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契約の箱の中身は十戒ではない

updated 2015/09/04




■    契約の箱とは


出エジプト記によると、モーセがシナイ山に登ったとき、幕屋(テント型移動式神殿)を作るように神から命じられています。その幕屋の中央に至聖所があり、そこに契約の箱が安置されていました。出エジプト記25章に作り方の詳細が書かれているので、今日でも契約の箱を作ることは可能です。材料はアカシヤの木で、80cm*50cm*50cmくらいの大きさの箱で、全体が金メッキされることになっています。また、担ぎ上げて運べるように竿がつけられています。ちょうど日本の神社の御神輿のような形です。この箱の蓋の上にはケルビムが2対向かい合うように置かれていました。

ケルビムとは、エゼキエル書10章によると、4つの顔を持つ翼のある怪獣というイメージですが、契約の箱はあまり大きなものではありませんから、おそらく、鳥の形をした高さ40センチほどの置物だったのでしょう。御神輿の上にも鳥が飾られているので、まさに同じもののように見えます。このような類似点が多いことを考慮することから日ユ同祖論が生まれてくるのですが、これについては、私なりの見解もあるので、また別のところで議論したいと思います。

モーセの作った契約の箱は、その後、出エジプトの民とともにヨルダン川を渡り、シロに安置されます。そして、シロがペリシテ人に破壊されたとき、ペリシテ人の戦利品として略奪されました。しかし、ペリシテの町々に災いが生じたので、ペリシテの人々は箱をイスラエルに返すことにしました。シロはすでに破壊されていたらしく、結局、箱はキリアテ・ヤリムに置かれることになりました。前1080年ごろのことです。これがサムエルの時代であったとサムエル記上7章に書かれています。

その後、ダビデがエルサレムを占領したとき、契約の箱もエルサレムにもたらされ、ソロモンが神殿建築するときに、至聖所の一番奥に安置されました。この至聖所は、大祭司が年に一度だけ入ることが許されていて、一般の人は入れない場所でした。それから400年ほど、箱が担ぎ出されることもなく、人目に触れることなく、ただ置かれたままの状態でしたが、前587年神殿崩壊の際に、この箱も燃えてしまったと考えられています。



■      契約の箱の中を見た人がいるらしい

おそらく、神殿崩壊の混乱の中であったと思われますが、モーセ五書の作者は、混乱に乗じてはこの中を見たのではないでしょうか。出エジプト記と申命記に非常にいきいきとした箱の描写があります。このような描写は実際に見た人以外に書けないのではないでしょうか。それによると(出エジプト記32:15)、箱の中には石の板2枚が置かれていて、その両面に神の文字が書かれていたとなっています。

この「神の文字」(MKTB ALHYM)とは何か?は大問題ですが、これも別テーマなので、別のところを参考にしていただくことにして、ここでは、この箱の中身を見たモーセ五書の作者は、この文字を読めなかったということだけを確認しておきます。もし、読めたならヘブル文字、もしくは、アラム文字であったはずで、そのように報告したはずです。しかし、作者はそれを読めなかったので「神の文字」としたのです。読めない文字とは、非常に古いものであることの証拠です。おそらく、原シナイ文字か何かだったのでしょう。そのような古いものが入っているということは、それを入れている契約の箱も非常に古いものであることを示しています。



■      モーセ五書の作者が十戒も作成した

さて、モーセ五書の作者は、石の板に書かれた文字が神の文字であるとしていますが、別のところでは、「書かれていたのは十戒であった」と明言しています。(申命記4:13,10;4) 読めない文字なのに、十戒だとどうしてわかるのでしょうか。これは「書かれていたのが十戒である」という記述が作者の創作であることを示しています。

このことは、十戒の内容と文体からも証明できます。十戒は、出エジプトの際に神から直接モーセに与えられたとなっていますが、その内容はきわめて新しいもので、前1270年ごろの出エジプトの際に成立するには新し過ぎる内容が多数含まれています。モーセ時代、また、王国時代に十戒への言及は一度もありません。また、十戒を守っていたという記録もありません。むしろ、十戒を守っていなかった事例が多数報告されていて、しかもそれが糾弾されていません。もし、十戒が存在していたなら、それが非難されていたはずです。預言者たちが十戒への言及なく、非難もしないということは、彼らが十戒を知らなかったということであり、知らなかったということは存在しなかったことを示しています。

