-->






五書が九書から分離された理由とその時期





私の立場では、五書が九書より先に成立したのではなく、まず五書を含む九書が完成し、その後、なんらかの事情によって、五書が九書から分離されたと考えます。この分離がどのように実現したかを説明することは容易ではありませんが、九書説以外の立場も同じ問題を抱えていることを忘れてはなりません。六書が先に完成したとする六書説に立つなら、九書説と同様に、なぜ、どこで、いつ五書が分離したかを答えなければなりません。もともと五書という枠で文書が完成したと考えるならば、なぜ文体も神学も同じヨシュア記がどの様な理由で、どのように成立したかを答えなければなりません。結局は似たような問題を抱えることになります。

九書から五書が分離する時期を考える場合、その前提になる捕囚後のユダヤ社会をどう理解するかが問題となります。第一次帰還後のセシバザルにより支配されている社会は、九書に書かれている神学に一致するはずです。つまり、12部族連合を前提に、北イスラエルの民との協力のもとに、エルサレム神殿の跡地で、簡易な会見の幕屋を中心にレビ人なる祭司が祭儀を執り行っていたはずです。しかし、それがいつの頃か、大きな変革が行われ、九書ではなく、五書を中心としたユダヤ教へと発展します。その時期と原因を明らかにしてみましょう。



1) 第2次帰還直後

まず、第一の可能性として、第2次帰還直後が考えられます。つまり、エシュア、ゼルバベルなどの有力者たちが帰還した前520年頃に五書が分離されたと考えることです。このように考えたくなる状況証拠は幾つもあります。

ザドク系祭司を中心とするユダヤ教正統派であるエシュアたちがエルサレムに帰還したとき、すでに九書は成立していました。しかし、九書はザドクについて触れることが少なく、北イスラエルに対しても好意的ですので、これを受け入れることができなかった可能性があります。彼らはセシバザルを退けると共に、九書も退け、彼らが受け入れることのできるモーセ五書のみを権威あるものとしたのです。

このような説明も可能でしょう。しかし、九書を退けるならば、五書も退けて良かったはずだという問題が残ります。エシュアたちが五書と異なるモーセ律法を持っていたことは間違いないと思います。それが原申命記かP資料律法かは別に議論するにしても、いずれにせよヨシヤ王の宗教改革文書を忘れているはずはありません。ならば、九書と共に五書も退け、ヨシヤ王時代の律法を採用すれば良かったはずです。ところがエシュアたちは、五書を受け入れれています。ですから、エシュアたちが九書を退けたとの説明は、いまいちしっくり来ません。

また、エシュアたちが北イスラエルのサンバラテと友好関係を結んでいたという状況証拠があります。エズラ記4:2では、北イスラエルの民とエシュアたちとが対立していたように見えます。しかし、ネヘミヤ時代にはエシュアの子孫であるエリアシブは北イスラエルと大変に親しい関係にあったことが確認できます。ネヘミヤはエルサレムを復興させようとして彼なりに真剣な努力をしました。この時、対立したのが、北イスラエルのサンバラテたちでした。彼らはネヘミヤの改革を妨害しようとして策動しました。この時、サンバラテたちに協力した多くのエルサレムの有力者たちがいたことがネヘミヤ6:17に書かれています。しかも、それには大祭司自身も含まれていたようです。当時の大祭司エリアシブはネヘミヤに協力する傍ら、北イスラエルのトビヤとも親しくして、ネヘミヤが一時期バビロンに帰った時を捉え、トビヤと縁組して、エルサレムの神殿にトビヤのための特別な部屋を作っています。また、エリアシブの孫もサンバラテと縁組しています。これは後にネヘミヤが帰ってきたとき、大問題となり、トヤビのための部屋は壊され、サンバラテの娘と結婚したエリアシブの孫も追放されています。エシュアたちがもし北イスラエルと対立していたとするなら、その孫に当たるエリアシブがサンバラテたちと親しくするものでしょうか。このように、エシュアたちが北イスラエルと対立したとは一概に言えないのです。それゆえ、エシュアの時代に九書から五書を分離する必然性も弱くなります。



2) ネヘミヤ時代

ネヘミヤ時代に九書が五書になるということは検討に値します。ネヘミヤは北イスラエルのサンバラテたちと対立したので、北の伝統を尊重する九書を退けたくなる気持ちはわかります。しかし、五書の中にも北の伝統は残っています。なぜ九書全体が否定されず、五書のみを存続させたかが疑問となります。また、六書でも、四書で良かったはずです。五書という枠をネヘミヤが作る必然性は見えてきません。

また、権威ある文書の変更は、九書から五書への変更のように小規模のものであったとしても、歴史上なんらかの痕跡を残すはずです。ネヘミヤ記になんらの記述がないと言うことはどう考えても不自然です。また、ネヘミヤが五書を選ぶなら、ネヘミヤと対立したエリアシブたちは逆に九書に固執して良かったはずです。ところが、ネヘミヤと対立したグループの子孫であるサマリヤ教団がモーセ五書のみを権威付けていることを考えると、エリアシブの時代にすでに五書という区分けが成立していたとしか考えようがありません。



