十戒の成立
(new 15/09/07)
目次
1. 序
2. 十戒の資料問題 E,J,P,D
出エジプト記20章と申命記5章
3. 十戒は編集者の作品である。(用語の点から)
1) 妬む神
2) 私(神)を愛する者
3) 恵みを千代に
4) 父の罪を子に報いて・・
5) 長く命を保つ
6) 上の天、下の地
7) 奴隷の家
8) 強い手と伸ばした腕
4. 個々の戒めの成立過程
1) 唯一神
2) 偶像否定
3) 唱名禁止
ヤハウェかアドナイか?
「エホバ」という神名の由来
「バアル」と「アドナイ」
4) 安息日
週を基準とする安息日の起源
太陰暦を前提にした安息日の起源
1. 序
十戒は、出エジプト記20章と申命記5章に、ほとんど同じ形で載っています。旧約信仰を判りやすく纏めた文書なので、キリスト教会でもよく使われていて、とても有名です。そして、旧約聖書の記述では、この十戒はシナイ山で神が直接二枚の石の板に神の文字で書き込んでモーセに与えたもので、契約の箱の中に入れられ、保管され続けていたとのことです。(出エジプト記32:15f,申命記9:8f、etc)はたしてこれは本当のことなのでしょうか。
このテーマは聖書の権威に関わるので、今まであまり正面切って論じられてきませんでしたが、古代イスラエル史を史実どおりに理解する上で、避けてはならないテーマです。このことを真正面から取り上げ、実は十戒は石の板に書かれていたのではないこと、そして十戒の成立は、もっと後の時代であることを論じてみたいと思います。モーセ五書も、十戒の成立と深い関係がありますが、それについては、すでに「九書・五書成立史」に書いておきましたので、そちらを参照していただければと思います。また、旧約の記述が史実どおりでないことは、あたかも旧約聖書の権威を否定するかのような現象ですが、しかし、それにも関わらず、旧約聖書が神の言葉であり、深い意味を持った文書であることは認めなければなりません。十戒が石の板に書かれていなくても、その起源がモーセに遡らなくても、十戒の内容は歴史的に非常に重要ですし、旧約聖書の権威も従来どおりで何ら変更されるものではありません。むしろ、「文字どおり読まなければならない」というのが、神の御旨ではなく、単なる人間の思いつきでしかないことを悟っていただければと願っています。
2. 十戒の資料問題
十戒が今日の形に書き留められたのがいつ頃であったかは、検討すべき大きなテーマです。聖書の中に、出エジプト記20章と申命記5章の2箇所に載っていますが、「出エジプト記の資料はE資料か、J資料か」は、議論されるところです。出エジプト記20章は21章以下のE資料につながっていますので、十戒をE資料とすることもひとつの判断です。20:1では「神(エロヒム)」という用語も使われています。また、20:10、17でいわゆるE資料指標である「はしため」(アマー)が使われています。しかし、十戒の本体では一貫して「主なる神」が使われていますので、これをE資料と見るのは困難ではないでしょうか。また、出エジプト記の十戒をJ資料とすることは説得力がありません。十戒の中にあるJ資料指標はわずか「主なる神」だけであり、それ以外のJ資料指標はありません。また、J資料は全体として、律法を含まないものと理解されていますので、十戒をJ資料とみることは従来のJ資料理解を大幅に変更することになります。
十戒をP資料とする見解はほとんどありませんが、ここでなぜP資料と言えないかを示しておきます。P資料は五書律法の大部分を占めるものですが、その中には原十戒とも言える十戒との重複部分がいくつか含まれています。レビ記19章、26章などです。P資料は全体として重複記事が多くみられますので、重複しているからといってP資料でないとは言えませんが、出エジプト記20章の前後がP資料ではないので、十戒部分だけがP資料とする判断は非常に不自然になります。また十戒の内部にP資料指標はありません。
さて、もうひとつ検討すべき説は、十戒をD資料とすることです。この説は従来まったく取り上げられていませんが、状況証拠がたくさんあるので、検討に値する考え方です。
ひとつの根拠は、出エジプト記19章から20章の流れの中で、十戒が資料的には独立しているように見えることです。19:25から20:18へのつながりは、決して自然であるわけではありませんが、「民」、「かみなり」、「いなずま」、「ラッパ」などの用語の一致があるので、同一資料であることは疑いありません。十戒はその間に挿入された形になっています。
また、十戒の用語は、きわめてD資料に近いもので、「近い」と言うよりも、むしろ同じ単語と表現が使われています。従来は、この一致点を、申命記作者が十戒を引用したと解釈していましたが、引用ではなく、まさに申命記作者が十戒を書き留めた可能性も検討に値します。
また、契約の箱の中身が十戒の書かれた石の板であるという申命記の立場からすると、モーセのシナイ山での体験時に十戒が与えられるという情景はぜひとも必要であることは分かりやすい論理です。つまり、申命記作者(私の理解では九書編集者)は十戒をモーセ物語の本体に埋め込む必要性を持っていたのです。元になった物語では契約の箱の中身は「律法を書きしるした石の板」(出エジプト記24:12)でした。この箇所での律法とは、十戒ではなく、ある程度の分量を持つ戒め全体のように読めます。ところがこれを十戒であると明言するのは申命記5:22です。申命記の作者は、つまり九書の作者であり、五書の作者でもありますが、彼が、契約の箱の中身を十戒とするためにモーセ物語のあの場面に十戒を挿入したのです。
このように考えることはきわめて自然であり、九書全体の成立とも調和しています。ですから、十戒はD資料であると一応言っておきます。「一応」というのはD資料そのものが資料と言えるかどうか問題だからです。実際、申命記の中には個別的資料が用いられているところがありますが、全体的には最終編集者が書き記した文章となっています。ですから、資料ではなく作品なのです。これについては、詳しくは「九書・五書成立史」を参照して下さい。
出エジプト記20章と申命記5章は別の資料ではなく、最終編集者が重複して記録したものです。なぜなら、九書編集者は重複をそれほどいやがらない性格であり、申命記5章は、申命記4章からの思い出話しの一環として取り上げられています。しかも申命記5章は「火の中から出るその声を聞いた」(5:24)と表現するなど、明らかに出エジプト記20章を踏まえて書かれているからです。出エジプト記の十戒と申命記の十戒の用語の違いはそれほど大きいものではありません。十戒の個々の戒めは、古くからある伝統的教えですが、それを纏めて今日の十戒の形にしたのは申命記作者だったのです。つまり、十戒は九書編集者の作品であり、それが物語に挿入されたのは、最終編集段階であると理解することになります。