十戒の内容が新しいことと文体が著者によるものであることは、「十戒の成立」という論文を用意しているので、そちらを参照してください。内容の新しさの例をひとつだけ挙げておくと、安息日を守るとは、週という暦が成立していたことが前提になっています。ところが、週暦は捕囚以前にはイスラエルには存在していませんでした。たとえば、出エジプト記12:18に「最初の日と第七日に聖会を開かなければならない。この両日は何の仕事もしてはならない。」となっています。この場合の第七日とは、陰暦ですから、1月14日のことになります。つまり、土曜日とは限らないということです。モーセ律法のほとんどは太陰暦を前提にした安息日が教えられています。ですから、十戒の安息日(土曜日)という発想はありません。つまり、この時代に十戒はまだ存在していないということです。
   
文体が著者のものと一致する証拠についても、多くの事例があるので「十戒の成立」を参照していただきたいと思います。



■      十戒が捕囚以前に守られていなかった証拠

十戒の中の「父母を敬え」とか「殺してはならない」などの教えはいつの時代にも通用するものですから、十戒の存在を示す証拠にはなりません。証拠として挙げられるものは、偶像崇拝と安息日(週暦)についてです。
   
偶像崇拝の多くは著者により批判的に書かれています。しかし、中には批判されていない事例があります。たとえば、モーセが青銅の蛇(ネホシタ)を作ったことなどです。この蛇像を拝むことにより病が癒されたとのことですが、そのような偶像製作をモーセ自身が行うとはどういうことでしょうか。これはひとえに偶像禁止を史的モーセが教えていなかったことを示しています。エリコの城壁の周りを7日間にわたりまわり続けたことがヨシュア記6:15に書かれています。7日間とは、その間に必ず土曜日が入ってくるわけで、安息日になります。民は安息日にも城壁の周りを歩いたことになりますが、これは十戒で禁止されている労働になります。それが批判されてないのは、この時代、安息日律法(週暦)がなかったことを示しています。モーセの子孫である祭司がミカの偶像を拝んでいたことが士師記17章、18章に書かれています。これも非難されていません。また、サムエル記上6:8では、イスラエルがペリシテ人の作った金のねずみ像を受け取っているにも関わらず、偶像として非難されていません。これほどまでに簡単に偶像禁止規定が無視されるのは、十戒が存在していなかった証拠になります。

議論が必要なのは、ケルビムと金の子牛像についてです。ケルビムは契約の箱の上に安置された鳥の置物ですが、これは偶像禁止規定に抵触するのではないでしょうか。それについての議論は聖書に書かれていませんが、北王国の聖所に置かれた金の子牛像が偶像ならケルビムも偶像となる危険性はあります。事実、捕囚後、神殿が再建されますが、その至聖所に契約の箱が置かれることはありませんでした。モーセ五書には契約の箱の作り方が詳細に書かれていて、いつでも箱を作ることができるようになっているのですが、実際は作られませんでした。なぜ作られなかったかということの理由として考えられるのは、ケルビムの偶像性です。十戒を教えられた人にとってケルビムの存在は問題です。これが偶像でないと言い切るにはかなりのエネルギーが必要となります。おそらく、当時は契約の箱を作るかどうかの議論があったであろうと思われますが、昔の権威ある契約の箱そのものはすでにないこと、また、偶像禁止に抵触するかもしれないケルビムを作ることへの躊躇から、至聖所は空のままにされました。ただ何もないというのでは困るので、契約の箱が燃やされた近くにあった石がひとつ置かれていたと報告されています。(ミシュナ・ヤーマ5:2)

ケルビムは、たしかに偶像禁止に抵触するかもしれないと思わせるところがあります。そういう問題の像を十戒を知っている人が契約の箱の上に安置するでしょうか。昔の契約の箱の作者も十戒を知らなかったということ以外に考えられません。もしくは、ケルビムを安置するような人が十戒を教えることはないのです。いずれにせよ、十戒と契約の箱の形は矛盾します。ですから、史的事実としては、十戒は契約の箱の中にはなかったということです。
   
列王紀上12:28でヤラベアム王は金の子牛像を作ってベテルに置いています。これは九書全体で偶像崇拝として繰り返し非難されています。旧約聖書を一読すると、この非難は十戒を前提にしているように読めます。ならば、当時の預言者たちも十戒を前提にこの金の子牛像を批判したのでしょうか。非常に興味深いことに、北の預言者たちは一度もこの金の子牛像を非難していません。(ホセアとアモスについては後で述べることにします。)北王国の宗教がヤハウェ教であったことについて認識してない人がいるので、ここで注意を促しておきますが、北王国の王様も預言者たちもみなヤハウェを拝んでいました。これも重要なテーマなので、別途議論する論文を用意しますが、北王国の王の名前を見ると、アハジヤ(ヤハウェが捕らえた)とかゼカリヤ(ヤハウェが覚える)などの名前がありますが、その構成要素の中にヤハウェの名が含まれていることからも、彼らと彼らの家系がヤハウェ宗教の信者であったことを示しています。預言者たちの名前にもヤハウェが含まれている例がいくつも見られます。また、彼らは「ヤハウェの預言者」と呼ばれています。(列王記上22:7)

