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キリスト教と進化論


キリスト教は進化論をどう受け入れるか


キリスト教会内で進化論を否定する考え方が強いことは、キリスト教の現状を知らない人にはなかなか理解していただけないかもしれませんが、キリスト教の内部にいる人間としては、とても残念に思うと同時に、何とかしなければと考えているところです。カトリックは公に進化論を肯定していますが、プロテスタントの半分くらいの勢力を占める福音派と呼ばれるグループはアメリカの強い影響力のもとにあるので、その大半は進化論に否定的です。彼らは伝道熱心であり、それなりに良い点もあるのですが、進化論批判を強く打ち出すことで、多くの日本人の反発を招き、伝道の妨げにもなっています。もし、進化論批判が宗教上の真理であるなら、反発を受けても主張してゆかなければなりません。しかし、科学上の問題を教会が頑固に主張するというのは、どう考えても異常な事態です。このまま進むと、キリスト教そのものがそのレベルの宗教と見なされてしまうでしょうし、間違った教条主義的解釈から、福音理解までも歪んでしまう危険性が生じます。そうならないためにも、微力ながら、進化論批判への反論を掲載し、キリスト教(おもにプロテスタント)内部の進化論支持派を励まし、反進化論に惑わされないようにしてもらいたいと考えています。

アメリカにはファンダメンタリストが多いので、その影響下にある教会は皆進化論を否定し、積極的に進化論の間違いを主張しています。1925年のスコープス裁判が有名ですが、進化論を教えたスコープスという教師が有罪判決を受けました。しかし、戦後、進化論が受け入れられるようになり、1968年、最高裁判決で「進化論を学校で教えて良い」という判決が出て以来、進化論はアメリカ社会で公認されたと言えます。しかし、反進化論がなくなったわけではなく、いまだに大きな思想的影響力を持っています。その影響で、日本の福音派も反進化論に傾くのですが、ヨーロッパのプロテスタントは概ね進化論に肯定的であるという現実を忘れてはなりません。

本来、科学とキリスト教は別次元ですから、キリスト教会が誤った科学理論を持っていたとしても、それが直ちにキリスト教の非真理性を論証することにはなりません。中世のキリスト教会では長らくアリストテレス的宇宙観、つまり天動説が受け入れられてきました。その後、近代になり、コペルニクスにより地動説が唱えられた結果、キリスト教としても地動説を受け入れることになった経緯があります。ニュートン物理学が広く認められた時代には、ニュートン物理学を肯定しました。そして20世紀になってから、相対性理論が登場し、それが社会に認められてからは、キリスト教もそれを肯定しました。別に教会として相対性理論を受け入れるという声明を出したことはありませんが、社会が受け入れた科学理論をキリスト教会が反対したり、拒否したりする理由はありません。

ところが進化論だけは例外のようです。いや、実は例外ではないのですが、福音派の一部が「例外」と理解しているところに問題があります。。「進化論が科学的に正しいかどうか」が、どうしてキリスト教の正否に関係してくるのでしょうか。それは別次元の話題ですから、関係ないのです。また、「関係ない」と言わなければなりません。ところが、どこでボタンの掛け違いが生じたのか・・・、「関係ない」と言えなくなっているのが福音派の現状です。福音派が勝手に「進化論は神の創造を認めない」と主張するので、誤解が誤解を生み、理性を重んじる人々が教会から遠ざけられるという結果を生みだしています。これはキリスト教のとって不幸な出来事です。

キリスト教という名がついていれば、どれでも神から祝されるというのは間違いです。申命記18:22にこう書かれています。「もし預言者がヤハゥエの名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらないなら、それはヤハウェが語られたのでなく、その預言者が自分勝手に語ったのである。」とあります。おそらく50年もしないうちに、進化論が科学的に正しいかどうかは、今よりさらに明らかになることでしょう。その時、福音派は神に対してどのような責任をとってくれるのでしょうか。単に「済みません」と謝るだけで赦される話ではありません。

こう考えると判りやすいと思います。進化論を否定する人たちばかりが住む国と、進化論を肯定する人たちが住む国を作ります。どちらの国が富み栄えるでしょうか。どちらの国を神は祝されるでしょうか。結果は簡単に予測することが出来ます。こう考えることもできます。進化論を否定する人の中から何人のノーベル賞受賞者が起きているでしょうか。進化論を肯定する人の中からはどうでしょうか。おそらく、進化論否定論者からは、将来においても「ひとりも」受賞者は現れないでしょう。なぜなら、普通の人間なら枝葉のところで過ちを犯すのに対して、彼らは根っこの部分で過っているからです。いくらその過ちが宗教上の過ちでないとは言っても、それを声高に主張し続けた罪は大罪の部類に入ります。