3. 十戒は編集者の作品である。 (用語の点から)
十戒が最終編集者の作品であることを用語の点から論証してみます。十戒の用語が申命記の全体と一致していることは多くの単語・表現から論証することができます。これらの一致点はD資料の証拠のように思えるかもしれませんが、申命記そのものが最終編集者の作品と見るなら、十戒も最終編集者の作品となります。そして、この用語が出エジプト記の十戒にも使われていると言うことは、両者が同じ作者のものであることの証拠になります。
申命記と出エジプト記の十戒は基本的に同じものですが、いくつかの小さな違いがあります。「これらは両者が別資料から取られたもので、それぞれが別々の伝承過程を経由しているからである」と説明することも可能です。しかし、相違する部分を分析してみると、そこにおいても最終編集者のものと思われる用語が使われていることに気がつきます。と言うことは、やはり両者とも同じ作者のものであって、作者自身があまり細かい違いにこだわらないことを示していると考えられます。この作者は、申命記の作者でもあり、九書の最終編集者なのですが、細かいことに拘らない特徴を九書全体でも見つけることが出来ます。たとえば、申命記は、出エジプト物語を再度略述しているのですが、その略述が出エジプト記と一部異なっています。違いがあるということは、同一人物が纏めたものでない証拠であると理解する人もいるでしょうが、申命記の略述が思い出話として書かれていると言うことは、申命記の話が独立した資料ではないことを示しています。ですから、この違いは、作者の細かいことに拘らない性格から来ていると理解するのがもっとも妥当な結論になります。十戒も同じことなのです。
さて、十戒の用語が九書編集者のものである証拠をいくつか挙げてみたいと思います。十戒の分量はあまり長くないのですが、証拠の数は意外とたくさんあります。
1) 妬む神 (AL QNA)
まず、出エジプト記20:5、申命記5:9に登場する「妬む神」という単語です。ヘブル語では AL QNA (エル・カナー)と言い、「エル」が「神」、「カナー」が「妬む」とか、「熱心」という意味です。この単語は、出エジプト記34:14、申命記4:24,6:15にも使われていますが、ヨシュア記24:19にもあります。「神が妬む」という表現は預言書にもあるので、これだけで編集者の用語と断定できるわけではありませんが、使われている箇所の文脈に最終編集者の筆の跡がたくさん見られるところですから、この単語も編集者のものと考えるのが自然です。
2) 私(神)を愛する者 (AHBY)
「神を愛する」とはずいぶん大胆な表現ですが、おそらく、ヘブル語のAHB(アーハブ)のニュアンスが現代語の「愛する」とは少し違うのではないかと思います。
「神を愛する」という表現は、十戒の「私を愛し、私の戒めを守る者」(出エジプト記20:6、申命記5:10)以外、四書の中に見あたりません。これはもっぱら申命記の神学であるといえます。「神を愛する」は、申命記5:10、6:5、7:9、10:12、11:1、13、22、13:4、19:9、30:6、16、20にあります。それ以外の九書では、列王紀上3:3にあるだけです。また九書以外でも詩篇31:23、116:1、箴言8:17にあるだけで、預言書には今のところ見つかっていません。
ちなみに、ヘブル語の「愛」は、「友」(AHB)と語根を共有していますので、ギリシャ語では「フィレオー」に当たる構造になっています。しかし、ギリシャ語訳聖書(LXX)では「アガペー」との訳を当てています。これがきっかけでしょう、新約聖書でも愛はもっぱら「アガペー」という語で示されることになります。
3) 恵みを千代に
「恵み」(HhSsD)は「慈しみ」とも訳される、すてきな言葉です。この単語は旧約聖書では244回も用いられているごく普通の単語です。しかし、「恵みを千代に施す」となると用例は限られてきます。
この表現は十戒(出エジプト記20:6、申命記5:10)の中にあるだけではありません。その他に出エジプト記34:7、申命記7:9にあることは注目されます。この一致は、十戒も含めて最終編集者の筆の跡としか考えられません。九書外ではエレミヤ32:18に見つかるくらいです。
4) 「父の罪を子に報いて・・」(PQD OWN ABT OL-BNYM)
十戒の中の印象的言葉のひとつは「父の罪を子に報いて3、4代に及ぼし」とある言葉です。この言葉は出エジプト記20:5と申命記5:9でまったく同じです。これとほとんど同じ言葉が出エジプト記34:6、民数記14:18にあります。申命記7:10はやや表現が変えられていますが、基本的には同じ言葉と見ることができます。この3つの箇所はその前後も十戒と一致していますので、十戒を踏まえて書いていると思われます。同じ著者でなければこういう現象は起きないでしょう。
5) 長く命を保つ(ARK YMYM)
申命記に「長く命を保つ」と書かれているところがあります。これは調べてみますと、申命記4:26、40、5:16、33(30)、6:2、11:9、17:20、22:7、25:15、30:18、32:47と結構たくさんあります。これと同じ表現がヨシュア記24:31、士師記2:7、列王紀上3:14にあるのはよいとして、出エジプト記20:12にあるのはなぜなのでしょうか。これは有名な十戒の部分です。
九書以外では、イザヤ54:10、箴言28:16、伝道の書8:13にあります。
6) 「上の天、下の地」
十戒(出エジプト記20:4、申命記5:8)の中で、「上は天にあるもの、下は地にあるもの」との文章はそれほど重要とは思えませんので、他にあるとは思いませんでしたが、申命記4:39とヨシュア記2:11に見つけました。これは、著者が一致していなければ起きない現象です。
7)奴隷の家(BYT OBDYM)
十戒の中で「あなたがたをエジプトの奴隷の家から導き出した」(出エジプト記20:2、申命記5:6)と書かれている言葉に注目してみます。この同じ表現が出エジプト記13:3、14,申命記6:12,7:8,8:14,13:6(5)、11(10)、ヨシュア記24:17、士師記6:8、に登場します。同じ著者のものであることは明らかです。
8) 強い手(YD HZQH)と、伸はした腕(ZRWO NTtWYH)
