なぜ1月1日


1年の始まりが1月1日であるのは良いとして、なぜこの日が始まりとして選ばれたのでしょうか。1年365日あるなかで選ばれるわけですから、名誉なことではありますが、その理由・原因はいまいち明らかではありません。このHPでは、我々が使っている現在の暦において、どのようにして1月1日が定められたのか、その決定の理由・原因を明らかにしてみたいと考えています。あわせて、その他の暦にまつわる話題も取り上げたいと思います。

( restarted 2009/09/21、since 2003/06/04 )



なぜ1月1日は1月1日なのか?


カレンダーを眺めながら疑問になったのですが、1月1日はどうして1月1日になったのでしょうか?この疑問を友人に語ったところ、彼は 「1月1日は、1月1日だからだよ。当たり前。」 と答えました。私の疑問の意味が分からなかったようです。疑問を持たない人に理解して貰うのは骨が折れます。

最初に暦を決めた人は、今の1月1日でなく、12月31日を1月1日にしても良かったはずです。1年が365日あって、4年に一度の閏年が決まれば、あとはどの日が1月1日であろうと、あまり問題ないはずです。ならば、もう少し意味のある日を1月1日としても良かったのではないでしょうか。

ちょうど、その疑問を持つ前に、クリスマスの日取りの問題を考えていたので、それとの関連で 「おそらく、冬至を基準に1月1日が決まったのだろう。」 というアイデアが湧いてきました。

クリスマスは12月25日ですが、もともとは冬至のお祭りであったことはよく知られています。これはユリウス暦が出来た頃、おそらく12月25日が冬至だったのでしょう。ところが、ユリウス暦は閏年を持っていましたが、100年に一度の閏年解除のシステムがありませんでした。それで、2000年もたつうちに3日間のずれが生じて、今日では12月22日が冬至となってしまったのです。

この説明と計算はかなりおおざっぱなので、のちほど再度説明しますが、1月1日も最初は冬至を基準に決められたのでしょう。ところが時代がたつうちに、ずれてきたのです。クリスマスと同じ現象です。

ここまではすんなりと推測できたのですが、では誰が冬至を1月1日と決めた暦を作ったのでしょうか。今日の暦の元になったユリウス暦は前45年に、ユリウス・シーザーによって決められました。困ったことに、計算してみると、この前45年の冬至は1月1日ではありません。シーザーが冬至を1月1日にしたわけではないようです。

さて、話は横道にそれますが、今日、私たちが使っている暦について確認しておきます。



ユリウス暦とグレゴリオ暦

現在私たちが使用している暦はグレゴリオ暦と呼ばれ、1582年にローマ教皇グレゴリオ13世により定められたので、この名前になりました。しかし、内容はユリウス暦とほとんど同じで、ユリウス暦の修正版というのがグレゴリオ暦の実体です。

ユリウス暦の成立は前45年です。ずいぶん昔のことですが、ユリウス・カエサル(シーザー)はそれまで使われていたローマの太陰暦を廃止し、1年を365日とし、4年に1度の閏年を持つ新しい太陽暦を導入しました。

それまでの古いローマ暦では、3月頃の新月から新月への1ヶ月を1月とし、これを基準に12ヶ月を計算していました。名前は、1月がMartius、2月がAprilis、3月がMaiusなどです。この古ローマ暦の月の名前が今日の月の名前のもとになっているのが判ります。この時の8月はOctober、9月がNovember、10月がDecemberですから、数字が月名に反映しています。

ところがこの古ローマ暦は、1年が365日というわけではなく、うるう月の入れ方も、その時の大神官が決めるという、かなりいい加減な暦でした。おそらく、シーザーはエジプトで太陽暦を学んだのでしょう。また、彼自身が長年にわたり大神官の職にあったので、暦については人一倍関心を持っていたはずです。

当時のエジプト暦がどのようなものであったか判りませんが、エジプトではピラミッド時代から太陽暦が採用されていました。1年が365日であることは、エジプトでは常識であり、4年に一度のうるう年も古くから採用されていたのではないでしょうか。シーザーはそのエジプト暦を参考にして、冬のある日を1月1日として(これについては、あとで再度説明します。)、月の名前は古ローマ暦を踏襲し、1月(Januarius)、2月(Februarius)、3月(Martius)、4月(Aprilis)・・・と定めました。月名が2ヶ月ずれて、本来9月であるはずのNobemberが11月となり、10月であるはずのDecemberが12月になってしまいましたが、起点を変更したのですから、仕方ありません。