さて、そういう前提のもとに、進化論否定論がいかに間違っているかと言うことを、反進化論自身の主張に対する反論、進化論そのものの弁証、進化論と創世記は矛盾しないという3つの点から議論してみたいと思います。なお、付け加えて、創造科学論と、いわゆるID(インテリジェントデザイン)論についても触れておきたいと思います。


■   反進化論の間違い

進化論への反論に対して反論するわけですから、議論が錯綜する危険性がありますが、この際やむを得ません。少し注意深く考えていただけるよう、まず始めにお願いしておきます。また、反進化論と言っても、創造科学やIDとは理屈のもってゆき方が異なります。この章では、昔読んだ「種類に従って」(バイロン・C・ネルソン著、1961年)という本を批判する形で論じてみることにします。

「種類に従って」は、日本語訳が出たのが1961年ですから、少し古い本なのですが、当時の科学的知識を使って鋭く進化論を批判しています。私が最初にこの本を読んだのは、ちょうど教会に通い初めた頃で、まだ私なりの考えが出来ていなかったので、非常に衝撃を受けました。学校で習っている進化論が間違いかもしれないと思うようになったからです。しかし、こういう問題を曖昧にしておくのは気分が悪いので、その後、やむなく進化論を勉強せざるを得なくなりました。読むべき本はたくさんありますし、考えるべきこともたくさんあります。ですから、一時、進化論に否定的になった私が再度進化論を肯定するに至るまでには、実に10年以上かかってしまいました。その間、聖書の読み方への疑問や、その他の信仰上の問題も抱えていたわけですから、いつ信仰を失ってもおかしくない状態が続きました。しかし、最終的に信仰を持ち続けることができたのは神の守りがあったからだと思います。もっとも、ファンダメンタルな人から見ると、今の私の信仰などは信仰ではないと言われてしまうかもしれませんが、それはそれで仕方ありません。私もファンダメンタルを批判するのですから、彼らが私を批判するのは当然でしょう。どちらが正しいかは、終わりの時に神様が明らかにしてくださると思います。

さて、この「種類に従って」は、創造科学と異なり、進化論のみを批判の対象としています。また、論理的には正しいところもあるので、耳を傾けるべき所もあります。進化論はこの著者が言うように、問題を抱えているのであって、できれば進化論学者もこの本を読んで、このような批判が当たらない進化論を作ってもらいたいと思います。

さて、そういうわけで、この本にも良い点はあるのですが、全体として進化論批判の方向が間違っています。たしかに現在の進化論にはいろいろな欠点があり、まだ未完成なところがあります。しかし、だからと言って進化論そのものを間違いと断定するのは論理の飛躍です。はさみが切れなくなったからと言って、新しいはさみを買い求める前に古いはさみを捨てるのは愚かです。進化論の欠点をあげつらうよりも前に、進化論が何を説明するために生まれてきたかを踏まえておくと、少々の欠点があろうとも、その理論的有用性を認めることが出来るはずですし、また認めてゆかなければなりません。

また、もっと根本的間違いは、この本における進化論の定義そのものが問題であると言うことです。その定義は、おそらくアメリカでは長年にわたり通用してきたのでしょうが、国際的には少しもポピュラーでなく、ある意味で自分勝手な定義なのです。そのことを認識せずに議論を始めているところに、この著者、およびアメリカ社会の問題点があると言っても過言ではありません。

著者は第一章の冒頭で進化論を次のように定義しています。「今日広く論じられている進化という言葉は、まったく自然に、いかなる神の奇跡的干渉もなしに、どこか遠くの海の単一の生命体の先祖から、今日世界にあるすべての生物が誕生したという、そのあいだの変化の進行過程を指すのである。」と書いています。この定義には微妙な問題が含まれています。間違いとは言い切れませんが、誤解を招く言い方になっています。つまり、著者は、このような定義を導入することにより、あたかも進化論が反キリスト教であり、反聖書的であるかのような予断を与えているのです。そういう言い方はフェアではありません。

もしかすると、アメリカ人の多くの人たちが気づいていないかもしれませんが、この定義では進化論がはじめから信仰に反するものなっています。こういう定義を前提にして進化論を理解すると、その結論が反キリスト教になるのは当然のことです。しかし、それではどうしてダーウィンを始め、進化論を受け入れている多くのヨーロッパ人が、あいかわらずキリスト教徒として生活をしているのでしょうか。また、カトリック教会は公式に進化論を認めています。彼らはキリスト教徒として失格なのでしょうか。そうではないはずです。問題はこの著者の定義のほうにあるのです。

