-->





ヨシヤ王のとき発見された律法の書とは何か?




■    ヨシヤ王の宗教改革


旧約時代で注目すべき大事件のひとつはヨシヤ王の宗教改革です。ヨシヤ王は若くして戦死し、まもなくユダ王国そのものが滅亡したので、ダビデやソロモンほど有名ではありませんが、捕囚後の古代ユダヤ教成立に決定的影響を与えた運動ですから、その重要性をしっかり認識しておかなければなりません。

彼は悪名高いマナセ王の孫で、父のアモン王が政治路線の対立から暗殺されたのを受けて、わずか8歳で王として即位しました。前640年のことです。アモンは王の墓に葬られず、評価もされていないので、おそらくマナセと同じ政治路線を採用していたのでしょう。ヨシヤは曾祖父ヒゼキヤの路線に立ち返り、エルサレム神殿を中心とした伝統的宗教を重視する政策を打ち出しました。それで列王紀の作者は(列王紀下22:2)ヨシヤを高く評価し、「ヨシヤは主の目にかなった事を行ない、先祖ダビデの道に歩んで、右にも左にも曲がらなかった。」と書いています。

ヨシヤが26歳になったとき、神殿修復工事が行なわれました。その時大祭司ヒルキヤは神殿内で律法の書を発見し、それを書記官シャパンに渡しました。シャパンはそれをヨシヤ王の元に届け、読み上げました。その内容に恐れをなした王は衣を裂いて悔い改め、以後、この書物に記されている契約の言葉を行なうことを誓い、すべての民も皆この契約に加わりました。そして、神殿内からバアルやアシラ像などの偶像を集め、町の外でそれらを焼き捨て、ユダ国内に残っていた高き所礼拝を廃止し、各地に住んでいた祭司たちを皆エルサレム神殿に集めました。ヨシヤ王は、さらに進んで北イスラエルに軍を派遣し、中心聖所であるベテルを始め、その他の聖所をことごとく破壊し、そこで働く祭司たちを殺し、墓を壊しました。

ちょうどその頃、メソポタミアは政治的激変期を迎えていました。新興のバビロニアが力をつけ、大国アッシリアを滅ぼす勢いを見せ始めていました。ヨシヤはバビロニア支持を打ち出したので、アッシリア支持のエジプトと対立し、前609年、メギドでの戦いでヨシヤ王は戦死を遂げました。

これにより宗教改革は頓挫し、ユダ王国はエジプトの支配下に入ることになりました。しかし、まもなくバビロニアのネブカドネザル王がシリア、イスラエル、ユダと軍を進めてきたので、ユダ王国内の政治勢力はエジプト支持派とバビロニア支持派に分かれ、大混乱に陥りました。そして、紆余曲折を経て、前597年、第一次捕囚として、エホヤキム王はバビロンに連行され、前587年には神殿と王宮が破壊され、ユダ王国が滅亡することになりました。この時も王(ゼデキヤ)と主要な支配者階級は根こそぎバビロンに連行されました。これが第二次捕囚と言われています。


■    ヨシヤ王時代に発見された律法の書とは何か

ヨシヤ王の治世において発見された書物は列王紀下22章では「律法の書」、歴代志下34:14では「モーセの伝えた主の律法の書」と呼ばれています。これが今日のモーセ五書であるならば、話しは簡単です。ところが、今日のモーセ五書が完成するは、捕囚後のことであるというのが現在の通説です。具体的な時期になると、見解の相違がありますが、どの説であろうと、ヨシヤ王の時代にはまだモーセ五書は成立していなかったことになります。ではこの時の律法の書とは何であったのかが問われることになります。

この問題は五書資料問題と九書成立問題と密接に関連していますので、そちらの説明もあわせて読んでいただかかないと理解しにくいかもしれませんが、私としては次の理由から、ヨシヤ王の時に発見された書物は、四資料説でいうところのいわゆるP資料と良く似た文書であったと考えています。P資料文書であると言い切らないのは、P資料の理解について多くの考え方があり、従来のP資料文書の理解と私の理解とは異なるところがあるからです。しかし、別の名称を使うほどの違いではありませんので、今のところ「P資料と良く似た書物」、もしくは「P資料律法」と表現しておきます。


1) モーセ五書説

発見された書物がモーセ五書そのものであると考える立場を主張する人はあまりいませんが、素朴に考える場合まず思い付く説ですので、一応批判的に検討しておきましょう。モーセ五書が、はるか昔から存在していると考える立場では、ヨシヤ王により発見された書がモーセ五書であることはとても自然な理解となります。しかし、モーセ五書の中には、申命記28章のように捕囚への言及があるので、捕囚以前であるヨシヤ王時代にモーセ五書が存在していたと考えることは困難です。