シーザーは、1月、3月などの奇数月を31日とし、2月、4月などの偶数月を30日とする計画でしたが、それでは366日となり、一日増えてしまいますので、2月だけを29日としました。なぜ2月なのかは、おそらく、古ローマ暦が3月始まりだったので、2月が最後の月であり、ここに閏月や閏日がくる習慣でもあったのではないでしょうか。そして、月名については、シーザーの誕生日が7月に当たることから、それを記念して7月の名称をQuintilisからJuliusへ変更させました。

この暦は人々に受け入れられ、ローマ帝国内で広く使われるようになりましたが、シーザーの姪の子であるオクタビアヌスが実権を握ると、彼はシーザーの真似をして暦をいじりました。彼は自分の生まれた8月を記念して、その名をSextilisから、彼の尊称であるAugustusへと強制的に変更させました。また、8月が30日であるのはけしからんということで、強制的に31日にさせました。これにともない、30日と31日の交代が8月以降について変更となり、このままでは1年が366日となるのを避けるために、2月の29日をさらに1日削って28日としました。

結構複雑な話ですが、このアウグストス・オクタビアヌスが修正した暦が、その後1500年にわたって用いられたのですから、たいしたものです。



ユリウス暦修正の必要性が認識されるようになる。

ところが、さすが1500年も使っていると、小さいズレが溜まってきました。ユリウス暦には100年に一度閏年を抜かす決まりはありませんでした。それで、100年に一日のズレが生じてしまいました。100年に一日ですから、大したことはありません。しかし、さすがに1500年もたつと15日ほどのズレになります。厳密に言うと、400年に一度は閏年を入れるのですから、それを引いて12日ほどのズレになります。しかし、それでも、日常生活に影響を及ぼすものではありませんので、ほとんどの人は気にも留めませんでした。しかし、この暦で非常に頭を悩ましている人々がいました。それがカトリックの司祭たちでした。

というのは、カトリック教会にとって権威あるニケア公会議の決定の中に「3月21日を春分の日と定める」という文章があり、暦と公会議の決定にずれがあることはカトリック教会の権威に関わる重大事だったからです。1582年頃には、春分(vernal equinox)は3月10日頃になっていたはずです。

とは言うものの、ニケア公会議の文書など、庶民は読みませんし、このズレを批判する大勢の人がいたわけではないでしょう。誰が、なぜ暦の改革をローマ教皇に提案したか、よく知りません。これは今後の研究課題となります。

さて、当時のローマ教皇グレゴリオ13世は、暦の改革を決意し、1582年10月4日(木)の翌日を10月15日(金)とすることにしました。これはローマ教皇の権威のもとでカトリック諸国では広く受け入れられました。ところが、プロテスタント諸国はローマ教皇の権威を認めませんのでユリウス暦が使われ続け、国によって日付が異なるという不便な状況が長い間続きました。プロテスタント諸国がグレゴリオ暦を採用するようになるのは、ようやく18世紀に入ってからのことで、イギリスでは1752年に、9月2日の翌日を9月14日にしたとのことです。

暦を変更するのは大変なことです。ちなみに、グレゴリオ暦でも週(7日)のリズムは変更されていません。不思議なことに、イスラム暦でも、中国でも週については一致しています。ですから、週で計算すると、暦の変更に関係なく、過去の日時を正確に計算できることになります。これはとても面白い現象ではないでしょうか。



クリスマスは冬至のお祭り

クリスマスが冬至(winter solstice)のお祭りであったことは、状況証拠から明らかですが、それを明言する文書資料があるわけではありません。この点も今後の研究課題なのですが、今日の冬至は12月21日、もしくは22日で、一年で陽の長さが一番短い日のことを意味しています。それまで、だんだん暗くなっていたのに、この日を境に明るくなるわけですから、とても喜ばしい日であることはわかります。

しかし、陽の長さを計算するのは面倒ですから、素人が冬至の日を決めることは容易ではありません。おそらく、ある時、陽の長さを測ったところ、12月25日が最短であったので、12月25日がお祝いの日として定められたのでしょう。この日がキリストの誕生日としてお祝いされるようになるのは、4世紀になってからのことで、本来は12月25日とキリストの誕生日とは関係ありません。

さて、せっかく12月25日をお祝いしていたのですが、ユリウス暦では100年に1日だけずれが生じますので、いつのまにか12月21日、もしくは22日が冬至となってしまったのです。しかし、これをもとにいつ頃12月25日が暦上の冬至の日であったかは計算できます。