進化論者の中に、無神論者も含まれていることは事実です。しかし、すべての進化論者が無神論者であるわけでは無いということも事実であることは確認されなければなりません。「進化論者が神の創造を否定している」との発言は、詭弁であって、事実ではありません。そういう論法は、殺人事件の犯人がアメリカ人であることが判明したとき、「アメリカ人は皆人殺しだ」と発言するようなものです。そういう論理的に間違ったことを、酒飲みの席でなく、公に発言すると言うことは非常に問題なのです。そして、そういう論理で書かれた本というのは、初めから間違った結論になるように誘導されているのです。ですから、読者はその論理のからくりを見抜き、間違った進化論理解にならないように注意しなければなりません。

進化論者の中にも神を信じる人はいるわけで、ダーウィンなどは、熱心なクリスチャンだったわけではありませんが、彼の墓はウェストミンスター教会の中にあります。ローマ教皇は進化論を認めていますが、彼はノンクリスチャンなのでしょうか。多くの反進化論者は、世界情勢を踏まえることなく、進化論とキリスト教をはじめから対立するものであるかのように説明していますが、そのような事実はどこにもないのです。そういう間違った説明をまに受けてはなりません。

科学者が、科学の説明の中に神を登場させないのは、彼らが不信仰だからではありません。非常に当たり前のことなのですが、キリスト教信仰を前提にしても、科学の教科書に神が登場する必要はありません。ニュートンがプリンピキアを書いたとき、その中で神を論じているでしょうか。神を登場させないニュートンは不信仰者なのでしょうか。メンデルは修道院の院長でしたが、メンデルの法則を説いた「植物雑種の研究」という論文の中で、神を登場させたのでしょうか。おそらく、普通の科学論文として神への言及無しに書かれていると思います。数多くのクリスチャン科学者たちが神無しに科学の論文を書いていますが、彼らがキリスト教を拒否したとか、神を否定したと言うことではないのです。進化論者がその説明の中に神を登場させなかったとしても、それは進化論者としては当然のことであって、それを非難するほうが問題なのです。進化論者が神の創造を否定するなら、それに対しては反論が必要です。そういう無神論はイデオロギーにしか過ぎません。しかし、科学上の説明として進化論者が進化の事実を淡々と説明すること自体は、信仰に反することではなく、むしろ、神の創造の素晴らしさを証明する材料を提供しているのですから、大いに歓迎して受け入れるべきことではないでしょうか。

「種類にしたがって」では、進化論者が進化論の証明としてあげている事実関係を反証する形で議論が展開されています。その部分は非常に面白く、また教えられます。ただ、一部事実と異なるのは、進化論者自身が進化論を証明できると考えてはいないことが理解されていません。進化論者が傍証としてあげた事実を、証明として反論するのは愚かではないでしょうか。人間が子宮の中で、受精卵から、人間の形になる過程として、最初は魚と大差のない形になり、次に両生類、次にほ乳類と形が変化して、最後に人間のような形に成長してゆきます。これは非常に面白い事実ではないでしょうか。これを進化論学者は進化の傍証として引用することがあります。しかし、この人間の発育過程における進化と類似した形態変化は、進化の証明でも何でもありません。ただ、似ていると言うだけのことなのです。それをネルソン氏は「進化の証明」と解釈して、それに反論してるわけです。自分が敵を作りだして、それを攻撃しているだけのことなのです。

しかし、中には有効な反論と思えるところもあります。進化論の証明か傍証かは別として、それらの説明にネルソン氏が反論していることの内容には正しいところがあります。つまり、進化論はまだ科学としての内実が充分出来ているわけではないと言うことです。しかし、その後の判断が私と異なります。まだ仮説であるとしても、それは有効な仮説であって、大いに検討に値する、また学ぶべき価値のある学説であると言うことです。それに対して、ネルソン氏の批判は、批判ばかりで有益な代案が提出されて無いという弱点があります。

そこで、この反進化論についての項目での結論を述べておきますが、進化論を創造論に反する理論として初めから決めつけたところに間違いがあるのです。著者の言うことは、結局、「進化論は仮説でしかない」と言うことですが、そのことは進化論学者も始めから認めていることです。現在の進化論は、たしかに不確かな仮説の積み重ねでしかありませんが、それだけ真理を解明しようと真摯に努力しているのですから、その点は高く評価してしかるべきだと思います。進化論を学校で教えることは当然ですし、それをキリスト教会も認めるだけでなく、進化と創造は矛盾しないと言うことを子供たちに教えてゆかなければならないのです。高速道路を逆走するようなことをしてはなりません。