申命記5:15の申命記十戒独自部分に「あなたの神、主が強い手と伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出された。」とあります。この文章は出エジプト20章十戒にありませんから、元になった資料の違いと判断したくなります。しかし、「強い手と伸ばした腕」という表現が九書全体にわたって使われていることを見ると、これは著者が書き加えたところと判定するしかありません。資料由来でないということは、著者がこの部分を自由に書いているということです。とすると、他の部分にも著者の筆の跡があるのですから、著者自身が十戒全体を書いたという判断が自然な結論になります。
この表現は申命記4:34,5:15,7:19,11:2,26:8、列王記8:42の6箇所にあります。同じ表現がエレミヤ32:21、エゼキエル20:33,34、歴代志下6:32にも見つかります。ですから、一般的によく使われている表現とも言えますが、「強い手」、「伸ばした腕」というそれぞれの表現が出エジプト記にも民数記にもあるのですから、著者のものと考えられます。詳しくは「九書・五書成立史」を参照してください。
5. 十戒に含まれる戒めの成立史
ここで、タイミングがよいので、十戒の中のいくつかの教えに付いてコメントしておきます。十戒の中にあるということは、十戒の成立時に、その教えがすでに存在していたことを示しています。つまり、その教えがその時始まったということではありません。以前からの教えを作者が整理して書き残したのです。では、その教えそのものの始まりはいつ頃だったのでしょうか。
1) 神は唯一である
十戒の第一は「あなたは私の他に、何者をも神としてはならない。」との教えです。これは通常、一神教の始まりと理解されていますが、文字どおり理解すると、「他の神々を拝んではならない」との教えであり、「他の神々が存在しない」とは明言していません。それゆえ、学者によってはこれを拝一神教といって、一神教のひとつ前の段階と理解する人もいます。しかし、それはやや単純な結論ではないでしょうか。哲学的思索により、他の神々の存在を否定する発想はギリシャ哲学の延長線上に生まれるものであり、近代的考え方に近い故に、これをより高度の一神教と理解するのが従来のやり方でした。しかし、ギリシャ哲学を前提とする一神教理解には実存的発想が弱く、聖書の理解する神理解とずれがあるように私には感じられます。それゆえ、拝一神教を一神教の前の段階であると理解することは受け入れられません。むしろ、拝一神教こそ実存の契機を含む真の一神教と言えないでしょうか。聖書の中には、新約も含めても、いわゆる哲学的一神教を教える言葉はありません。神は常に私にとっての神なのです。
それゆえ、ここでは拝一神教も一神教も区別する必要はありません。拝一神教を含む一神教の始まりは十戒の成立よりもさらに古い出来事であったのは当然のことです。それゆえ、十戒以前の一神教の歴史をたどって見たいと思います。
ただ、その前に、神概念の始まり、多神教の始まりにも言及しておきましょう。一神教は歴史上に突然現れたのではなく、その準備段階として多神教の発達がありました。多神教無しには一神教も成立しないことを理解していない人が多いようですが、それでは全体的視野を失います。また、多神教の前提にはアニミズムと神概念の成立があります。
神という用語は、それぞれの民族・文化で様々なニュアンスをもっていますが、おそらく太古の昔、人類には神という用語は無かったはずです。神という用語を使うだけでもある程度の文化レベルの高さを示しています。日本語の「かみ」は「上」から派生したという俗説がありますが、古代語において神は「カム」で「上」は「カミ」ですので、語源としては異なるとされています。(注 「神と日本人」東海大学出版会、村上重良著)文字のできる遙か以前に成立した単語ですから、その語源を調べることは容易ではありません。
英語の「ゴッド」の語源は、良くわかりませんが、グッドやグレイトと同じではないかと思われます。良きもの、もしくは「偉大なもの」、それが神なのです。この神概念は、日本語の神々同様に、多神教的に用いられていました。それゆえ、人間もゴッドであって、ゴッドファーザー「名付親」のように、人間に対して用いられる場合もあったのです。
ベブル語の「神」(エル)の語源は、セム語の知識が足りないので特に言うべきことはありません。中国語の神は、示す旁と雷の形から出来ていて、もともとは諸霊をさすアニミズム的用語であったということです。中国語聖書翻訳の際には、「神」は訳語として相応しくないとの意見があり、「上帝」という単語が選ばれました。しかし、「神」という訳に固執する人々もいて二種類の版が出版されることになりました。韓国語の「神」は「ハナニム」と訳されています。「ハナニム」はもともと唯一者という意味であると聞きましたが、そのような単語が韓国語に昔からあったのでしょうか。不思議なことです。
■ 多神教の始まり
多神教は、氏族が部族となり、部族が国となる過程で、戦いに敗れた氏族・部族の神が、勝者部族の尊崇する神の下位に立つ神として位置づけられることから始まったものと思われます。部族の栄枯盛衰とともに神々の序列も変化したはずです。中には、本地垂じゃく説のように、元々は異なる神々でも同一の神と認定される場合もあったでしょう。このような多神教の成立は、ほとんどすべての民族で起きた現象です。アニミズムと呼ばれる原始的宗教もありますが、それは多神教の前段階と見なされています。これは正当な見解と認めて良いと思います。結局、人類はアニミズムから多神教へと発展する精神構造になっているのです。
多神教から、一神教への発展も歴史の必然と言えると思います。しかし、必然とは一本道ということではありません。川の流れ方が地域によりみな異なるように、同じ発展の道を歩むことはありません。しかし、高いところから低いところに流れることはみな同じです。宗教もまったく同じであり、発展の道はみな異なりますが、流れ方は同じなのです。大雑多に言って、アニミズムから多神教に、そして、一神教へと変化することは必然であって、誰も止めることはできません。今日の世界で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教が多数派を占めていますが、これも歴史の必然の結果だと思われます。今日の世界には、仏教のような汎神論、儒教のような非宗教的体裁をもつイデオロギーも残っているので、必ず一神教になると断言することは差し控えますが、仏教の論理が一神教的になりつつあるように私には思われます。また、神道でさえも、良くも悪くも一神教的な教学になりつつあるように思います。今後どうなるかはじっくりと観察する必要があるでしょう。