3) エズラ

エズラについては、さまざまな理解が可能ですが、私の立場からは、前390年頃、エルサレムだけでなく、イスラエル全体で活動した律法学者であると考えます。彼は祭司とも呼ばれているので、もしかすると祭司階級の一員であったかもしれません。従来は、エズラがモーセ五書を確立したという考えが有力でした。しかし、私としては、むしろ逆で、エルサレム正統派がモーセ五書のみを権威付けるのに対して、エズラは九書の権威を復活させ、九書を今日の形の角文字に書き換え、アラム語タルグムを作り、律法を民衆化した人物だったと考えます。彼は後のハシディーム、およびパリサイ派の先祖、いや創始者であった可能性も検討されるべきです。彼は、後のラビ的ユダヤ教から大変高く評価され、エズラが律法の創始者であるかのような伝承が生まれましたが、事実は創始者ではなく、九書の再建者なのです。今日のユダヤ教が古代ユダヤ教正統派ではなく、その時代の反正統派であるパリサイ派、もしくはラビ的ユダヤ教の流れを汲むことを理解しておかなければなりません。今日の基準を当てはめてはならないのです。それゆえ、エズラは五書を分離した人物であるどころか、その逆に五書のみを認めるユダヤ教正統派に反対し、九書の伝統を復活された人物なのです。それゆえ、エズラ時代に、五書の分離を位置づけることはできません。



4) 再度、エシュア時代を検討します。

結局、謎は残りますが、もっとも矛盾点、および弱点の少ない立場として、エシュア時代に五書が成立したとする以外にありません。そこで、前記のものとは異なるエシュア時代理解を模索しましょう。

エシュアグループが帰還後のユダヤ社会の政治的実権を握ったことは事実です。ですから、彼らの中核がモーセ五書のみを権威あるものとして受け入れ、九書を退けたことも間違いないはずです。しかし、それはある大きな事件をきっかけにしたということではないでしょう。また、エシュアグループ全体の意見の一致によるものでなかったと考えてはどうでしょうか。そうでなければ、九書のみでなく、五書も否定されたはずだからです。エシュアが帰還したとき、エルサレムの神殿建築は中止されていました。それは北イスラエルの民が妨害したからではなく、資金が不足したからでした。そのことは、神殿建築を推進する預言者ハガイの言葉の中に、エルサレムの民を鼓舞するものはあっても、北イスラエルに対する非難や警戒がないことから明らかです。ゼカリヤ書にも北イスラエルに対する批判はありません。むしろ、6:10で「トビヤと捕囚の民が冠を作ってエシュアの頭に被らせた」という記述がみられます。トビヤとは、エルアシブの時代に、神殿内の部屋のことでネヘミヤを怒らせた人物の先祖でしょう。トビヤとエシュアの関係が非常によいことがわかります。また、15節で「遠いところの者どもが来て、主の宮を建てることを助ける。」と書かれています。エシュアたちと北イスラエルの民が対立したのではありません。とすると、エシュア、ゼルバベルとセシバザルの対立もなかったことになります。セシバザルとザルバベルは歴代志上2:18fによると、叔父と甥の関係ですので、必ず政治的対立を起こすという関係ではありません。セシバザルが記録から消えているのは、彼が死亡したか、バビロンに帰ったかして、政治的権力を失ったからでしょう。それゆえ、エシュアとゼルバベルは、セシバザルの遺産を継承して、九書を認めてエルサレム再建、およびユダヤ教の確立に尽くしたと考えられます。

しかし、エシュアたちのグループの中には、エルサレム国粋主義とでもいえる右翼も含まれていました。彼らは、九書が北イスラエルにあまりにも好意的であることに腹をたて、捕囚以前から続いているユダとエルサレムの伝統を守ろうとしました。その時、彼らにとって都合のよい習慣がおこなわれていました。それは、申命記17:18を根拠に、モーセ律法が九書とは別に書き留められて、それが読み上げられる習慣があったことです。九書反対派が五書を分離したのではなく、九書成立の時に五書が分離されたということです。おそらく、読み上げる分量が九書では多すぎたということでしょう。、九書反対派はそれを利用して、彼らにとって都合の悪い申命記的歴史書を退けたのです。彼らは、九書とは別の歴史理解を持っていました。それが後の正典歴代志やサマリヤ歴代志の核となったと思われます。

律法の書が読み上げられる習慣はどの様な根拠で、どの様にして生まれたのでしょうか。律法の書の保存と朗読に付いては、申命記17:18以下、ヨシュア記8:30以下に書かれています。申命記17:18では「レビ人である祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書き記させ、・・それを自分のもとに置いて読み・・」とあります。つまり、この時、九書は成立していましたが、律法部分は特別に尊重されて、別に書き写されて保存されていたことを示しています。ヨシュア8:34「ヨシュアは・・・律法の言葉をことごとく読んだ」とあります。つまり、歴史部分ではなく、律法部分のみが朗読の対象であったということになります。ネヘミヤ8:8は、最初の聖書朗読の時の状況が記録されているのでしょう。「彼らは律法を明瞭に読み、その意味を解きあかして、その読むところを悟らせた。」このような、五書を朗読する習慣がある以上、五書の権威は高まることになります。エルサレム国粋主義者たちも、五書を否定して、ヨシヤ王の律法の書に戻すことはできなかったのです。しかし、申命記的歴史書を排除することには成功しました。

それ以後、エルサレムの中に九書派と五書派の対立が起こりました。この対立は、その後の歴史の中で見えかくれしています。北イスラエルとの関係を弱めるのが五書派です。北イスラエルとの連携を探るのが九書派です。結局、エルサレム神殿祭儀を取り仕切る大祭司は五書派の握るものとなりましたが、九書派は在野勢力として存続し、エズラ時代に民衆に広まることにより勢力を広げ、ザドク系大祭司がエジプトへ逃亡した後のエルサレムに於いて影響力を強め、律法学者の大半は九書を支持することになり、第一次ユダヤ戦争後のヤムニア会議で九書全体がユダヤ教の正典と認められました。この流れが現代ユダヤ教として発展を遂げるわけです。かつての正統五書派はサドカイ人として、しばらく存続しますが、第一次ユダヤ戦争後は消滅し、現在残っているのは、皮肉にも正統派から排除された五書派であるサマリヤ教団だけとなっています。








表紙に戻る  前のページへ  次のページへ