■   進化論の弁証

さて、反進化論への反論というより、もっと積極的に進化論を弁護してみましょう。進化論が科学としては仮説止まりの説だとは言え、DNA解析も進んでいる今日、進化の系統樹もより科学的に整理され、確度の高い仮説に発展しています。今後もますます有意義な研究成果が生まれてくることは間違いありません。もはや「仮説」という言葉も取り払って良いのではないかと思えるほどです。

このあたりのことは、ウェーゲナーの大陸移動説の話と比較してみると判りやすいと思います。ウェーゲナーが大陸移動説を主張したのは、1912年、その著書「大陸と海洋の起源(大陸移動 説)」の中でした。彼は、アメリカ大陸の東海岸の形と、ヨーロッパ・アフリカの西海岸の形がジクソーパズルのように重ねることが出来ることを指摘し、太古の昔には両大陸はひとつの大陸であったのが分裂して、今日の大陸が出来上がったと論じました。世界地図を眺めれば、彼の言うとおり、アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線が重ね合わせることのできる形になっているのが判ります。実に大胆な仮説ですが、ウェーゲナーの説が発表された当時は、まるで相手にされず、トンデモ説として葬り去られました。ウェーゲナーは、大陸が動いているという証拠を提示したわけではなく、単なる傍証を積み重ねた推測でしかなかったからです。ところがその後、大陸移動の証拠が次々に見つかり、今日では教科書にも載せられるほどポピュラーな学説となっています。

進化論は、ウェーゲナーの説とは比べものにならないくらいの豊富な傍証と状況証拠を持っているので、誰もトンデモ説とは言いませんが、しかし、進化のメカニズムが解明されてないと言う意味では仮説の状態であることは認めなければなりません。しかし、だからと言って、これを無視して地球の歴史を語ることは出来ませんし、また語ってはならないのです。

さて、進化論といっても、現在、発展中の仮説理論ですから、今の進化論が完成された理論と誤解してはなりません。進化論を前提とした上で、多くの異なる立場があり、どれが正しいか、論争が続いているのが現状です。しかし、その方向性は間違いなく正しいものですから、進化論そのものは肯定して、それを前提に地球の歴史を考え、また創世記の記事も解釈すべきなのです。

さて、進化論をよりよく理解するためにも、進化論の歴史を知っておくことは有益です。進化論はダーウィンによって作られた説ではありません。

進化論の前提には生物学の発達がありました。世界には数多くの動物、植物、昆虫が生息していて、多様な形と生き方をしていることが判ってきました。中には良く似ていて、同じ種類かどうか、判断に迷う事例も数多く見つかりました。こういう状況の中で、スウェーデン人のカール・フォン・リンネという人があらゆる生物の分類法を発明し、それぞれの生物に世界共通の名前をラテン語で付けました。これが「学名」と呼ばれるもので、今でも使われています。彼の分類により「種」(speices)という概念が確立しました。そして、当時のキリスト教の影響で、「神が最初に作られたのはこの「種」という単位の生物で、創造の時以来「種」は不変である」という理解が広く受け入れられるようになりました。

ところが、種が不変ではなく、長い歴史の中で、単純な生物から複雑な生物へと変化・発展を遂げて今日のような生物が生まれたとの説がラマルクによって提唱されました。これが進化論の始まりです。このラマルク (Lamarck 1744-1829) の進化論が彼の独創なのかというと、どうもそれ以前に進化という考えを提唱した人がいたそうですが、それについてはさらなる今後の研究に委ねたいと思います。一応、進化という考え方を世に広めた人物として、ラマルクの功績は非常に大きなものがあることを認めておきます。そういう意味で、ラマルクは進化論の父と呼んでもよい存在です。彼は1809年に「動物哲学」という書物を著わし、その中で獲得形質の遺伝を説き、用不用説といわれる進化論を教えました。

