはほとんどありません。これでは宗教改革の全貌を知るにはまったく不充分です。結果的に、宗教改革主流派の視点ばかりが強調されて、排除された人々の視点や裏の歴史が見えてきません。ホフマンの生涯は宗教改革の表にも裏にも関わっているので、宗教改革の全貌を知るために貴重な情報をもたらしてくれます。

メルキオール・ホフマンはシュトットガルトの北東60キロほどのところにあるシュヴェビッシュ・ハル(Schwaebish-Hall)に生まれました。1495年頃と考えられています。

彼は毛皮商人でしたが、タウラー(Tauler)などの神秘主義思想家の書物を愛読し、聖書にも精通している青年でした。ルターが宗教改革を起こしたとき、ホフマンはルターの熱烈な支持者となり、プロテスタント牧師が不足していることもあり、1523年以降ヴォルマール(Wolmar)の町で、ルターを支持する説教をしていました。しかし、市当局により追放され、その後、1525年にはドルパット(Dorpat)の町に行き、ここでは聖画像を破壊するように呼びかけ、彼を支持する人々により、町中のマリア像などが破壊される事件を起こしています。町はプロテスタントとなりましたが、町の当局者たちはホフマンが単なる毛皮商人であることから、彼が説教を続けることに不安を感じ、他の宗教改革者からの承認と支持を受けることを求めました。そこで、ホフマンはヴィッテンベルクのルターのもとに赴き、ルターからの推薦状を貰って帰ることができました。しかし、彼のキリスト再臨待望説教は市内のプロテスタント牧師たちから異端視され、次の町でも彼は追放され、しだいにルーテル派への疑問を持つようになりました。

幸い、その頃、1526年の初め、仕事の関係で出かけたスウェーデンでドイツ語教会の説教者としての仕事が見つかりました。彼は結婚し、子供も産まれました。しかし、国王グスタフはホフマンの説教に不安を感じ、彼は1527年1月に追放となります。彼はドイツに戻り、リューベック(Lubeck)やホルシュタインなどで説教しようとしますが、どこも彼を受け入れてくれるところはありませんでした。そこで、彼はヴィッテンベルクに行き、再度、ルターの承認を得ようとしますが、今回は冷たくあしらわれ、ひどく失望して帰りました。しかし、ホルシュウタンに戻り、デンマーク王フレデリック10世の承認のもとで、ある町の説教者としての立場を与えられました。しかし、そこでもホフマンの終末についての説教は多くの反対者を見いだしました。また、聖餐論についても反対者たちが現れ、デンマーク王は公開討論会を開くことを決定しました。この討論会は1529年春にフレンスブルクで開かれることになりました。ホフマンは、先のヴィッテンベルク滞在中に知り合ったのでしょうか、カールシュタットを彼の支持者として招きました。しかし、なぜかカールシュタットは開催時間までに町に到着することが出来ませんでした。ホフマンは理論的話しになると苦手なのでしょうか、討論会の結果、彼は追放となりました。ホフマンは東フリースランドに行き、そこでカールシュタットと合流し、ストラスブールに向かいました。ここで、ホフマンはいくつかの著書を出版しています。

この町でホフマンはアナバプテストに転向することになります。1530年春に書かれた市議会への請願では、アナバプテストに国教会(領邦教会)と同等の権利を認めるべきとの主張を展開しています。しかし、これは当局の聞き入れるところではなく、彼は追放となり、1530年4月23日には町を離れています。

おそらく、この時、ホフマンはアナバプテストになったと思われます。しかし、その経緯は判っていません。この頃、ストラスブールにはマーペックが滞在していたので、彼がバプテスマを施したのかもしれませんが、マーペックとホフマンでは神学も体質もまったく逆です。マーペックの弟子たちの誰かがバプテスマを授けたのかもしれません。1529年のこととしておきましょう。

ホフマンは1530年5月には東フリースランドに到着し、7月にはエムデンで多くの共鳴者を見いだします。彼は300人ほどにバプテスマを施したと言われています。しかし、まもなく追放され、オランダ各地を旅して廻りました。しかし、オランダでも激しい迫害にあったので、ホフマンは公然と活動することはできませんでした。