また、世界各地にアニミズムもまだ有力な宗教として残っています。そしてなによりも問題なのは、ゾロアスター教のような二元論宗教もあることです。ゾロアスター教は、今日、ロシア南部や、インドの一部に存続するだけで、宗教勢力としては考慮する必要はありませんが、歴史的にも、また論理的にも、一神教との比較のためにも無視することの出来ない宗教です。はたして二元論宗教は、多神教から一神教への発展の過渡期にあるものなのでしょうか、それとも、一神教とは別の方向へと発展した宗教なのでしょうか。このような問いを問わざるを得ないのは、キリスト教の場合、他の一神教と異なり、多分に二元論的に要素を内包しているからです。もし、二元論から一神教への発展が正しければ、キリスト教は二元論から、一神教への過渡期に位置づけられる宗教になってしまいます。つまり、ユダヤ教やイスラム教が論理的には一貫した一神教であるのに対して、キリスト教はかなり多くの二元論や多神教的要素を内包しています。それゆえ、キリスト教を弁護するためには二元論や多神教を過度に否定的に論評することはできないのです。この点の問題は教義学で論じることにしましょう。
■ 一神教の始まり
神を唯一とする考え方の始まりをアブラハムに求める見解があります。アブラハムは、多神教を前提とするバビロニア宗教の社会を離れて、約束の地カナンを目指して旅に出ました。ですから、アブラハムの旅立ちの理由のひとつとして、アブラハムが多神教社会を拒否した可能性も考えられないわけではありません。しかし、いくつかの理由から一神教の始まりをアブラハムに求めることはやや無理があるように思います。もし、アブラハムが一神教を確立したとするなら、アブラハムの子孫であるイシマエル人や、エドム人まで一神教でなければならなくなります。アブラハムの思想的影響がイサクにのみ伝わり、他の子孫たちに伝わらなかったと考えることは不自然です。アブラハムが「天の神」という超越的神観を持っていたとしても、「他の神々を認めない」と断言するほどの明確な一神教信仰は持っていなかったでしょう。それが今日の一神教の起源になったわけではありません。一神教の始まりをアブラハムに求めることは無理があります。
歴史的に最初の一神教はエジプトの第18王朝のイクナトン王により始められた宗教革命に求めることが出来ます。前1350年頃のことです。彼がなぜ、当時の多神教であるアメンの神々を否定して、アトンという唯一の神を礼拝すべきと考えたのか、その動機はいろいろ推察されています。イクナトン王がアトン信仰を作ったのではなく、すでにイクナトン王の父アメンホテプ3世の時代にアメン神祭司団と王権との対立がみられますので、この時代にアトン信仰はすでに発生していたとみてよいでしょう。そして、その起源をヘリオポリスの太陽神ラー礼拝に求めることも、可能性としては大いに魅力があります。しかし、ラーという名称をやめてアトンにするという点を見ると、イクナトン王の宗教が単なるヘリオポリス神学の延長ではない可能性もあります。イクナトン王の信仰は世界史的に見ても大事件であることは間違いありませんから、今後もさらなる研究が必要なテーマです。
ヘリオポリスの神学についての資料があるかどうかは知りませんが、太陽神を絶対化することが一神教に近づくという論理は容易に理解できます。太陽は星と異なり、ひとつしかない存在です。しかも、星や月と比較してもあまりにも強力なエネルギーの源であることは古代人にも感知されていたはずです。エジプトでは早くから太陽暦が採用され、生活の隅ずみまで太陽と関連した文化が生まれていましたので、一神教が生まれ安い土壌であったことは間違いありません。しかし、イクナトン王のあまりにも急進的宗教革命と、その平和主義的政策のせいでカナンへの領有権を他国に奪われたことなどから、アメン神官たちの巻き返しにあい、彼の宗教革命は彼一代で終焉を迎えます。彼の息子とも弟とも言われるツタンカートンは、アメン信仰に復帰し、その名もツタンカーメンに変えられ、都もアマルナからテーベに戻され、アトン信仰は歴史の流れの中に消されてしまいました。その頃のイスラエルは、私の立場からの説明になりますが、ヨシュアによるカナン侵入が終り、士師による戦闘と融和の時代を迎えていました。その時代のイスラエルの宗教がアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たちと異なるものとなってはいなかったはずです。ヤコブは、叔父のラバンの家から持ってきたテラピムなどの偶像を町の傍ら埋めたとの創世記35章の記事は多分に後世の偶像否定論の影響があるように思われます。イスラエル宗教はこの時代、いまだに多神教的だったのです。
イクナトンとモーセは血縁関係にあると見るのが私の立場です。モーセはエジプトにおいて、滅びゆく一神教を何とか後世に残したいと願い、イクナトン王宮の子孫たちと、当時奴隷としてこき使われていたイスラエル人やヘブル人たちと共に、出エジプトを決行したのです。しかし、彼らモーセ族の信仰が、すでにカナンの地に定着していたイスラエルに受け入れられるまでには長い年月が必要でした。モーセ族は、ミデアン人と合体し、次にレビ人と合体し、その内にアロン系の祭司たちと親しくなり、ここからイスラエル全体に一神教の精神が広まるきっかけが作られました。北イスラエルにおける預言者たちは、エリヤ、エリシャのように重要な政治的役割を果たしましたが、ヤハウェ信仰確立の論理のひとつとしてモーセのもたらした一神教神学を使ったのです。他の神々を否定してヤハウェのみを神とする神学はシロにおけるアロン系祭司団において確立していたのでしょうが、記録に残されているかぎりでの痕跡は、ヨシュアがイスラエル部族を前に「私と私の家とはヤハウェに仕えます」と説教した記事、ギデオンがバアルの祭壇を壊した記事などにみられます。ヨシュアの物語は九書編集者の筆の跡が多いところなので、「ヤハウェにのみ仕える」との主張も申命記神学の延長かもしれません。しかし、シナイ契約においてヤハウェが契約の仲保者の立場に立っていたとすると、イスラエル12部族の統合のためにもヤハウェ信仰を強調するのはヨシュアにとり当然の成行きであったはずです。ただ、この段階のヤハウェ信仰が一神教であるとするのは早すぎるでしょう。ギデオン時代のヤハウェ信仰も同じで、おそらくまだモーセの影響はイスラエルに現れてはいないはずです。モーセの影響が見られるのはエリヤのバアル宗教との戦いの時代からです。エリシャもバアル宗教との戦いを進め、ついに国粋主義的ヤハウェ信仰の信奉者であるエヒウがクーデターを起し、王を殺して政権を奪取しました。これでヤハウェ信仰は排他的宗教として確立しました。一神教がイスラエルに於いて成立したのはこの頃のことなのです。
2) 偶像否定
五書のモーセ物語をそのまま受け入れると、モーセ時代に偶像否定論が確立していたことになります。しかし、モーセ以降もイスラエル社会で偶像礼拝は広く行われていたことは士師記からも明らかで、それに対する同時代批判は皆無です。それゆえ、史的モーセに偶像否定論の起源を求めることは今のところ容易ではありません。