彼の進化論は「進化論」とは言うものの、まだ今日でいうところの進化論であるわけではなく、動物の形態発展論という面が残っていたことは注意が必要です。英語のエボルーションという言葉が示すように、evolve という動詞は、本来「発展・展開」という意味で使われていました。それゆえ、キリンの首が長くなることをエボルーションと呼ぶことは、英語としては何ら問題ありません。しかし、種の変化を研究する進化論としては問題があります。キリンの首が長くなることは単なる品種改良であって、種の進化ではありません。これについての指摘は、あまりなされてないのですが、重要なポイントなので覚えておく必要があります。おそらく英語で考えている限り、この区別は難しいのかもしれませんが、品種改良を進化の事例として紹介するのはよろしくありません。種の進化こそ進化なのです。ダーウィンでさえ、この区別は曖昧です。「種の起源」の中で、カワラバトの形態変化を進化の事例として紹介していますが、これもラマルクと同じで、単なる種の内部におけるエボルーションにしか過ぎません。この点は、もしかすると今日でも充分理解されてないのかもしれませんが、このような初歩的次元が曖昧のまま議論が進められることが、進化論への疑問を呼び覚まし、反進化論への手がかりを与えてしまっている面があるのではないでしょうか。今日の進化論がそういう問題を抱えているなら修正していかなければなりません。

さて、ラマルクの場合、発展と進化の区別は曖昧なのですが、それは仕方ありません。むしろ、ある動物が他の動物から進化するという発想を教えただけでも、歴史的にはすごいことですから、このアイデアを創始した人物として、いくら高く評価しても高すぎることはありません。彼は進化の原因として用不用説を唱えました。これは、まもなく間違いであることが証明されましたが、しかし、こういうアイデアを出しただけでも素晴らしいことです。ラマルクの説いた用不用説や獲得形質の遺伝は科学を発展させる切っ掛けになった概念ですから、それを真理としてではなく、記念碑として今後も尊重してゆくべきだと思います。

ラマルクの時代、まだ生命自然発生説が通用していたことは覚えておかなければなりません。生命はあらゆる状況で自然に発生することは、経験の範囲では容易に認められる現象で、古くから素朴に信じられてきました。しかし、これに疑問を呈したのがイタリア人の寄生虫学者フランチェスコ・レディ(Francesco Redi, 1626-1697)でした。彼は1665年、二つの瓶に死んだ魚を入れ、一方は蓋をし、一方は蓋を開けておいたところ、蓋をしたほうには一匹もウジが湧かないことを発見しました。

生命が自然発生するかどうかは、食品保存法にも関係するので、熱心に研究され、19世紀初めには、瓶詰、缶詰などが製品化されています。ですから、自然発生説は説得力を失っていたわけですが、しかし、一方で、当時の稚拙な実験設備や方法が原因で、自然発生説を支持する結果が生じる場合もあり、自然発生説がまったく否定されていたわけではありません。最終的に自然発生説が否定されるのは、パスツール著「自然発生説の検討」(1861年)という論文によるとのことです。

そういう時代状況ですから、ラマルクが用不用説を説き、獲得形質は遺伝すると教えたとしても、彼を責めるわけには生きません。しかし、獲得形質の遺伝は、当時の人々の観察や実験からすでに疑われていたので、ラマルク説はあまり説得力を持ちませんでした。たとえば、ユダヤ人が長年にわたり割礼を施してきているのに、割礼がいまだに必要である事実や、ネズミのしっぽを何世代にわたり切断した人がいて、その結果、相変わらずしっぽは無くならなかったという結果が出ています。

獲得形質が遺伝しないのであれば、進化論も説得力を失います。そういう状況の中で、ダーウィンが登場することになったのです。

ダーウィンは、若い頃、ビーグル号に乗って世界を旅しました。その途中でガラパゴス諸島に立ち寄り、そこに生息する多様な動物たちに目を見張りました。それぞれの島に特徴的な生物が住み着いていて、互いに良く似ていながら、はっきりとした相違もあったからです。この時の体験が進化論への道を作ったと言われています。彼は、そのアイデアを長い間、寝かせておきましたが、アルフレッド・ウォーレスがダーウィンに提出した論文に、まさに彼のアイデアと同じ内容が書かれていたのに驚き、急いで彼の考えを公表する決意をしました。そして1859年、「種の起源」が出版されることになったのです。

このウォーレスは、インドネシアの島々を動物・植物相の違いで区分けするウォーレス線で有名なあのウォーレスですが、彼は進化論でも大きな貢献をしたのですね。ただ、残念ながらダーウィンほどは有名ではありません。

さて、ダーウィンは「種の起源」の中で、自然選択と適者生存の概念を提案し、これにより、獲得形質という考えを使わなくても進化が説明できることを説きました。彼の観察によると、生物は数多くの子孫を作るが生き残るのはごく僅かであることを指摘し、生き残った個体はそれだけ環境に適応しているからだと論じました。子供たちは、親と似ているとはいえ、小さな変異をたくさんもっていて、その変異の中でも生存に有用な変異を持った子孫が生き残るので、何世代もたつ内に変異が積み重なって、新しい種が発生すると論じました。