<カルヴァン>

ストラスブールにはカルヴァンも一時期滞在しています。

カルヴァン(John Calvin)は、1509年7月10日、フランスのノワイヨン(Noyon)に生まれました。彼が12才の時、奨学金を得ることができ、パリで法律を学ぶうちに、宗教改革の波がフランスにも押し寄せてきました。コップ(Nicolas Cop)やオリヴェタン(Olivetan)などの影響で、彼は間もなくルターの支持者となり、1534年パリを脱出する際には、はっきりカトリックを離れ、プロテスタントになっていました。彼は、フランス各地を転々とし、宗教改革を説き、1536年、バーゼルにてキリスト教綱要第1版を出版し、フランス語地域でのプロテスタント指導者と見なされるようになりました。

その後、イタリアへ行き、その帰り道、ジュネーブ(Geneva)に立ち寄りました。ここでは、ファレル(Guillaume Farel)が宗教改革を進めていましたが、カトリック系市民の反対も強く情勢は混沌としていました。カルヴァンは町の宗教改革のために大いに働きましたが、1538年2月、ファレルと共に町を追放になりました。その後3年ほどストラスブールに滞在しました。ここでの体験は彼に大きな影響を与えたものと思われます。 カルヴァンは、すでに第1回のジュネーブ滞在中にアナバプテストに出会っています。また、ストラスブール滞在中に二組の夫婦を改宗させています。そのうちの一人は、まもなく病死し、カルヴァンは残された未亡人(Idelette Stoerder)と結婚することになります。 カルヴァンの理論とアナバプテストの間に多くの関係があるということは、カルヴィニズトは認めたくないところでしょう。しかし、思いのほか多いことは注目に値します。破門(聖餐停止)や予定論はアナバプテストからルター派に向けられた批判をかわすための理論という面があります。また、カルヴィニズムの広まった地域は、先にアナバプテストの広まっていた地域に一致しています。アナバプテストを吸収してカルヴァン派が進展したともいえるのではないでしょうか。そういうことを踏まえると、カルヴァンの奥さんがアナバプテストからの改宗者であったことは象徴的です。



■      第8章   オランダのアナバプテスト


<オランダの歴史>

この頃のオランダの政治情勢も知っておく必要があります。

オランダ(ネーデルランド Nederland)は、この頃、まだ神聖ローマ帝国の領地であり、1568年独立戦争が勃発するまで、公式にはカトリック国であったことは覚えておかなければなりません。神聖ローマ帝国は、その名前の立派さとは裏腹に、権力基盤は弱体で、皇帝が選挙で選ばれるなど、各領邦が独立国のように振る舞っていました。オランダは15世紀に領主が男系子孫を残さずに亡くなったことにより、ハプスブルグ家の領土となり、宗教改革当時は、オーストリアのカール5世の直接統治となっていました。それゆえ、一時的にアナバプテスト運動が盛りあがった地域があったことを除いて、宗教改革を支持する都市は現れませんでした。しかし、1555年、息子のフェリペ2世が統治することになり、このフィリペがスペイン王も兼ねることになったので、1559年、オランダは異母姉のマルゲリータ公妃が統治することになりました。

この時代、イングランドでは1534年にヘンリー8世のもと、カトリックを離脱し、イングランド国教会が設立されました。1547年にヘンリー8世が死去すると、エドワード6世が1553年まで治め、その後、メアリー1世がカトリック復帰政策をとり、1558年まで治めます。フランスは、カトリックであるにもかかわらずイタリアに侵攻するなど、ローマ教皇庁と対立していました。宗教改革についても、カルヴァンをはじめ、多くの賛同者を見出しています。しかし、1562年に始まったユグノー戦争が長引き、1589年にプロテスタントのアンリ4世が即位しました。これがブルボン王朝の始まりです。しかし、彼は王国の安定のため、1593年にカトリックに改宗し、一方で、1598年、ナントの勅令を出してプロテスタント信仰を認め、ユグノー戦争を終わらせました。

フランスがユグノー戦争を戦っている時、また、その後、カトリック国になったことにより、多くのプロテスタントたちがオランダに亡命し、オランダ独立運動の支持者になったと思われます。



<サクラメンティスト>

さて、1517年当時、オランダはまったくのカトリック国であったかというと、そうではありません。エラスムスがオランダ人であったことは踏まえておかなければなりません。ですから、ルターの宗教改革以前からカトリック教会への不満が渦巻いていました。そして、聖餐式のパンとぶどう酒がイエス・キリストの身体と血そのものであるという化体説への疑問を持つ人々があちこちにいて、公然とカトリック教会を批判していました。それらの人々はサクラメンティスという名前で知られています。