そもそもモーセ伝承の中にも偶像礼拝を肯定するかのような物語があります。民数記21:9の青銅のヘビは、ネホシタと呼ばれる偶像ですが、モーセに由来するものとされています。(列王紀下18:4)また、モーセの子孫がダン族の祭司となり、偶像を大切にしていたとの伝承もあります。(士師記18:30)ヤラベアム1世が金の子牛礼拝を始めたことを、列王紀作者は口を極めて非難しますが、「十戒に違反している」とは言いません。また、極端なヤハウェ主義者であったエヒウが政権を握りますが、バアル祭壇が壊されただけで、金の子牛礼拝は何ら問題とされず、続行されました。そして、サマリヤ陥落に至るまで、偶像否定論は社会に影響を与えるほどの広がりは持たなかったのです。
偶像否定を主張する最古の書物はホセア書です。ホセア書が現在のテキストになる前に一度編集されている可能性はありますが、8:5、10:5、11:2、13:2、14:8などのすべてが編集句ということはないでしょう。10:5でホセアは金の子牛に仕える祭司を「偶像に仕える祭司」と表現しています。11:2の「刻んだ像」とは偶像の別名です。ホセアが活動したのは、前750年頃のヤラベアム2世の時代ですから、一神教成立の時代です。ホセア書には出エジプトへの言及とモーセを暗示する「ひとりの預言者」(12:13)という言葉がありますので、この時代、モーセ伝承が北イスラエル全体へ広がっていたと判断できます。
ホセアの偶像否定論が北イスラエルでどれだけの支持を受けていたかを知る手がかりはありません。アモスは諸聖所批判を展開しますが、バアル批判や偶像批判は5:26にあるだけで、ホセアとはニュアンスを異にしています。ナホム1:14の偶像批判は、いつの時代か特定できず、少なくとも北イスラエルに向けられた批判ではありません。つまり、偶像否定論が北イスラエルに存在していたことは確かですが、広く受け入れられていたわけではなかったと思われます。
ここから先は、ある程度の推測になりますが、偶像否定論の確立はサマリヤ陥落後(北イスラエル滅亡。前721年)のことであると考えたいと思います。北イスラエルの捕囚は預言者たちに深刻な神学的反省を迫りました。「エヒウによるヤハウェ信仰確立にもかかわらず、どうして北イスラエルは滅びたのか?」と彼らは問いかけたのでしょう。滅びは神の裁きであり、その原因が北イスラエルの中になければなりません。その時、金の子牛礼拝を続けてきたベテル聖所の偶像が責任追及のやり玉に挙げられた可能性があります。ちょうどこの時代、モーセによる一神教的発想がイスラエルに広まり、神を動物や人間の形として表現する偶像の非論理性と、非倫理性に気が付き始めた時代でした。また、偶像は外国から流入した高い文化を前提にしているので、異教的雰囲気がしたのでしょう。偶像礼拝、つまりベテル聖所の金の子牛こそが神の裁きの原因と理解されたのです。
この偶像否定論が南ユダに流れてゆくことになります。ミカ、イザヤは共にヒゼキヤ時代に活躍した預言者ですが、偶像批判の言葉が残されています。ミカ書も、イザヤ書ものちの編集者により加筆された可能性がありますので、どの部分が本来の予言者の言葉であるかを判定することは容易ではありませんが、彼らが偶像を批判したことは間違いないでしょう。エレミヤ書にも偶像批判の言葉があります。しかし、彼の批判の中心は高所礼拝であって、偶像批判ではありません。というのは、エレミヤの時代、エルサレム・ユダには、北の金の子牛に該当するような政治的に影響力のある偶像が存在しなかったからです。偶像批判が強くなるのは、捕囚後のことです。南ユダにおいて、ケルビムが偶像として批判されたことはありません。
ユダの有力者たちが何万人もバビロンに連行されたのち、その空白を埋めるように諸外国から多くの移住者がやってきました。その中には、北イスラエルの民もいたのですが、バアル、アシタロテなどを拝む異教の民も含まれていました。それゆえ、エルサレムでヤハウェ礼拝を続行しているレビ人たちにとって、偶像批判は異教批判として再度重要な役割を与えられたのです。おそらく、この時代に書かれたのが旧約外典に含まれているエレミヤの手紙であると思われます。この手紙は、エレミヤ書と文体が異なるので、史的エレミヤの文章ではないと考えられますが、この手紙には偶像批判論の基本的な論点が判りやすく説明されています。また、捕囚時代にモーセ五書の構想が練られ、そこで十戒も最終的に完成するのですから、この時代に偶像批判論が完成したと見なすことが出来ます。
3) 唱名禁止
第4戒の唱名禁止規定についてもここで述べておきます。第4の戒めは「主の名をみだりに唱えてはならない」と言うものです。この教えについては、十戒以外には見あたりません。旧約のどの人物も主の名をみだりに唱えたということで裁かれるとか、裁いたという話しはありません。いったい何のためにと言いたくなるほど軽い規定ですが、ところが現代ユダヤ教にまで影響を与えている大きな役割を果たした規定でもあります。
ヤハウェという神は、もともとシナイ半島で広く信じ、受け入れられていた神と思われます。イスラエルだけでなく、ケニ人など、シナイ半島に住む南方セム族のあいだで広く信じられていました。それは前1600年代のことです。イスラエルはこの神の名のもとに12部族連合を再結成し、その後、民族の危機を迎えるたびに、この神に回帰することにより困難を乗り越えてきました。結果的に、バアルやアシタロテなどの神々はイスラエルから排除され、一神教が確立することになります。
十戒の成立の時代、すでにバアル宗教は公に排除され、一神教が確立されていたと思われます。そしてYHWHという単語がこの時代、ヤハウェ、もしくはそれに近い形で発音されていたことは間違いないでしょう。しかし、民衆の間にヤハウェ神が権威あるものとして広く認められた結果、ヤハウェが卑語として使われるようになっていたのではないかと思われます。
卑語は、その国や社会の文化を反映しています。日本では宗教の権威が弱いので、卑語も「くそ」とか「ちくしょう」などの表現になりますが、英語では「OH GOD」とか「JESUS」が神聖な用語としてと共に、卑語としても使われています。ヨーロッパのカトリック圏では「サクラメント」(聖餐)という言葉が神聖なものとして受け入れられているので、卑語としても使われているようです。私はヨーロッパのある人から、この単語を人前で使ってはいけないと注意されたことがあります。神聖語が卑語になるというのは世界共通の現象のようです。ヤハウェ宗教の推進者たちは、北イスラエルの人々がヤハウェという言葉を卑語として使うことに怒りを覚え、それで「主の名をみだりに唱えてはならない」という教えになったのです。