今日のグレゴリオ暦ではズレは生じませんから、325年のニケア公会議の年に12月22日が冬至になっていたことになります。25日とは3日ほどずれていますので、ニケア公会議から300年前頃、25日が冬至となっていた計算になります。ユリウス暦ができたのが前46年ですから、紀元後25年とかなり差があるのが気になりますが、計算方法としては、こんなところです。



1月1日も冬至のお祭り

さて、私の推定では1月1日も冬至に由来しているはずです。それゆえ、それをもとに、1月1日が実際に冬至であった年を計算することが出来ます。325年に12月22日が冬至となっているのですから、1月1日が冬至であったのは前700年頃となります。これではユリウス暦の成立以前となるので、おかしな結論になりますが、計算上はそうなるということです。


以上は2000年頃に考えていた暦についての見解です。

<補足>   月の場合、新月が1日とされるのと、年の場合、冬至が1月1日とされることが対応しているように思います。


その後、教えてgooの掲示板に「元日の起源」について質問した人がいたので、それに以上のような立場からお答えしました。質問した人には納得してもらえましたが、しかし、1月1日が冬至になる年が古過ぎるので、ずっと気になっていました。




3月25日春分説

「元日の起源」 について、私と同様に答えた人がいて、彼の紹介してくれたHPには、「3月25日を春分とする古ローマ暦の習慣にあわせて1月1日が決められた」 と説明されていました。そういうこともあるのでしょうか? できれば、その根拠となる文献を知りたいものです。また、古ローマ暦で、なぜ3月25日が春分の日となっていたかとか、その日にどういう祭りがなされていたかなども確認したいところです。

3月25日春分説も有力とは思いますが、その後、私なりに考える過程で、別の可能性を思いつきましたので、ここに書いておきます。



12月25日冬至説

旧約外典の第二マカベア記1:18に 「キスレウの月25日に神殿清めの祭りを祝う。」 という文章があります。この祭りは「灯火の祭り」と呼ばれ、ネヘミヤ時代(前450年頃)に由来すると説明されています。また、「キスレウの月」とは、太陰暦で冬の頃ですから、太陽暦では12月にあたります。太陰暦ではありますが、「12月25日 灯火の祭り」という点で、きわめてクリスマスに似ていると言わざるを得ません。この祭りは、ユダ・マカベウス戦争の勝利を祝う日ともなり、ユダヤ人が宮清めの祭りとして祝っているところを見ると、かなり古い起源を持つ祭りであることは間違いないでしょう。

しかし、なぜ12月25日なのでしょうか。ユダヤ人が12月25日を選ぶ必然性はありません。後にローマ帝国内で広く12月25日が祝われるようになるのも、ユダヤ教の影響と言うことはないでしょう。おそらく、バビロニヤで古くから太陰暦の12月25日が祝われていたのではないでしょうか。その根拠となる資料を知っているわけではありませんが、全体的に見て、そう考えるのが自然だと思います。そして、バビロニヤで12月25日が祝われる根拠は、この日が冬至と見なされていたからではないでしょうか。

さて、推測ばかりで申し訳ないのですが、次の推測は、ローマ帝国内で、ユリウス暦を定める頃、すでに12月25日の祝いが盛大に行われていたと考えられないでしょうか。しかも、この日は冬至を祝う日でした。前150年頃に書かれてマカベア記に12月25日という日付があるので、シーザーの頃には、12月25日という数字は良く知られていて、変更しにくい状況になっていたのではないでしょうか。ですから、シーザーはユリウス暦において、冬至を1月1日とするのでなく、12月25日になるように設定したのです。


さて、計算上、前45年には、12月25日が冬至にならないことは、すでに述べています。しかし、これでは上記の説が成り立ちませんから、再度計算し直して見ることにします。

いろいろ考えてみて気がついたのですが、ユリウス暦はオクタビアヌスにより修正されている事実は非常に重要です。また、一説によると、最初は閏年を3年ごとと間違えて繰り入れてしまったとの見解もあります。この時代の暦を厳密に計算するには、まだまだ研究が必要だということのようですが、一応、オクタビアヌスの修正を考慮して計算し直してみましょう。すると、彼の前の時代までは、12月は偶数月ですから、30日しかありませんでした。ですから、今日の12月を31日とする暦と一日ずれていることになります。今日の25日は、修正前の暦では26日となります。ですから、冬至とクリスマスとのずれは4日に広がります。すると、ニケア公会議の325年より400年前と言うことで、ユリウス暦開始の年に極めて近くなりました。