彼らはカトリックから離脱して独自の組織を作ったわけではないので、運動体としての歴史はありませんが、ルターの宗教改革のニュースが流れてきたとき、サクラメンティスとの中からルター支持者が現れたのは自然な流れでした。しかし、彼らの聖餐理解はルターの嫌うツヴィングリ的だったので、オランダの宗教改革はルターに流れることはなく、ツヴィングリ、および、その後継者であるカルヴァンを支持する改革派のものとなります。

サクラメンティストとして知られている人物として、ハーグのコルネリウス・ホーエン(Cornelius Hoen)が挙げられます。彼は自分の理解する聖餐論を書いてルターに送りましたが、ルターに退けられています。そこで、それをツヴィングリに送ったところ、賛成してもらったとのことです。1521年のことです。その後、カトリック教会からの弾圧が激しくなり、何人かが処刑されていますが、彼らはアナバプテストではなく、ルター、ツヴィングリの支持者だったようです。そして、1530年以降、アナバプテストに加わる人々が多数現れたのは、サクラメンティストの影響があったからだと考えられます。そして、アナバプテストが弾圧され、下火になったあとに広まるのがカルヴァン派ということになります。



<ホフマンの弟子たち>


さて、オランダのアナバプテスト運動に戻りますが、オランダにおけるホフマンのバプテスマ運動に対する弾圧・迫害は直ちに始まりました。

1531年12月5日、彼の弟子であるフォルケツォーン(Volkertszoon)はハーグで斬首されました。ホフマンは弾圧をかわすため、2年間は成人バプテスマを休止すると宣言しました。その後、彼はドイツ各地とオランダ各地を廻りましたが、バプテスマは施さなかったようです。1533年5月、彼はパンフレットで「まもなく、ストラスブールで神の国が始まる。しかし、その前に多くの人々が殺されるだろう。」と述べています。彼はストラスブールで逮捕され、牢獄生活が始まりましたが、彼の期待した終末は来ることなく、1543年暮れに亡くなるまで、10年間牢獄生活を続けることになりました。その間、ミュンスター事件などが起きてくるのですが、はたしてホフマンはそれをどのように理解したのでしょうか。


1533年春、ホフマンが逮捕されたのち、群れの中心に立ったのは、ヤン・マティス(Jan Matthijsz van Haarlem)でした。彼はハーレムのパン屋でしたが、ホフマンからバプテスマを受け、最初期にアナバプテスト運動に飛び込みました。おそらく信仰上の理由でしょう、妻と別れ、同じアナバプテスト仲間であるデュヴェルテン(Dieuwertgen)という女性と結婚しました。そして、ホフマンなき後、群れの指導者となりました。彼は、アムステルダムで説教し、「世の終わりが近づいた。エノクが現れ、千年王国が今や始まろうとしている。」と言いました。また、1533年暮れ、12名の使徒を選び、2名づつ各地に派遣し、バプテスマ運動を展開しました。おそらく、ホフマンのバプテスマ中止命令が届いていなかったのではないでしょうか。その12名の中に、バルテル・ベックビンダー、その兄弟のゲリット・ベックビンダー、ヴィレム・クーパー、ヤン・ライデン、ヤコブ・カンペン、ピーター・ハウトザーガーなどがいます。このうち、バルテル・ベックビンダーとクーパーはフリースランドに出かけ、オッベ・フィリップスにバプテスマを授け、長老に任命しています。このオッベはその後一時期、平和主義アナバプテストの指導者となっています。ベックビンダーたちは1534年1月5日にミュンスターに到着し、ミュンスター市のアナバプテスト化のために働きました。ヤン・ライデンはライデン生まれの仕立て職人で、1533年11月にマティスからバプテスマを受けたと言われています。彼は、各地を巡回し、1534年1月13日にミュンスター市に到着しました。この頃ミュンスター市はロートマンにより急進的宗教改革が進められていた時期に当たっています。ライデンは市当局者たちに暖かく迎えられ市長クニッパードリングの客となりました。



<ミュンスター市の宗教改革> (Muenster Anabaptists)