また、九書がモーセ五書と一体として完成されたという私の立場から言えば、九書の一部である列王紀にヨシヤ王の記事があり、律法の発見の物語がありますので、このヨシヤの律法の書とモーセ五書とが別物であることは論じる必要がないほど当然の結論になります。


2) 申命記説

ヨシヤの律法の書が申命記であるとの説もあります。その根拠は、律法の書発見の際の列王紀(下23:3、25)や歴代志(下34:31)の記述に  a)「心をつくし、精神をつくし」という申命記的表現が登場すること、また、 b)「ヨシヤ王が律法の書を読んで神の怒りを恐れた」という記述が申命記の内容に合致すること、 c)申命記の聖所統一の主張がヨシヤの宗教改革と軌を一にすることなどです。この考え方はそれなりの説得力があり、かつては何人かの支持者がいたようですが、申命記の記述の中に、捕囚と帰還を示唆するところがありますので、モーセ五書説同様に受け入れることは困難です。


3) 原申命記説

今日、もっとも広く受け入れられているのは原申命記説です。つまり、申命記説の論拠を受け入れつつ、申命記に捕囚への言及があるという弱点を避けるために、原申命記を想定し、それをヨシヤ王の発見した律法の書と考える立場です。確かに漠然と考えるなら、この説で特に問題は生じません。しかし、原申命記が今日の申命記のどの部分であったかを考え始めますと、説得力は急速に失われます。

原申命記が具体的にどの部分にあたるかを決めることは、はなはだ困難です。申命記の前提になんらかの文書資料があることは間違いありませんが、それらは申命記作者により大幅に加筆・編集され、もはや原申命記と言える部分を特定することが不可能になっているからです。捕囚や帰還への言及のある28章から34章までや、四書との関連の深い1章から4章までが省かれていたはずと主張できるかもしれませんが、これらの部分と、残りの申命記の部分とは同じ文体・神学であり、同一の著者により書かれたとしか言い様のないものです。しかも、ヨシヤ王の宗教改革との関連を示唆する上記の3つの論拠、a)、b)、c)はすべて、申命記全体にあるもので、原申命記部分に限られません。「心をつくし、精神をつくし」との表現は、申命記4:19や30:10などの最終編集部分にもありますし、「神の怒り」も捕囚を示唆する記述の部分に現れています。また「主の選ばれる場所」との表現も31:11にあります。これらすべては原申命記部分ではなく編集部分です。

また、申命記12章以下の申命記律法の内容は、モーセ五書全体からみると補遺とも言える内容で、記述も簡略であり、並べ方も雑多です。これを根拠にヨシヤ王が宗教改革を起こし、過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りを行うにはやや内容不足の感があります。

ヨシヤ王の宗教改革のひとつの柱は高き所(BMH)の破壊です。高き所礼拝はイスラエルにおいておこなわれていた古くからの習慣で、これを廃止するということは大変な改革となります。当然、高き所批判が律法の書に書かれていなければなりません。ところが、申命記のどこにも高き所批判は載っていません。それに対して、レビ記、民数記には見つけることができます。レビ記26:30「私はあなたがたの高き所を壊し」、民数記33:52「すべての高き所を破壊しなければならない」とあります。つまり、ヨシヤ王は申命記や原申命記を根拠にヨシヤの改革を行うことはできないのです。

ヨシヤ王の改革のもう一つの柱は過ぎ越しの祭りです。この時の過ぎ越しの祭りの守り方が歴代志下35:1に書き残されています。「正月の14日に過ぎ越しの小羊をほふらせ」とありますが、申命記16:1以下では「アビブの月を守って」としか書かれていません。「アビブの月」とは1月のことですが、もしヨシヤ王の宗教改革が申命記を前提にしているならば、歴代志の記述も「アビブの月」と表記されてしかるべきところです。また、「14日」という規定が申命記に見あたりません。申命記だけを根拠に「14日」という日取りを選ぶとは、どう考えても不自然です。ところが、レビ記23:5には「正月の14日の夕は主の過ぎ越しの祭りである」と書かれています。民数記9:5にも同様の記述が見られます。このこともまた、ヨシヤ王の宗教改革文書が申命記や原申命記でないことを示しています。

「レビ人なる祭司」という申命記全体の考え方もヨシヤ王の時代に合致しません。ヨシヤ王時代に宗教的実権を握っていたのはヒルキヤを代表とするザドク系祭司であって、レビ人ではありません。そういう時代に「レビ人なる祭司」を許容する文書を公認することはあり得ないことです。