また、ベテル神殿で拝まれていた神がヤハウェであったことは歴史状況的に見て明らかです。これは明言されていないので、よく理解していない人もいるようですが、著者ははっきりと認識していたことを示す箇所があります。列王記上12:28で、この金の子牛像について「イスラエルよ。あなたがたをエジプトから導き上った神を見よ。」とヤラベアムに言わせています。つまり、ベテルで拝まれていたのがヤハウェであることは文脈からは非常に明らかとなります。
   
預言者たちが批判したのは異国の王女がもたらしたバアル宗教であり、バアルの預言者たちでした。バアル宗教はある程度広まっていたと言えますが、一度も主要な地位を占めたことはありませんでした。ヤハウェ宗教は北の王国宗教であり、ヤハウェ預言者たちはいつの時代にも王の相談役としての役割をはたしていました。ベテル神殿はヤハウェの神殿であり、金の子牛像はヤハウェの像ですから批判することはなかったのです。エリヤもエリシャもベテルを非難していません。ヤハウェ至上主義者のエヒウ王でさえも、バアル宗教を一掃しましたが、ベテルには手をつけていません。それはベテルがヤハウェの神殿だったからであり、十戒がまだ成立していなかったからなのです

ホセアとアモスは共に北の預言者とされていますが、ホセア書、アモス書、どちらも編集過程をへて今日のテキストになっているので、どこが史的ホセア、史的アモスの主張であるかは慎重に検討されるべきです。ダビデや南ユダを礼賛するような文章があるので、はたして彼らが北の預言者かどうか疑わせるところもありますが、それらはおそらく、編集過程で混入した文章でしょう。また、北イスラエルが滅びたことを前提にしている文章も編集句でしょう。それ以外で、北イスラエルの政治、文化、宗教を激しく批判している箇所は、おそらく史的ホセア、史的アモスに遡ることができると思います。その中に偶像批判もあり、ベテル批判もあります。しかし、十戒への言及はなく、はたして彼らが十戒を知っていたかについてはかなり疑問であるという結論になります。この点については、編集過程の研究とともに、さらなる分析が必要であろうと思われます。



■      十戒成立後

十戒の成立は、五書成立(九書成立)のときですから、前538年ごろと判断できます。その後、モーセ五書の権威が認められ、十戒も広く受け入れられるようになると、安息日(週暦)と偶像否定は厳格に守られるようになりました。ゼルバベル神殿に契約の箱が置かれなかったのは、おそらく、ケルビムの偶像性を恐れたからだと思われます。エズラ・ネヘミヤ時代になると安息日が厳格に守られていることが記録されています。このような歴史的経緯を考えると、「契約の箱の中の石の板に十戒が書かれていた」という申命記の記述は作為的であり、史実ではないことは確実であるといえます。このことは史的事実ですから、広く認識されなければなりません。

問題は、聖書の権威が損なわれるということでしょう。これについては、私なりに聖書を弁護する論理を持っています。聖書には著者の作為の跡がいくつも見られますが、作為であっても神の言葉であることには変わりありません。史的事実でないことが書かれている箇所も多いのですが、それでも神の言葉です。その理由は、神がそのようにしたからであって、史的事実でなくても意味のあることはあるということではないでしょうか。人間は史的事実のみを大切にする傾向がありますが、神も同じと考えてはなりません。聖書の中に史実と異なる記述があり、神話があり、混乱があるということは、神がそれらのことを許容されるお方であることを示しています。日本的言い方になりますが、神はそれだけ太っ腹な方なのです。



■      新共同訳の「掟の箱」は誤訳

新共同訳に「掟の箱」と訳された箇所があります。これは「契約の箱」の別名「あかしの箱」(ARWN HODWT)をわかり易く訳したものです。「あかし」という日本語は何のことか良くわかりませんから、「掟の箱」ならわかりやすいというなのでしょう。しかし、残念ながらこれは誤解を与える危険性があるので誤訳と言わざるを得ません。これではまるで箱の中に掟(十戒)が入っているかのような印象を与えます。ヘブル語で「あかしの箱」となっているのは、「あかし」(ODWT エドゥーツ)にそれなりの意味があるです。その意味を解明することが先ではないでしょうか。単にわかりやくするのなら「契約の箱」と意訳すればよいのであって、わざわざ史実に反する訳を採用するべきではありません。こういう訳は直ちに撤回して、修正版をだしてもらいたいと思います。

新共同訳は、「焼き尽くす捧げ物」というところも間違っていますし、詩篇110篇という重要な箇所も誤訳しているので、史上まれにみる最悪の訳本であると批判せざるをえません。この訳を使うことはお勧めできません。












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