 
ここで、ミュンスター市の政治情勢について触れておきましょう。ミュンスターは、ウェストファリア州の首都で、8世紀以来、司教座を持つ町として栄えた自由都市でした。ルターの宗教改革は市民に大きな刺激を与え、1525年の南ドイツ一帯の農民戦争はさらに大きな刺激となり、市内のギルドたちは経済的、宗教的改革を主張していました。1527年までに、ベルンハルト・クニパードリンクが大衆の指導者となりましたが、カトリックと改革派の勢力は桔抗していたようです。事件の中心人物はベルンハルト・ロートマン(Bernhard Rothmann)です。

ロートマンはミュンスター近くのシュタトローンに生まれました。ミュンスター市内の聖モリツ教会司祭となり、ルターの宗教改革に共鳴し、1529年、ヴィッテンベルクへ行き、メランヒトンの友人となり、その後、南ドイツ各地を歩き、ストラスブールにも立ち寄り、カピトに面会するなど交友関係を広げました。1531年7月、ミュンスターに戻り、聖ランベス教会の司祭(牧師)になりました。この時、ロートマンの宗教改革の訴えを市内のギルドたちが支持したことから、急速に宗教改革が進みました。1532年1月23日、彼は信仰告白を出版しています。この信仰告白は、聖餐についてツヴィングリ的であることを除いて、ルターに忠実なものでした。カトリックからの反論もありましたが、8月10日までには、市内の教会及び市議会は、宗教改革派のものとなりました。1532年の暮れには、ヴァッサーベルクの説教者たちと呼ばれるロル、ヴィネらがやってきます。この頃、ロートマンは反ルター的傾向を明確にし始めています。ルターはミュンスター市当局者に対して、ロートマンを警戒するようにと手紙を送っています。しかし、ロートマンは市議会の支持を失う事なく、1533年3月の選挙ではロートマン派が大勝しました。また、この年の5月までにさらに過激になり、おそらくロルの影響だと思われますが、幼児バプテスマにも批判的になっています。8月7日、8日の公開討論会では、ルター派の牧師たちが勝利し、ロートマンは解任されましたが、ギルドの圧力により、10月には復職しています。11月8日に「バプテスマと晩餐の二つの秘跡についての信仰告白」を出版しています。この中で、信仰告白に基づくバプテスマについての言及があるので、かなりアナバプテストに傾いていたことがわかります。このような状況の中で、アナバプテストたちがミュンスター市に集まりだしたのです。



<ミュンスター事件>(Muenster Anabaptists)

1533年暮れは市政大混乱の時でした。11月に、ロートマン追放令が出されましたが、彼は町に留まることができました。そして、1534年1月5日、ベックビンダーとクーパーが到着するとまもなく、ロートマンはじめ、市内のロートマン派の牧師たち全員がバプテスマを受けアナバプテストへと転向しました。それ故、1月23日、ミュンスターの大司教フランツ・フォン・ヴァルデックのアナバプテスト全員を逮捕せよとの命令も、何等実行性を持たなかったのです。アナバプテストはここに新しいエルサレムを見いだしました。若者たちは、信仰の自由を求めて、オランダから陸路や海路で大挙してミュンスターへ押し寄せてきたのです。
 
1534年2月9日、市議会議場がアナバプテストに占拠されます。そして、27日には、市民全員にバプテスマが施され、従わないものは追放となりました。これに対し、カトリック諸候は軍を派遣することになりました。

まもなく、司教フランツ軍が町を包囲し、こぜりあいが始まりました。4月4日、マティスは、少数の部下と共に敵陣に乗り込み戦死します。ライデンはマティスの死後、実質的指導者となります。ここで財産共有制と一夫多妻制が導入されたと言われています。

従来から、アナバプテストの共産主義性と非倫理性が宣伝され、批判されていますが、財産共有制については、包囲された城の中ですので、戦時下の対策としては異常とは言えないのではないでしょうか。また、一夫多妻制は、戦争の当事者が採用する政策としては考えられません。戦争の最中、家庭を持てない状況なのに一夫多妻が機能するはずがありません。なんらかの記録者の誤解ではないかと思われます。おそらく、ライデンの個人的事情でふたりの妻を持つことになったことが多妻制と批判され、それがアナバプテスト全員のことと誤解されたのではないでしょうか。アナバプテスト全員が多数の妻を持つことは、女性の数が少ないことからして、実際的に不可能なことです。