このある意味では当然の教えが、南ユダ王国に流れて来た時、まったく新しい角度から解釈されることになりました。南ユダ王国でもヤハウェが卑語として使われていたかもしれませんが、問題はそういうことではありません。南ユダ王国にとっての問題は、北イスラエルから入ってきたヤハウェ神を、古くからのイスラエルの神として受け入れる人も多かった反面、この神名に違和感を覚えるグループも存在していたことです。しかも、そのグループはダビデ王朝の王宮で実力を持つザドク家、およびその他の上流階級の人々でした。
南ユダでは、ユダの伝統と、カナンの伝統が融合する形で宗教が形成されていました。ソロモン王は外国の神々を祭る神殿をエルサレム内に建設しました。(列王紀上11:5)アシタロテ礼拝やミルコム礼拝などが行われました。また後の時代にはアシラ像も安置されました。(列上15:10)また、バアル礼拝も行われました。(列下23)これらの外国宗教の神殿や礼拝は、アサやヒゼキヤ、ヨシヤの宗教改革の際に排除され、ヤハウェ宗教が神学的には確立しました。しかし、ひとつだけ問題が残されていました。それが「神の名」でした。宮廷の中枢にいたザドク家は、ダビデの時代から大祭司として神殿礼拝を取り仕切ってきましたが、彼らはエブス人の家系であり、彼らの拝む神も本来はヤハウェではありませんでした。彼らがダビデに征服された後、ヤハウェ信仰を受け入れ、ヤハウェを拝むようになりましたが、それはヤハウェがエブス人の拝む「いと高き神」と同一であるとの神学にもとづく妥協の産物でした。ですから、ソロモン時代に、ザドクの家系が唯一の大祭司として受け入れられると、彼らはヤハウェ礼拝の外形は保持するものの、一部のおいてエブスの伝統を温存することになったのです。そのエブスの伝統として残ったのが神を「アドナイ」と呼びかけることでした。
(注 アドナイという神はカナン地方の昔からの神々のひとりであり、ヨシュアと戦ったエルサレムの王アドニゼデクの名にも要素として使われています。その名の意味は主人ということです。)
このアドナイの神はヤハウェであると理解されていたので、神学的には何ら問題は生じませんでした。しかし、北イスラエル滅亡後、多くの北イスラエル人が南ユダに流入してきました。そして、ヤハウェ伝統が復活し、神をヤハウェとして礼拝する人々が増えたのではないでしょうか。彼らは、当然、神を「ヤハウェ」と呼びかけていたので、神殿の大祭司が「アドナイ」と発音することに反発を感じたはずです。このとき、大祭司側が「アドナイ」を肯定する理屈として使ったのが第4戒だったのです。
ユダの民は数百年に渉り、神を「アドナイ」とも「ヤハウェ」とも発音してきました。ですから、「アドナイ」という発音に違和感を持っていたわけではありません。しかし、「ヤハウェ」も長い伝統の中で使われてきた発音であることは知っていました。そもそも神の名の文字が「ヤハウェ」になっていて、それ以外では読めません。しかし、大祭司の権力のもと、南ユダでは十戒の権威のもとに、巧妙に「ヤハウェ」という発音が禁じられ、やがては廃れてゆきました。
しばらく後に南ユダ王国は捕囚となり、有力者全員はバビロニヤに連れ去られました。しかし、残った人々の間でも唱名禁止の習慣は生きていました。そして九書の編集の時に、南ユダの人々は北イスラエルの人々の協力を必要としていたので、多くの北イスラエルの伝承を受け入れました。しかし、神の名をアドナイと発音する習慣を譲ることはありませんでした。そして、唱名禁止の教えを十戒に入れることにより、「アドナイ」という神名を保存したのです。
エシュアなどのザドク家の人々が帰ってきた後はなおのこと唱名禁止規定は当然のこととして受け入れられ、この方向でユダヤ教が確立されることになりました。
ですから、YHWHの発音をヤハウェからアドナイに変えるのはエズラ・ネヘミヤ時代ではなく、九書編集時でさえありません。その始まりはヒゼキヤ時代に遡るものであると考えたいと思います。
この説は従来の立場と異なるので、受け入れがたい人もいるでしょうが、ひとつの説として聞いていただければ充分です。その続きの議論は、気長にやって行きたいと思います。
■ 「エホバ」という神名の由来
日本では文語訳に「エホバ」が使われていたこともあり、聖書に親しむ人々のあいだでは「エホバ」はよく知られた神名となっています。ところが、口語訳聖書が「主」と訳し、旧約学でも「ヤハウェ」という神名を使うように変わってきたので、「エホバ」を使う機会はほとんどなくなってきています。ですから、もはや学ぶ必要のない神名なのかもしれませんが、一時期広まった名前ですから、その由来、経緯などを知っておくことも必要だろうと思います。
「エホバ」の由来を知るためには、まずはLXX(ギリシャ語訳聖書)の訳文、および、ヘブル語のマソラテキストの知識が必要です。
前250年ごろ、ギリシャ語訳モーセ五書が作られる際に、ヘブル語の神名YHWHをどう訳すか問題になりました。ユダヤ人はこの神名を読むことをせず、その代わり「アドナイ」と発音していました。そこで、「アドナイ」の意味を訳して「主人」、つまり、ギリシャ語で「キュリオス」としたのです。その後、この神名がギリシャ世界に広まり、これにならってラテン語聖書も「ドミヌス」とし、ドイツ語聖書は「ヘール」、英語聖書は「ロード」となりました。
「キュリオス」はもともと「主人」という意味ですから、人に対しても使われていました。宿屋の主人も「キュリオス」だったのです。イエス・キリストも「キュリオス」と呼ばれていました。ところが、イエス・キリストの神格化の過程で、「キュリオス」が神名の意味をこめてイエスに使われるようになってきた時代がありました。キリスト教会では、5世紀のカルケドン公会議で「キリストの人性と神性は混同してはならず、分離してもならず」という結論になり、イエスと旧約の神とは区別されるようになりましたが、途中経過の時期にあってはイエスと旧約の神とを同一視するサベリウス主義やその他の異端が現れています。また、異端とは言われなくても、キリスト教会内にイエスを父なる神と同一視する信仰は広く受け入れられていました。そういう混乱を生んだ原因のひとつが「キュリオス」という神名にあることは間違いないでしょう。
さて、いっぽうでマソラテキストという写本が保存されています。ヘブル語は本来子音文字だけで書かれていましたが、それでは発音に不便だということで、5世紀ごろに母音記号が発明されました。その母音記号がついた写本をマソラテキストと言います。問題なのはYHWHという神名の発音記号です。ここは「アドナイ」と発音されるところで、子音は無視されています。結局、「アドナイ」(ADNY)の子音に母音を付けたAeDoNaYから母音を抽出して、それをYHWHに付けた形を採用することになりました。つまり、YeHoWaHとなりました。