この自然選択・適者生存説は、種の安定性を壊すものとして、キリスト教会からの強い批判を受けましたが、当時の思想界からは好意的に受け入れられ、多くの信奉者を獲得することが出来ました。

しかし、ちょうどその頃、モラビアの山の中でメンデルが修道院の庭でエンドウ豆を育てていました。彼はエンドウ豆の形態が子孫に遺伝する法則を発見し、それを1866年「植物雑種の研究」という論文に纏めて発表しました。しかし、その論文の意義を認める人がいなかったので、彼の論文は忘れ去られてゆきました。しかし、後に「メンデルの法則」といわれる研究成果は、ダーウィンの進化論に対する大きな反論としての役割を果たすことになります。

結局、ダーウィン説は広く受け入れられたのですが、子供たちの形態は基本的には親と同じであり、何世代たっても新しい種と言えるものにはならないことが次第に明らかとなってくるにおよび、ダーウィン説への不満が高まってきました。そのような時、1900年のことですが、アムステル大学植物学教授ドフリース (de Vries) はオオマツヨイグサの研究からメンデルの法則と同様の結論を得て学会に発表しました。ところが、これと同様の内容でさらに詳細な研究結果が30年以上前に発表されていたことをカール・コレンス (Carl Correns) が指摘し、突如メンデルの名前が有名になりました。

ドフリースは、その後も研究を続け、子孫が親とはまったく異なる形態をとることがあることに気がつき、1901年「突然変異論」を出版し、ダーウィンとは異なる進化論を提唱しました。このときのドフリースの実験結果がはたして本物の突然変異であったかどうかは論争されているようですが、とにかく「突然変異」という概念を提唱したのはドフリースであり、このアイデアはその後、広く受け入れられることになりました。今日の進化論は、もはやダーウィンの進化論ではなく、ドフリースの進化論といって間違いありません。

とは言うものの、突然変異は、ほとんどの場合、その個体に対して致死・病変的影響を与えるので、有益な突然変異と言うことがあるのかどうか、はなはだ疑問ですし、あったとしても品種改良の範囲内であることもあり得ます。・・・実際、今のところ、品種改良の突然変異しか見つかっていません。ですから、種を越えるような突然変異が可能なのかどうか、いまだ推測の域を出ないように思われます。

もちろん、だからと言って進化論が成り立たないと言うことではありません。おそらく、近い内に、種を越える進化の過程が理論的にも解明されることになるでしょう。そのためには、遺伝子 (a gene)、染色体 (a chromosome)についての研究が進み、遺伝情報の塩基配列 (A:アデニン、T: チミン、G:グアニン、C:シトシン) が解読されて、遺伝についての知識がもっと増えることが必要です。また、進化論内部においても、キリンの首を例にするような遅れた発想を止め、品種改良ではなく、種の変化を説明することの重要性がもっと理解されなければなりません。


■    進化論と創世記は矛盾しない

進化論は科学上の学説として立派にその役割を果たしているのですが、それと創世記の記事が矛盾すると考えるクリスチャンたちがいます。たしかに字面を読む上では矛盾するようにも読めますが、創世記の著者が地球の歴史を知っていたわけではなく、進化論への反論を意図していたわけではありません。著者は当時の人々の歴史理解を前提に、彼なりの世界観を纏めたまでのことなのです。この世に多くの動物がいるということは当時広く認識されていました。これらが「どのようにして存在することになったか」という問いに対して、著者は、神への信仰に基づき、「神が天と地、および植物、動物、人間を創造された」と認識したのです。その認識は天才的閃きであり、何らかの神の啓示があったとしか言いようのない素晴らしいものです。

現在、私たちは進化論を前提とした歴史理解が広く受け入れられている社会の中に生かされています。ならば、その歴史理解を前提に聖書を解釈し、進化論と創世記の記述を矛盾しないように理解することは、クリスチャンとして当然のことだと思います。

実際、創世記物語を進化論と矛盾無く解釈することはそれほど難しいことではありません。なぜなら、創世記にはどのようにして神が動物を作り、人間を作ったかは書かれていないからです。この空白部分に進化という概念を入れることが可能となっています。つまり、神は進化という手段により動物を作り、人間を作ったのです。そう解釈すると、進化論と創世記物語は何も矛盾する話ではなくなります。