<オランダ・アナバプテストの分裂>


その頃、オランダでは、ミュンスターでの動きに賛成し、積極的に協力するグループと、不賛成で、非暴力主義を貫くグループに分裂します。ピーター・フートザーガーは1533年12月、リューワルデンにて、ディルク・フィリップスにバプテスマを施したのち、1534年3月、多くの信者を連れ、舟でミュンスターへ乗り込もうとしていたところ、ゲネミュイデンにて逮捕され、計画は失敗に終ります。逮捕者はハーレムにて全員処刑されました。1535年初めには、ヴァルフムの聖ヨハネ騎士修道院が約70名の武装したアナバプテストに襲われました。アナバプテストの指導者はヤコブ・クレーマーでしたが、戦いに敗れたのち、1535年4月にグロニンゲンで処刑されています。


ミュンスターでは、1535年6月25日、司教軍により、町の一角が破られました。その戦闘で、市民全員殺害されるか、逮捕されました。指導者であったライデンはクニッパードリングとクレヒティングと共に、拷問の末、1536年、1月23日に処刑されました。死骸は見せしめのため、町の聖ランベス教会の尖塔に檻に入れられてさらしものにされました。死骸は20世紀までそこに置かれたままでした。檻は今日でもそのまま残されています。私もその箱を見にミュンスター市に行ってきましたが、歴史の重みを感じさせられます。一見の価値があると言えるでしょう。ロートマンは混乱の中で逃亡したのか、その後消息不明です。


ミュンスター事件は当時の大ニュースとなり、アナバプテストの評判は地に落ちました。それまでは、アナバテストに同情していた人々までも嫌うようになったのです。そして、アナバプテストの内部でもこの事件への自己批判、および、反省を迫る人々が多数あらわれました。

もともと、アナバプテストは平和的グループであったことは忘れてはなりません。グレーベルは聖書にある「剣を持つものは剣にて滅ぶ」マタイ26:52 という御言葉を真剣に受け取り、徴兵制に反対しました。軍隊を大切にするスイスにとって、それはかなりの反社会的教えでしたが、この考え方は、当時のアナバプテストの主流派のものとなったのです。南ドイツ、モラビアのアナバプテストたちがミュンスター事件に批判的であったのは当然のことです。しかし、ミュンスター事件にかかわったアナバプテストたちはホフマンの指導を受けて始まったホフマン派のアナバプテストたちでした。彼らはマティスやライデンを支持して、ミュンスターへ行こうとしたし、新しい都エルサレム(ミュンスター)建設のために命を捧げる気持ちになったのです。

しかし、アナバプテスト主流派と同じ考えの者たちもオランダに少数ながら存在していました。彼らがもともとホフマンの弟子なのか、それとも、主流派の伝道師がオランダに来ていたのか、はっきりしません。



<メノー・シモンズとメノナイト派の成立>(Menno Simons)
 

メノーは、メンノーとも表記されます。辞典では「メノー」、もしくは「メンノー」で検索できます。。彼は1496年、オランダ・フリースランド地方のウィトマルスム村に生まれました。父は酪農家で、名をシモンと言いました。それ故、メノーはシモンの子メノーという意味でメノー・シモンズとなります。シモンズは名字ではありませんので、一般にはメノーという通称が使われています。彼はフリースランドで修道士となり、1524年、ユトレヒトの助任司祭に任命されました。場所はヴィトマルスム近くのピンジュムでした。友人とトランプ遊びや飲酒もしたと後になって告白しているところをみると、まじめな司祭ではなかったかもしれません。しかし、司祭になって一年目に突然心に疑問が生じました。「はたしてミサの時拝受するパンとぶどう酒は本当にキリストの肉と血なのだろうか?」おそらくこの頃、サクラメンティストのホーエン(Cornelis Hoen)の著書を読んだか、宗教改革たちの聖餐論争について耳にしたのでしょう。彼は悩みました。心では教えを信じるべきと思いつつも、頭の中では信じられなくなったのでした。彼はおよそ2年間悩み続けました。そして解決を求めて聖書を詳しく調べました。彼はカトリックの伝統に忠実たらんと努力しましたが、聖書にも忠実であろうとしたのです。次第にメノーは聖書の素晴らしさを悟り、聖書に基づいた説教をするようになりました。