4) 四書説

申命記、原申命記でないとするなら、残る可能性は、四書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記の4つの書)、もしくはそれを構成しているところの3つの資料となります。そこで、ますヨシヤの律法の書が四書そのものであるとの可能性を取り上げてみましょう。四書の中にはすでに聖所の統一思想があり、また、レビ記26章に「神の呪いの言葉」もあり、また、レビ記26:30に「高き所」批判もありますので、ヨシヤの律法の書を四書と考えることは、申命記を想定するよりもずっと整合性があります。しかし、今日の四書は、内容、用語の点からして申命記と分離することはできないというのが私の立場です。四書の中にすでに申命記的加筆がありますので、その加筆部分もふくめた四書がヨシヤ王の時代に存在していたとは考えられません。もし、加筆部分を除いたところの四書があるとするなら、問題が少なくなります。しかし、それでも、問題は残ります。E、J、Pの総合された文書、もしくはEとJの総合された文書がかつてあったとすると、その痕跡が今日の四書の中に残っていなければなりません。つまり、現在の四書を作った人物を最終編集者とするなら、その編集者の筆の跡よりも古い部分に、それ以前の原四書ともいえる文書の編集者の筆の跡が残っていなければなりません。しかも、それが編集者と呼ばれる限り、その跡はE、J、Pの各資料にまたがって残っていなければなりません。ところがそのような痕跡は今のところ見つかりません。それゆえ、四書、もしくは原四書をヨシヤの時発見された書物と考えるわけにはいきません。


5) P資料、もしくはそれとよく似た文書

残された可能性は、四書の中に発見される3つの資料のどれかが独立した文書として存在し、それがヨシヤ王のときに発見されたと考えることです。ここで、J資料、E資料は、その律法部分の量が少なく、また出エジプト記20:24のように、聖所の複数性を肯定するところもありますので、ヨシヤ王の宗教改革の根拠となるにはふさわしくありません。ですから、残された唯一の可能性として、ヨシヤ王の発見した律法の書はP資料であったということになります。

P資料とは、出エジプト記25章以下やレビ記などの律法の大部分を含み、系図、統計から、天地創造物語、アブラハム物語、出エジプトからモーセの死にに到るまでの物語のかなりの部分を含んでいるというのが今までのP資料理解です。しかし、私の立場からは、そのような統一されたひとつの文書資料があったかどうかについて最終判断は保留しています。おそらく物語部分は別資料だったのではないでしょうか。しかし、律法部分については、ヨシヤ王の宗教改革と関連があるので、この部分を含む文書がヨシヤ王の時に発見され、それが宗教改革の根拠を与えたことは充分にありえることです。列王紀下22章で、この律法の書を読んだヨシヤ王は「この書物の言葉を行わなかったので、主がお怒りになっている。」と語っています。女預言者ホルダも同様に、「神は怒って災いを下そうとしている」と語っています。このような表現は今まで申命記にふさわしいと考えられてきましたが、レビ記にも同様の表現があることを忘れてはなりません。レビ記26章全体にわたって呪いの言葉が書かれていますが、これもまた、列王紀下22章、歴代志下34章の表現にふさわしいものです。

また、列王紀下23:2、21で、この律法の書が「契約の書」とも呼ばれています。この表現は申命記にはなく、出エジプト記24:7にのみ登場します。なぜ列王紀の著者は、ここで他では使わない表現を採用したのでしょうか。それは、彼の目の前にヨシヤの律法の書があり、そこに「契約の書」という言葉が載っていたからとしか考えようがありません。ただし、出エジプト記24:7がP資料部分かどうか、議論のあるところですので、今のところ証拠と言えるほどではありませんが、将来ここがP資料部分と認められるなら、有力な根拠となるでしょう。

列王紀下23:4では「大祭司ヒルキヤ」と言われています。大祭司なる称号は22:8でも使われていますが、列王紀の中での用例はヒルキヤに対してのみです。それ以外の祭司に対しては、「祭司」もしくは「祭司長」という単語が使われています。なぜヒルキヤだけが「大祭司」と呼ばれているかというと、この時の宗教改革文書に「大祭司」という用語が使われていたからではないのでしょうか。「大祭司」という用語は、申命記にはありませんが、P資料律法の中に見つけることができます。

列王紀下23:4以下の偶像破壊は、従来、申命記を根拠にしていると考えられてきましたが、根拠となる申命記の規定の有力なものの多くは原申命記に含まれていません。(注   申命記4:16、5:8、12:2、16:21、29:17、などが偶像否定の根拠になりますが、このうち原申命記にあったといえるものは一部だけです。)偶像破壊の根拠なら、P資料律法のほうが相応しいと考えるべきではないでしょうか。レビ記17:7、19:4、26:1などで、明確に「偶像を作ってはならない」と教えられています。「モレク神への献げ物の禁止」は、レビ記20:2にあります。