ユダヤ人はこの単語を読みませんから、問題は生じません。発音するとしても「アドナイ」ですから、母音については正しく書かれています。ところが、このテキストを研究しているキリスト教の学者たちの中に、何とかこれを発音したいと考える人が現れたようです。YeHoWaHが発音されてないことはキリスト教の学者も知っていました。本来の発音がわからなくなっていることも知っていました。しかし、中世のカトリック神学者の中で、便宜上、この単語をそのまま発音することを思いついた人がいたようです。それがいつの時代で、誰であったかは現在調査中なので、まだわかりませんが、かなり古い時代にそういう便法が教会内で使われていたようです。
このYeHoWaHをラテン文字(ローマ字)に置き換えたものがJehovah です。この単語が広まるきっかけになったのはおそらくカルバンのキリスト教綱要の出版だったと思われます。カルバンは、彼の著作の一部にですが、この神名をJehovahの形で引用しています。綱要は当時のプロテスタント必読の書物ですから、プロテスタント内でJehovah、つまり「エホバ」の名前は広く知られるようになったのです。これを踏まえて、イギリスのキングジェームズ訳聖書において、出エジプト記の一部に「エホバ」の神名が聖書翻訳として初めて採用されました。そして、おもに英語圏ですが、この聖書の影響により、「エホバ」の名前は人々に広く知られることになったのです。
ことにアメリカでは、プロテスタント文化圏でもあるので、「エホバ」の名前が一般に広く知られていました。そこで、1901年のアメリカ標準訳聖書で全面的に「Jehovah」という訳が採用されました。また、一方で、中国語訳聖書では、アメリカ人宣教師の影響もあったと思いますが、ひとあし先に「エホバ」との訳がなされていました。その影響で日本での最初の翻訳である元訳聖書も「エホバ」と訳すことになったのです。
しかし、20世紀も後半になると、YHWHが「エホバ」ではなく、「ヤハウェ」と発音されていた可能性が高いことが判ってきました。そこで、口語訳聖書では「エホバ」という訳を止めることにしました。しかし、かといって「ヤハウェ」はまだ本当に正確かどうか自信がなかったのでしょう、結局、新約で使われていた「主」という訳語を旧約でも使うことになったのです。
日本語にはもともと「主」という言葉を単独で使う例はあまりありませんでした。それゆえ、神を「主」と訳すことにある種の不自然さが残ります。しかし、歴史的には古い日本の神々の名と共通するところもあり、「主」と訳して良かったのではないでしょうか。古事記、日本書紀はキリスト教の影響外に立つ書物ですが、その中に「主」という要素を持つ神々が何人か登場します。天の御中主の神、大国主の神、その他にも数人います。これらは単なる偶然ではないようです。神を主と捉える考え方は、イスラエルだけでなく、世界各民族で受け入れられています。私としては「ヤハウェ」を「アドナイ」、「主」と発音し、訳することも神の御旨として受け入れたいと思います。
そもそも、イエス・キリストは神を「ヤハウェ」と呼ぶことを強調していません。彼の主要な用語は「父なる神」でした。これは主の祈りにも、山上の垂訓にも教えられています。また、「主なる神」という言い方は、新約聖書では意図的に避けられている面があります。もちろん、「主なる神」という言い方もあるので、否定されているわけではありません。しかし、今日、キリスト教として相応しい用語を考えるなら、イエス・キリストの精神に従うべきことは当然のことです。ならば、「ヤハウェ」という神名を第一にするのは考えものです。イエス・キリストが、神をあえて「父なる神」と呼んだことの意義を忘れてはなりません。
■ 「バアル」と「アドナイ」
ただ、ここで、普通のクリスチャンにはあまり受け入れられない話しをすることになりますが、バアルとアドナイが神名としては同一起源であることは指摘されるべきではないでしょうか。
バアルは、セム族全体で広く信仰されていた神で、バビロニアではベルという名で、フェニキア・カナンではバアルという名で礼拝されていました。その意味は「主人」です。イスラエルでも古くからバアル礼拝が行われていたことは、ギデオン物語から判ります。北イスラエルでは、バアルとヤハウェは激しく対立し、ヤハウェの預言者は迫害される一方、バアルの預言者は皆殺しにあうなどの対立が続きました。しかし、ヤハウェがイスラエル固有の神であることから、最終的に勝利したのはヤハウェでした。バアルは異教の神として退けられたのです。
しかし、南ユダでは事情が異なっていました。南ユダでは、バアル礼拝も盛んでしたが、アドナイ礼拝も行われていました。このアドナイ礼拝とバアル礼拝の関係は、資料不足でまったくの推測となりますが、バアルもアドナイも、共に「主人」という意味です。おそらく、最初は単なる翻訳の違いであったはずです。南ユダでは、ダビデ王朝内で、エルサレム出身のザドク系祭司の力が有力でしたので、彼らの伝統的神名である「アドナイ」が何百年にわたり宮廷祭儀で使われてきました。もちろん、ヤハウェという神名も肯定されていましたが、宮廷では使われていなかったはずです。そのような中で、北イスラエル滅亡後、北からの亡命者たちの影響もあり、南でも預言者運動が活発になってきました。その中で、ヤハウェ信仰が強調され、バアル礼拝が否定される神学が南ユダでも受け入れられたのです。この神学の流れの中で、南ユダの大祭司はヤハウェの一神教を受け入れると共に、神名の読み方についてのみ、「アドナイ」という古い習慣を残したのです。そのとき使われた理屈が、第4戒の唱名禁止だったことはすでに述べています。
北イスラエルでは、ヤハウェvsバアル対立が血で血を洗う戦いとなり、一方、南ユダでは大した争いにならずに妥協点を見いだせたということは、ことの是非を越えて、私たちの覚えておかなければならない歴史的事実となっています。アドナイとバアルが同じであると単純に言っているのではありませんが、対立と調和の歴史の中からユダヤ教という宗教が生まれたのであって、歴史の発展は単純ではないと言うことです。真理、および、神の意志はこの歴史の中に啓示されていると言えるのではないでしょうか。
4) 安息日の起源
安息日の起源もここで論じておきます。安息日厳守はモーセ律法の中でも特に重要な教えと考えられています。しかし、この安息日律法の成立には複雑な歴史があるので、その起源を論じるには、まず安息日の定義から始めなければなりません。