この頃、メノーの教区近くにあるリューワルデンでアナバプテストのシック・フリークが処刑されました。処刑の理由は、フリークが再バプテスマ(成人バプテスマ)を受けたことでした。このニュースを聞いたメノーは「どうして2度もバプテスマを受けるのか」と訝ったそうです。宗教改革に共感していましたが、アナバプテストについては知らなかったのでしょう。しかし、彼はまじめにこの問題について調べました。その結果、彼にとっては驚きでしたが、聖書には幼児バプテスマについて何も書かれていなかったのです。1531年頃の事です。

彼は生まれ故郷のウィトマルスムに戻り、ここで1536年にアナバプテストに転向するまでカトリック司祭として忠実に仕事を果たしています。ちょうどこの頃、ホフマンがストラスブールで逮捕されました。残された弟子たちは次第に暴徒化して行く時期に当たっています。メノーはミュンスター事件にきわめて批判的でしたので、アナバプテスト運動に参加しにくかったのでしょう。1534年、メノーはアナバプテストのリーダーたちと討論しています。おそらくこれはあまり友好的にはならなかったはずです。メノーの弟ピーターは暴力肯定派のアナバプテストだったので、彼は弟を救い出したいと考えていたのでしょう。しかし、メノーの思いは複雑でした。「理論的には誤っているが彼らはどうして信仰のために生命を捧げることができるのだろうか。それに対して自分はプロテスタントになる勇気もなく、いまだにカトリック教会から給料を貰って安逸な生活を送っている。」彼はカトリック司祭として生きるかぎり、神の裁きの日に申し開きが立たないと感じていたのです。

彼がどういうきっかけでアナバプテストになったか、詳しい経緯は判っていません。ミュンスターのアナバプテストが壊滅し、もはやオランダのアナバプテストはいなくなると思われたそのとき、メノーはアナバプテスト運動に身を投じました。おそらく、平和的アナバプテストとの出会いがあったのだろうと思われます。時は、1536年1月のある夜のことでした。彼は闇夜にじょうじて教会を抜け出し、いずこへともなく消えてゆきました。

彼はグロニンゲンなど、オランダ、北ドイツを転々としながら、平和的アナバプテストの群れを養い、スイス兄弟団と同じ非暴力的神学に立つパンフレットを多数書き残しました。後にメノナイトと呼ばれるグループは彼が結成したわけではなく、すでに存在するアナバプテスト運動に彼が参加したのですが、名称は彼からきています。彼の影響の大きさが分かります。

1539年1月に、ティヤルド・レニックスがメノーを匿った罪により処刑されています。また、1542年12月7日、メノーの首に懸賞金がかけられています。しかし、最後まで逮捕される事なく、1561年1月31日、ホルシュタインのヴュステンフェルデで死去しています。

アナバプテスト運動は、ニコルスブルグなどの例外を除いて、町や村全体を巻き込む運動にはならず、常に小数者の信仰運動として細々と存続しました。厳しい取締りのかなで、大部分のアナバプテストは処刑か転向かの選択を強制され、1600年までに、およそ、5000人ほどの人々が処刑されたと言われています。転向、及び隠れアナバプテストを入れるとアナバプテスト運動の全体は数万人と言うことになるでしょうか。当時の人口が少なかったとはいえ、この運動自体が少数者の運動であったことが分かります。殉教者のほとんどは、南ドイツ、オーストリア、オタンダであり、スイスと北ドイツでの殉教者は数えるほどしかいません。概して、北ドイツ方面には運動が広まらなかったと言えます。最後の殉教者は1618年、スイス国教近くのオーストリアの町ブリゲンツのエッグで処刑されたヨスト・ヴィルヘルムとクリスチナ・ブリュネリンであると思われます。

その後のアナバプテスト運動は、メノナイトと言う名称で存続し、今日でも世界各地に彼らの教会が存在しています。



■      第9章   バプテストとメノナイトの関係


アナバプテスト(メノナイト)の勢力は全世界で150万人ほどであり、それほど大きな教派ではありません。しかし、自由教会、および、信仰の自由を主張するという点で、近代社会の理念の一部を最初に主張したということで注目に値します。

メノナイトの考え方が社会に広まるきっかけになったのは、バプテスト派が成立し、アメリカ社会の精神的柱のひとつになったことが挙げられます。

バプテストはアメリカ合衆国の主要な教派のひとつであり、世界全体での信者数は、公表されていませんが、アメリカで2000万人、メソジストと並ぶアメリカ最大の教派であり、ロシアでの最大プロテスタント教派、タイ、ミャンマー、ラオスなどの山岳民族では部族の宗教となるなど、世界中に広まっています。このバプテスト教会の影響もあって、アメリカの主要な福音派教会(新しい教派)のほとんどで幼児バプテスマは行われていません。そういう意味では、アナバプテストが最初に主張したことは現在、世界中のかなりの教派がそれを受け入れているということになります。