過ぎ越しの祝い方で、歴代志下35:10fに「犠牲の血を注ぐ」とありますが、これに対応する表現は申命記にはありません。それに対して、出エジプト記24:6、8、レビ記1:5などで、「血を注ぐ」という表現は繰り返し書かれています。「皮を剥ぐ」も同じく、申命記にはありませんが、レビ記1:6などにあります。

歴代志下34:7「香の祭壇を壊す」というヨシヤ王の行動は律法の書の発見よりも前に書かれた記事ですが、これについても申命記にはなくレビ記26:30に見つけることができます。

「律法の書」という言い方は、列王紀下22:8、歴代志下34:14でともにヨシヤの律法の書を特徴づける表現です。申命記を読んでみると、17:18に律法の書物への言及はあるものの、5章から16章までに一度も律法という単語は使われていませんし、全体的に見て律法という単語の数も多くありません。これを読んで律法の書という言い方をするかどうか疑問です。それに対して、P資料の場合、レビ記6:2(7)から民数記31:21まで、連続25回にわたり「これらは律法である」(ZATh TWRTh)との言葉が使われています。それゆえ、これを「律法の書」と名付けるのは自然なことです。

列王紀下23:24の「口寄せ、占いの禁止」も、申命記18:11にありますが、レビ記19章、20章の方が繰り返し教えています。このように、列王紀、歴代志の記述からは、申命記よりもP資料の方がヨシヤ王の宗教改革にふさわしいとの結論が導かれます。

「心を尽くし・・・」との表現が列王紀23章と申命記とで一致するとの理由だけから、ヨシヤ王の書が原申命記だとされるなら、それ以上の多くの根拠から、これこそ「P資料であった」と結論付けてよいことになります。

また、列王紀下23:6の「ギデロン川で・・それを粉として・・・」との表現が申命記9:21と一致するとの指摘がなされていますが、ここは原申命記の箇所ではありませんので、この一致は申命記と列王紀の著者が一致することを示すだけであり、ヨシヤ王の改革文書が申命記であることの根拠にはなりません。また、その他の列王紀22章、23章と申命記との一致も、両者とも最終編集者により書かれた書物ですので、同一人物の筆の跡であって、資料からくる一致ではないと判断されます。ですから、列王紀下22:17、23にある「怒る」(KOSs)という単語が申命記にのみあり、四書に見つからないことは、なんらヨシヤ王の律法の書とP資料の関係を否定するものではありません。また、列王紀下22:19に「荒れ地となり呪いとなる」(ShMH、QLLH)とありますが、「荒れ地」は申命記28:37にあり、四書には見つかりません。また「呪い」は、創世記27:12、13以外の四書にはなく、申命記に11回ほど用例が見つかります。それゆえ、申命記的表現であることは認められますが、これも著者が同じことからくる現象であって、列王紀が申命記を資料として使っているということではありません。ちなみに、申命記28:37は捕囚を預言する箇所であって、通常は原申命記部分とは見なされません。

これらのことから、ヨシヤ王の改革文書がP資料律法、もしくはそれに近い文書であることは、かなり確実と言えそうになってきます。今まで、原申命記説が有力で、P資料説が皆無に等しかったのは、P資料が帰還後の作品であるとの誤解が広まっていたからでした。しかし、これが成り立たないことは、「モーセ五書、九書の成立の時期」、および「ヴェルハウゼン説の再検討」の論項で明らかにしようと思っています。確かにP資料文書の中にヨシヤの宮廷を示唆する箇所はありませんが、それについては、申命記も同じことです。P資料に王制を示唆する箇所がないのは、P資料が捕囚後に書かれたと言うことではありません。捕囚後のエルサレムにおける祭儀はレビ人中心に行なわれていたので、「レビ人祭司制」と言える政治体制でした。しかし、帰還後の祭儀は捕囚以前に戻り、ザドク系大祭司を中心とするものになりした。しかし、この大祭司制のもとでP資料が成立することは神学的にも、用語の点でもありえないことです。とすると、P資料の基本部分はヨシヤ王の時代にはすでに成立していたのであって、おそらくそれはシロ神殿で行なわれていた祭儀を再現する内容であり、北イスラエル経由でユダにもたらされたのではないでしょうか。それゆえ、王制への言及がなく、アロン系祭司が強調されているのです。

ヨシヤ王の発見した律法の書をP資料、もしくはそれに近い文書と考えることは、今までのイスラエル史理解に大幅な変更をもたらすことになるでしょう。








表紙に戻る  前のページへ  次のページへ