ですから、12月25日が冬至の日になるようにユリウス暦が作られた可能性が大きいと言うことです。そして、12月25日が冬至となるなら、それにあわせて、1月1日も現在の1月1日に決まってくることになります。これで、ある程度納得できる説明になったのではないでしょうか。今のところ、誰も納得してくれませんが、自分ひとりで秘かに真理を発見した喜びに浸っています。 \(^^)/





太陰暦と太陽暦


古代の人にとって、夜空の星の輝きは、現代人のテレビに相当する重要な情報源であり、娯楽であり、ロマンでした。季節ごとに夜空の姿が変わり、またしばらくすると元に戻ります。しかも、この変化は、星と星の位置関係が変化するのではありません。ちょうど、絵の描かれたお盆を左から右に回転させるように、絵は変化せず、絵の位置が変化するのです。星の場合も、相互の位置を変えることなく、季節ごとに徐々に移動して回転します。そして一年するとまたもとの位置に戻ってきます。このことは、古代の賢い人たちは皆知っていました。ただ、よく観察すると、数ある星の中で、形を乱す星々がいくつかあることに気がつきました。それらの星は、ちょうど、お盆の絵の上を這う虫のように、右に左に移動します。そこで、古代の人は、これを「惑う星」、つまり惑星(planet)と呼んだのです。しかし、これらの惑星も数年もすると、また元の位置に戻ることも判っていました。

古代バビロニアでは、天文学と言っても良いほどに、これらの星々の動きの観察が進み、太陽や月の動きについても詳しく調べられ、月食、日食を預言することが出来るほどになっていました。ですから、1年が365日であることは、おそらく当然知られていたことでしょう。

しかし、365日を数えることは、古代人にとっては容易ではありませんでした。日常生活のリズムを刻む暦として最初に登場したのは太陰暦でした。これは、夜、目にする月の満ち欠けを基準に日を数えるやり方です。

もっとも、エジプトでは、ナイル川の氾濫を利用した農耕方法を採用していたので、洪水の時期を正確に知るために、古くから太陽暦が用いられていたと言われています。

つまり、太陰暦はバビロニアで、太陽暦はエジプトで発達したものです。それぞれ特徴があり、太陰暦は日を計算するのは簡単ですが、うるう月をいれるのが面倒です。それに対して、太陽暦は、季節を理解するには便利ですが、そもそも、その日数計算は、素人には出来ません。国家的管理の元においてのみ可能な暦でした。ですから、エジプトのような安定した国家でないと、実用性はありません。


そういうわけで、王朝の交代の激しかったバビロニア(メソポタミア)では、古くから太陰暦が採用され、月の満ち欠けが研究されました。月の満ち欠けの周期は、およそ29日です。厳密には、29日と12時間44分2.9秒となっています。ですから、古代人のとっては、月の動きは、時には29日であり、時には30日に見えたのではないでしょうか。これが繰り返されるうちに一年が過ぎることになります。しかし、困ったことに、月のリズムと1年とは合致していません。だいたい、12回の月の満ち欠けの後にもとの季節に戻るということは判っていましたが、ズレが生じることも判っていたはずです。しかし、最初の頃は古代人にとっては問題ではありませんでした。しかし、やがて文明が進歩してくると、正しく季節を計りたいという要望が生まれ、月のリズムと1年をどのように調整するかが大問題となってきました。

太陰暦にもいろいろな種類がありますが、その種類の違いは、一年の起点の置き方と、太陽暦とのあわせ方の違いです。イスラム暦は、季節を無視して、頑固に月の動きだけで太陰暦を作っています。おそらく、砂漠社会では、季節というものがあまり重要ではなかったことが背景にあるのでしょう。普通は、季節とのズレが起きないように、太陽暦で修正した太陰暦が使われます。このような太陰暦を、太陽太陰暦と呼びます。つまり、新月から新月までをひと月とし、12回の月にうるう月を入れたり、入れなかったりして、太陽暦にあわせます。バビロニアの太陽太陰暦が具体的にどのように太陽暦に合わせていたか知りませんが、旧約聖書では春に正月がきているので、おそらくバビロニアでも春分を起点として計算していたのでしょう。たとえば、春分後に満月がくる月を1月とするなどのやり方です。