バプテストはもともとイギリス・ピューリタンの一派・会衆派の教会が迫害を逃れてオランダに渡ったことから始まりました。そのグループの指導者はジョン・スマイスと言います。オランダ・アムステルダムで礼拝をしていた場所がメノナイトの信者の所有する建物だったこともあり、ジョン・スマイスとメノナイトの交流が始まりました。その結果、ジョン・スマイスは、幼児バプテスマの非聖書性を悟り、大人のバプテスマが必要だと考えました。そこで、彼は自分で自分に水を注ぎ、それから、群れの全員にバプテスマを施しました。これがバプテスト教会の始まりです。1609年のことです。

ところが、ほどなくしてスマイスは彼の施したバプテスマは間違いであったと考えるようになりました。アムステルダムにメノナイトという正しい教会があるにもかかわらず、自分たちでバプテスマを授けたのは間違いだったという論理です。スマイスはメノナイトとの合流を画策しました。しかし、群れの中にスマイス牧師に反対する者たちがいました。そのひとりがトーマス・ヘルウィスです。彼は、バプテスマを授ける権威は人ではなく、神にあるので、スマイス牧師のバプテスマは有効であると主張しました。結局、スマイスグループの主流派はメノナイトとの合流へ、そして、ヘルウィスとその仲間たちはスマイスとたもとを分かち、迫害の最中、ロンドンへ戻っていったのです。

ヘルウィスたちはロンドン郊外のスピタルフィールドというところで秘密礼拝を持ち始めました。このとき成立したバプテスト教会は、のちに成立する別のバプテスト教会と区別するためにジェネラルバプテストと呼ばれています。まもなく、ピューリタン革命がおこり、バプテストは熱心なクロムウェル支持派となり、クロムウェル軍の中核を形成し、教勢は大きく伸びました。おそらく、このジェネラルバプテストの影響だと思われますが、他のピューリタンたちの中で、幼児バプテスマに批判的なグループが現れました。ただし、彼らはジェネラルバプテストの持つ普遍救済論に同意せず、カルヴァンの教える特殊救済論を支持していました。それで、ふたつは合流することなく、別グループとして存続し続けました。その別グループの名前はパティキュラバプテストと言います。

パティキュラバプテストは、分離派(ピューリタン)そのもので、メノナイトとの一致点は幼児バプテスマの否定だけで、神学はカルヴィニズムでした。彼らは、バプテスマのやり方について、聖書を研究した結果、浸礼であるべきとの結論に達しました。当時、浸礼を実践していたのは、オランダのコレジアンというグループだけだったので、そのやり方を学びに教会の代表者をオランダに遣わし、彼が帰ってきてから、教会員全員、浸礼にもとづく大人のバプテスマを受けました。ここにジェネラルとは別のパティキュラバプテスト教会が成立しました。1640年ごろのことです。

このコレジアント(Collegiants)というグループは、メノナイトの一派ではなく、改革派教会の中から生まれた分派で、会堂を持たず、牧師職を認めず、超教派的聖書研究運動として広まっていたようです。彼らは、バプテスマは浸礼であるべきだとの結論を聖書研究の結果得ていましたが、それを礼典として実行していたわけではなく、必須のものとか、入会儀式として行っていたわけではありません。パティキュラバプテストは、彼らから浸礼のやり方だけを学んだので、彼らとの信仰的交流は特に何も記録されていません。

結局、パティキュラバプテストは、幼児バプテスマ否定という重要な教理については、ジェネラルバプテストを経由してメノナイトの影響を受けていると言えますが、その他の点ではピューリタン(カルヴィニズム)と同じで、メノナイトの影響があるとは言えないでしょう。

その後、バプテストは、パティキュラの影響下で広まってゆくので、今日に至るまでカルヴィニズムの影響を強く受けた教派として分類されます。もっとも、聖餐論においては、象徴説に立っているので、この点ではツヴィングリ的、メノナイト的であると言えます。