「安息日」とは、今では土曜日のことであると理解されています。その前提には「週」という数え方がありますが、この「週」が暦として確立するのはそれほど古い時代ではありません。もし「安息日」が週の最後の日として理解されるべきならば、その起源は週の確立以前に遡ることはありません。しかし、もし「働いてはいけない日」と理解するなら、「週」という数え方がない時代にも遡りうることになります。
■ 週を基準とする安息日の起源
現在、多くの人が理解するところの安息日は、週を基準としていると言えます。「安息日とは土曜日のこと」というのが最初に思いつく説明だからです。そこでまず、7日区切りの週という暦がどのようにして確立したかを調べてみました。
週の始まりは、おそらくバビロニアにあるのでしょうが、残念ながらあまり確実なことは言えません。7日間という区切りについては、ギルガメシュ叙事詩にも登場しますが、それが週のことを意味しているわけではなさそうです。旧約聖書にも7日間という数字はときどき登場しますが、これが週を意味しているわけではありません。創世記29:28に「一週間」という単語がありますが、「7日間」とも訳せる単語ですから、おそらく週のことではないでしょう。
出エジプト記12章で過ぎ越しの祭りのやり方が書かれています。ここでは正月の14日を基準に祭りが行なわれているのが判ります。これは明らかに太陰暦を前提にした記述で、7日区切りという発想はあっても、太陰暦から独立していないので、週と見なすことは出来ません。その他、律法の大半は太陰暦を基準としていて、「月の第一日に聖会を開き・・・」(民数記29:1etc)のように書かれています。これは「週」がまだ確立していなかったことを示しています。
ところが、創世記2:3に「第七日を祝福して」と書かれています。このニュアンスは、すでに週という数え方がなされていることを示唆しています。また、十戒の安息日規定も、太陰暦についての言及無しに「安息日」を自明の日として教えているので、どうも週を前提にしているように読めます。エズラ・ネヘミヤ記の安息日への言及の仕方を見ても、太陰暦との関連性は書かれていません。(ネヘミヤ9:14、10:31、13:15、19、21など) ですから、週という数え方は捕囚期には確立していたものと思われます。それ以前についてはかなり大雑把な言い方しかできませんが、前700年頃のバビロニアで先に週暦が始まったのではないでしょうか。太陰暦の一ヶ月は29日くらいなので、それを7日ごとに区切ると暦計算がしやすくなります。その7日ごとの計算が習慣化し、ついには7日というサイクルのほうが太陰暦より優先することになったのです。
週暦の発生がバビロニアであるという証拠はあまり多くありませんが、バビロニアが太陰暦の発祥地であり、週暦が太陰暦を基本に生まれたことを考えると、バビロニアがふさわしいという結論になります。また、欧米(英語)とアジア(日本)で、日曜日、月曜日などの週暦の名前が似ていることはその起源が同じであることを示唆しています。遠く離れた地域まで影響を与えたとなると、最初の週暦が作られた地域がかなり大きな文化圏であることを想定させます。すると、欧米とアジアの中間にあるバビロニアがもっともふさわしいのではないでしょうか。イスラエルでは前550年ごろに安息日という考え方が確立したことを考えると、バビロニアではそれ以前に発生していたことになるので、週暦の始まりは前700年ごろとしておきましょう。
7つ区切りの週という暦が発生したころ、すでに週の最後の日の土曜日が「労働禁止日」とされていたことはありえることです。Saterdayとはサタンの日ということで、縁起の悪い日ですから、あまり動かないほうが良いと考えられたのでしょう。それがイスラエルに伝えられ、イスラエルの太陰暦にもとずく安息日と融合したと思われます。イスラエルでは毎月の第一日と第8日が祭りの日であり、労働を休んで祭りをし、集会をする日と考えられていました。それゆえ、縁起の悪い日ではなく、重要な祝福の日でした。そこで、創世記の作者(つまり、最終編集者)は、週の安息日(土曜日)を神の休日と説明し、安息の意味をイスラエル的祝福の意味に変更して説明したのでしょう。
五書・九書成立後、安息日(土曜日)は律法の象徴となりました。ネヘミヤは安息日、安息年を守り、それをエルサレムにいる異邦人にも守らせようとしています。(ネヘミヤ13:15) また第一マカベヤ記2章は、安息日を守る故に戦死した律法に忠実な人々の話しを載せています。また、イエス・キリストの時代、イエスと律法学者・パリサイ人との論点のひとつは安息日問題でした。このように、安息日遵守は後の時代になればなるほど重要なテーマとなり、今日ではユダヤ教の根幹とも言える戒めとなっています。
■ 太陰暦を前提にした安息日の起源
モーセ五書には「安息日」という単語が何度も登場します。これらが、週の確立した時代の加筆なのか、それとも「労働禁止日」としての、古い用法なのか、判断しにくい箇所もありますが、「労働をしてはならない日」が古くからあったことは確実です。なぜなら、古い資料層に「労働をしてはならない」との教えが繰り返し登場するからです。
出エジプト記12:16に、「これらの日には、何の仕事もしてはならない。」と命じられています。この日は太陰暦を前提に計算されていて、第一日と、第七日となっていますので、週を前提にしていないことは明らかです。民数記28:16fも同じで、「初めの日には何の労役もしてはならない」とあり、安息日らしい雰囲気ですが、太陰暦を前提にしています。また、29:35では第8日が労働禁止日となっています。これらの規定は、週を前提にした安息日と矛盾するところがあるので、おそらく、安息日(週暦)の前段階としての律法だったのでしょう。
民数記を読むと、太陰暦を前提にした安息日(労働禁止日)が結構たくさんあることがわかります。聖会のたびごとに労働が禁止されています。7月10日(太陰暦)も贖罪の日として安息日とされています。これは週暦ではありません。バビロニアも、土曜日を縁起の悪い日として、労働しないほうが良いと考えていたと思われます。おそらく、バビロニアも週暦の確立以前には月ごとの労働禁止日という発想があったのではないでしょうか。労働禁止日という発想はセム族全体にあったと考えたいと思います。つまり、イスラエルだけのことではなく、セム族全体の文化だったのです。とすると、その起源は非常に古いということになります。古代イスラエル律法の最古層が前1500年頃のものですから、セム族全体における労働禁止日の始まりは前2000年ごろとしておきましょう。
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