日本の場合は、旧暦と呼ばれるのが太陽太陰暦です。これは、江戸時代まで使われていた暦で、天保暦とも呼ばれます。この旧暦の作り方は、まず冬至の日を決めて、その冬至を含む月を11月とし、その次に来る月を12月とし、その次の新月が正月となります。ですから、これを太陽暦に換算すると、旧正月はだいたい2月頃になるはずです。なぜ冬至を含む月を11月とするのかは、今後の研究課題です。旧暦については「旧暦の仕組み」HPが大変わかりやすく便利です。


太陽暦は、太陰暦と比べると遙かに安定した暦ですが、目に見える月と関係ない暦になりますから、空を見上げて暦を計算することは出来ません。どうしても、書かれたカレンダーが必要となります。これは古代人にとっては不便だったことでしょう。エジプトでは、ナイル川の氾濫を予測するため、早くから太陽暦が採用され、4年に一度のうるう年が必要であることさえ判っていました。しかし、具体的にどのような暦であったか、1月、2月などの名称があったのか、どの日を新年としたのかなど、史料がないのでわかりません。

エジプトの太陽暦を1年の枠として、ローマの太陰暦と融合させて作られたのがユリウス暦です。これについては先の章で説明したとおりです。




週の起源


7日区切りの週を、人類がどのような経過で採用したのか、詳しいことはまだよくわかっていません。おそらく、太陰暦が定着した後、その太陰暦を計算する便法として7日区切りの週という計算方法が生まれたのではないかと推測できます。太陰暦は、目で月の満ち欠けを確認できるので、庶民にとって判りやすい便利な暦でした。しかし、それでも29日間を数えることは、楽ではありません。そこで、ひと月を4等分して、新月、上弦の月、満月、下弦の月と計算すると、大雑把ですが、7日間という区切りが生まれます。

「7日間」という表現は、すでにギルガメッシュ叙事詩に登場します。そこでは「7日間雨が降り続いて洪水になった。」と書かれています。その他にも7日区切りという数字は古代文献にしばしば登場します。週という概念は、7日が固定されて、月の動きに連動せずに数えるやり方ですから、「7日間」という言葉だけでは週の暦があったとは言えません。太陰暦から切り離されて7日間の繰り返しを数えるようになって初めて週と呼ぶことが出来ます。

さて、この週という暦が発生するのはいつ頃のことなのでしょうか。そのあたりのことは、古代文献資料が不足しているので、確かなことは言えませんが、状況証拠からして、前600年頃、バビロニアで発生していたと思われます。

旧約聖書に「安息日」という単語がしばしば登場しますが、これが週の存在の証拠になるわけではありません。なぜなら、旧約聖書の安息日は、週ではなく、太陰暦にあわせて計算される安息日の場合が多いからです。おそらく十戒の「安息日」は週を前提としているのでしょうが、レビ記などの安息日のすべては太陰暦を基準とした祭りのための安息日であって、週ごとの安息日ではありません。創世記29:27,28に「一週間」という単語が登場しますが、これは週のことではなく、7日間という意味での「一週間」だと思いますが、今後の検討が必要なところです。




曜日の起源


バビロニアの週は、曜日の付けられた7つの日から成り立っていました。第一日は太陽の日、つまりSundayです。第二日は月の日、Monday、第3日は火の日、Tuesday、第4日は水の日、Wednesday、第5日は木の日、Thursday、第6日は金の日、Friday、第7日は土の日、Saturday、となります。ここで、説明無しに日本語の週日と英語の週日の名前を挙げましたが、非常に不思議なことですが、両者の意味はよく似ています。日本語の週日の名前は中国から来ているのですが、中国はおそらくシルクロード経由で週日名を習ったのでしょう。その際、バビロニアの名前の意味を意訳して、日月火・・・となったのでしょう。今日の中国では月曜日が「週第一日」、火曜日が「週第二日」 ・・・ という言い方になっています。古代中国で週日名が実際に使われていたのかどうか、良く知りません。

宿曜経に日・月・火・・・の記述があるので、空海の時代には週日名が日本に伝わっていたことになります。実際に使われた記録としては、藤原道長の日記(998年)の中に曜日の記述があるとのことです。古代日本人の知識水準の高さを示すもので、注目に値します。ところが、庶民レベルでは、太陰暦が使われ、また中国の干支で計算する仏滅暦が使われていたので、週暦が広まることはありませんでした。週が使われるようになるのは、明治以降のことです。






ご意見、ご感想は以下の所へどうぞ
メール


表紙に戻る  前のページへ  次のページへ