結局、バプテストの場合、メノナイトの影響を受けて、幼児バプテスマの否定と成人バプテスマの実践を行いましたが、国王への忠誠の誓いを認め、兵役を拒否せず、公職(議員、役人)につくことも肯定的であった点で、メノナイトとは別の道を歩むことになったのです。




■      第10章   アーミッシュ(Amish)



アーミッシュはメノナイトの分派で、18世紀に発生したので、アナバプテストの初期の歴史には関係しません。しかし、今日、アーミッシュに関心を持つ人が多いので、ここで触れておきます。彼らは近代的生活を拒否し、電気もガスも使わず、服装も含めて、18世紀のスイス・アルザス地方の生活習慣を今日まで保存しているので、大変興味深いグループであることは確かです。

メノナイトへの迫害が止んだのは1650年ごろですが、迫害がなくなっても社会的疎外は続いていました。また、彼らも社会に溶け込もうとはせず、兵役を拒否し、公職に就くことを拒否していました。つまり、メノナイトの群れは社会から孤立して存続していたということです。そういう時代、スイス・ベルン地方エメンタールのメノナイトの群れの指導者にヤコブ・アマン(Jakob Ammann)という人物がいました。トラブルの原因について、メノナイト百科事典(「Amish Division」)はいくつかの説を挙げているので、おそらく、確実なことは言えないのだろうと思われますが、文脈の背後にある史実を私なりに纏めると以下のようになります。

アマンの群れの中に一人の女性がいました。彼女は「国教会の礼拝に出席する人の中にも心の清い人がいて、その人は救われるだろう」と述べました。しかし、アマン指導者は「国教会の礼拝に出席することは罪であるので、救われない。」として、この女性を破門しました。これに対して、近隣のメノナイトの群れはアマン指導者のやり方が乱暴であるということで、破門の撤回を求めました。しかし、アマンの決断は変わらず、むしろ、近隣の群れは聖書の信仰に固く立っていないと非難し始めたのです。これがスイス全体のメノナイトの知るところとなり、多くの長老たちがアマンのもとを訪れ、話し合いを重ねました。しかし、妥協点は見つからず、感情的対立が深まるばかりでした。結局、1693年の7月ごろ、アマンはメノナイトの指導者たち全員を破門し、アマングループはメノナイトから独立することになったのです。

アルザス地方のメノナイトの中にはアマンに同調する者たちがいて、アマンはその後、アルザスに移住し、そこで活動を続けました。そして、彼らの教会のみが正しいと信じるだけでなく、生活習慣や服装までも同じでなければならないという教えが受け入れられました。結果的に、当時の習慣であった、男は口ひげを生やし、女は昔の服装で、電気・ガスを使わず、車にも乗らず、主の晩餐は年二回のみ、洗足式を行うというアーミッシュのやり方が発生したのです。

彼らは、アルザス地方、および、オランダでメノナイトとは別の群として活動していましたが、1737年10月、アーミッシュの21家族がチャーミング・ナンシー号という船に乗り込んでアメリカ・ペンシルバニアに移住しました。これがアメリカ・アーミッシュの始まりです。彼らはそこで、子孫を増やし、またオランダ、アルザスからの移住者を受け入れながら、群として成長し、紆余曲折はあるものの、今日まで存続しています。




■      参考文献


メノナイト百科事典
Quellen qur Geschichte der Taeufer I-IX
Von Ketzern und ihren Verbrennen
The sorces of Swiss Anabaptism --- the Grebel Letters and related Documents edited by Leland Harde, 1985, Herald Press
The Bloody Theater or Martyrs Mirror of the defenseless Christians by Thieleman J. van Bracht, 1660
Quellen zur Geschichte der Taeufer in der Schweiz, S. Hirzel Weilag, Zurich, 1952
世界キリスト教史物語 R.H.ベイントン 教文館
Sabbata,Johannes Kesslers,ST.Gallen,Fehr’sche Buchhandlung,1902
フッタライト派信仰告白、ペーター・リーデマン著、榊原巌訳
アナバプティスト派古典時代の歴史的研究、榊原巌、平凡社、1972
宗教改革急進派、ヨルダン社、1972、
宗教改革著作集第8巻、再洗礼派、教文館、1992、
「もうひとりの改革者」ポール・ピーチ著、金窪宏子訳、日本メノナイト文書協会、昭和36.7.10
History of the Baptists by Robert Torbet

フシーテン運動の研究、山中謙二著、聖文舎、昭和23年、9月15日