「人間は、神の創造か、進化の産物か?」と問いかける人がいますが、この問い自体が問題なのです。ある教会学校で先生が生徒に質問したそうです。「お米は誰が作るのでしょうか?」生徒は元気良く答えました。「はい、先生、それは神様です。」もちろん、先生は「お百姓さん」という答えを予想していたのですが、生徒は気を利かして「神様」と答えたのでしょう。別に神様という答えが間違っているわけではありません。しかし、お百姓さんが作ることも事実であって、両者は矛盾した話ではないのです。これを、「神様という答えは間違いだ」とか、「お百姓さんという答えは不信仰だ」などと言い争うからおかしな事になるのです。どちらも正しい答えですし、違いは単なる次元の問題なのです。

さて、創世記2:7に「主なる神は土の塵で人を創造した。」とあります。「塵」とは「無価値なもの」、「ゴミのようなもの」の代名詞です。もし、この塵から人間を作ることが出来たのなら、なおさら、生命ある生物を使って、人間へと進化させることは神にとっては朝飯前のことではなかったでしょうか。進化論が神による創造を否定すると考えてはなりません。むしろ、進化によって神の創造がなされたその素晴らしさを賛美すべきなのです。


■   創造科学 (Creation Science) の誤り

進化論批判論にもいろいろありますが、進化論の欠点をあげつらうだけの反進化論ではなく、積極的に代案を提出する反進化論もあります。そのようなタイプの反進化論のひとつとして創造科学と呼ばれる立場があります。創造科学については、まだ文献の数も多くなく、HPで紹介されている程度なので、まだその論理の全貌を充分理解したわけではありませんが、この創造科学では、進化論を批判するだけでなく、ビックバン説を批判し、地球の始まりも6000年前ほどに設定し、それを様々な学説で論証しようとしています。HPを一読した限りでは、それほど説得力があるとは思えませんし、反論を展開できるほど地球物理学を知っているわけではありません。いずれ議論できるように学びを深めたいと思っています。

いまのところ、1ページ目を読んだだけでいくつかの不満を感じたので、その点について書いておきます。宇宙や地球の歴史については、宇宙の膨張速度やその他いろいろな計測方法で結果が出ているのであって、炭素14法だけを取り上げて議論しても、あまり説得力がありません。地球の成立が単に6000年前どころか、100万年前でさえなく、さらにもっと古いものであることは、多くの根拠があるのであって、炭素14法だけのことではないのです。世界中から発見されている化石の中には数億年前のものであることを示すものがいくつもありますし、数億年前の古い地層の存在も明らかになっています。地層は一年ごとに筋が出来るので、それを数えることで確かな年代測定の材料になるのですが、オーストラリアの鉄鉱石の層が出来るのに10億年以上かかったとされています。地球の成立を46億年と判断する根拠はたくさんあるのですから、ひとつやふたつの根拠を批判しても説得力は生まれません。

それから、月は毎年、わずかづつ地球から遠ざかっているのですが、このHPには「計算上15億年さかのぼるだけで、月は地球にくっついてしまうのです。」と書かれています。ところが、月までの距離は38万キロで、毎年4センチづつ離れているのですから、計算上95億年前に月は地球にくっつくことになります。実際は、43億年前に月が出来たのですから、その当時はちょうど、現在の距離の半分くらいの所にあったことになります。中学生にも計算できる程度のことを間違っているというのはどういうことなのでしょうか。創造科学の実態はこの程度のものなのでしょうか。真剣に検討する気がしなくなるようなお粗末な記事だと言えます。

創造科学について知りたい方は以下のHPを参考にしてください。
 創造科学  英語なら、 Creation Science が便利です。



■    ID(インテリジェント・ディザイン)説

ID説は、進化論と創造論を調和させたような内容を持っているので、微妙な論点がいくつもあるのですが、アメリカにおいて、このIDが進化論否定論として社会に紹介されたことは、とても残念なことです。私から言うと、このID論は進化論を肯定しているのであって、否定論として理解してはなりません。なぜなら、IDは、進化の事実は承認しているからです。動物の進化の過程で、そのような形態になることについては、偶然にそうなるにしては不自然なほど合理的で、計画的で、すべてが調和しています。このような形に最終的になったのは「偉大なる知性」の御手があるからだというのがID説の立場ですが、つまりは、進化を肯定したことになります。しかし、アメリカでは、IDは反進化論として受け入れられています。どこかに誤解があるのではないでしょうか。

ID支持者たちは、IDを単なる科学理論としてでなく、学校教育の中で進化論に対抗する形で取り上げるべき理論として主張していますが、進化そのものが神の不思議な御手の中での出来事なのですから、進化論に対抗させる必要は全くありません。それをあえて進化論への批判として考えると言うことは、IDが初めから誤解にもとづく理論であることになります。このような理論を学校養育の中で取り上げる必要はありませんし、進化論を批判する必要もないのです。

もっとも、「進化論は正しいので、創世記は間違いだ」と教えている教師がいるなら、その教師の教え方は批判されなければなりません。ファンダメンタリストは、そういう教師を批判するために、進化論を批判しているのでしょうが、的はずれな批判は失敗です。むしろ、作戦を変えて、まずは進化論を受け入れて、進化論を教えるクリスチャン教師をたくさん送り出すことです。そして学校で「神様がビックバンを起こし、太陽を作り、地球を作り、生物を作り、人間を進化という方法で創られたのですよ。神様は素晴らしい。」と説明すればよいのです。ファンダメンタリストはそれを逆さまにして、問題でないところを問題だと騒いでいるのですが、それは彼らが聖書も神も知らないからなのです。


■    文献紹介

特に根拠にした本というのはありませんが、ラマルクの「動物哲学」とか、ダーウィンの「種の起源」などは斜め読みしました。反進化論の本はいくつか読みましたが、昔の事なので題名などはうろ覚えです。今手元にあるのは「種類に従って」(ネルソン著、1961年)だけです。

「進化をめぐる科学と信仰」(大谷順彦著)は、福音派に属する人であるにも関わらず、進化論を肯定的に取り扱っています。

渡辺正雄 「科学者とキリスト教」(ブルーバックス 講談社 1987年)は常識的内容で、お勧めできる内容となっています。

なお、村上陽一郎先生(元東大教授、国際基督教大学教授)は科学史の専門家として有名ですが、カトリックの方と聞いています。確かこの先生の発言だったと記憶していますが、「キリスト教と進化論はどちらも一神教的構造をもっていて、論理的には近い関係にある」と、面白い指摘をされていました。




■    雑記・メモ

反進化論者を回心させるための質問を用意しました。

「犬はオオカミから進化した」という説についてどう思いますか?

これは日本語で質問しないと、私の意図が明確になりません。英語やヨーロッパ語の「進化」 evolution は日本語より広い意味があるので、期待する答えも異なってきます。

この質問の意図は、「進化」という概念そのものをその人(反進化論者)が認めるかどうかです。反進化論にはいろいろな可能性があります。ひとつは「進化」という概念は認めつつも、ダーウィンの進化論を認めないという立場です。もうひとつは、「進化」という概念そのものを認めない立場です。

オオカミから犬への進化を認める人の中にもいろいろな論法があり得ます。「犬もオオカミも同じ種なのだから進化ではなく、変化である」という論法もあるでしょう。しかし、この人も「変化すること」は認めることになります。別の人は、「犬もオオカミも神は別々に創られた」と言うかもしれません。どちらであれ、反進化論者がふたつに分裂すると言うことは、反進化論がまだ考え抜かれていない立場であることを示しています。

そもそも、「神は種類に従って創造された。」という創世記の「種類」(kind)という単語の意味ですが、これが分類学上の「種」(speices)のことだという解釈が妥当なのかどうか、問われなければなりません。「種類」と「種」は別の単語ですから、当然意味は違ってきます。「種類」を広く解釈するなら、「ネコからトラが進化した」としても聖書に反しないことになります。別の種ではありますが、同じ種類だからです。もっとも、「ネコからトラ」の説はないので、良い譬でないかもしれませんが、「キリンの首が長くなったのは進化だ」という表現なら受け入れられるかもしれません。種(speices)の変化ではないからです。

しかし、ここで「進化」という概念を受け入れてしまうと、その進化を起こしたのは「神」なのか「自然」なのかという議論が始まり、もしそれが神であるなら、オオカミから犬への進化も神の業となり、ほ乳類から人間への進化も神の業と言うことになります。もし、キリンの首が長くなったのが、神の業ではなく、自然現象だとするなら、神の全能性が壊れ、太陽の運航や、雨風、天変地異が自然現象となり、神の業ではなくなります。「自然に介入しない神」はキリスト教の神ではないので、あらゆる自然現象は神の業であり、変化は神の業なのです。とすると、「進化」も神の業としか言いようがなくなります。

「進化論はキリスト教に反する」などというのは、まったく逆であって、進化論こそがキリスト教にもっとも近い、整合性のある理論であることを知らなければなりません。










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